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或る肖像

 期末考査も無事に終わり、生徒たちはそれぞれの荷をまとめ、故郷へと帰る準備に追われている。笑い声と旅立ちの気配に満ちた空気のなか、私は気持ちの置き場を見つけられないまま寮の廊下を歩いていた。荷造りは終えているのに、心だけはまだどこにも向かっていない。

 部屋には荷造りを終えたトランクと、机の上にはリボンをあしらったボンネット。クララは一足先に帰省していて、賑やかな気配がすっかり抜け落ちたこの部屋は妙に静かだった。早く帰りたいわけでもないのに、ここに留まるのも落ち着かない。

 遠くの中庭では、荷馬車に鞄を積んでいる各家の使用人たちの姿が見える。椅子に腰かけて窓の外をぼんやりと眺めていると、扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様、お迎えに上がりました」


 扉の先には髪をきっちりとまとめた侍女が立っていた。隙のない佇まいに母を思い出して、私は少しだけ顔を顰める。


「奥様より仰せつかっております。以前お送りしましたドレスをお持ちいただくようにとのことです」


「ドレス?」


 言われてすぐに、あの園遊会で着た衣装を思い出す。私はあのドレスを丁寧にたたみ、コルセットやクリノリン、髪飾りまでひと揃えすべてを箱に納めてクローゼットの奥に仕舞っていた。

 胸の奥がひやりとする。やはり、何かある。予感は的中してしまったらしい。


「……大きな箱だから、どなたか呼んでくださるかしら」


 侍女は「かしこまりました」と頭を下げて、廊下の奥へ姿を消す。

 クローゼットの扉を開けると、金の箔押しの入った藤色の箱が見えた。緩衝材のレースと薄紙の中に包まれた、あの日の衣装。このドレスをまた着る日が来るなんて、思ってもいなかった。もう、特別なひとつの思い出として仕舞い込んだはずだったのに。


 間もなく廊下から複数の足音が近づいてきて、扉が再び叩かれた。若い召使いたちが箱に手を掛け、慎重に運び出していく。その背が角を曲がって見えなくなるまで、私は息を詰めて視線で追っていた。

 続いてトランクが運び出され、木板を踏む靴音がゆるやかに遠ざかる。絨毯の上に残された足跡はすぐに何事もなかったように消え、部屋の中には私と侍女だけが取り残される。


「お嬢様、そろそろお時間でございます」


 机の端に置かれていたボンネットを被り、リボンをきゅっと結ぶ。名残を惜しむようにもう一度部屋を見渡した。壁に掛けられた時計は、何事もなかったかのようにいつもの時を刻みつづけている。


 中庭の先に一台の馬車が停まっている。塗装の端々に繊細な金彩が施された立派な馬車。扉の横に浮かんだ紋章の、その豪奢な意匠が今日はどうしようもなく刺さった。視界に入れたくない、と本能が訴えてくる。見ればまた、自分がどこの家の娘で、何を背負って生まれてきたのかを突きつけられる。


 踏み台の前で一瞬だけ足を止めた。もう戻れないような気がした。誰にも言葉にできない、しかし取り返しのつかない何かが、この一歩の先にあるような気がして。


 それでも、背を向けることはできないと知っている。裾を軽く持ち上げ、呼吸を整え、踏み台に足をかける。まるで自分ではない誰かが動かしているみたいに、身体だけが前へ進んでいく。

 乗り込んだ馬車は、ためらいを知ることなく動き出す。規則正しい振動が、やがて私をあの家へと連れ戻してゆくのだろう。あのドレスの行方が、私のとって何を意味しているのかさえもわからないままに。



 ◆



 馬車が屋敷の前で止まり扉が開いた途端、乾いた風が頬をかすめる。見慣れたはずの屋敷の姿があまりに冷えた輪郭をしていて、私はしばし身じろぎもできずにいた。

 以前は、あの正面玄関がどれほど晴れやかに私を迎えてくれたことだろう。しきたりや格式にこれほどまでには縛られず、日々を手放しに喜んでいた幼い日。

 今は、何もかもが違って見えた。扉さえもまるで鋭利な刃のように、こちらを拒むような気配を纏っている。


 使用人が手早く踏み台を置き、私はためらいがちに足を地に下ろした。裾を整えながら石畳に降り立つと、細かく震える指先が自分のものではないようだった。戻りたくなくて、でも戻らざるをえない場所に着いてしまったことを、体が先に悟っていた。

 扉の前まで来ると、すぐに別の使用人が玄関を開ける。重厚な音とともに開かれた扉の奥、中央に佇む人影が見えて、私は呼吸が止まりそうになる。


 無駄な装飾のない、けれど一分の隙もない深緑のドレス。母だった。

 緩く巻かれた髪は完璧に結い上げられ、額のあたりに一筋の影も落としていない。目元に浮かぶのは慈しみでも懐かしさでもなく、冷たい観察のまなざし。そこには出迎えなんていう甘い言葉が含まれる余地などない。


 足が地面に根を張ってしまったようで、一歩も踏み出せない。冷たい風が通り抜けるような玄関の陰影に立ちすくみながら、私は無意識に両手を固く握りしめた。

 この数ヶ月、ようやく自由に息ができるようになったと思っていた。音楽を愛して、友人と笑って、アルフレートと未来を語った日々。そうしたすべてが、私を少しずつ変えてくれたような気がしていたのに。玄関先に立つただ一人の存在が、何もかもを一瞬でかき消してしまう。


「エリザベート」


 私が立ち止まったまま動けないままでいると、冷たい声が空気を裂く。名前を呼ぶ声は暖かさとは無縁の、正しさだけを求める調子だった。


「礼儀を払いなさい」


 疑いようのない命令の声が空気の端を鋭く切って、反射的に背筋を伸ばす。母の声は幼いころから変わらず、いつも私をひとつの枠の中に戻してくる。


「……ただいま戻りました、お母様」


 母の表情は微動だにしなかった。私の挨拶を受けるためだけにそこに立っていたように、その場に無言の幕が下りていく。

 私は帰ってきた。帰ってきてしまった、この家に。どれほど遠くに心が離れていようと、何の意味ももたない。私に選択の余地など、初めから存在していないのだ。



 それから、長い廊下を私は無言のまま歩いた。結局、どうして呼ばれたのかは教えてもらえないようだった。けれど、やっと一人になることができる——そう思って先を急いだにもかかわらず、自室の扉が開かれたとき、私はほっとするどころか、むしろ息を飲んだ。

 部屋の中には数人の侍女たちが整然と並んで立っていた。言葉を待つ間もなくそっと手を取られ椅子へと促される。そこからはまるで儀式のように、ためらいも間も置かず侍女たちが動き出す。髪がほどかれ、丁寧に梳かれていく。ピンでとめられ、うねるように編み上げられてゆく感触。


「お嬢様、立ち上がっていただけますか」


 拒む隙などない声に立ち上がり、目の前に差し出されたコルセットに一瞬たじろぐ。背を向けると紐が一気に引かれ、息が肋骨のあたりで止められてしまうよう。それでも声を上げることはできなかった。その場に立っているのが自分ではないような感覚に身を委ねるように、ただ黙って目を伏せる。

 クリノリンが腰に結ばれ、そしてあのドレスが現れた。園遊会の記憶そのものだったあの一着。かつて花々の香りと音楽のなかで、ひとときの幸福と誇らしさを感じた、あの特別なドレス。

 大切に大切に保管していた、私の思い出が詰まったもの。こんな形でふたたび袖を通す日が来るなんて、考えたこともなかった。何も知らされないまま、誰かの都合で、思い出が引きずり出されていく。


 ドレスの裾を引きずりながら廊下を進むあいだ、まるで自分ではない誰かに押し込められていくような違和感が、喉の奥に張りついて離れなかった。

 侍女の先導で通されたのは、普段は入ることのない別室だった。奥には母の姿、横には見知らぬ女性が一人。そしてその傍らには立派なイーゼルと白いキャンバスが据えられていた。


「入りなさい、エリザベート」


 母の声は抑制のきいた優雅なものだった。すべてが予定どおりに進んでいるかのように、揺らぎひとつ感じさせない。

 私はおずおずと一歩踏み出す。知らない女性がこちらを見て、穏やかな微笑を浮かべた。巻かれた髪に小さな帽子を乗せ、手には繊細な筆が握られている。


「クラナッハ嬢よ。いま注目を集めている画家の方。今日はあなたの肖像画をお願いしているの」


 その言葉に息を呑む。職業として名を成す女性画家なんて、これまでほとんど見たことがない。絵筆を持つのは男性、評価を受けるのもまた男性——そう呼ばれる世界に才能と技術で名を広め、ここに立っている人。

 ……なのに、その人の前で私は、整えられた髪に締め上げられたコルセット、宝石の耳飾りと仕立ての良いドレスに身を包み、貴族の令嬢として描かれるためだけにここにいる。


「……どうして、私の絵を?」


 どうにか絞り出した言葉に、母は涼やかな笑みを保ったまま、まるで季節の話題でもするかのようにさらりと答える。


「お見合いのためよ。候補の方に、あなたの印象を伝えなくてはなりませんからね」


 その一言で、空気が肌の表面から血の温度を奪うように冷たく感じられた。思考が一瞬、何もかもを見失うほどの速度で凍りつく。胸の奥では何か大切なものがひどく大きく波打ち、痛みすら通り越して虚ろな空洞をこしらえていく。


 言葉の意味はすぐに理解できる。けれど、理解したくない。それはあまりに唐突で、残酷で、こちらの意志に一切の余地を与えない宣告だったから。

 結婚なんて、できるはずがない。私はまだ少女のままでいたい。カルロッタの物語を完成させたい、仲間たちと歌を作りたい。何よりも今は、自分自身で選んだ道を歩いてみたいのだ。


 けれど、そのどれひとつとして口には出せなかった。出せるはずがない。

 クラナッハ嬢が筆を構えてこちらを見ている。母はすでに椅子の位置を指示し、布の皺を整えるよう侍女に軽く合図していた。室内は静かで、空気は張りつめている。声を荒げるには、あまりにも不相応な場。

 貴族の娘がするべきではないことなど、幼いころから幾度も幾度も繰り返し教え込まれてきた。逆らえば恥、叫べば無作法。


 何よりも結婚は、貴族の娘にとっては当然の未来だった。誰に教わるわけでもなく、それは幼いころから少しずつ形を持って心に沈んでいく。そうしてやがて、夢を見るよりも先に現実となって目の前に現れる。年頃になれば縁談が来る、それは祝福すべきこと、家の名にふさわしい相手と結ばれれば、それが幸福。疑問を挟む隙など、初めからどこにもない。


 それなのに、私はなにを勘違いしていたのだろう。歌を紡ぎ、物語を語ることが、自分の未来を少しでも変えられるのだと、いつのまにか信じていたのだ。夢見てよいのは、物語の登場人物たちだけだと知っていたはずなのに。


 決定的な絶望が、喉元を伝って胸の奥に落ちていく。何も言えないまま、私は母の指示に従って椅子へと導かれ、絵の構図に収まるようにと身体の角度を直され、手を重ねさせられる。ひとつひとつの所作が、縫い目のように私の自由を留めていく。

 気づけば私は、もう身動きひとつできない。まるで布地に縫い止められたまま、肖像画の背景に固定された人形のようにそこにいた。


 ……今この瞬間のように、私はこれから先のすべてを、ただ黙って受け入れていくしかないのだろうか。何ひとつ望んでいない未来さえも、誰かの意志に塗りつぶされた日々も。心の声を飲み込み続けた、その果てにある終わりさえも。

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