愛があなたを
扉の軋む音を背に受けながら、小屋の中に足を踏み入れた。空気はひんやりとしていて、外気よりは幾分ましとはいえ、吐いた息がまだ白く残る。中は簡素な造りで、四方の壁には何も掛けられておらず、家具らしいものもほとんど見当たらなかった。角に薪が積まれているのと、暖炉がひとつあるだけだ。
中央に敷かれた厚手の布に腰を下ろす。床の冷たさがすぐに伝わってきたが、不快というほどではない。私は裾を整えながら、落ち着かない気持ちでまわりを見渡した。
アルフレートは小さな石造りの暖炉に火を入れると、私の正面に座って、しばらく何も言わなかった。黙ってこちらを見ている。私は視線を向けたが、彼の表情は読み取りにくかった。
「エリザベート」
そのとき、彼が口を開いた。私は返事をしないまま、彼の顔を見た。気安い笑みはどこにもなく、ただまっすぐに私を見据えていた。
アルフレートが私の名前を呼ぶのは久しぶりだった。冬の滞在のあいだはずっと、「エリーゼ」と名乗っている。私の身分を隠すためだったし、彼もそれをわきまえていたはずだ。なのに、今ここで、あえて本当の名を口にした。それが意味するものを、私はすぐに理解した。
「エリザベート、僕の話を聞いてくれるか」
私がうなずいたのを見て、アルフレートは軽く息を吐いた。けれどすぐには言葉を続けようとはせず、視線を少し落とし、足元の床板に目をやった。そのまま、ひとつ、ふたつと間を置いて、ようやく言葉が紡がれた。
「……本当はずっと話そうと思ってた。ここに来る前にちゃんと話すべきだった」
その一言が、ふと胸に刺さるように届いた。短い文のなかに、どれほどの決心が込められているのだろう。わからない。ただ、彼がこれから語ろうとしていることが、容易ならざるものであることだけは、言葉の端々から伝わってきた。
「昨日の夜、君と叔父さんが話してるの、実は部屋で聞いてた」
寝たふりしながら、とアルフレートは言葉の端だけに軽さを滲ませて続けた。それが空気を和らげたいがためのものなのか、あるいは自分の動揺をごまかすためのものなのか、判断がつかなかった。もしかすると、どちらもなのかもしれない。
話すべきだったこと。訪れる前に。そして、話されなかったこと。それを、ようやく話そうとしている。決意にはどれほどの勇気が必要だろう。閉ざしていた扉の前で、彼は今、ゆっくりとその鍵を外そうとしているのだ。
「君が、僕が話すまで待つって言ってくれたとき、情けない話だけど心底ほっとした」
言いながらアルフレートは目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。その静かな仕草のなかに、彼の躊躇と覚悟の両方が見てとれた。
「でも、それでいいのかって思った。君にそんなふうに言ってもらえるほど、僕はちゃんと向き合ってるだろうかって」
私は身じろぎひとつせず、言葉の続きを待った。問いもせず、言葉を挟むこともせず、ただ彼の向こう側を見ていた。そこに立ち現れようとしている思いのひとかけらを、彼の声が形づくるまで、静かに、じっと待った。
「今度こそ、ちゃんと君に話そうと思う。僕の母さんのことを」
そこでアルフレートはようやく、私の方をまっすぐに見た。そのまなざしに、私の胸がひどく脈打つ。小屋の中に雪明かりが差し込み、埃を含んだ冬の光が彼の顔をなぞる。その静けさのなかで私は、なぜか音のない舞台を思い出していた。すべてが静止した一幕、呼吸すらも憚られるような、あの張りつめた時間。
「……母さんは歌が好きだった」
彼の話は、そんな一言から始まった。私はゆっくりとまばたきをして、続く言葉に耳を澄ませる。
「小さいころから歌手になるって決めてたってさ。親に反対されたけど、押し切って家を出たらしい。『あたしは歌うために生まれたの』って言ってたよ。ほんと、気が強くてさ」
懐かしむような笑みが、アルフレートの唇の端にかすかに浮かんだ。彼の目は今この小屋ではなく、ずっと昔の、けれど色褪せない記憶のほうへ向いているのだろう。伸びた指先がかすかに動いて、過去の記憶をなぞるように宙をさまよう。
「王都に出て、酒場で歌ったり、小さな劇場に立ったりして、なんとか食ってたんだって」
静けさのなかに、アルフレートの声だけが響く。森の奥に建てられたこの小屋には、人々も動物の声も届かない。遠くをなぞるように淡々としていた。静けさの奥に、語るべきものの輪郭だけをそっと浮かび上がらせている。私が黙って耳を傾けていることを確認するように、彼は一拍の間を置いた。
「それで、あるとき客の男と出会った。……僕の父親だ」
思いがけない言葉に、私はほんのわずかにまばたいた。父親。あまりにも当たり前の存在なのに、彼の話の中にその名が出てきたのは、これが初めてだったからだ。
「だけどその人は、僕が生まれる前に戦争に行って、それきり帰ってこなかった」
その一言に、私は息を呑む。彼がわずかに声を落としたその一瞬、空気の色が変わったように思えた。声音には感情の起伏らしいものはほとんどなかったが、それだけにかえって重たく響いた。私は思わず、手の中で組んでいた指先に力を込める。
彼が生まれる前の戦争。それが指すのは、先の戦争のことだろう。
17年前、隣国とのあいだで勃発し、地図の国境線を塗り替えた熾烈な大戦。王国が勝利を収めたその裏側で、引き換えに数多もの兵士の命が失われたと聞く。
私の父もその戦場にいた。父は戦場で功を立て、勲章を授与された。だからあの戦争は、我が家では誇らしい歴史として語られてきた。小さなころから、繰り返し聞かされた。勝利の物語として、栄誉とともに記憶されるべき出来事だと。
でも同じ戦争のなかで、アルフレートの父は行方知れずとなり、愛した人のもとへ帰ることはなかった。両親の語る誇らしい過去は、目の前の人から父親を奪った。たったひとりの、かけがえのない人を。
「父親の顔は知らないけど、母さんはよく言ってくれた。お前は望まれて生まれた子、愛がお前をここに連れてきた、って」
私は無意識のうちに、彼の顔をじっと見つめていた。彼の目の奥に悲しみの色は見当たらず、穏やかな光が揺れているだけだった。
「だから、寂しいと思ったことはあっても、不幸だとは思わなかった。母さんはいつも歌ってた。歌ってるときは、どんな日も晴れて見えた」
私は彼の言葉に心を傾けながら、いつの間にか息を潜めていた。彼の語る世界には、苦しみや哀れみは混じっていない。愛する人に見守られ、支えられた日々の輝きが淡く揺れている。
愛されることの意味を、その言葉の端々に見た。彼がそうして母の歌声に守られて育ったことを、私は羨ましいとさえ思った。
「病気になったのは、突然のことだった」
目を伏せるでもなく、淡々と、けれど丁寧に、言葉が継がれていく。私はひとつひとつを胸の奥で受け止めながら、息を詰めるようにしてその先を待った。彼が何を語るのか、わかっていた。
「最初はただの風邪だって言っててさ。僕もそう思ってた。でも咳が止まらなくて、食べられなくなって、それからはあっという間だった」
私は何も言えずに、ただ彼の言葉の続きを待った。母の死を語る人に向かって、何を言えばいいのだろう。胸の内にどれだけ言葉を探そうと、答えは見つかるはずもない。
アルフレートはふと視線を宙にさまよわせる。何かを見ているわけではない。けれどその目の先にあるのが、今ではもう手の届かない記憶の一角であることは、言葉にしなくても伝わった。
「最後の夜、母さんが僕の手を握って言ったんだ。お前はなりたいものになれる、望むものはなんでも掴むことができるって」
彼はそこまで言って、少し間を置いた。私は小さく息を吸って、それを胸の奥にとどめた。その言葉を、アルフレートは何度思い返したのだろう。
「聞いたときはよく意味もわからなかったよ。今だって、自分が何になれるかなんて正直わかってない」
私は目を伏せて、重ねた自分の手にそっと目をやった。誰かの言葉に背を押されて、自分の足で歩いてきた彼のことを思う。
「でも、母さんの言葉に応えたいって思ってる。胸を張って生きられる自分でいたいんだ」
言葉を終えたあと、アルフレートはわずかに息を吐いて、背を壁に預けた。
「母さんとの話は、これでおしまい」
その一文で、語りは途切れた。アルフレートはそれ以上、何も付け加えなかったし、表情も変えなかった。語るべきことは、もうすべて語られたのだとわかった。
「……そう」
私は目を伏せ、ひと呼吸のあいだを置いてから口を開いた。そのあとの言葉は、ほんの少し遅れて唇にのぼった。
「話してくれて、ありがとう」
ただそれだけを伝えた。何か他のことを言いたい気持ちもあったが、今はそれ以上の言葉を選ぶ必要がないように思えた。
少しのあいだ、ふたりの間を沈黙が通り抜けていった。しばらくののち、私はそっと視線を彼に戻す。
アルフレートが王立エーレ学院に入った理由を、私はずっと賢さゆえだと思っていた。確かに、それは事実だろう。彼は頭がよくて、努力もしている。けれど、それだけではなかったのかもしれないと、ふと考える。
母親に言われた言葉。なりたいものになれる、望むものを掴める、というその約束。それに応えるために、自分を試すために、彼はあの学舎に来たのではないか。
答えを求めるようなまなざしを向けるのは控えた。彼のことばや思いは、彼だけのものだ。けれど私は、その語られた過去が、今の彼の輪郭を形づくっているのを感じていた。
「あなたが話してくれたこと、ずっと胸に留めておくわ。嬉しいのよ、こうして知ることができて」
言って、そっと窓の外を見やると、また新たに舞い始めた雪の気配を見た。降り積もった地面に、白い粒がさらりと散りはじめている。
小屋のなかは火が焚かれているとはいえ、隙間風が容赦なく入り込む。わずかに身じろぎすると、敷かれた布の下の木の冷たさが体の奥に染みこんでくるようで、私は思わず手を組んで、指先を胸元で擦り合わせた。
それに気づいたのだろう。アルフレートが黙って立ち上がり、自分の着ていたコートをそっと脱いだ。重みのあるその上着を、ためらいなく私の肩にかけてくれる。分厚い生地が肩を包み込んだ瞬間、肌の奥でゆっくりと熱が広がっていくのを感じた。
「……ありがとう。でも、寒いでしょう?」
「僕は慣れてるよ」
その声音には無理のある響きはなかったし、彼は幼い頃からこの小屋に足を運んでいたという。穏やかな声は、納得のいく答えに思えた。私は逡巡して、彼の手元に目を落とした。火にかざすこともなく下ろされたその指先はやや赤らんでいて、冷えているようにも見えた。無理をしていないわけではない、と、理由もなく確信できる気がした。
私は、ゆっくりと自分の肩からショールを外した。深い赤のそれは朝からずっと身につけていたもので、私の体の熱を少しだけ残していた。すぐ隣に座り直し、広げた布の片端を彼の肩に、もう一方を自分の肩にかけて、ふたつの肩をひとつの布の下にそっと包み込む。
「こうしていたほうがあたたかいわ」
彼はすぐには何も言わなかった。けれど、ほんのわずかに肩の力が抜けたように見えた。布の下で触れ合うほどに近い距離に座っているのに、居心地の悪さはない。
「……うん。ありがとう」
並んだ肩に、ほんのわずかなぬくもりが伝わってきた。わずかな距離を空けて感じる体温は、焚き火よりも暖かく、言葉よりも雄弁に私の心を伝えてしまうように思った。
外では雪が、さっきよりも大きな粒で降り続いていた。窓の向こうに見える白い森は、境目も輪郭も曖昧になりはじめていて、このまま降り続いたら、私たちの帰る道はすっかり埋もれてしまうかもしれないと思った。
「……もし道が雪で埋まってしまったらどうしよう」
冗談めかして口にしたつもりだったけれど、思いのほか現実味があって、自分で言っておきながら少しばかり不安になった。
「君となら春まででも退屈しなそうだけど」
彼の声は冗談に違いなかった。こちらをうかがうでもなく、火のほうを向いたまま、なんでもないことのように言っただけだった。
どちらかといえば、そんな悠長な返事ではなく、平気だよとか、大丈夫とか、そういう言葉で軽く笑ってほしかった。たとえ口先だけでも、そのうち雪が止むから安心していいと、はっきり言ってもらえたらよかった。
それなのに、今こうして返ってきた言葉のほうが、ずっと嬉しく思えてしまうのはなぜだろう。自分の気持ちをどこへしまえばいいのかわからなくて、私は火のほうに顔を向けたまま、黙って唇を引き結んだ。
雪は降り続けている。寒さに身をすくめ、ほんの少しだけ身体を寄せると、ショールの下で肩と肩が触れ合った。アルフレートは何も言わなかったが、拒むようすもなかった。
窓の外、森の向こうにあったはずの道も、空と地面の境も、もう見えない。すべてが白く覆われて、世界の輪郭が少しずつ失われていくように見えた。
雪が止めば、また元の生活が戻ってくる。道が開け、小屋を出て、学院に戻る日がくる。それでも今だけは、火が消えるまで、雪が止むまで、このぬくもりの中に身を置いてとどまっていたい。
言葉にできることは限られている。けれど、今ここで感じているすべてが、あとになって何度も胸の奥で繰り返されるだろうという確信は、私の心の中に確かに灯っていた。
この赤いショールの下で感じたぬくもりは、やがて春が来て雪がすべて溶けたあとも、私の胸の深くで生き続ける気がした。名前をつけるにはあまりにも淡く、それでも確かにそこにあるものとして。




