あなたとなら描ける夢
園遊会の賑わいが夢のように過ぎ去った翌日、学院はいつになく静かだった。正午を過ぎてもまだ朝靄の名残のような薄曇が空にとどまり、噴水の水音さえ霧の向こう側にあるように遠い。晴れ渡った昨日の庭園とは対照的に、回廊には淡い影が落ち、歩く人の気配もまばらだった。
私はひとり、図書館の窓際に身を沈めていた。背の高い窓から差し込む光はぼんやりとしていて、机の端に置かれた蝋燭だけが頼りない光を落としている。
机の上には、先ほどから何度も開いては閉じたページが広がっている。分厚い植物図鑑に指先を滑らせながら、私はページの端をそっとつまみ、もう一度同じ箇所を見返した。開かれているのはペチュニアの項。繊細な花弁の挿絵の隣に、整った活字体でこう記されている。
——“あなたと一緒なら心がやすらぐ”
昨日の花冠に編まれていた、あの花のひとつ。優しく控えめで、けれど胸に残る香りのする、あの白い花。
その花に、こんな意味があったなんて。花言葉に目を留めて、私はいかにもアルフレートらしいと思った。こうして伝えられるのは少し照れくさいけれど、穏やかな言葉は彼の笑顔も思い出させる。
けれど視線をそのすぐ下へと滑らせたとき、胸の奥が跳ねた。記されたもうひとつの意味を何度も読み返しては、ページを押さえる指先に無意識に力を込めていた。
——白のペチュニア、“淡い恋”
……そんな。
いや、違う。違うはず。これはたぶん偶然で、深い意味なんて、きっとない。でも、もし万が一、ほんの少しでも、そういう気持ちが混じっていたのだとしたら——。
まるで、告白みたい。
そんなふうに考える自分が信じられなかった。けれど、まったくの的外れだと笑い飛ばせるほど簡単でもない。
問いかけるようにページを見つめ直しても、本は何も答えてくれない。活字のひとつひとつはひどく整然としていて、妙に落ち着き払って見える。
いくつかめくった先のページには、紫のベルフラワーの挿絵。細く伸びた茎に、小さな釣鐘のような花が咲くその姿の下には、こうあった。
——“感謝”“誠実”“大切な人”
そんなふうに想われている、と想像しただけで、炎が灯るような熱が広がった。現実味なんてないのに身体だけが先に反応してしまったみたいで、そんなはずない、と理性が追いつくまでほんの少し間があった。
そして最後に確かめたのは、あの野草だった。屋敷の庭でよく見かけた、子どものころから馴染みのあるぺんぺん草——正式にはナズナと呼ばれる花。
——“あなたに私のすべてを捧げます”
私はページを閉じられなくなっていた。目を伏せたまま、しばらく動けずにいた。指先がわずかに震える。図書館の空気は変わらず静かで、蝋燭の炎だけが小さく揺れていた。
……本気で、受け取っていいものなの?
思い返せば、あのときアルフレートは何も言わなかった。想像にお任せするよ、と肩の力の抜けたいつもの調子で笑っただけ。園遊会での戯れ、ほんの冗談。ちょっとした悪戯心で手渡された、からかいの延長線。そう言われれば、そちらの方が彼らしい。
でも。
こんな、勘違いをさせるようなことを、あの人がほんとうに冗談でやるのかしら。
その問いが胸を掠めた瞬間、私はまた本のページへと視線を戻していた。
ナズナ——“あなたに私のすべてを捧げます”。
大げさすぎると、まさに分かりやすい冗談だと言ってしまえばそれまでなのに、どうしてこんなに心の奥に触れてくるのだろう。
アルフレートは誰かの気持ちを弄ぶような人じゃない。真っ直ぐで、誠実で、からかい交じりの言葉を口にするときでさえ、根っこにある温かさを隠せない人だと知っている。
だからこそ、余計に迷ってしまう。嬉しくて、困って、怖くて、なのにどこかで期待してしまう。
答えの出ない問いは、自分の中にだけ響いては消えていく。重ねられた花冠、言葉にしなかった意味、黙って差し出された贈りもの。私のなかでそれらが少しずつ重なり合って、気づけばひとつの輪を描こうとしていた。
もし……もしも冗談じゃなかったら。
そう思った瞬間、自分の鼓動がひとつ強く脈打つ。
「……冗談じゃなければ、いいのに」
息に紛れるように落ちた声を、自分で慌てて閉じ込めた。けれど、ほんの一秒でもそれが本心だったと気づいてしまった今、もう知らないふりはできなかった。
ひとりきりの静かな午後。図書館の高い天井に向けて放たれた言葉は、どこにも届くことなく、静寂の中に溶けていく。
……はずだった。
けれどそれは、すぐに背後からかけられたひと声によって、すべて打ち消されることになる。
「何が冗談じゃなければよかったの?」
背筋にひやりとしたものが走った。私は弾かれたように顔を上げ、音もなく振り返る。抱えた何冊かの分厚い書物に、無造作にかけた指。
……いつも通りの気配で立っていたのは、よりによって、今一番会いたくなかったその人。
「な、なんでもないのよ。ひとりごとよ」
いつもと変わらない調子で返したつもりだったのに、声は震えていた。私は目を逸らし、机の上の本を咄嗟に閉じる。指先に力が入って、ページの端がひしゃげる音がした。
アルフレートは、そんな私を見てもすぐには何も言わず、軽く眉を上げただけだった。それを受けて私は、ようやく自分の頭が回りはじめたのを感じる。
そうだった。この人、図書館に入りびたっているんだった。
毎日のように通ってきては、分厚い本を何冊も積み上げて読みふける。ここは彼にとっては庭のようなものだったのだ。うかつだった。こんなところで感傷に浸るなんて、考えてみれば最悪の選択だった。
アルフレートの視線がふと、私の手元に落ちた。本の表紙に書かれた文字に気づいたらしい。私はすぐにそれを察し、咄嗟に腕を伸ばして、机の上の本を覆うように押さえる。
だけど、もう遅かった。彼の目が、わずかに驚きと気づきの色を帯びたことを、私は見逃さなかった。
熱が頬にどうしようもなく上がっているのを自覚しながら、じわりと滲んでくる羞恥に指先まで気が抜けなくなっていく。心臓の音がやけに耳につく。もう本の題名を見られたとわかっていながら、それでも隠さずにはいられなかった。
——季節の植物と花言葉。
なんて、わかりやすい選書だろう。これ以上ないほど、無防備だった。
……元はと言えば、あなたがあんな花を渡したせいよ。心の中でだけ、思い切り恨み言をこぼしてみる。でも口には出さない。出せるわけがない。こんなにも顔が熱くて、こんなにも動揺しているのに。
アルフレートは何も言わなかった。いつものように軽口を叩くでもなく、からかうような微笑みを浮かべることもない。
それから彼は何の前触れもなく、腕の中に抱えていた数冊の本を机の端に置いて、私の隣にある椅子を引いた。
私は一瞬、反射的に顔を上げかけて、すぐに目を逸らした。意味のない動作だとわかっていたのに、それでもどうにか平静を装いたくて、視線を窓の方へ逃がす。
椅子の脚が床を滑るかすかな音。そして、すぐ隣に感じる温もり。袖口にすこし触れる距離で、彼がそこに座ったのだと、肌でわかる。距離は近すぎず、けれど離れているとは言えなかった。
「花冠のことなら」
ぴくりと唇の端が勝手に動いて、息が止まる。やっぱり、わかっていたのだ。何を読んでいたのか、何を調べていたのか、全部。彼はあのまなざしの奥で、もうとっくに私の心の形まで見抜いていたのかもしれなかった。
「冗談じゃないよ」
低くて、穏やかで、それでいて迷いのない声だった。言葉を探そうとしても、のどの奥が詰まったようになって、声が形にならない。言葉を失った私は、ゆっくりと顔を上げた。ほんの少しの勇気をかき集めて、彼の表情を確かめた。
「僕は、君のそばにいたいと思ってるよ」
指先がひどく冷えていた。なのに、頬だけが熱い。アルフレートのまなざしは真っ直ぐで、もう逃げ場なんてどこにもない。
そっと目を伏せ、唇を少しだけ結んだ。静けさの中で、蝋燭の炎が小さく揺れている。
「……わたし」
光と影のゆらぎの中で、頭の隅から隅まで必死になって言葉を探した。喉の奥まで上がってきた想いはあまりに熱くて、それなのに形になってはくれなかった。
「私は……」
アルフレートから視線を逸らそうとして、逸らしきれずに、膝の上で重ねた自分の両手を見つめる。指先はひどく冷えて頼りなく、力を込めても感覚が戻ることはない。
言葉を探していた。自分の気持ちにもっともふさわしい形を、必死で、焦りながら、探していた。
けれど、思考の海のなかで、私はついぞ言葉を見つけられない。たくさんの想いが押し寄せるばかりで、自分の本当の気持ちすら見分けがつかなくなってしまう。
次の瞬間、私は思い切って顔を上げる。怖かった。でも、もう逃げてばかりではいられないと思うのだ。
真正面から、アルフレートの瞳を見つめた。深く澄んだ、灰茶色の瞳。光を吸い込みながら、どこまでも真っ直ぐにこちらを見つめていた。
そのとき、不思議と胸の奥が静かになった。波打っていた思考が、さざなみとなってふと止まる。まるで扉が開かれるように、目の前にたくさんの思い出が翻る。
勉強を教えてもらった日のこと。ノートに差し込まれた赤いインクと、笑いをこらえるような横顔。一緒に民衆歌劇を観に行った日。赤いショールの下で、肩を並べたときのこと。
気づけば一緒にいる時間が増えていた。気づけば、彼といる自分を心地よく思っていた。
この図書館で初めて出会った日のこと。机の端から私を見つめて、本の在処を教えてくれた。
あのときから、彼はずっとここにいたのだ。私の中に。私の心の中に。
私は今ようやく、自分のなかに確かにある感情に触れた気がした。
飾らなくていい。気の利いた台詞じゃなくてもいい。だからありのまま、この気持ちに素直になろうと決めたのだ。
「私も、あなたに、そばにいてほしいと思っているわ」
それは、胸の深いところに沈んでいた種が、音もなく芽吹く瞬間だった。心の奥にひっそりと降り積もっていた思いが、光のもとに姿を現し、ようやく言葉になった。
「あなたといると、私は前に進もうと思える」
思えば、目を背ける理由なんて、本当はどこにもなかった。ただ怖かっただけだ。触れてしまえば変わってしまう気がして。
わずかな沈黙の中に、思い出が波のように押し寄せる。ときに他愛なく笑い合い、ときに言葉を交わさずとも心が通った日々。花冠を重ねた瞬間の、胸の奥で跳ねたあのかすかな鼓動。
「私の知らない世界を、あなたはいつも見せてくれる。あなたがそばにいるだけで、私はその世界を、逃げずに見てみようと思える」
隣にいるだけなのに、胸の奥に火がともるようだった。どんなに遠い場所も、あなたの声に照らされると、少しだけ近く感じられる。昨日までは想像もしなかったようなことを、当たり前の未来として見ることができる。
「あなたといると、未来や夢の話を、怖がらずに語れるの」
——やっとわかった。本当の私をそのまま受け止めてくれるのは、この人だった。ずっとアルフレートだった。生まれでも、家名でも、立場でもなく、ただ私というひとりの人間を見つめてくれていたのは。
そのとき、アルフレートが小さく笑った。いつものからかい混じりの笑みではなかった。驚いたような、だけどとても嬉しそうな表情だった。
「そこまで情熱的なことを言ってもらえるとは思わなかったな」
思わず、私ははっとして彼を見つめた。先ほどまで自分の言葉を紡ぐことに精一杯だったせいで、こんなふうに返される準備なんて少しもできていなかった。
逸らした視線の先で、自分の耳がかっと熱くなっているのに気づいた。頬が火照っている。声まで、震えている気がする。
「……でも、全部ほんとうよ」
ようやくそう言った声はうわずっていたけれど、アルフレートは笑わなかった。静かに頷いて、それから、とてもやさしい目で私を見た。
「聞いてもいいかな。君がどんな夢を見てるのか」
迷う理由なんて、どこにもない。私の中にはもう、はっきりとした確信があった。この人といれば、私は夢を描ける。心に閉じこめてきた小さな願いを、いまこそ言葉にしてもいいと思えた。
「……明るいオペラを作りたいの。悲劇ではなくて、人が希望を信じて、手を取り合って、明日を迎える物語」
劇場の幕が上がるように、思い描いた未来の景色が確かな輪郭を持っていく。目の前に浮かぶのは、あたたかな光に包まれた舞台。
「私は、そんな舞台に立ちたい。誰かの一日を照らせるような歌を歌いたい」
声にしてみて、自分がどれほどその景色を求めていたかに気づく。頭の中で考えていた夢じゃない。心の奥にずっと、しまい込んでいた願いだった。
「それなら僕は、君を支えるよ」
アルフレートはほんの少し目を細めて微笑んで、迷いのない声でそういった。
「君のそばで、君の夢を守っていたい。君が歩く未来が、安心して進める道であってほしいから」
言葉は、冗談にも慰めにも寄りかからなかった。誰よりも私を見つめ、私の歩もうとする道を信じてくれているまなざし。たとえ私が立ち止まったとしても、振り返ってしまう日があっても、彼はきっと歩幅を合わせてくれるだろう。そういう人なのだと、私はずっと前から知っている。
「……アルフレート」
名前を呼ぶと、胸が熱くなる。今ここにあるのは、偽りのない心だった。誰にも強いられず、ただこの人といると自然と湧き上がる想いだった。
「なに、エリザベート」
アルフレートはいつも通りの穏やかな声色で、私の名前を呼び返す。
「ありがとう」
響いた声は感謝というには幼すぎて、でも黙っているにはこぼれ落ちてしまいそうで、どうしても伝えたかった気持ちだった。私に自由を教えてくれたのはアルフレートで、青い空の飛び方を教えてくれたのも、この人だった。
「あなたと一緒だとね、本当の私のままでいられるの。それって、私にはすごく大事なことなの」
言ったそばから胸が熱くなって、うまく呼吸ができなくなる。ほんの一言なのに、言ったあとで耳まで熱くなるくらい、恥ずかしくて、こわくて、それでも言えてよかったと思った。
私はきっとずっと、こういう居場所を夢見ていたのだ。ただ息をするみたいに素直で、飾らなくても生きられる場所。こうあるべき私じゃなくて、こう在りたいで私で選べる人生を。




