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一人では描けない夢

 風はささやくように窓辺を撫でていった。雨の多い季節の合間、ひときわ澄んだ陽射しが木々の葉をきらきらと透かし、学院の中庭には濃くなりはじめた緑の匂いが満ちている。遠くで時刻を告げる鐘の音が鳴り、休日を思い思いに過ごす生徒たちの笑い声が風に紛れてゆく日。私は一人、寮の建物脇にある小さな裏手の通路で、そっと息を潜めていた。

 そこへ、革鞄を提げた配達員が足音を忍ばせるように現れる。視線が交わっただけで、互いに何も言葉を交わさないまま、小さく折りたたまれた封筒が私の手の中に落とされた。

 封筒の宛名にはこう記されていた。——エリーゼ・レッケル様へ。私のもうひとつの名前。誰にも知られてはいけない、けれどあの人たちとつながっている証。

 読むのが待ちきれなくて、急いで寮の玄関を開けた。すると、入ってすぐのカウンターから声をかけられる。どうやら“エリザベート”宛の手紙も届いたらしい。私は差し出された二通の封筒をまじまじと見つめた。一つは時々届けられる生家からの手紙。もうひとつは、格式ある金文字の封蝋が施されたシュトラウス夫人の書簡だった。

 部屋へ戻ると、私は机に身を乗り出して封を切った。まずは、ニーナの手紙から。


「……えっ?」


 封筒から出てきたのは、手紙と……数枚の楽譜。細やかな筆跡で書かれた旋律の数々に、私は目を瞬いた。


《とにかくひとまず一曲書いてみました。ウェーバーさんと話し合って、あなたたちのあらすじを読んで、一番に思い浮かんだ場面を形にしたの。まだ直したいところもあるけど、まずは聴いてみてね。——ニーナ》


 文字を追うたびに心臓が早鐘を打つ。まさか、もう曲になって返ってくるなんて。

 驚いたままシュトラウス夫人の封筒にも手を伸ばす。封を開けると、艶のある便箋に美しい筆跡が整然と並んでいた。


《あなたの構想に強く心を動かされました。資金の援助は惜しみません。歌手は一流の者を選抜し、楽団の手配、衣装や舞台美術の準備もこちらで請け負います。初演は私の夜会にて行うこと。それがひとつだけの条件です。》


 私は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。目にした言葉が本当にそう綴られているのか、何度も読み返す。心が追いつかない。呼吸が浅くなるほどの驚きに、風の音さえ遠ざかってゆく。数週間前まで白紙だった構想がもう音楽になり、舞台の用意まで整いつつある。あまりにも早い展開に、現実の手応えがついていかない。


 ようやくその場を離れ、図書室の片隅へ向かう。静かな机の向かいにいたアルフレートにそっと手紙を差し出すと、彼は一瞥して、あっさりと口にした。


「それだけ君の物語が魅力的ってことだよ」


 私は返す言葉も見つからぬまま、そっと頷いた。机の上に広げた楽譜を二人で覗き込む。どうやらニーナとウェーバーさんが書いてくれたのは、ミケーラのアリアであるらしい。五線譜が並ぶ楽譜の一番上には、繊細な文字でこう記されていた。


《Für Fazio ——ファツィオへ》


「……行ってみようか、音楽室」


 アルフレートの提案に、私はすぐに頷く。今すぐ確かめてみたい。この楽譜の旋律が、本当に私たちのオペラの一歩目なのだと、音にして確かめたい。

 学院内は静かで、誰の目もあまり気にならなかった。事務室で音楽室の鍵を借り、使用許可の帳面に名前を記す。石造りの廊下を抜けながら、私は胸の内でそっと思う——今日が休みでよかった、と。思い立ったその日に、すぐに鍵を回せるのだから。

 音楽室の扉が軋んで開いた。中には誰もおらず、窓際に並ぶ譜面台と、大きなグランドピアノが佇んでいる。私は楽譜をそっと抱えたまま、ピアノの前に腰を下ろした。

 いくつか音を鳴らしてみると、音階の輪郭が指先に馴染んでくる。主旋律をたどるように、私はゆっくりと右手で鍵盤をなぞった。繊細で、優しく、それでいて内に秘めた想いが胸に迫ってくるような旋律だった。

 私は一度深く息を吸い、譜面を見ながら口を開いた。まだ伴奏をつけずに、まずは声だけで。ミケーラの言葉を私の声で紡ぐ。


 ——あなたが誰を愛しても、私はあなたを愛している。


 静寂のなかで、自分の声が空気に溶けてゆく。胸の奥で、何かが静かに震えた。傍らに立つアルフレートが、黙ったままこちらを見ているのがわかった。


 ——わたしの心はここにある、たとえその瞳が別の誰かを映していても。


 その一節が声となって部屋に落ちた瞬間、自分の中で何かが、音もなくひっくり返った気がした。どんなに報われなくても、踏みにじられても、それでもなお、愛することをやめなかった人の祈り。誰かの背中を押すための強さではなく、誰にも届かない場所から願い続ける強さ。

 それを私は、今、たしかに歌っていた。声にしたのは私自身だった。

 これは、私とアルフレートでつくった物語。彼のアイディアが、私の心を照らした。私の願いに、あの人が輪郭を与えてくれた。

 そしてその物語に、ニーナが命を吹き込み、ウェーバーさんが旋律を与えてくれた。ページの上で、譜面の中で、確かに息づきはじめたミケーラ。


「……私が、歌いたい」


 言葉は小さく、けれど覆いようのない熱をはらんでいた。私が歌いたい。私が舞台の上で、ミケーラとして生きたい。彼女の祈りを、愛を、願いを、この身に刻んで伝えたい。


「シュトラウス夫人の手紙には、一流の歌手を選抜するとあったけれど、私じゃ駄目かしら」


 私は歌手じゃない。演技を学んだことはないし、舞台に立つ人々のように、観客を惹き込む技巧や華やかさを持っているわけでもない。でも、それでも。


「これは私の生んだ物語なの。私が歌わなくて、誰が歌うのって、そう思ってしまったの」


 言いながら、自分でも呆れるほど無謀なことを言っていると思った。けれど、それでも口にせずにはいられなかった。譜面を見つめていたアルフレートの視線が、ゆっくりとこちらに戻る。

 音楽室には光が差し込んでいた。彼の瞳はその光を帯びながら、まっすぐに私の目を捉えた。


「僕も、君のミケーラが見たいよ」


 言葉は簡素だったのに、どうしてだろう、心の奥まで届いてしまった。胸のなかの灯が静かに、けれど力強く燃えていく。


「……私が、ミケーラを生きるわ」


 はっきりとそう言ったその瞬間、自分がどれほどそれを望んでいたのかを、ようやく心の底から自覚した。舞台の上で彼女の想いを背負って生きること。物語のなかで誰かを愛し、誰かに傷つき、それでも前を向こうとすること。

 私はミケーラを生きる。きっとできる。思って、もう一度アルフレートを見つめた。だって私は、誰かを愛すると言うことも、今なら少しはわかるのだ。



 ◆


 

 その日の夜。夕食を終えて寮の自室へ戻ると、私はすぐに机に向かい、インク壺の蓋を外して万年筆を取った。窓の外では風が涼やかに葉を揺らし、遠くの空にかかる雲がわずかに月の光を遮っていた。

 まず書いたのは、ニーナへの手紙だった。小ぶりな便箋を広げながら、思いを言葉に紡いでいく。


 ——あのアリア、とても素晴らしかったわ。

 譜面を開いて最初に目にしたときも、歌ってみたときも、胸が震えたの。

 あなたとウェーバーさんに、ぜひ正式にお願いしたいと思っているの。


 貴族であることは伏せたまま、私は“親族の方の夜会で披露できる見込みがある”と書き記した。資金の援助もしてもらえること、衣装や楽団、会場の用意もすべて任せられること——だからこそ、これは仕事として依頼させてほしい、と結んだ。

 封を閉じて宛名を記すと、私はもう一通、新しい便箋を取り出した。今度はシュトラウス夫人宛てだ。


 ——曲を書いてくださる方が見つかりました。素晴らしい才能をお持ちの方々です。


 そして、一呼吸置いて、私はそっと続けた。


 ——もし可能であれば、ミケーラの役は、私自身が演じることはできないでしょうか。

 顔も名前も伏せたまま、舞台の上ではミケーラとして、すべてを捧げたいと思っています。


 ここまで書いて万年筆を置く。今になってほんの少しのためらいが混じるけれど、私はその不安を振り払うようにかぶりを振った。

 手紙に封をして、ようやく手を休めて深く息を吐いたときだった。ふと視線の先、机の端に置きっぱなしの封筒が目に入った。少し皺の寄った、家の紋章入りの厚紙封筒。私は思わず息を呑んだ。

 ……あれは、今朝届いていたものだ。わざとではなかった。忙しさに紛れて、読むことを後回しにしていた。

 私はそっと指先で封筒を手繰り寄せた。少し皺の寄った象牙色の紙には、実家の紋章が金のインクで浮かんでいる。見慣れた筆跡。いま開けなければならない。そう思いながらも、一日中触れずにいたその封筒を、私は静かにペーパーナイフで裂いた。

 刃が封をなぞるかすかな音が、部屋の静けさに滲んだ。白い封筒の口が裂けると、そこから取り出した便箋には、几帳面に整えられた文字が淡い墨で並んでいる。


《六月も半ばを過ぎ、園の薔薇が美しく咲いております。学院での学びはいかがでしょうか。》


 目を通した瞬間、心のどこかが静かに冷えた。貴族らしい形式だけの時候の挨拶。私の暮らしにも、努力にも、きっと何の関心もない。ただ手紙という名目を保つために並べられた、季節と礼儀の言葉。

 けれど、それに続いた一文が目に飛び込んだ瞬間、私は凍りついたように動けなくなった。


《夏季休暇のあいだ、一週間ほど家に戻ってきなさい。》


 ——どうして。


 なぜ、いまこのタイミングで。何のために? 何が待っているの?

 肺に入っていた息がにわかに苦しくなる。まるで見えない手で胸を締めつけられたようだった。

 それ以上の説明は一切なかった。問いかけに答える余白も、こちらの都合を尋ねる言葉もない。ただ一方的に、命じられたとおりに従えというだけの書面。

 私は便箋をそっと膝の上に伏せ、しばらく身じろぎもせずにいた。脈打つように胸の奥で響いていたのは、怒りではなかった。冷たい水を静かに注がれるような、痛みのない絶望。

 やはり、私には選べないのだ。どれほど心が遠くにあっても。何を願い、何を夢見ても。選ぶ余地など初めから存在しない。戻りなさいと言われれば、戻るしかない。

 音楽室で奏でた譜面が、描いた夢が、さきほどよりもずっと遠くに感じられた。ようやく形になりかけた夢が、ふとした風に吹かれて、指の隙間からこぼれ落ちていくような、そんな心地がした。



 ◆



 窓の外では、夏の風が梢を揺らしていた。季節はすでに七月を過ぎ、昼間は汗ばむほどの日が続いている。午前の講義を終えて部屋に戻ると、机の上に見慣れた筆跡の封筒が二通並んでいた。

 一通はあの特徴的な丸い字、ニーナから。もう一通には、瀟洒な黒インクの流れるような筆跡。シュトラウス夫人のものだとすぐにわかった。

 胸の奥がわずかに高鳴る。丁寧に封を切り、まずシュトラウス夫人の便箋を手に取る。上質な厚紙の封筒から現れた便箋は、淡いすみれ色の縁取りが施され、端正な筆致で綴られていた。


《あなたがミケーラを演じると伺って、とても楽しみにしております》 


 その一文に、小さく息を呑む。夫人は私の申し出を受け入れてくださったのだ。


《資金の援助は予定どおりに進めております。楽団の手配、衣装や舞台装置、小道具などもこちらで整えます。あなたの舞台がより多くの人の心に届くよう、最善の形を整えてまいります》


 私は手紙をそっと胸に当て、深く目を閉じる。この身でミケーラを演じることができる。私とアルフレートが紡ぎ、ニーナとウェーバーさんが息を吹き込み、そしてシュトラウス夫人が背を押してくれる、私たちのカルロッタ・レジェロが、少しずつ確かな形になろうとしていた。

 そしてまだ一通、封のまま残された手紙があった。封を切り、ニーナからの手紙を取り出して目を通す。


《あなたの手紙を読んで、ウェーバーさんはとても張り切って曲を書いてるの。もう何度も譜面を直しては弾き直して、本当に嬉しそうにしてるよ》


 くすっと笑いがこぼれる。目に浮かぶようだった。ニーナが首をかしげながらウェーバーさんの横で譜面をめくっている様子。風に吹かれる庭の花のように軽やかで、でも芯の強い彼女のことだから、どんなに忙しくてもきっと真剣に取り組んでくれている。


《それから、もし夏休みのあいだ少しでも時間があるなら、ライプフェルトに来ない? 今度は私の家に——》 


 その一文に、息が止まるほど驚いた。いつかの冬の日、アルフレートに連れられて訪れたあの村にまた行けるかもしれないのだ。嬉しさが胸に満ちてゆく。けれどすぐに、現実の重さが背後から顔を出す。

 言い訳をどうしよう。夏季休暇の帰省が終わったあと、とある友人の家に滞在したいなどと口にして、まともに通るはずがない。

 悩む私のすぐそばで、布の擦れる音がした。ふと顔を上げると、クララがドレスを丁寧に畳みながら、こちらを見ていた。


「エリザベート、どうかなさいましたの?」


 私は手にした手紙を見つめたまま、小さく笑ってみせた。


「……またライプフェルトに招かれているの。だけど、両親に許されるはずないわ」


 それを聞いたクララは、何も言わずに私の前まで歩いてきて、そっと私の手を握った。その手が思いのほか強く、驚いてクララの瞳を見つめると、彼女の湖水のような瞳は何か固い意志に満ちていた。

 クララはそのまま机に向かい、静かに万年筆を取る。さらさらと、美しい筆致が便箋の上を走ってゆく。それは、今年もミュルベル家の避暑地に招いているという内容の手紙だった。夏のあいだ、エーレ学院の友人であるエリザベート・フォン・ローゼンハイネを招待したい。家族の了承も得ていると書き添えられていた。

 私は息をのんでその背中を見つめる。クララの手元にあるのは、何の変哲もない紙と万年筆。けれどそれは、私に自由を与える鍵。

 便箋いっぱいに筆を走らせると、クララはようやく振り返り、穏やかに微笑んだ。


「これで、何も問題はないでしょう?」


 胸の奥にじんわりと、こみあげるものがあった。

 それは喜びと驚き、そして安堵と決意が、いっぺんに波のように押し寄せてきたせいだった。気づけば言葉よりも先に、腕が動いていた。


「ありがとう、クララ」


 声が震えた。きつく抱きしめたその身体はいつものように華奢で、けれどどこか頼もしくあたたかかった。私はただ、深く、深く、もう一度彼女を抱きしめる。通じ合える心が、確かにそこにあると思えた。

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