夜空を仰ぎて憧れず
草の上に残る花の香りをあとに、ふたりで噴水を離れて庭園の小径を歩く。遠くからは再び賑わいを取り戻した広場の笑い声がのびてきて、春の光に混ざりながらほどけていった。
人々が談笑する輪の外側をなぞるようにして歩いていたそのとき、私はふと足をゆるめた。トピアリーの影の落ちるあたりに、ひとつの背中が見えたからだった。
背筋を伸ばしたまま、木々の間に差す光を受けて立っているその姿。軽くあたりを見回しながら、何かひとつ思案事を抱えているときのような静けさを身にまとって佇んでいるのは、アルフレートその人だった。
庭園を歩いていたときに一度、彼の姿を見かけたことを思い出す。友人たちと愉快そうに肩を並べていた姿と、マリアンネ嬢と並び立っていたあの姿。彼女に向けた柔らかな眼差しと、ふたりを包んでいた落ち着いた空気。私はその光景から逃げ出すように、クララの手を取って歩き出したのだった。
「まあ、今度はお一人のようですわね。……ちょうどよろしいわ」
私の横でクララがほほえみ、小さく弾む声で言う。目元には期待の光がきらきらと宿っていた。
「わたくしたちの花冠をお見せしに参りましょう?」
花びらの揺れるような軽い足取りで、クララはドレスの裾を揺らしながら歩き出した。その快活な歩みに誘われるようにして、私も数歩あとを追う。ただ、胸の奥にふと差し込んださざ波のようなものが、足をほんのわずかためらわせた。
「アルフレート!」
クララが声をかけたのは、ちょうど彼が木陰から日向に出た瞬間だった。午後の光を受けて、濃紺の正装が控えめに輝き、整えられた前髪が風にそよぐ。クララがぱっと顔を明るくして、ひらりとドレスの裾を揺らして小走りに駆け寄っていく。頭の上の花冠を片手で押さえながら、楽しげな声で続けた。
「今日はわたくしたちの傑作を見ていただきたくて。どうぞご感想をお願いしますわ」
クララが笑顔でそう言いながら身を傾けると、ラナンキュラスとフリージアに、可憐なデルフィニウムが揺れた。アルフレートは陽の光に目を細めながら、まずはクララ、次に私の花冠に目をとめる。小さく口元をゆるめると、小首をかしげるような仕草をして言った。
「ずいぶん華やかじゃないか。花園を頭にのせて歩いてるみたいだね」
その言葉にクララはくすりと笑って、「褒め言葉として受け取っておきますわ」と得意げに返す。褒め言葉かどうかは疑わしかったけれど、私もそばで小さく微笑んだ。
「……まあ!」
そのとき、クララが突然驚いたように声を上げた。彼女の方を振り向くと目を丸く見開いていて、その視線はアルフレートの手元に向けられていた。その様子に誘われるように視線の先を追って、私も思わず目を見張る。
アルフレートの右手に、ひとつの花冠が握られていた。控えめながらも丁寧に編まれた輪には、やさしい白と淡い紫の花が交互にあしらわれていた。丸みのある白の花びらは薄衣のように繊細で、紫の花は釣鐘のような独特のかたちをしていた。よく目を凝らしてみると、その二つに挟まれるようにとても小さな白い花が顔を覗かせている。
私の視線はその小さな輪に釘づけになったまま動かなかった。耳の奥で、自分の鼓動がわずかに早まってゆくのがわかる。けれど言葉を挟むこともできず、ただ黙ってそこに立ち尽くしていた。
「どなたからいただいたのですか? 素敵な花冠ですわ」
クララの声が軽やかにはずんでいた。私は彼女のすぐ後ろで立ち止まりながら、その様子を見つめる。
どんな人が、あの花々を選んだのだろう。ひとつひとつの茎をどう編み込み、どう想いを込めたのだろう。それがなぜこんなにも気になるのか、自分でもうまく説明がつかなかった。
クララの問いかけに、アルフレートは口元にやわらかな笑みを浮かべる。
「いや、いただいたんじゃない。自分で編んだんだよ」
「まあ、ご自分で!」
クララの声がほんの少し高くなる。目を輝かせ、まるで芝居の劇中のように身を乗り出して尋ねた。
「では、それをどなたにお渡しになるのかしら? ねえ、教えてくださいな」
クララは興味津々といった面持ちで、その瞳はまるで次の展開を期待する子どものように輝いていた。
私は心の中で、聞きたくない、と思った。なぜなのかはわからなかった。ただ胸の奥が、またあの鈍い痛みを思い出してしまいそうで、思わず踵を返しかけた——そのとき。
「この花冠は、そちらのお嬢さんに」
アルフレートが笑いまじりに言った。その声に私ははっと顔を上げる。彼の視線はまっすぐ、私に向けられていた。穏やかで、どこか悪戯めいた瞳が、春の陽差しを受けてやわらかに光っている。
「僕から、エリザベートに」
そして彼は一歩、私の方へと歩み出て、そっと花冠を掲げた。白と紫の花々が風にそよぐ。私が動けないままでいると、クララが作ってくれた花冠の上から、もうひとつの輪が優しく重ねられる。ごく短い沈黙のあと、彼は一歩引いて、いたずらをやり遂げた少年のような微笑を浮かべた。
「まあまあまあ……!」
隣でクララがぱっと両手を合わせて歓声をあげた。瞳はまるで星が宿ったかのように輝き、手のひらで頬を押さえながら、まじまじと私の頭を見つめている。
「エリザベート、よく見せて……あらあら、これはつまり——」
言いながらクララはくるりとアルフレートの方に向き直った。目を輝かせたまま問いかける。
「そういうことですのね?」
アルフレートは唇の端を上げて、腕を胸の前で組んでみせた。
「どういうことかわからないけど、想像にお任せするよ」
再びクララが声をあげた。目を輝かせ、花冠を見上げたまま小さく跳ねるようにして揺れている。まるで祝福の鐘でも鳴らしたかのような、晴れやかな歓喜の色が全身から溢れていた。
私はそんな彼女の反応にすこし戸惑いながらも、園遊会の花冠の言い伝えを思い出していた。花冠を贈った相手とは、永遠に縁が続く。
「……これであなたとも、永遠に縁が続くのね」
静かに言葉をこぼす。まさか、この花冠を私が戴くことができるとは思いもしなかった。
こんなふうに、アルフレートから花冠を手渡されるなんて。驚きと、くすぐったさと、喜びに思わず胸を高鳴らせた。
けれどその喜びの影に、私はひとつの違和感に気がつく。この花冠を自分が受け取るとは、ほんの少しも思っていなかったはず。
それなのにどうしてあのとき、誰か他の人に渡されるのは嫌だと思ったのだろう?
頭の奥でいくつもの問いが重なって、それぞれに答えを持たないまま、胸の奥に波紋を描いては消えていく。そんなはずはない、と頭では思う。でも、心は逆らうように静かに揺れていた。
「まあエリザベート、それだけではなくてよ。もう一度、花冠をよく見てみて」
クララがさらに身を乗り出すようにして言った。促されて、私はそっと花冠を両手で持ち慎重に頭から外す。まさか仕掛けでもあるのかと目を凝らして見つめてみるけれど、美しい花々以外には何も見つからない。
「ごめんなさい、どういうことかしら」
「花の選び方に、意味があるのですわ!」
クララが目を輝かせながら、少しばかりもどかしそうに言った。私は花冠を手のひらに乗せたまま、あらためてじっと見つめる。可憐な花びらの白い花、凛とした紫の花、そして、どこか見覚えのある細かな葉を纏った花。けれどどれも見たことがあるような、ないような、曖昧な印象しか浮かんでこない。
「……これだけは知っているわ。家の庭に咲いていたもの。ええと、確か……」
自信なさげに言いながら、私は白い小花のついた細い茎を指さす。眉をひそめて見つめ、それからやっとその名前に思い至る。
「ぺんぺん草ね」
その言葉に、すぐ隣でアルフレートが少しだけ肩を揺らした。いつもの調子で、柔らかく口を開く。
「ナズナと言ってもらえるかな、できれば」
その軽やかな言い回しに、私は思わず目を瞬いた。ぺんぺん草——いいえ、ナズナ。子どもの頃、屋敷の裏庭で摘んでは遊んだあの草花。まさか、これにも花言葉があるのだろうか。
「こんなことなら、エリザベートに花言葉を教え込んでおくべきでしたわ。わたくしとしたことが、大失敗ですわね!」
すクララが頭を抱えるようにして言う。おおげさに嘆くその声に、私は思わずくすりと笑ってしまう。ふと横目をやると、アルフレートは何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。語らないのは、言葉ではなく花で伝えたかったからだろうか。
私はもう一度、花々の輪に視線を戻す。私も確かに知りたかった。この花たちが、どんな思いを託されて私の頭に載せられたのか。
「……ねえ、ナズナにはどんな意味があるの?」
私は花冠を両手の中で大切に抱きながら、正面のふたりを見つめてそう言った。すると、クララとアルフレートがまるで無言の合図でも交わしたかのように視線を合わせる。そして今度は打ち合わせでもしていたかのように同時にため息をついた。
「……ふむ」
「……うーん」
クララが指先で口元を押さえ、アルフレートは腕を組んで首をかしげた。二人してやけに思わせぶりな顔つきで何やら考えている。
「……私、そんなに難しいことを言ったかしら」
私は目の前のふたりを、少し不審に思いながら交互に見つめた。困惑しながら問い返しても、二人は悩ましげに眉を寄せるだけで、それ以上のことは言ってくれそうにない。
「ご自分で調べられたらよろしいのではなくて?」
やがて、クララがやわらかな微笑を浮かべながら、まるでお茶会の話題でも選ぶような軽やかさでそう言った。私は面食らって、思わず言葉を失う。
「そうだね。自分で調べるべきだ」
その隣から、今度はアルフレートの声が落ちてくる。あっさりとした口調で、まるで当然のことのように。
私は驚いてまばたきをした。せめて手がかりのようなものでも教えてくれると思っていたのに。ふたりとも揃ってぴしゃりと閉ざすなんて。
「……それってつまり、絶対に教えてくれないということ?」
問いながら、自分でも呆れるくらい情けない声になってしまったのがわかった。ふたりは目を見合わせてからそろって曖昧な微笑を浮かべただけで、何も言わない。まるで何かの合図でも交わしたかのようにぴたりと黙っている。
私は花の名前すらろくに知らないのに。フリージアやデルフィニウムだって、さっきクララに教えてもらったばかりだった。ぺんぺん草——じゃなくてナズナだけが、唯一わかる名前だったのに。それでどうやって、花言葉を調べろというのだろう。
ちらりとアルフレートを見ると、彼は口元に小さな笑みを浮かべたまま何かを言いかけたのに、結局それも飲み込むようにして黙ってしまう。
「……じゃあ、私が何日かかってもわからなかったら?」
私は目を細めて、二人をじっと見つめた。なんだか試されているような気がして、意地でも一言引き出したくなっていた。
「まあ、わからなくてもそれはそれでいいと思うよ。花冠を贈る意味なら知ってるだろ」
「そんなふうに逃げるのは反則ですわ!」
アルフレートの言葉にすかさずクララが批判を入れる。どちらも結局、はっきりとは何も教えてくれない。
「とにかく。あなたには、自分の力で意味を見つけてほしいのです」
クララが一つ咳払いをしてそう言うと、ふたりは揃って小さく頷いた。けれどその頷きの中に、わずかに愉快そうな笑みがにじんでいたのを私は見逃さなかった。……どうしても、意地悪をされたような気がしてならない。
深く息をついて、そっと花冠を頭に戻す。風が吹いて、白い花弁が揺れる。名前を知らないその花たちは何も語らないまま、頭上で静かに春風にそよいだ。
そのときだった。
「マリアンネお姉様、どうぞわたくしの花冠を受け取ってくださいませ!」
突如、私の背後——広場の向こうから張りのある声が響き渡った。クララが「まあ」と小さく息を呑むのが聞こえて、私は顔を上げてそちらを振り向く。
見れば、噴水の向こうでひときわ華やかな人の輪ができていた。笑い声と歓声の中心には、萌黄色のドレスをまとったマリアンネ嬢がきらびやかな光をまとって佇んでいる。
その腕にはすでにいくつもの花冠が抱えられていて、周囲の生徒たちが次々と彼女に花の輪を手渡していた。
受け取るたびにマリアンネ嬢は上品な微笑を浮かべ、ひとつひとつ丁寧に感謝を述べている。その所作のすべてが洗練されていて、まるで舞台の一幕のように完璧だった。
「今年の主役は、やはりマリアンネ嬢に決まりですわね」
隣でクララが感心したようにそう言った。私は笑って、小さく頷く。まばゆいほどの歓声が響き、春の光が揺れるなか、マリアンネ嬢はまさしく舞台の中心に立つプリマ・ドンナのようだった。そんな光景を眺めながら、私は心の中でそっと思う。
——私は主役にはなれないけれど、それでもいい。視線を集め、誰からも愛を注がれる一番星のような存在にはなれなくても。夜空の片隅、眩い恒星に紛れる星でも、美しい花の下に身を潜める野草のようでも、私はこうして、大切な人の傍らでそっと寄り添うことができる。
誰にも知られずとも、たしかにこの春の日に私はここにいて、ふたりと笑い合った。名を知らぬ花のひとひらに託された思いを胸に、私は空を仰いだのだ。




