花は星にはなれずとも
「ここですの。ほら、見てくださいまし。誰もいらっしゃらないでしょう? まるで秘密の園みたい」
クララに手を引かれてたどり着いたのは、庭園の中でもひときわ静かな一角だった。噴水のそば、木立に囲まれた小さな空間。彼女の言葉のとおり、そこはまるで偶然見つけた宝物のような場所だった。
左右には色とりどりの花が咲きこぼれ、それぞれに異なる香りと気配を帯びた花々が咲きそろっている。白、淡紫、薄紅、そして深い青。春という季節がそのまま姿を持ったかのような光景の中には、名前を知っている花もあれば、見たことはあるけれど思い出せないものも混じっている。
「あ……これ、スイートピーよね?」
私は立ち止まり、道を彩って咲いている薄紫や桃色の花に指を伸ばす。ドレスのようにひらひらとした形だけは記憶にあった。
「ええ、そうですわ。“優美”と“永遠の喜び”という花言葉があるんですの」
クララが隣でまるで物語の一節でも語るように言った。その声音は穏やかで、春の風に紛れるほど柔らかい。
「これはデルフィニウム。“清明”と“あなたは幸福を振りまく”ですわ。青い花びらが空を映したようで……好きな花のひとつですの」
クララはそっと指先で目の覚めるような華やかな青を撫でた。その隣には小ぶりなマーガレットが揺れている。
「こちらは“心に秘めた愛”と“誠実”……。あちらに咲いているのはレースフラワー、“可憐な恋”。ああ、それから——」
まるで庭園そのものが記憶の庭と繋がっているかのように、クララは次々と花の名前と花言葉をすらすらと語っていく。花に詳しい人が庭を歩くと、こんなにも景色が豊かになるのだと初めて知った。
「詳しいのね。すごいわ」
「ええ、お花の図鑑を読むのが好きで。花言葉って、可憐な花に美しい想いが詰まっていて、とても素敵ではなくて?」
うっとりと夢見るように、クララは鮮やかな花のひと房に目を落としながら語った。春の陽を浴びたその横顔は、まるで本の挿絵の中から抜け出したように見える。
「言葉を添えて花冠を編んだなら、きっと素晴らしくロマンチックでしょうね」
「……それなら、クララにはこの花が似合うわ」
私はふと道端の花のひとつに目を留めて、手のひらで指し示す。ふっくらと幾重にも重なった花弁がやわらかな光を透かし、風に揺れるたびにふわりと膨らむ。
「ラナンキュラスよね? 花言葉には詳しくないけれど、いつか読んだ本で見かけたの。……“あなたは魅力に満ちている”って」
はにかむようにそう言い添えると、クララはぱちりと瞬きをしてから、頬に淡い紅をさして微笑みを浮かべる。
「まあ……まあ。エリザベート、それは少し——照れてしまいますわ」
そう言いながら嬉しそうに足元の花に視線を落とした彼女の表情に、私も微笑みを返した。足元には背の低い草花が群れて咲き、小道の脇には色とりどりの花が列を成して広がっている。どの花も摘むのが惜しいほど愛らしかったけれど、クララはしゃがみ込んで、そっと茎の根元を摘み取る。
「せっかくですもの、今日の思い出にぴったりの花冠を作りたいですわ」
クララは草の上を軽やかに歩きまわりながら、あちらこちらで咲く花に目を留めては、嬉しそうにひとつずつ摘んでいった。その様子に釣られるように、私も花を探しに歩き出す。
まず目に留まったのは、日差しを浴びて透けるように咲いていたラナンキュラス。その花言葉を思い出しながら、クララには清廉な純白がよく似合うと思って、白い花をいくつか手に取った。
すぐそばには、香り高く華やかな純白の花も風に揺れていた。明るい陽射しの中で優しく香るその花はクララの澄んだ声を思わせる気がして、手の内のラナンキュラスにそっと添える。
けれど、白ばかりでは少し単調かもしれない。ふと思い立って、小道の脇に咲いていたデルフィニウムの中から、薄い青の花をいくつか摘んだ。華奢な茎の先に咲くその花びらは、やわらかな色合いの中に凛とした気配があって、まさにクララにぴったりな花だと思った。
そうして戻るとクララはすでに花を集め終えていたようで、噴水の縁に腰を下ろしていた。金の髪に陽が差し込み、編み込みの輪郭を優しくなぞっている。
「まあ、こんなにたくさん」
近くまでいって覗き込むと、彼女の膝の上は色とりどりの花々でいっぱいだった。クララは小首をかしげてにっこりと笑い、「あなたを想って選びましたのよ」と、嬉しそうに両手の花を見つめていた。
私は彼女の隣に腰を下ろし、手に持っていた花をそっと膝の上に並べる。白と青を交互に並べながら、そっと茎を編み込んでゆく。クララも摘み取った花々を順に織り交ぜながら、器用に輪をつくっていた。
風が吹くたびに花の香りが舞い、噴水のしぶきが光を跳ね返した。ぽつり、ぽつりと、ふとした合間に交わされる会話は、春の陽気と噴水の音に紛れて、ことさら穏やかだった。そしてふと、風にそよぐ花を見ているうちに、私はある噂を思い出す。
「ねえ、クララ。花冠を一番多く受け取った方が、今年の園遊会の主役になるのよね?」
私の声にクララが顔を上げたので、手を止めて彼女と視線を合わせる。クララは目を瞬かせて、微笑みながら頷いた。
「ええ、そうですわ。花冠のことはあくまで言い伝えですから、表立って表彰されるということはございませんけれど、主役となった方はしばらくのあいだ注目の的ですのよ」
「去年の主役はどなただったの?」
「ザルツ家のご令嬢ですわ。でも今年に入って婚約が決まったそうですから、今回は花冠を贈る勇気のある方はいらっしゃらないのではなくて? お相手の方もご出席なさっているそうですし」
クララは器用にも花冠を編みつづけながら思案げに続ける。
「そうなりますと、今年は……同学年の子爵家のご令息、あの麗しい貴公子も候補ではありますけれど、やはり一番の本命はマリアンネ嬢でしょうね」
その名前を聞いた瞬間、私は指先の動きを止めた。少し間を置いてから、またそっとラナンキュラスの茎を組み直して、思ったままを口にする。
「マリアンネ嬢は本当に人気者なのね」
言いながら、私はあの赤毛と麗しい立ち姿を思い浮かべた。あたたかな夕陽を思わせる髪色。整った顔立ち。姿勢はどこまでも凛としていて、所作のひとつひとつに無理のない品があった。気取ったところがなく、生まれついたかのような優雅さ。そして、それを支える確かな聡明さ。
「たしかにお美しい方だったわ。身のこなしも洗練されていて、成績も優秀だなんて、誰もが憧れるのもわかる気がする」
私は編みかけの花冠を膝の上にそっと置いて、ぽつりとこぼした。
「あの方のようにはなれそうにないわ」
膝の上に置いた花冠の、まだ結ばれていない茎の先端を指先でそっと弄ぶ。私には目立った美しさも、際立った聡明さもない。
心のうちで、マリアンネ嬢と並び立つアルフレートの様子を思い描いていた。優秀な奨学生として名を連ねる彼と、同じく才能に溢れる女性。二人が談笑する姿はどこまでも自然で、違和感なんてひとつもなかった。
なのに。それなのにどうして、あのふたりが笑い合っている姿を見たとき、あんなにもはっきりと足を止めてしまったのだろう。
見なければよかった。知りたくなかった。ほんの一瞬、そんな子どもじみた思いまで湧き上がってくる。
私は小さく息を吐き、花冠を手元に寄せ直した。ひときわ涼しい風が頬をなでていっても、心のざわめきはいまも消えないままだった。
「……花は星にはなれずとも、夜空を仰ぎて憧れず」
そのとき、隣で花冠を編みつづけていたクララがふいにそうつぶやいた。私は顔を上げ、彼女の横顔を見つめる。クララの指は止まることなく、器用に花々を編み上げている。
「わたくしの好きな詩人の言葉ですの」
手を止めないまま微笑んで、彼女は続けた。
「花は星にはなれずとも、夜空を仰ぎて憧れず。星もまた、地を照らす花の香に羨みを抱かず」
花冠の輪に彼女は小さなスミレをそっと差し込んだ。あざやかなミモザが揺れ、そのかたわらで名前の知らない白い花がひっそりと香る。
「マリアンネ嬢も素敵。でも、あなたもまた、あなたらしくてとても素敵。誰かの光になるということは、必ずしも夜空の星のように輝くことではありませんわ」
私は返す言葉を持たず、ただ彼女の横顔を見つめた。春の日差しの中で、クララの微笑みは一輪の花のように、揺るぎなくそこにある。自分が思っていたよりもずっと深いところで、何かが静かに揺れた気がした。
たしかに、私はマリアンネ嬢のようにはなれない。けれど、なろうとする必要が本当にあるのだろうか?
クララの手元で動いていた指が、ふと止まった。ひときわ細かな編み目にそっと指を添えて、彼女はその輪を持ち上げる。淡い金の光に包まれた午後の空の下で、花冠の輪郭がやさしく浮かび上がった。
「エリザベート、これをあなたに」
そう言ってクララが差し出してくれた花冠は、まるでこの春の一片をそのまま写しとったように美しかった。
可憐なミモザがいくつも連なり、ところどころに添えられた白い小さな花が清らかさを添えている。編み込まれた紫のスミレは控えめながらも凛とした印象を放ち、花々の調和のなかにひそやかな強さを潜ませていた。
「ミモザの花言葉は“友情”と“優雅”ですの。そして、スミレは“謙虚”と“誠実”。カモミールは、“逆境で生まれる力”」
クララは優しく目を細め、私の頭の上にそっと花冠を載せた。
「あなたにぴったりだと思って、選びましたのよ」
私はふと息を呑む。頭上の花々の重みに、ことさら心が満たされる思いがした。香り立つ春の冠に、ありがとう、という言葉すらしばし見つからなかった。
視線をそっと自分の手元に落とす。編みかけの花冠は、最後の一輪を待っていた。私は膝の上のデルフィニウムの花を取り上げる。淡い青のひらめきが風に揺れ、その繊細な花びらがほんのかすかに震えた。
「……私も、クララに似合うと思って選んだわ」
そう言いながら、その一輪を輪の端に巻き付け、編み目に茎を通す。ついに輪は閉じられ、花冠が出来上がった。
ラナンキュラス。まろやかに膨らんだ花弁がいくつも重なり合うように咲き誇るその花は、その可憐な見目だけでも、クララの魅力をそのまま映しているかのようだった。私は花冠をそっと差し出しながら言う。
「ラナンキュラスの花言葉は、“あなたは魅力に満ちている”。昔読んだ本で覚えたわ」
私の言葉に、クララは少し目を丸くして唇をほころばせた。
「それから、デルフィニウム。……“あなたは幸福を振りまく”。さっきクララが教えてくれたでしょう?」
私はさらに目を落とし、花冠のなかの、白く清らかな花にそっと目をとめる。
「でもこの花の花言葉は知らないの。上品で可愛らしい雰囲気があなたに似合うと思って選んだのだけれど……教えてくれる?」
言って、クララの瞳を見つめると、彼女は笑ってやさしく頷いた。
「フリージアの花言葉は、“親愛の情”ですの」
私は目を見開き、それから、自然と微笑んでいた。
「まさに、私からあなたへの気持ちだわ」
春風が、ふたりの花冠のあいだを抜けてゆく。ミモザがそよぎ、スミレが甘く香り、そしてフリージアが優美に咲いている。花は言葉では言い尽くせない心のなかを、雄弁に語って伝えてくれる気がした。
私はクララの瞳を見つめながら、言葉のかわりに、花冠をその頭へそっとかぶせた。華やかなラナンキュラスと可憐なフリージア、そして淡い青のデルフィニウムに飾られたその横顔は、春の陽ざしのなかにきらめいて、まるで夢に描いた挿絵のように美しかった。
「エリザベート」
ふいに名前を呼ばれて、私はゆっくりと瞼を見開いた。彼女はやさしいまなざしでこちらを見つめていた。春の日差しを受けて、花冠が金の光を帯びている。
「ずっと一緒にいましょうね。花冠の言い伝えの通りに。わたくし、あなたとこの先も、ずっと仲良しのままでいたいのです」
花にも似た眼差し。揺るぎのないあたたかさを宿した声。言葉は誓いのようでもあったし、告白のようでもあった。陽光の淡い輝きの中で、クララの微笑はどこまでもまっすぐで、ほんの少しも陰りを含まない。
「……ええ、もちろんよ」
私はクララの手をそっと取った。その手はあたたかくて、指先から鼓動が伝わってくるようだった。もう片方の手で、自分の胸元を軽く押さえる。そこに芽吹いた感情が、これから先もゆるぎなく根を張っていけるようにと願いながら。
「私の一番の親友はあなた。あなただけよ」
言い終わらないうちに、クララが静かに笑った。そのとき、春風がまたやってきて、ふたりの花冠をそっと揺らした。ミモザがそよぎ、デルフィニウムがきらめき、フリージアが静かに香る。空は限りなく澄み、陽光はあたたかく、私たちの影は噴水の下に寄り添うように落ちていた。




