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夏の旅路

 屋敷で過ごしたこの一週間は、まさに牢獄の囚人のようだった。朝は決まった時刻に着替えを終え、母とともに食卓につき、昼は読書で時間を潰すだけの、従順で何も語らない娘を演じる日々だった。

 クララの避暑地に招かれているという偽りの建前のもと、ライプフェルト行きを死守するためには、従順と沈黙がもっとも有効な武器であることを、私はこの家に戻って改めて思い知らされた。


「それでは、行ってまいります」


 そして迎えた出発の日、朝の涼やかな空気の中で玄関の大理石の床に立ち、私は一礼した。母の視線が刺すような静けさを帯びて私の姿をなぞった。だが疑念を悟らせてはならない。口元にはうっすらと笑みを貼りつけて、用意した言葉を丁寧に紡ぐ。


「クララとは王都で待ち合わせる手筈ですから、供の者は不要です。すぐに着きますし、そこまでの馬車も手配してくださいました」


 この言葉は、何度も頭の中で組み立て、滑らかに言えるよう練習しておいたものだった。母の視線が無言のままこちらを射抜いたが、私は視線を逸らさず、あくまで穏やかな表情を保ったまま、そのまなざしに応じた。母はひと呼吸分だけ沈黙し、それからゆっくりとうなずいた。


「それならばよいでしょう。くれぐれも粗相のないように」


 母はそう言い残すと、そばに控えていた侍女へと視線を送った。すぐに侍女が一礼し、私のトランクへと歩み寄る。手慣れた様子で荷を持ち上げたその姿を見つめて、私も静かに歩き出す。


 玄関を出て石造りの階段を降りると、澄みきった夏の朝の空気が胸に触れた。早朝の陽光はまだ鋭くなく、花壇の縁をなぞるように優しく射し込んでいる。道を進むたび、足元に朝露を帯びた草の香りがかすかに立ちのぼった。

 侍女は無言のまま、重いトランクを両手でしっかりと持って後に続いてくる。やがて重厚な正門の前に差しかかると、その先に佇む黒塗りの辻馬車の姿が見えた。

 この日のために隠れて手配した、逃避のための乗り物だった。


「ここまでで構いません。あとは私が」


 侍女は少し不安げに眉を寄せたが、雇い主の娘の指示には逆らえないのだろう。私が手を伸ばしてトランクを受け取ると、彼女は恭しく一礼してその場にとどまった。私は門の金具に手をかけて押し開き、一歩、外の石畳へと足を踏み出す。辻馬車の御者は帽子を軽く持ち上げて私に会釈し、扉を開けてくれた。

 荷物を乗せ、スカートの裾を気にしながら馬車に身を滑り込ませたところで、私は胸の奥にずっと溜まっていた息をようやく吐き出した。それでも気は抜けない。念のためフード付きのケープを羽織って、顔を半ば隠すようにして硬い座席に背を預けた。

 王都の中央に着くまでの道のりは長い一本道で、街のざわめきも、遠ざかる屋敷の記憶もすべて窓の外に流れていった。私は振り返らなかった。振り返る理由もなかった。


 王都の広場で乗合馬車を待つあいだ、手袋の上から手を握ってみる。指先に力が入っているのがわかった。誰も私を連れ戻しには来ない。少なくとも、今日はまだ。

 馬車が到着し、他の旅人たちと共に乗り込む。風にあおられて揺れる天蓋の布の向こうに、知らない誰かの横顔がいくつも並んでいた。  

 座席に腰を下ろすと、硬い感触が思いのほか心地よかった。自分で選んだ場所、自分の足で歩いた距離、自分で払った銀貨。私はいま、自分の心に従ってここにいるのだ。

 御者が声を上げて手綱を鳴らすと、車輪が音を立てて動き出した。王都の喧騒がゆっくりと遠のき、石畳の上に踊る光と影が窓越しに車内へと射し込んでくる。遠くの空には、夏の雲が白くちぎれて浮かんでいた。

 誰も私を知らない。誰も私を見張っていない。名前も立場も知らない人々の中にまぎれて、私は今、ひとりの旅人になった。ドレスの裾を静かに整えながら、膝の上で組んだ指先にそっと力を込める。

 あの屋敷で、肖像画の前に座らされていた私とは違う。絵筆に塗り固められた未来にただ黙って従う私ではない。

 馬車が町外れの街道に差し掛かる。車窓から眺めた草原の緑が、風に押されてゆっくりと波打っていた。何かが道を拓くように、私の行く先を指し示しているようにさえ思えた。




 ◆



 乗合馬車を降りると、私の周囲には、王都では決して味わえない景色が広がっていた。空が高く、光が澄んでいる。ひとたび深呼吸をすれば、胸の奥まで洗われるような青草の匂いが満ちてくる。旅の疲れも心のわだかまりも、たちまちどこかへ吹き流されていく。

 ニーナが手紙に同封してくれた地図を開き、しばし見下ろす。まず乗合馬車の看板の前、石畳の並ぶ短い街路を抜ける。その先で舗装は途切れ、やがて土の色をした田舎道に変わっていく。私はスカートの裾を軽く摘み上げ、土埃を舞わせながら歩き出した。

 村は、夏の季節のまっただなかにあった。木々の緑は深く、枝の先では陽射しを弾いて微かに揺れている。石垣の隙間から咲いた野の花がそよ風に乗って淡い香りを運び、小川を越える小さな橋のたもとでは、水音に混じって虫の声が響いていた。冬に訪れたときは一面が静謐な雪の帳に包まれていたけれど、今この地には命の色があふれている。

 私は地図を確かめながら、道をいくつか折れていく。角をひとつ曲がるたびに、景色が緩やかに変化する。民家の石壁が途切れ、次第に視界が開けてくる。陽の光が空からまっすぐ降り注ぎ、乾いた大地の香りが鼻をかすめた。


 やがて視線の先に広がったのは、開かれた丘陵のような牧草地だった。その一面に、白くふわふわとしたものたちが群れていた。柵の中で揃って首を下げた羊たちが、のんびりと草を食んでいる。その白い背中が風に揺れる草と一緒に波打ち、空の青と大地の緑のあいだでふんわりとした模様を描いていた。

 柵の向こうには小屋と、羊追いの犬だろうか、木陰に伏せてこちらをちらりと見ている大きな犬がいた。

 草の緑、羊の白、空の青、それらが滲むように重なり合って、まるで一幅の風景画のようだった。ニーナの家は羊を飼っているのね、と、知らなかった彼女の一面に、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

 牧草地の向こう、緩やかな丘の斜面の先に、赤い屋根の家が建っていた。レンガ造りの壁に小さなバルコニー、庭には洗濯物がはためいている。間違いない、ここがニーナの家だ。

 私は慎重に門を開け、小道を進んで玄関の前に立った。旅の埃を帯びたスカートの裾を整え、手袋をしたまま、木の扉を三度、軽く叩く。


 すぐに扉の向こうから明るい声が上がった。その声にほっと胸をなで下ろす間もなく、扉は勢いよく開かれる。まばゆい夏の光が家の中からもあふれ出すように射し、そこに立っていたのは、懐かしくてあたたかな笑顔だった。


「いらっしゃい、エリーゼ!」


 白いエプロンの裾を揺らして、ニーナは両手を広げた。前に会ったときよりも少し日焼けした頬に浮かぶ笑みは、変わらずのびのびとして見えた。


「無事に着いてよかった。道、わかりにくくなかった?」


「大丈夫。地図のおかげで迷わず来られたの」


 そう言って笑いかけると、ニーナの目がやわらかく細められる。ようやく辿り着いた。ここが、私が心から来たいと願った場所。誰にも縛られず、嘘をつかずに私として過ごすことができる居場所。


「入って、暑かったでしょ? すぐお茶を淹れるね。ほら、トランクも私が持つよ」


「いいえ、そこまでしてもらうのは——」


「遠慮しないでよ。お客様なんだから!」


 言葉の端々まで明るい声に、私は手からトランクを降ろし、彼女に従って玄関をくぐる。外の陽射しから一転、屋内の空気はひんやりとしていて、ほのかに爽やかなハーブのような香りがした。

 ニーナの案内で部屋に通されると、白いレースのカーテン越しに夏の日差しがやわらかく差し込み、木の床には羊の毛で織られたラグが敷かれていた。あちこちに手編みのクロスや小さな草花が飾られ、温かな空気が部屋全体に満ちている。旅の緊張が少しずつほぐれていくのを感じながらソファに腰を下ろすと、間もなくトレイに載せられたカップとポットが目の前に置かれた。


「レモンバームが入ってるの。さっぱりして飲みやすいよ」


 そう言ってにっこり微笑んだニーナのカップからは、湯気とともに仄かに甘い柑橘の香りが漂ってきた。私は「ありがとう」と言いながら両手でカップを包みこみ、香りをそっと確かめたあと、口をつける。


「おいしいわ。やさしい味がする」


「よかった。エリーゼ、ちょっと待っててね。見せたいものがあるの」


 そう言って席を立つと、ニーナは奥の部屋へと消えた。小さな足音と紙をめくる音が続いたあと、彼女は分厚い紙束を何冊も抱えて戻ってきた。


「ほら、これ。いくつかもう完成してるの。アリアと三重唱と、幕開けの合唱も途中まで書いたよ。ウェーバーさん、ものすごく張り切っててね」


 私は思わず身を乗り出して、差し出された譜面に目を落とした。歌詞と旋律、一部にはト書きや演出の指示までが書き込まれている。その中に見覚えのある一節を見つけた。私がアルフレートと語り合って紡いだ、ミケーラの祈りの言葉だった。


「これを……こんなに……」


 言葉が出なかった。心臓の奥が浮くような感覚と、胸の奥が熱くなるような衝動とが、いっぺんに押し寄せてくる。ページをめくるたびに、あの日語り合った物語が、確かな形となって立ち上がってくるのがわかる。


「エリーゼが書いたお話、すごく面白かった! ほんと、今年の冬祭りの台本も書いてもらいたいくらいだよ」


 そう言って笑ったニーナは、湯気の立つカップをそっと持ち上げ、私の前にそっと焼き菓子の皿を寄せてくれた。言葉では追いつかないほど胸の中にあふれるものがあって、私は何も言えなかった。それでもニーナは気負わず、にこにこと笑ってくれていた。


「ありがとう、ニーナ。ほんとうに、あなたがいてくれてよかった」


 手元の楽譜に視線を落とす。ページのすみにはニーナの走り書きのようなメモが残されていて、彼女がこの一曲一曲をどれほど大切にしてくれたのかが伝わってくる。


「あの日、あなたが冬祭りの舞台に誘ってくれなかったら、きっと私、明るいオペラなんて思いつきもしなかったわ」


 あの日、幕の向こうから差し込んだ光の中で、私の声に拍手が重なっていったときのことを思い出す。あの日がなければ、私は自分の歌で人の心を照らす喜びなんて知らないままだった。

 ニーナは少し驚いたように瞬きをしてから、すぐに目元を細めて微笑んだ。その横顔がふと窓辺の光に照らされて、ほんのり金色を帯びる。あたたかくて優しくて、でも芯のある笑顔だった。

 それから、私たちはたくさんの話をした。羊の毛刈りをしたときのこと、夕暮れの丘に立って草の香りを胸いっぱいに吸い込んだこと、遠くの湖ではフクロウが鳴くこと。夜になるとどこまでも澄んで、指先でなぞれそうなほど近くに見える星の話。どれも王都では聞くことのできない話ばかりで、私はいつの間にか前のめりになって、夢中でニーナの言葉を追っていた。

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