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花冠の言い伝え

 学院に戻ってからの日々は、あわただしくもどこか懐かしい。講義、生徒たちの笑い声、図書室の静けさ。すべてが去年の続きのようでいて、少しだけ違っていた。私もまわりの誰かも、知らないうちに少しずつ変わっている。そういう変化を感じ取ることに今の私は敏感だった。


 午後の講義を終え、クララと並んで寮への道を歩いていた。石畳の道はひびひとつなく、両側には春の花がそっと顔をのぞかせている。木立の間を抜ける風にはまだ冷たさが残っていたけれど、日差しはあたたかくて、スカートの裾が軽やかに揺れた。


「……今日の王国史、ほんとうに難しかったわね」


 しかし、春のぬくもりに心が弛む暇もないほどに、三年生の講義は容赦がなかった。私は鞄を持ち直しながらつい口に出してしまう。するとクララもちょうど同じことを考えていたらしく、小さくため息をついてから苦笑する。


「ええ……先生のお話、理解はできても、頭の中で整理するのが追いつきませんわ」


 私は頷きながら少しだけうつむいて歩いた。王国史の講義は去年までは年表と事件の暗記が中心だったけれど、三年生になってからは、なぜそれが起きたのか、誰がどう動いたのか、そしてそれが何を変えたのかを論理立てて学ぶよう求められる。歴史をただなぞるのではなく、そこに通じる理由や背景を読み取らなければならない。


「わたくしたち、まだまだ勉強が足りないのかもしれませんわね」


 クララがわかりやすく落ち込んだ様子で肩を落とすので、私は咄嗟に口を開く。


「でも前よりは、私たちずっと成長したと思わない?」

 

 意識的に声の調子を明るくして、少しだけ歩幅を広げる。背筋を伸ばして言えば、どんな言葉でも少しは前向きに響くような気がした。クララは「まあ」と小さく声を上げ、それからくすくすと笑って目を細める。


「たしかに。去年のわたくしたちときたら、講義のあとに右往左往していましたものね。今ではノートをまとめる余裕くらい、ちゃんとありますもの」


「この調子なら、今年の終わりには私たちの成績は驚くほど上がっているかもしれないわ」


「それはそれは。アルフレートが大喜びしそうですわね」


 クララの口ぶりはからかうようでいて温かく、私はつられるようにして声を立てて笑った。春の風が、髪をひとすじ揺らして通り過ぎていく。ささやかな会話を交わしながら私たちは寮の扉をくぐり、女子寮の三階にある二人の部屋へ向かう。階段を登り切り廊下を曲がると、扉の前に大きな包みがひとつ置かれていた。


「あら……これは?」


 クララが扉の前で足を止め、しゃがみ込むようにして包みを手に取った。その仕草に私も続いて歩を止め、視線を落とす。

 廊下の板張りの床の上に置かれていたのは、丁寧に布で包まれた大型の荷物だった。紺色のしっかりした布で全体が覆われ、端は細い紐できちんと結ばれている。


「どなたからでしょうか。宛名は……」


 クララが布の隙間から添えられた荷札を引き出す。私は身を乗り出し、そこに記された文字をのぞき込んだ。

 そこには、私の名前が見慣れた手書きの筆致で記されていた。その書きぶりだけで、差出人が誰なのかはっきりとわかる。


「……母からだわ」


 その一言を口にしてから、私は改めて荷物の大きさに気づいた。抱えるには少し大きすぎるし、布の張り具合からして中身も決して軽くはなさそうだった。思わずクララと顔を見合わせる。


「持てるかしら?」


「ふたりなら大丈夫ですわ」


 クララはそう言って、包みの片端を持ち上げた。私も反対側をそっと支え、扉を開けて部屋の中へ運び込む。机に載せるには大きすぎるし、ベッドの上に置くわけにもいかない。私は視線を巡らせ、部屋の中央、陽のよく当たる絨毯の上を選んでそっと下ろした。

 小さく息をついて、改めて包みの全体を見下ろす。紐でしっかりと留められた布包みは、どう見ても一着や二着の衣服にしては大げさすぎるように思えた。


「……なんの荷物かしら。春物のドレス? 去年のものでも、まだ十分着られるのに」


 そんなことを口にしながら、膝をついて包みの紐をほどく。結び目は丁寧にきつく締められていて、布も厚地の上質なものだった。紺色の布を少しずつ外していくと、その下からリボンのかけられた箱がひとつ、上等な贈り物のように現れた。

 淡い藤色の箱は傷ひとつなくつややかで、蓋の中央には金の箔押しで店の名が入っていた。その文字を見た瞬間、思わず息を止めてしまう。


「……これ、まさか」


 そこには、王都でも名の知れたモード商が営む高級仕立て屋の名前が記されていた。学院の令嬢たちの間でも、ひときわ洗練された装いとして話題にのぼるあの店。格式と流行の狭間で巧みに仕立てられるその衣装は、ひと目でそれとわかる風格があると聞いている。


「エリザベート……もしかして、園遊会のドレスじゃありませんこと?」


 箱を前にして、クララが目を輝かせながらそう言った。園遊会——その響きに、記憶がぱっと花開く。三年生になった私たちが今年から参加できる行事。

 それは王立エーレ学院の生徒にとって、一種の通過儀礼のようなものだと聞いている。学院の広大な敷地の庭園に、白いテーブルクロスをかけたテーブルがいくつも並べられ、色とりどりの飲み物と軽食が立食形式で振る舞われる。

 庭園には音楽隊が招かれ、演奏が春風に乗って流れる。生徒たちは思い思いの装いで社交の場を楽しむのだという。教職員や上級生だけでなく、理事や学外の貴族たちも多数招かれ、まさに一大行事と呼ぶにふさわしい催しだった。


「開けて、ご覧になってみて」


 クララがそっと促す声に、私は箱の中央にかけられた銀のリボンへと手を伸ばした。きゅっと結ばれていたそれを慎重に解き、蓋を持ち上げる。新しい布の匂いと香水の甘さを混ぜたような、不思議に高貴な香りが広がる。


 中に納められていたのは、まばゆいほどに白いドレスだった。


 それは思わず息を呑むほどに繊細で、見惚れてしまうような美しさを備えていた。スカート部分には光を透かすほど柔らかなシルクのシフォンがふんだんに使われ、重なる三段のフリルが花びらのように軽やかに揺れている。

 首元は広く開いていて、肩周りには薄布が優しく重ねられ、まるで童話に出てくる羽衣のようだった。そこから流れるように続く袖は肩から先で広がり、華やかなフレアスリーブが風をまとうように伸びている。

 胸元には大きなすみれ色のリボンがひとつ、柔らかな生地に凛とした彩りを添えていた。同じ色合いの布が腰に巻かれ、背中ではもうひとつのリボンとして結ばれている。控えめでいて印象的、華やかでありながら清楚なその装いに、しばらく言葉を失ってしまう。


「まあ、なんて素敵な……!」


 クララが感嘆の声を漏らすのと同時に、私はドレスの布地をそっと撫でて、その質感に指先で触れる。まるで朝露をまとった羽のように、柔らかく透き通るような感触。色味は純白に近く、淡く光を返して、箱の中に柔らかな明るさを漂わせていた。


「やっぱり、園遊会のドレスですわね」


 嬉しそうな声でそう言ったクララは、私の隣に膝をつき、箱の中をのぞき込んでいる。ふわりと笑みを浮かべたその顔には、歓喜と期待の気持ちがありありと浮かんでいた。彼女の言葉を聞いて、私は改めてドレスに視線を戻す。たしかに、これは特別な場にふさわしい一着に思える。


「……私が、このドレスを?」


 気品ある仕立て。堂々としたシルエット。肩口にふんわりと重なる布の流れは、少女というより、すでに一人の令嬢として完成された姿を求めている気がした。口にした戸惑いは小さな声だったけれど、すぐ隣にいたクララにははっきりと聞こえたらしい。


「ええ。あなたにこそ、ぴったりですわ」


 迷いなく言い切るその言葉に、私は何も言い返せなかった。箱の中に眠る純白のドレスはまぎれもなく上質で、格式ある仕立て屋の名が金で箔押しされている。

 それが意味するものはよくわかっていた。これはきっと、家の名にふさわしい姿を——社交の場に出る伯爵家の娘として、あるべき姿を求めて届けられたものだ。

 ふと、ドレスの胸元にあしらわれたすみれ色の大きなリボンに視線を落とす。深く澄んだ紫の色は気品に満ちていて、着る者を選ぶように思えた。


「園遊会の日は、目一杯おめかしをしなくてはいけませんのよ」


 クララはそんなふうに言って、私の肩に手を添えた。「おめかし?」と私はその言葉を繰り返してから、顔を上げた。


「園遊会には言い伝えがありますの」


 私は首を傾げる。クララは楽しそうにうなずいてから、少しだけ声を落として、ささやくように続けた。


「園遊会の日に手作りの花冠を贈った相手とは、永遠に縁が続くんですって。けれど、贈れる相手は一人だけ。誰に贈るかがとても大切なのです」


 その言葉の響きを確かめるように、彼女は手を胸にあてて言い添えた。私は思わず目を見張る。園遊会にそんな言い伝えがあったとは、いま初めて知った。


「そして、その年にいちばん多く花冠をもらった生徒が、その日の主役になりますの」


 そう言うとクララは立ち上がり、くるりと小さく一回転した。空色のスカートが花のように広がる。くすぐったそうに笑いながら、両手を顔の横に添えるようにして「どうしましょう、わたくしが主役になってしまったら」とでも言いたげな仕草をする。


「ですから皆さん、毎年たいそう気合いを入れて臨むのですわ。目立つドレスに、目を引く髪飾り。花冠を贈る相手はひとりだけですから、おめかしをして印象に残るのです」


 目を輝かせて語るクララの横顔に、私はつられるように微笑んだ。彼女の所作は生き生きとしていて、言葉のひとつひとつがこの春の陽気と共鳴しているようだった。

 花冠を贈った相手とは、永遠に縁が続く。私は、白いドレスの箱の前に膝をついたまま、その響きを胸の奥で静かに繰り返していた。

 永遠なんて、この年頃の私たちが口にするには少し大げさすぎるのかもしれない。けれどその言い伝えには、確かに心を動かす何かがある。


「……私はクララに贈るわ」


 言い終えた私の心には満ち足りた思いが浮かんでいた。クララはぱちりとまばたきし、そして顔をほころばせる。


「まあ、嬉しいですわ! では、わたくしもエリザベートに差し上げます。そうしてふたり、最高に素敵な花冠を持ち帰りましょう」


 そう言って、まるで宣言するように小さく胸を張る。エーレ学院に入学してから、数えきれないほどの時間を共に過ごし、幾度も励まし合い、笑い合ってきた彼女と、これから先も変わらず隣にいられますように——。そんな願いが、春の光に包まれるように、心の中で静かに芽吹いていく。


「……園遊会、楽しみになってきたわ」


 言葉に出してみると、それは紛れもなくほんとうの気持ちだった。さきほどまでは、この繊細で華やかなドレスに袖を通す自分の姿がどうしても想像できずにいた。それでも今は、クララと二人で並んで園遊会の庭に立つ光景がはっきりと心に浮かんでくる。

 たったひとつの小さな約束が、こんなにも心をあたためてくれるなんて——。


 クララはふわりと微笑み、「それはよかったですわ」と愛らしく声を弾ませた。その瞳に揺れる優しさが、春の陽ざしのようにまっすぐ差し込んでくる。

 窓辺のレースをすり抜けた光が、絨毯にやわらかな模様を描いている。その上に広げられた箱と真っ白なドレスは、春のひかりをまとって、きらきらとまぶしく輝いて見えた。

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