私は夢に生きたい
朝の光が穏やかに差し込む台所で、ニーナのお母様が用意してくださった麦のパンと温かいミルクを口にしたあと、私はニーナに連れられて家を出た。風は涼しく、空にはひとかけらの雲もない。ライプフェルトの夏は王都とはまるで違って、土と草の匂いがまじった風が肌にやさしい。
坂道をいくつか越え、小川にかかる小さな木橋を渡ると、前方にこぢんまりとした建物が見えてきた。赤茶けた屋根の平屋で、木製の扉のそばにはラッパ型の管が何本か立てかけられている。ニーナが指差して言った。
「ここがウェーバーさんの家。楽器の工房をやってるの」
その言葉通り、戸口の横には修理中と思しきクラリネットや、何かの部品が並べられた作業台が据えられていた。私が感心している間にニーナが軽快に扉を叩くと、ほどなくして中から柔らかな声が返ってくる。
鍵が回る音がして扉が開くと同時に、ウェーバーさんが顔を覗かせる。彼は私の顔を見るなり、少し目を細めて微笑んだ。冬祭りに会ったとき以来だったが、その優しい笑みに変わりはない。
「こんにちは、ウェーバーさん。ご無沙汰しております」
「こちらこそ、エリーゼさん。まさかまたこうして君と楽譜を囲めるとは」
にこやかなやりとりの中、私たちは木の香りが立ちこめる工房へと足を踏み入れた。屋内は涼しく、窓辺の机には重ねられた楽譜の束が無造作に並んでいた。工房の隅にはオルガンがあり、隣の棚には紙や鉛筆のほか、管楽器の部品が詰め込まれている。
「あれからまた何曲か書いてみたんですよ」
ウェーバーさんが言って、譜面を数枚取り出す。私はその楽譜を両手で受け取った。見慣れたニーナの筆跡、そして五線に刻まれた旋律の輪郭。ページをめくる指先に自然と力がこもる。
「次はカルロッタとエルヴィーノの曲を手がけるつもりでね」
ウェーバーさんは慣れた手つきで譜面を広げ、指先で旋律の走り書きをなぞった。
「ふたりが燃えるような恋に落ちて、それでもままならない心のすれ違いに、まあ、カルロッタの方が少しばかり手を焼くような……そんな場面が浮かんできたんです」
私は思わず笑みをこぼした。カルロッタとエルヴィーノ。自由と情熱の塊のようなふたり。似た者同士だからこそ惹かれ合い、それが理由でぶつかる。そんな恋があの物語の真ん中で、火花を散らすように燃えていた。
「……でも心が離れられないのは、きっとカルロッタの方だけ」
ふと思って、そう言った私の声には、自分でも気づかぬほど微かな熱が宿っていた。ウェーバーさんが紙上から手を離し、少しだけ首を傾げる。その視線を受けながら、私は静かに続けた。
「……エルヴィーノは本気じゃないの。カルロッタは彼にとって、たくさんいる恋人のうちのひとりにすぎないんです」
ウェーバーさんはしばらく無言で頷き、手元の楽譜に目を戻した。その目が今までよりほんの少し真剣になったのを、私は見逃さなかった。
「掛け合いの曲にしてみたらどうかな?」
ふいにニーナが顔を上げて言った。指先で譜面の余白を軽く叩きながら、視線はすでに次の展開を見据えているようだった。
「ふたりの想いを交互に歌わせるの。まるで会話みたいに。でも、ちょっとだけ噛み合わない感じで」
その言葉に、私はすぐ頷いた。カルロッタは愛を叫ぶ。エルヴィーノもまた情熱的に応える。けれどふたりの心の向かう先は、どこか少しずつ違っている。
「それなら、楽譜上でもちょっとした仕掛けを入れましょうか。たとえば同じ旋律を使っているようで、調性を少しずつずらしていく」
「最初は重なってるように聞こえるのに、終盤には完全に別の曲に聞こえるとか」とニーナが言えば、「リズムも少しだけ変えてみましょう」とウェーバーさん。
ふたりの発想が矢継ぎ早に飛び交う。私は中心でそのやり取りを聞きながら、カルロッタの姿を思い描いていた。愛しているのに、決して重ならない歌。まさに、カルロッタの孤独を表すのに相応しい。
ウェーバーさんが手近にあった鉛筆で五線に仮の旋律を走らせた。穏やかではない和音の並びが、情熱と苛立ちを孕んだ恋の輪郭を描き出す。整わない音の連なりが、まるでカルロッタの内側に渦巻く焦燥と、思い通りにならない恋の苛立ちをそのまま写し取っているようだった。
ニーナはそれに目を走らせながら、手元の余白に言葉を走らせていく。ページを指で押さえ、ほんの少しだけ首をかしげながら、口の中で音を探るように言葉を紡ぎ出した。
「ねえ、たとえばこんなのはどうかな。“上っ面の愛なんて飽きるほど聞いた 私は本気なのよ、どうして分からないの”……みたいな」
ニーナの声は軽やかだったが、そこに込められた感情は決して軽くはなかった。口先では笑っていても、その言葉の奥に潜む焦燥と傷つきやすさが、まるでカルロッタその人の声のように私には聞こえた。どこまでも不確かな相手を前に、揺れる想いを吐き出さずにいられない。皮膚の裏でひたひたと燃え上がるような女の痛みが行間から滲み出す。
「それなら、カルロッタの後悔の場面はこの辺りに差し込みませんか? 次の場面にも自然に繋がりますし、観客の印象にも残りやすい」
続くウェーバーさんの提案に、私は自分の記憶を手繰りながら物語の流れを思い浮かべた。ニーナもすぐに意見を添えてくれる。あの場面はもっと静かな幕開けがいいかもしれないとか、合唱を重ねて場面に厚みを持たせたいとか。私たちの言葉が次々に飛び交い、楽譜の上に新しい風景が描かれていく。
物語の構成を練り直しながら、私が語る登場人物たちの感情や背景を、ウェーバーさんは驚くほど素早く音に起こしてくれた。ふと鳴らされたオルガンの旋律に、ああ、カルロッタはこういうふうに歌うのだと直感する瞬間がある。音が物語を照らし返し、私たちの創作をさらに深いものへと導いてくれる。
気がつけば、もう何時間もこの小さな工房でオペラの話をしていた。窓の外には穏やかな午後の光が射し、遠くからは羊の鳴き声がかすかに届いていた。農村の静けさに包まれたこの場所で、私たちはそれぞれの情熱を持ち寄り、一つの物語を形にしていった。
◆
丘の上に並ぶ家々の屋根が、夕方の光を受けてやわらかく輝いていた。どこか遠くで鳴く牛の声と、麦畑を渡る風の音が耳に届く。ウェーバーさんの家からの帰り道、私はニーナと並んで木漏れ日の落ちる並木道を歩いていた。
「今日はいろいろ進んでよかったね!」
「ええ、ほんとうに。こんなにすぐ曲がつくなんて思っていなかったわ」
笑い合いながら土の道をくだっていると、少し先で誰かの足音が聞こえた。角を曲がった瞬間、斜めから歩いてきた青年とばったり目が合う。
「わっ」
「えっ」
私が声を上げるのと、相手がこちらに気づいて足を止めるのはほぼ同時だった。夏の日差しの下、ゆるやかな坂道の向こうに現れたその姿を認めた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなるのを感じた。懐かしい姿。見間違えるはずがない。私は反射的に足を止め、ぱっと顔を輝かせて手を振った。
「アルフレート! 偶然ね」
自然と声が弾んで、不意の出会いに胸が少し高鳴る。一歩を踏み出すと、頬に風が通り抜けていった。
しかし、私はそこで違和感を覚える。腕を伸ばして手を振る私とは対照的に、なぜか彼はその場に立ちすくんだまま動こうとしない。
「……幻覚?」
まさかの第一声に、私は思わず口を開いたまましばし呆然とした。目の前でまごつくアルフレートは、何度もまばたきしながらこちらを指差し、困惑と動揺の入り混じった顔でつぶやく。
「……エリザ、っ……えーと、エリーゼ?」
思い切り名前を呼びかけて慌てて修正する。冗談かとも思ったが、額にかすかな汗を滲ませた様子はいつもの彼らしくない。
アルフレートはまるで夢でも見ているかのように固まっていた。眉が驚きに跳ね上がり、視線がこちらを何度も行き来している。
「ちょっと、どうしてそんなに驚いてるの?」
そんな姿を見て、ニーナが呆れたように言った。私も困惑してしまう。なぜそんなに動揺しているのか分からない。
「いや、だって……いるとは思わなくて……」
アルフレートが頭をかきながら口ごもる。……ただ偶然再会したというだけのことなのに。私にとっては嬉しい驚きでしかなかったのに、まるで幽霊でも見たかのような反応をされると、こちらとしては困ってしまう。
……どういうこと? とひとりごちたその時、ようやく私は自分のうっかりに気がついた。
「……あ」
喉の奥にひやりとしたものが降りる。てっきりニーナが彼に伝えているものだと思い込んでいたし、自分でも何となく知らせたような気でいた。
「……私、あなたに伝えていなかったみたい」
けれど実際には、口にした記憶がどこにもない。我ながら間の抜けた声でそう答えると、アルフレートは片眉を上げて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「頼むよ。心の準備くらいさせてくれ」
「ごめんなさい。でも、そこまで驚かなくてもいいのに」
別に悪いことをしにきたわけじゃないのよ、と続けたけれど、アルフレートは言い淀む。どうやら彼にとってはそういう問題ではないらしい。
「……というか、エリーゼが来てるならうちに泊まればよかったのに。部屋は余ってるし」
アルフレートは気負いのない調子でそう言って、日差しの下で私の目を見た。
確かに、前に訪れたときには彼の家にお世話になったのだ。あの穏やかな時間を思い出すと、また一日くらい、夏のあいだにお邪魔してもいいかもしれない。しかし、私がそう思いかけたその瞬間、すかさずニーナが眉を吊り上げた。
「絶対だめ」
「なんでさ」
あからさまに不服そうに返すアルフレートに、ニーナは一歩踏み出しながら腕を組んだ。そのまま、ぐっと見上げるようにして言い放つ。
「何するかわかんないからでしょ。ここにいる間、エリーゼは私がちゃんと守るの」
「心外だなあ……」
ニーナがやれやれとでも言いたげに小さくため息をつく。アルフレートは諦めたように腕を投げ出したが、どこか名残惜しそうに私を見た。夏の風に揺れる草の香りのなかでふたりのやりとりを聞きながら、私は思わず笑みをこぼす。夕方の田舎道に、くすくすとした笑い声がしばらく止まなかった。
◆
その夜、夕食を終えると、ニーナは私の腕を引いて家の外へと連れ出した。
「どこへ行くの?」
外はもうすっかり暗く、羊たちの鳴き声も聞こえない。家のまわりには明かりが少なくて、道の先はすぐに夜の影に沈んでいたけれど、彼女は慣れた足取りで私を連れていく。
「いいところがあるの。小さな丘の上なんだけどね、すっごく星がきれいに見えるんだ!」
わくわくした声が夜の空気に溶けていく。私は少し笑って、ついていくことにした。草の道を抜けて、柵をまたぎ、小さな坂をいくつも登る。足元には夜露が降りはじめていて、靴の先がしっとりと濡れていく。暗闇の中をただふたりで歩くだけなのに、なんだか冒険をしているようだった。
何個目かの斜面を登りきったところで、ニーナがふいに足を止める。私は彼女の背中を追っていた目線を上げて、目の前に広がった光景に思わず息を飲んだ。
頭上いっぱいに張りつめた天幕のような夜空に、数えきれないほどの星々が煌めいている。
「わあ……」
しばし呼吸も忘れて、私は夜空を見つめる。あまりにも美しくて、言葉が出なかった。ニーナは笑って、そっとその場に腰を下ろした。私も隣に並んで座り、見上げたまま言った。
「まるで空に宝石をばらまいたみたいね」
「でしょ? ライプフェルトの夜の自慢なんだ」
頭上に広がる夜空はどこまでも果てなく、深く透きとおった群青。闇の中に浮かぶ星々は、ただ白く輝いているだけではなかった。淡い金や青みがかった銀、朱を含んだ火のような光。
「あのね、私、エリーゼには本当に才能があると思うの。あなたの舞台をもっとたくさん見たい。もっとたくさんの人にも見てほしい」
星明かりの下で、ニーナの声がそっと響いた。そのひとことは夜気のなかを静かに揺れながら、まっすぐに私の胸へと落ちてくる。
「……ありがとう、ニーナ。私も、そうしたいの」
私は指先に感じる草の湿り気を確かめながら、胸の奥の思いに触れるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。こうして言葉をかけてくれる人がいることが、どれほどの勇気になるか。私には彼女が与えてくれるものの重みを、まだうまく言葉にすることができない。
「諦めたくないの。誰に何を言われても、誰かに止められても……」
貴族の娘として生きるということ。その現実を知って、それでもなおこの胸に残っているものがある。それはすでに憧れではなく、どうしても手放せなくなってしまった私自身の一部なのだと思った。
「あなたが舞台に立って、観客の胸に届く歌を歌ったら」
その言葉を受けて顔を上げると、ニーナの横顔が星明かりに照らされていた。髪が風にそよいで、夜空の中を波打っている。
「止めようとする人の方が間違ってるって、きっと証明できるよ」
私はほんの少しのあいだ、息をするのも忘れていた。
手のひらに感じる草の感触が現実を繋ぎとめてくれる。ニーナの声にはためらいがなく、言葉のひとつひとつがまるで星座のように、この夜空にあるべき場所を見つけて結ばれてゆく。
思わず目を伏せた。声にならない喜びが、ひたひたと満ちていく。
ありがとう、と言葉にする前に、胸の奥がいっぱいになった。風が丘をわたって、夜の静けさに小さく草がそよぐ。
私は今、ひとりではない。誰かの支えがあるから、私はこの道を進んでいける。夢に手を伸ばすことができる。歌うことで喜んでもらえるなら、その期待に応えたい。
夜風がそっと吹いて、草が揺れる。見上げれば、空には変わらずあふれるほどの星。
私も、あの光のひとつになりたい。誰かの夜を照らす、あたたかく確かな存在になりたい。




