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未来は自由

 それから幾日が過ぎ、季節は少しずつ移ろっていった。校舎の回廊には新緑の香りが漂いはじめ、木々の梢には淡い緑の葉がこぼれる。陽光の色は日を経るごとに輝きを増して、初夏の気配が日常の景色を塗り替えていくのがわかった。

 昼休みの図書館。私は窓辺の席に腰掛けて、差し出された紙を前に首をかしげていた。木枠の大きな窓から注ぎ込む陽の光は柔らかく、机に差し込む影がゆっくりと傾きを変えていく。

 机の上には、今まさに広げられたばかりの紙。そこにはざっくりとした線や欄が引かれていたけれど、まだそのほとんどが空白のままだった。


「……それで、何をどう書くのか案はあるの?」


 紙を覗き込むようにして、隣に座ったアルフレートがふいに言った。その声に私は顔を上げ、少しだけ唇を尖らせる。


「ないから一緒に考えてほしいのよ」


 明るいオペラを作る。あのとき自分でそう言ってみたものの、実際にはまだ何ひとつ形になってはいなかった。ただこんなものを作りたいという願いが胸にあるだけで、物語の種も、人物の輪郭も、舞台の景色すらぼんやりと霞んでいる。華やかな言葉を口にした分、その実態のなさが心許ない。

 だから今日、私は思い切ってアルフレートに協力を仰いでみた。あのとき、アルフレートはまっすぐな眼差しで言った。「君を支えるよ」「君の夢を守っていたい」と。差し伸べてくれた彼の手に寄りかかることができたなら、私はもっと遠くへ進めるかもしれない。

 彼は一瞬もためらわなかった。私の申し出に何の躊躇も見せず、「じゃあ、今から」と短く言って、まるで当然のことのように私の横に歩調を合わせ、善は急げとばかりに図書館へ向かってくれた。


「まずは主題から決めたほうがいいかな」


 鉛筆を指のあいだでくるりと回しながら、アルフレートが静かにそう言った。淡々とした口調ではあったけれど、それは私の漠然とした情熱を、形あるものへと導こうとしてくれる声だった。


「悲劇ではない明るいオペラ、だったね」


 アルフレートは言いながら、紙面の余白に同じ言葉を記した。彼の言う通り私が目指しているのは、悲劇ではなくて、人が希望を信じて、手を取り合って、明日を迎える物語。

 悲しみによって心を打つ物語ももちろん美しい。けれど私は、誰かがその夜を越えて、生きて、何かを信じ続けてゆけるような——そんな結末を書きたいのだ。


「……でも」


 そこまで考えて、私はひとつ息をつく。


「喜劇にしすぎないほうがいいかもしれないわ」


 ためらいがちにそう続けながら、私は手元の紙から視線を上げ、そっとアルフレートの横顔を見た。春の陽射しが斜めに差し込む図書館の窓際、彼は穏やかに耳を傾けてくれている。


「……完成したら、親族の方の夜会で披露させてもらえるかもしれないの。まだ正式に決まったわけじゃないけれど、その機会をいただけるかもしれないって」


 言いながら、自分の声にほんの少しだけ緊張が滲んでいることに気づく。夢が現実に近づいたとたん、心は嬉しさと不安とでせめぎあう。明るいオペラを届けることができるかもしれない。けれどそのためには、夢見がちな理想だけでは足りないこともわかっていた。


「だからね、まずは貴族にも受け入れられやすい内容にしたほうがいいと思うの」


 紙の上にはまだ空白の多い構想図。そこに、未来の輪郭を描こうとしている最中。悲劇じゃない物語を書きたい気持ちは変わらないけれど、感情だけで突き進むことはできない。誰かに届ける舞台にするためには、きちんと届く形で作らなければならない。


「既存のオペラをもとにして、その結末を少しだけ変えてみるとか。もともとは死をもって幕を下ろす物語を、別の選択肢のもとで生き延びさせてみたり」


 アルフレートは黙って私の言葉を聞いていた。やがて、ゆっくりと頷く。


「いい考えだと思う。土台があれば観客も入りこみやすいし、構成も整理しやすい」


 アルフレートは紙の上を見つめたまま、落ち着いた声で言った。指先で線をなぞるようにしながら、まだ白いままの欄に何かの可能性を思い描いているのがわかった。その横顔を見つめながら、私はそっと安堵の息をこぼす。


「それじゃ、次はどの作品を下敷きにするかだね」


 鉛筆の先を紙の余白にとんと当てながら、彼がこちらを振り返った。陽の光に照らされたその瞳には真剣さとほのかな期待が宿っていて、私は一瞬言葉に詰まる。

 貴族のあいだで上演されるオペラは、どれも難解なものばかりだった。象徴や寓意に富んだ筋書き、哲学的な独白、時に政治的な背景までも含み込まれた歌詞の数々。

 正直に言えば、終わってからも物語の意味すらよくわからなかったものがある。観客席で笑う人々に合わせて笑い、拍手の時機をはかりながら手を叩いたあの日々は誇れる思い出ではなかった。

 それでも私は懸命に考えた。なにか、きっかけになりそうな作品はなかったか。自分の心に残っているものは、ただ哀しみだけではなく、どこか疼くような感情を呼び起こしたもの——。


 ふいに記憶の底から、ある情景がよみがえった。

 まだ幼いころ、母に連れられて訪れた王都のオペラ座。深紅の緞帳が引かれ、舞台の上に立っていたのは、深紅のドレスに身を包んだ黒髪の歌姫だった。自由と誇りを掲げて歌うその姿と、胸を裂くような結末。あまりに鮮烈で、長い時を経た今も色褪せていなかった。

 あの作品なら。もしあの歌姫に、悲劇ではない結末があったなら。それはようやく見つけた入口だった。自分が何を描きたいのか、その答えを探す旅の始まりになる。

 私はそっと頷いて、呼吸を整えるようにゆっくりと口をひらいた。


「ひとつ、心に浮かんでいる作品があるの」


 言った瞬間、アルフレートが微かに口端を上げる。その反応が嬉しくて、胸の内に小さな安堵の灯がともる。


「“カルロッタ・レジェロ”よ」


 その名前を聞いたアルフレートは、少し考えるように視線を宙に彷徨わせた。耳に覚えのある旋律をたぐるように、唇の奥でその名をつぶやいて、それから思い出したようにこちらを振り向いた。


「聞いたことはあるけど、観たことないんだ。王都のオペラ座でしかやってない演目だろ?」


 私は頷く。少しのあいだ記憶をたぐるように視線を伏せて、それから、あの舞台の情景を言葉に変えていく。


「ええ、10年ほど前に初演されたばかりの作品よ。……母に連れられて、観に行ったの。結末は相変わらず悲劇だったけれど、プリマ・ドンナの歌声を今でもはっきり覚えてる」


 言葉を選びながら、私はそっと手元の紙の端をなぞった。まだ何も書かれていない余白に触れたまま、遠い記憶のなかの舞台を描き出していく。


「物語の舞台は港町のセヴェラ。美しいロマの歌姫、カルロッタが主人公よ。彼女は情熱的で、自分の欲望に正直で、誰よりも自由を愛してる」


 目を伏せると、あのとき舞台で見た鮮やかな紅の衣裳と、鈴のような笑い声がよみがえる。カルロッタは誰にも縛られず、自分の足で人生を歩こうとした女性だった。


「彼女はある日、些細な喧嘩騒ぎで捕まってしまって……連行したのが軍人のファツィオ。真面目だけれど、とても不器用な人」


 私はそっと目を上げて、隣のアルフレートを見つめた。彼は黙って聞いていた。うなずきもせず、口を挟まず、まっすぐ私の言葉を受けとめようとしてくれているのだとわかった。

 ——物語の内容はこうだった。舞台は港町セヴェラのはずれ。美しい歌姫カルロッタ・レジェロは、その情熱的な性格と奔放な生き方で、町の男たちを虜にしていた。

 ある日、彼女は些細な喧嘩騒ぎを起こし、警備隊の軍人ファツィオに連行される。だがカルロッタは巧みに言葉を操り、ファツィオの心を惹きつける。彼女の誘惑に抗えず、ファツィオは命令に背いてカルロッタを逃がし、代わりに投獄されてしまう。

 投獄されているファツィオの元に婚約者であるミケーラが現れ、変わらぬ愛と故郷の彼の母親からの便りを届ける。しかしファツィオはカルロッタを盲信的に愛しており、ミケーラを冷たく追い払う。

 出所後、ファツィオは迎えに来たミケーラを切り捨て、カルロッタと共に生きようとするが、彼女はすでに華やかな闘牛士エルヴィーノに心を奪われていた。

 カルロッタに見捨てられたファツィオの心は次第に正気を失い、狂おしい執着へと堕ちていく——。


「ファツィオは、捨てられて壊れてしまった。愛が執着に変わっていくの。……『君は僕のものだ。僕を捨てるなら、生きてはいけない』って」


 自分の口からその一節がこぼれた瞬間、言葉の冷たさにぞくりと背筋が震えた。私は思わず両腕を自分の体に巻きつけるようにして、肩を小さくすくめる。


「祭りの日、カルロッタは観客の前で自由と誇りを持って、エルヴィーノへの愛を歌うの。まるで世界の中心で、生きることそのものを讃えてるみたいに。でもその帰り道……待ち伏せていたファツィオに刺されて命を落とす」


 声を落としながら語るうちに、胸の奥に澱のようなものが沈殿していくのを感じた。

 あの舞台の幕が降りる直前、カルロッタが血を模したベルベットに包まれ倒れ込む姿が、いまもまぶたの裏に焼きついている。

 誰かを好きになった気持ちが、どうして命を奪う凶器になるのだろう。舞台の中の物語だとわかっていても、その理不尽さが喉元に刺さるようで、言葉の続きを探すことすらつらかった。


「最後は血に濡れたカルロッタと、崩れ落ちるファツィオの姿で幕を閉じるの」


 言い終えて、私はアルフレートの方を見た。彼は「なるほど」と短く言うと、手元の紙に視線を落とし素早く何かを書きつけていた。やがて手を止めて、手の中で鉛筆を弄びながらぽつりとつぶやく。


「民衆歌劇じゃまず見ない展開だ。まさに悲劇中の悲劇だな」


 そう言いながら彼は少しだけ息を吐いて、紙の上を見つめる。ほんのわずかに目を細めたのは、物語の結末の重さにだろうか。

 アルフレートが親しんでいた民衆歌劇では、どんなに困難があっても、最後には笑顔が待っていることが多かった。けれどいま私が語ったように、貴族社会で嗜まれているオペラには救いがない。


「そう。だからね、私はあの物語を違うかたちで書きたいの。カルロッタにも、ファツィオにも、ミケーラにも、不幸だけじゃない結末を」


 カルロッタは奔放だった。ファツィオの心を弄んで、それが彼女を死に導いた。けれど自由を愛して、自分に正直に生きようとすることは、そんなに悪いことなのだろうか。なぜ彼女は、罰を受けるように殺されなければならないのだろう。

 ファツィオも決して悪人ではなかった。ただ、誰かを愛する方法を間違えてしまっただけ。彼は命令に背き、立場を捨ててまで彼女を選んだ。でもその愛し方が破綻していたから、最後には破滅するしかなかったのだ。

 そしてミケーラこそ、哀れな脇役で終わるべきじゃない。ファツィオが投獄されても、自分じゃない人を愛していても、変わらず彼を愛していた。彼女こそ、相手を想う純真な愛を持っていたのに。


「……つまり簡単に言えば、ファツィオがカルロッタを殺さずに終わる物語か。で、ミケーラが報われる」


 アルフレートは椅子の背にもたれかかり、天井のほうへと視線を漂わせた。図書館の高い窓から差し込む陽の光が、彼の横顔に薄くかかる。


「想像の余地はいくらでもあるね。ロミオとジュリエットだって、ロミオが早合点で先走らなければ、老後に喧嘩する二人が描かれたかもしれないし」


 またお決まりの冗談かとわずかに眉を上げかけたが、私は軽く瞬きをして思い直す。それは一見ふざけているようでいて、確かに的を射ていた。死で終わる物語に対し、もしもの余地を与えるという意味では、これほど明快な例もない。


「そう。まさにあなたの言う通りよ」


 やっぱりこの人、妙なことを考えるわね。そう改めて思う。常識的な発想ではない。でも、だからこそ私はこの人と考えてみたいのだ。決まりきった筋書きの向こうを見ようとするその目が、私に自由を与えてくれる。

 机の上には、まだ何も書かれていない紙が広がっている。その余白の向こうには、どんな未来でも描くことができる。

 私たちは視線を落とし、そこに何を描き込んでいくか思考をめぐらせた。

 カルロッタが生き延びる道を、ファツィオが立ち止まれる瞬間を、ミケーラの愛が報われる結末を。誰かが誰かを想うとき、それが破滅ではなく、希望の形で終われるように。

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