表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/99

心に咲くもの

 それからの日々、私たちは何度も図書館で顔を合わせた。いつもの窓辺の席に並んで座り、机の上に資料を広げては、少しずつ物語の輪郭を形づくっていく。

 新しい舞台のまだ言葉にならない景色が、陽の光と紙の上に交差して浮かび上がる。ひとつの場面にふたりで頭を抱えて唸ったり、たった一行の描写を巡って思いがけないほど真剣に議論したり。

 アルフレートはときに大胆な展開を持ち出しては私を困惑させ、ときに詩の一節や古い物語を引用して、まるで魔法のように物語の扉を開いてくれる。私はといえば、登場人物の気持ちを想像しながら、言葉や感情の綾をすくい上げていく役割にまわることが多かった。


「ファツィオが思いとどまるためには、ミケーラが鍵になるんじゃないかしら」


 私は紙の上の人物相関図に静かに目を落として言った。カルロッタ、ファツィオ、ミケーラ、エルヴィーノ。線で結ばれた名前たちの間に、幾度も消しては書き直した鉛筆の跡がある。


「母親からの便りを届けてくれて、変わらない想いを伝えてくれる故郷の婚約者。ファツィオが元の自分に戻るためには、彼女の存在が必要なの」


 カルロッタに魅せられた彼の心が愛に焦がれ、狂気へと傾くその手前。ファツィオが過去の穏やかな日々に立ち戻る道が残されているとしたら、それはミケーラという女性が変わらず差し伸べる手の先にあるのではないだろうか。


「カルロッタを殺す前にミケーラの愛に引き戻される、ってことか」


 私は小さく頷きながら、再び紙の上に視線を落とした。鉛筆を握るアルフレートの手が静かに動き、紙の余白にさらさらと何かを書き加える。


「それなら、彼女をもっと主軸に置けるように見せ場になるアリアがほしいね」


 その言葉に、頭の中で舞台が回りはじめる。ミケーラが不変の愛を歌い上げるアリア。ざわめく港町の広場、祭りの喧騒、そしてその影で起きる悲劇の予兆。そのなかでミケーラがファツィオの前に立ちふさがる、そんな絵が浮かんでくる。


「そうね。それに……カルロッタに転機があってもいいんじゃないかしら」


 ファツィオの破滅が回避される物語であるならば、そこには一歩手前の分岐点が必要だ。彼が立ち止まるためには、何かに大きく心を揺さぶられなければならない。

 

「自分の欲望に正直だったカルロッタが、その選択が人を傷つけていたことに気づいて……彼女なりに悔いるのよ」


 ファツィオがカルロッタを殺さないためには、彼を苦しめた張本人であるカルロッタが何かを悟る必要がある。そうでなければ、ファツィオが凶行を思いとどまる動機が弱くなってしまう気がした。

 そしてそれには、やはりカルロッタ自身の変化が鍵になる。——そう思って私は続く言葉を考えた。しかしどうしても、そこから先が描けない。

 カルロッタは奔放だった。舞台の幕が上がったときから、彼女は一貫して自由を愛し、欲望に正直で、自分の意思に従って生きていた。

 男たちの視線を物ともせず、気に入った相手には気まぐれに笑いかけ、気に入らなければ突き放す。そうした自由さこそが、彼女の魅力だったし、誇りでもあったはずだ。欲しいものを欲しいと言えること。縛られずに生きること。それはきっと、彼女が彼女であるために欠かせない部分だった。それを否定するような悔いは、本当にカルロッタらしいと言えるのだろうか?


「カルロッタが後悔するなんて、どうしたらって考えてる?」

 

 アルフレートが少しだけおかしそうに問いかけてきて、私ははっと顔をあげる。……どうやら、悩みはそのまま顔に出ていたらしい。私は肩の力を抜いて、認めるようにうなずく。


「じゃあさ、カルロッタが本気で惚れる相手がいて、その恋が報われないならどうだろう」


 その言葉に、私は目を見開いた。思わず前のめりになって、彼の言葉の続きを待つ。


「カルロッタが惹かれるエルヴィーノは、カルロッタと同じく情熱的で自由を愛する男。だからこそ惹かれる。でも彼もまた、誰のものにもならない。今日も別の誰かを口説いて、夜ごと違う名を囁いてる」


 情熱的で、華やかで、そして奔放な男。誰のものにもならず、愛を気まぐれにばらまくような人物。カルロッタのような女性が惹かれるにはふさわしい相手だ。そして、きっとそのぶん、苦しめられる。


「カルロッタは思い通りにならない恋に泣く。自分の自由さが巡り巡って自分を苦しめるんだ」


 アルフレートはそう締めくくると、手元の紙に何かを書き込みながらちらりと私の顔をうかがった。その横顔に浮かぶわずかな笑みはいつもの少し冗談めいたものにも見えたけれど、その提案はあまりに的を射ていて、私は言葉を返せずにいた。


 カルロッタが、愛に破れる。


 たしかにそれなら、彼女の変化には説得力がある。自由奔放な彼女が、同じく自由な誰かを本気で愛して、その愛に悩む。振り回され、傷つけられ、それでも手放せずに苦しむ。その痛みの中で、初めて自分の過去の振る舞いを省みる。


「……それなら、彼女は生きて、新しい道を選べるわ」


 カルロッタにも生きる道がある。誰かに罰されるのではなく、自分で自分の間違いに気づき、その先を選び取っていく物語にできる。

 紙の上で、登場人物たちが少しずつ動き出しているような気がした。ミケーラが、ファツィオが、カルロッタが。それぞれの場所から、少しずつ未来へ向かって歩きはじめている。


 私たちはそれから、紙の上に散らばった断片をひとつずつ拾い上げ、物語の流れとして繋ぎとめていった。

 舞台は港町セヴェラのはずれ。情熱的で奔放な歌姫カルロッタ。彼女に魅せられた軍人ファツィオは、命令に背いてまで彼女を逃がし、投獄される。そこへ訪れるのが、遠い故郷からやってきた婚約者ミケーラ。彼女は変わらぬ愛と母親からの便りを彼に届ける。

 だが出所したファツィオはミケーラを拒み、カルロッタとの再会を望む。しかしカルロッタはすでに、華やかな闘牛士エルヴィーノに心を奪われていた。彼は情熱的で、そして自由を愛する男。まるでカルロッタ自身のように。そんな男に彼女は惹かれ、そして裏切られる。叶わぬ恋に胸を焦がし、自分が誰かを傷つけた日々を省みる。

 そして祭りの日。カルロッタを殺すために短剣を手にしたファツィオの前に、ミケーラが現れる。「あなたが誰を愛していても、私はあなたを愛している」——その言葉が狂気に沈みかけていた彼を引き戻す。刃は地に落ち、二人が抱きしめあって、物語は命を落とさないままに幕を下ろす。


 私は、そっと鉛筆を置いた。手元にある紙は、修正と加筆の跡で少しよれ始めている。何枚も重ねて書いてきた物語が、いまようやくひとつのかたちを得る。悲しみの先にある光を描くことができる。

 しかし。そこまで物語を形にしたにも関わらず、次の瞬間には、目の前の白紙がまた大きく立ちはだかる。


「……でも、どうやってオペラにしたらいいの?」


 物語はできた。筋も通った。登場人物の感情も、アリアの構想も浮かび始めている。けれど、それをオペラとして作品にするには、あまりに多くの壁があった。音楽があって、歌詞があって、舞台があって、初めてそれは人の前で形を取る。


「歌は好きだけれど、作詞や作曲なんてしたことがないわ」


 声にしてみると、それは予想以上に心細かった。私は曲を作ったことも、自分で書いた言葉に旋律をつけたこともない。不安に揺れる気持ちを隠すように、私は言葉を探す。そのとき、ふと、ある顔が思い浮かんだ。


 ——ニーナ。


 民衆劇場の稽古場で、脚本を前に即興で場面を変えてみせたときのあの鮮やかさを、私は忘れられない。驚くほどの速さで、しかも的確に。感情の起伏や人物の立ち位置まで見通して、まるで物語が生きているように語り直してみせる彼女の姿に、私は息を呑んだのだ。言葉に、物語に、真の息吹を与える力。ニーナはそれを確かに持っていた。

 そして、もう一人——ウェーバーさん。あのとき、ニーナの作り上げた新しいアデリナのために曲を書いたのが、村で長く民衆歌劇を手がけているというウェーバーさんだった。小さな窓から差す午後の光のように言葉に寄り添って揺れるメロディーは、アデリナという少女の心を豊かに彩っていた。脚本と音楽の両輪を、まるで呼吸のように合わせて形にできる二人。その仕事ぶりに私は深く感銘を受けたのだった。


 もし、私のこの物語にも、あの二人の力を借りることができたなら——。


 物語のすべてを一人で背負わなくてもいい。届けたい願いがあるなら、それに共鳴してくれる誰かと手を取り合えばいいのだ。そう思えたとき、私は迷わずアルフレートに顔を向けた。


「……ニーナとウェーバーさんに、協力してもらえないかしら?」


 言いながら、自分でも不思議な気持ちだった。これは夢の話ではなく現実の選択肢なのだと、ようやく気づいたような心地がした。


「いい案だと思うよ。あの二人ならきっと喜んで協力してくれる」


 その名を出した瞬間、アルフレートの目がやわらかく細められた。まるで私がそう言い出すことを、はじめからわかっていたかのように。


「今度の手紙の返事に書いてみるわ。協力してくれないかお願いしてみる」


「うん。ニーナに伝えれば、ウェーバーさんにも話を通してくれると思う。あの二人は最強の茶飲み友達だからね」


「そうなの?」と聞くと、「ニーナは僕とユスティンよりウェーバーさんとのほうが仲が良い」と返ってきた。その言葉に、心が少しだけ軽くなる。自分ひとりでは届かない場所にも、こうして誰かの手を借りれば届くかもしれない。



 ◆



 その夜私は机に向かい、白紙の便箋を一枚慎重に引き寄せた。眠るクララを起こさないように、なるべく音を立てず引き出しを開けて、インクを取り出し蓋を開ける。

 部屋の中はすっかり静まり返り、窓の外ではかすかな夜風が木の葉を揺らしていた。蝋燭の火が小さく揺れ、インク壺の縁にほのかな影を落とす。胸の奥に灯ったささやかな希望の火を消さないように、私は万年筆の先を紙に乗せる。


 ——親愛なるニーナへ。


 ゆっくりと書き始めた筆致は、やがて自然と流れるようになった。思い出されるのは、あの村での朗らかな笑い声。民衆歌劇の稽古場で、頭の中に浮かぶ構想を生きた言葉に変えていった彼女の姿。

 いま、私はひとつのオペラを紡ごうとしていること。悲劇ではなく、誰かが手を取り合って希望へと進んでいく物語だということ。アルフレートとともに構想を重ねた物語のあらすじを、もう一枚の便箋に丁寧に綴って一緒に封筒に入れた。


「もしも力を貸してもらえるなら——」


 最後の一文を書くとき、私は少しだけ筆を止めた。頼っていいのかと自分に問いながら、ニーナの手でこの物語が生き生きと語られるところを私の心はすでに願っていた。

 蝋燭の火で蝋を溶かして、封蝋印を押して封筒を閉じる。続いて、もう一通。


 ——シュトラウス夫人へ。


 夜会で披露してみてはどうかと微笑んでくださった、あのやさしい声が思い出される。

 貴族の夜会という場に立つには、作品にふさわしい品格と完成度が求められる。まだ下絵の段階ではあるけれど、この物語をオペラにしたい——その気持ちを私は正直に書いた。


「お言葉に甘えて、もし本当に機会をいただけるなら……」


 そんな風に続けて、アルフレートと二人で書いた物語のあらすじも、こちらの手紙に添えた。

 カルロッタ・レジェロを元にした新しいオペラ。カルロッタが命を落とさずにすむ世界。ファツィオが破滅せず、誰かの愛によって救われる世界。ミケーラが報われる物語。

 誰もが少しずつ苦しみながら、けれどその先に、希望のある選択を見つけて歩んでいく——そんな舞台にしたいと願っていること。

 手紙を終えて封をしたとき、私はふと背中を伸ばした。蝋燭の火はもう短く、まもなく夜明けが近いことを知らせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ