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心未だ知らず

 銀のポットから湯気を立てて注がれた紅茶は、午後の光を受けて金の縁のティーカップにきらりと煌めいていた。砂糖鉢から角砂糖をひとつ落とすと、繊細な琥珀色の揺らぎに、向かいに座る妹の面差しがぼんやりと水彩画のように映って見えた。ああ、こうして同じテーブルに並んでいると、あのころのままね──まだ婚家の格式も、母という名も背負っていなかった少女時代の私たちを、ふと思い出してしまう。

 同じく宮廷貴族に嫁いだ妹とは、こうして度々お茶をする仲だった。こうしてティーカップを手にすると、かつてふたりで袖を引き合って笑いあった日々がふと重なって見えてくる。

 

「それで、()()エリザベートが見違えるようだというのは本当なの? お姉様」

 

 本日の話題はまさに予想通りだった。微笑みながら問う妹の声には、かすかな驚きと、姪への真っ直ぐな興味がにじんでいた。


「ええ、本当に、おてんばだったのが嘘のようよ。音楽や踊りのお稽古にも熱心で、今では先生方が口を揃えて申し上げるの。『将来が楽しみなお嬢様です』って」

 

 自慢気に聞こえないよう、あくまで抑えた調子で語ったつもりだったが、それでも誇らしさが滲み出ていたのだろう。妹は柔らかな笑みを浮かべて、そっとカップを置いた。

 

「女の子というのは、ある日突然目覚めるものよね。私自身にも、覚えがありますもの」

「そうね。それにきっと、あの夜のオペラが心を動かしたんだわ」

「まあ、あの“カルロッタ・レジェロ”?」 

「ええ、あのソプラノを聴いた時のあの子の表情。目を見開いて、声一つ立てずに見入っていたの。あの晩からなの。まるで炎を灯されたように、エリザベートは変わったのよ」


 妹は感嘆の声をあげると、何かに納得したように首をかしげる。


「芸術家気質は、変わり者が多いと言うじゃない? エリザベートも、思えばその気があったのかもしれないわ」

 

 妹の言う通り、奔放すぎる娘だとエリザベートには手を焼いてきた。気まぐれで、理屈より情に動き、世間の型におさまる子ではなかった。

 私は紅茶を一口啜りながら、先日の娘の姿を思い浮かべていた。

 華やかな劇場の記憶もまだ新しかったある日、私はふと扉の向こうから微かに漏れ聞こえてきた旋律に足を止めた。ピアノだった。 

 私が踵を返して扉の隙間から中を覗き込むと、そこには譜面台にまっすぐ目を向けたエリザベートの姿があった。

 背筋をすっと伸ばし、指先を鍵盤に添えたその佇まいには、以前のように弾きながら空想に耽ったり、意味もなく音を転がしてみたりする姿はなかった。ただ音を一つひとつ確かめるように、静かに鍵盤を撫でていた。

 ほどなくして、声楽の教師からも、同様の変化を耳にした。「歌詞の意味を感じ取ろうとなさる意志が、はっきりと見えるようになってきました」と。

 旋律の美しさにふわふわと酔いしれるだけだった幼い娘が、今では言葉の行間にまで耳を澄ませているという。喜びを隠さず意気揚々と語る教師の言葉に込められた期待と賞賛の響きは、母としての胸を素直に誇らせた。

 バレエの稽古場を通りかかった日もあった。

 鏡の前のエリザベートは淡いロマンティック・チュチュの練習着を身にまとい、つま先で音もなく床を蹴っていた。つま先の角度、腕のライン、呼吸の間。ひとつひとつに神経が通っていて、幼い頃の気まぐれな舞とはまったく違っていた。

 ……きっと、あの夜に観た舞台が、何かを刺激したのだろう。高雅な芸術に触れて、少女の心が少しずつ花開いてゆく。母親として、これ以上の喜びがあるだろうか。

 妹の言う通り、エリザベートには芸術の才能があるのかも知れなかった。貴族の娘として歓迎される素養かはともかく、より確かで現実的な美徳として、彼女が教養と品位を身につけてくれるのなら、できる限りのことをしてやりたいと思うのだった。だって、エリザベートはこの家の名を背負う娘ですもの。学問でも、音楽でも、舞踏でも、どれをとっても恥ずかしくないように育てなければならない。

 私が思考に耽っている間、妹はしばらく紅茶を見つめていたが、ふと唇に小さな笑みを浮かべた。


「けれど、もしエリザベートが、将来は音楽家になりたいと言い出したらどうする?」

 

 冗談めかして、妹は軽口を叩いた。本気の問いではないというように笑ったが、真珠色のティーカップを揺らしながら、瞳はわたしをそっと探るように見つめていた。

 窓辺のレース越しに射し込む春の陽は、紅茶の表面にきらきらと波紋を踊らせている。聞こえるのは風が木の葉を揺らす音と、壁の古い柱時計が刻む、規則的でひそやかな時の音。まるで、私たちの会話に世界がそっと聞き耳を立てているかのような静寂だった。

 

「年頃の娘には、よくあることよ」

 

 私の声は、思ったよりも静かで、落ち着いていた。紅茶に口をつけると、香り高い液体のぬくもりが喉を滑っていく。

 

「……それに、成長すれば自ずと分かるはずよ。貴族に生まれた娘の役割というものが」

 

 その言葉は、自らに言い聞かせるようでもあった。妹は何も言わず、深くうなずいた。言葉よりも、沈黙のほうが深い理解を孕んでいることもある。とくに、同じ道を歩んできた者同士には。

 私たちが静寂に、かつて自分たちが辿ってきたすべての日々を重ね合わせている、いまこの時のように。

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