めくるめく日々
「ついに、ついにできたのね……」
夏のある午後、ライプフェルトの空は遠くまで澄んでいた。羊たちの鳴き声が牧草地の奥から聞こえ、風に乗って干した草の香りが漂ってくる。
楽譜の最後のページをめくりながら、私はそっとつぶやいていた。私たちの明るいオペラが、ついにすべての曲を完成させたのだ。
最後の一曲を書き終えたウェーバーさんが鉛筆を置いた瞬間、ニーナと私は顔を見合わせ、誰からともなく拍手を送った。楽譜の束には、登場人物たちの愛と葛藤、喜びと再生の物語が、旋律として刻みこまれていた。
ニーナが演出面の草案を描き進めてくれたおかげで、舞台装置や場面転換の流れまでもが整理され、すでに一本の立派な台本となっていた。
数ヶ月前、アルフレートと図書館の片隅で、遊びのように紙を広げて始めた物語。それが今こうして実際の舞台を見据えたオペラになったことが、まるで夢のようだった。私は手元の草稿に視線を落とし、譜面に書かれた登場人物の名と台詞をひとつずつ追っていく。カルロッタも、ファツィオも、ミケーラも、エルヴィーノも、たしかにこの世界に存在している。彼らの生きる音楽を、私たちは手の中に抱いているのだ。
「ふたりともおつかれさま。すごいよ、本当にオペラが一本できあがっちゃった!」
隣でニーナが笑いながら言う。晴れた午後の工房は窓から差し込む陽射しに満ちていて、まるで完成を祝ってくれているようだった。
「台本も、舞台設計も演出の段取りも、ほとんど整ってますからね。あとはもう演じる人と舞台の場所さえ決まれば……」
ウェーバーさんが柔らかく言って、鉛筆をペン立てに差し戻す。その声を聞きながら、私は最後のページにもう一度そっと目を落とした。こんなふうに、現実になる日がくるなんて——思っていなかったわけではない。けれどこうして自分の目で見て、手で触れていることが、今でも少し信じられない。
「ねえエリーゼ、このオペラって誰が演じるの?」
ふいにニーナが言った。楽しげな口調だったけれど、期待を含んだような眼差しで私を見ている。
「……ミケーラはね、私が演じたいの」
私がそういうと、ニーナは嬉しそうに頷いた。その姿に、私は言葉を続ける勇気をもらう。シュトラウス夫人が私を信じてくださったこと、その寛大さに応えたいという気持ちは、今も胸の奥で確かに燃えている。
「親族の方は、一流の歌手を雇うと言っていたけれど」
私はことさら誰にというわけでもなく、そう呟いた。名のあるプロの歌手を招く、それが常識であり、貴族の夜会で期待される水準であることは分かっている。
けれどふと目を落とした楽譜に記された詞や旋律を追ううちに、胸の奥にある別の思いがゆっくりと浮かび上がってくる。この一曲一曲に込めたのは、私たち自身の言葉であり、祈りのような願いだった。
悲しみに嘆くのではなく、誰かの心にほのかな光を灯したい。ならば、それをただ技巧で包むのではなく、その意図ごと受け取ってくれる人に歌ってほしい。
名声よりも、舞台の華やかさよりも、私たちが込めた想いをそのまま届けてくれる人に。
そう思ったとき、民衆歌劇に馴染みのある人ならば、という考えがふと脳裏をよぎった。あの場所では、技巧よりも心がものを言う。たとえ舞台が大きくなくても、観客のすぐそばに立ち、感情と物語を一緒に届けている人たちがいる。もしも、そういう人たちと舞台を作れたなら。
「……もし演じる人も自分たちで選べたら。それこそ本当に、私たちで作ったって言える気がするわ」
思い上がりだとは思いたくなかった。役に命を吹き込むのは演者であり、その息遣いや眼差しが物語に深みを与え、伝えるべき感情に輪郭を与えていく。だからこそ、私たち自身の手でその物語にふさわしい人を選ぶことができたなら——私たちのオペラは、きっともっと、私たちらしく息づいてくれるはずだ。
そう語った私の言葉を、ニーナは黙って聞いていた。そして次の瞬間、ふいに思い出したようにぽんと手を打ち、ぱっと瞳を輝かせた。
「そうだ! 去年の冬祭りで王子役をやってくれたオスカー、覚えてる?」
私は少し驚いて頷いた。王子役にぴたりとはまる凛とした立ち姿と、度胸の良さが印象的な青年だった。
「いま王都の民衆歌劇団に所属してるんだって。声をかけてみたらどうかな。ちょうどみんなで新しい公演の企画を考えてるって言ってたし、協力してくれるかもしれない」
「……ほんとうに?」
胸が高鳴るのを感じながら、私は思わず身を乗り出した。ニーナは笑ってうなずく。
「手紙を出してみるよ。返事はあなたに直接届くように伝えておくから」
私は思わず目を見開いた。王都で活動している民衆歌劇の劇団が、この物語に命を吹き込んでくれるかもしれないなんて。すぐにでも、と言いたくなるのをこらえ、深くうなずいた。
「お願い。私も親族の方に手紙を書くわ」
それから数週間が経った頃、ライプフェルトを離れ、私はすでに学院に戻っていた。夏が終わり、秋の始まりの風が吹き始めた頃、手元に一通の封書が届いた。
丁寧な筆跡で書かれた手紙のなかで、オスカーは「ちょうど次の公演の企画を考えていたところなので、劇団のみんなで出演できる」と綴ってくれていた。彼もまたあの冬の舞台をよく覚えていて、再び共演できることを楽しみにしているとも。
私はその手紙を胸に抱えたまま、机に向かい、シュトラウス夫人宛てに筆を取った。
——今度のオペラは、ぜひこの劇団の方々と取り組みたいのです。王都の演劇界で活躍されている俳優たちとご一緒できれば、「明るいオペラ」がもっと多くの人に届くものになると、私は信じています。
文面を整え、インクが乾くのを待ちながら、私は静かに息を吐いた。初夏の光のなかで生まれたこの物語が、夏を越え、いつかの舞台で輝く日がくることを信じて。
◆
夫人からの返事は、思っていたよりも早く届いた。封を切る指先が少し震えたけれど、広げた便箋に綴られていたのは、迷いのない快い承諾の言葉だった。
“あなたの希望を、私はできる限り尊重したいと思います”
それだけで、胸の奥に火が灯るようだった。舞台は夢物語ではない。目の前にある現実として、今動き出したのだ。
シュトラウス夫人の手配で、王都にある中規模の楽団が共演を引き受けてくれることになり、劇団の稽古場には日ごとに人が集まり始めた。指揮者、演奏者、舞台装置の担当——そして出演者たち。演目の準備は少しずつ、けれど確実に進んでいった。
私は講義が終わると、制服の上に外套を羽織ってすぐに街へ向かった。週末には朝から夕方まで稽古場に通った。王都の雑踏を抜けた先、ひっそりと佇む劇団の建物に、今ではもう見慣れた顔ぶれが揃っている。
エーレ学院には、シュトラウス夫人の手によって用意された正式な書類が提出された。「社交界での立ち居振る舞いを学ばせるため、一定期間邸宅に行儀見習いとして通わせたい」と書かれたその文面に、教務局は何の疑いも抱かなかった。こうして私は、晴れて外出の許可を得ることができたのだった。
稽古場では、舞台の全体像が日に日に立ち上がってゆく。譜面に記された旋律が生の音となって響き、言葉が声となり、登場人物が命を帯びて動き出す。まだ荒削りな部分も多いけれど、オスカーをはじめとする劇団の仲間たちは皆真剣だった。何より、歌を届けたいという想いを、誰もがまっすぐに持っていた。
この物語は、あの日図書館で描き出した空想だった。けれど今、私たちはそれを舞台として形にしようとしている。夢中で五線譜に書きつけ、言葉を選び、旋律に想いを込めた日々。そのすべてがここに繋がっていたのだと、私は確かに思い知った。
……しかし。私には、まだこの人たちに伝えなければいけないことがある。日々の稽古は順調に進んでいて、みんなが自分の役に精一杯向き合ってくれている。それだけに、この言葉を口にするのはずっとためらってきた。
けれどどうしても今、伝えておかなくてはならない。その日の稽古が一段落したところで、私は思い切って皆の前に立った。楽譜を抱えていた手に、うっすらと汗がにじんでいるのが自分でもわかる。
「……あの、皆さんにお願いがあります」
その一言に、椅子に腰掛けていた団員たちが次々と顔を上げる。私の声が少し緊張を帯びていたせいか、いつもより確かな注目が集まった。
「今回の公演……出演者全員に、仮面をつけて舞台に立っていただけないでしょうか」
瞬間、稽古場の空気がすっと変わったのがわかった。皆の視線が集まり、目の前に張りつめたような沈黙が落ちる。数人が目を見合わせ、誰かの椅子がわずかに軋む音が聞こえる。
「無礼は重々承知しています。お名前を売って活動されている皆さんに、顔を隠して演じてもらうなんて、本当に失礼なことだと思っています……」
言葉を探すうちに、胸の奥に渦巻く葛藤が喉元までせり上がってきた。
舞台に立つ以上、観客に自分の顔をさらすことは避けられない。
私は社交界に顔を出していないから、招待客に気付かれる可能性は低いが、万が一というものはどこにでも転がっている。顔も名前も、どちらも隠す以外の道はない。
だけど私だけが仮面をつけていたら、それは舞台の調和を壊す。ならば、いっそ全員に顔を隠してもらうしかない。
「……それでも、どうか……どうかお願いします。事情を詳しくお話しすることはできません。だけど複雑な問題があって……」
私は深く頭を下げた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響いている。貴族であることは口にできない。説明もできない事情を受け入れてもらえるとは思っていない。それでも、どうしてもこの願いは曲げることができなかった。
沈黙のなか、誰かが息を飲んだ気配がした。
「エリーゼ」
不意に名前を呼んだのはオスカーだった。彼はゆっくり立ち上がり、両手を腰に当てながら、少し首をかしげた。
「このオペラの座長はエリーゼだ。そもそもこの作品は、君が書いた物語から始まったんだ。だから俺は、エリーゼの決めたことに従うよ」
オスカーの一言に、他の団員たちの表情が少しずつ和らいでいく。最初に首を縦に振ったのは、合唱隊の一人だった。
「……まあ、なかなか面白いんじゃない? 全員仮面でやるなんて、ちょっと幻想的な演出かも」
「衣装係の子にかかる手間はどうするの?」
「予算はまだ余ってる。他所に外注してもいいかもしれない」
ぽつりぽつりと賛意がこぼれはじめ、それがやがて、稽古場全体を包み込む温かな空気に変わっていく。
私は顔を上げた。胸の奥に張りつめていた不安が、少しずつほどけていくのが分かる。
「……ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
胸の奥で、あたたかいものがゆっくりと広がっていく。信じてくれる人がいるということ。受け入れてもらえるということ。そのすべてが、私にとっては何よりの支えだった。
◆
季節は巡り、森の木々が深く錆びた赤や金の彩りを纏うころ、ついにその日が訪れた。
初演の場所は、王都の中心にほど近い場所に建つシュトラウス夫人の邸宅。由緒ある家柄にふさわしい重厚な石造りの建物は、夜の帳が下りると共に、無数の燭台とランプの光に浮かび上がり、幻想的な趣を帯びていた。
控え室には劇団員と楽団員が集まり、緞帳の向こうで待ち受けるひとときのために最後の確認が繰り返されていた。衣装の合わせ、音合わせ、小道具の最終点検。
私は白い仮面を手に、鏡の前でじっと自分の姿を見つめていた。名も身分も顔も隠して、私はこれから舞台に立つ。
私の本当の名前はエリーゼではない。でも、エリーゼである自分が偽りだと思ったことはない。この名で紡がれてきた出会いと時間が、私に夢を与えてくれたのだから。
仮面の内側にあるのは、確かに私の声であり、私の思いだ。私は何者としてでもなく、私自身として歌うのだ。
そのとき、控え室の扉が静かに開いて、シュトラウス夫人が入ってきた。シャンデリアの明かりが微かに揺れ、彼女のドレスの繊細な飾りを金糸のように浮かび上がらせる。
「エリーゼ」
呼びかけの声に私はすぐに立ち上がって、そっと頭を下げる。このオペラを構想した時から、私をずっと支えてくれた人。
「このような機会を下さって、本当にありがとうございます」
夫人は微笑み、少しだけいたずらっぽく目を細めた。——名前も身分も隠して舞台に立つ令嬢なんて、まるで物語の主人公みたいね。
数日前、事情を打ち明けたときにそう言って笑ってくれた彼女の声がいまも耳の奥に残っている。この人の存在があったからこそ、私は今日という夜を迎えられたのだ。
「ところで、このオペラの題名はもう決めたのかしら?」
微笑みながらそう尋ねる夫人に、私はほんの一瞬だけ言葉を探してからゆっくりと頷く。
——尋ねられた言葉の通り、これまでずっと迷っていた。「カルロッタ・レジェロ」ではなく、新たな物語にふさわしい題を見つけたくて、ずっと題名は保留のままだったのだ。
でも、いまなら言える。
「題名は、『セヴェラの愛』です」
ミケーラの愛、ファツィオの愛、カルロッタの愛。それぞれに形の違う思いが、あの町で交差する。そしてその愛が、物語の結末を悲しみから遠ざけるのだ。
あの日図書館で、一枚の紙の上から始まったこの物語。それが名を持ち、ひとつのオペラとして実を結ぶその瞬間が、ついに訪れようとしていた。




