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私の知らない彼のこと

「……姉は亡くなってるよ。もう、ずっと昔のことだ」


 そのひとことは、夜の静けさのなかであまりに静かに落ちた。

 まるで凪いだ湖面にぽつりと投げ込まれた小石のように、音は小さくても、波紋は確かに広がっていく。私の中で、それが意味するものを理解するまでに少し時間がかかった。いや、きっと、理解したくなかったのだと思う。言葉が届いた瞬間に身体がこわばって、目を逸らすことも問い返すこともできなかった。


「……姉は病気で亡くなって……知らせを受けたとき、アルフレートは、まだほんの……」


 ヘルマンさんの言葉は続いていた。しかし私はもう、それを正しく聞き取ることができていなかった。何かが胸の奥で音を立てて崩れていく。

 温かな灯りの中にいながら、吐く息が冷たく感じられた。心の中を占めていたのは、ただひとつの思い。

 ……アルフレートは、どうして言ってくれなかったの?

 あの食卓の笑い声も、歌の稽古の時間も、舞台での彼の優しいまなざしも、すべてが急に遠く、輪郭の曖昧なものに変わっていく。

 この家に来てからもう何日も経っていた。その間、彼女に会える日をずっと楽しみにしていた。

 朗らかな笑顔の人だろうか。歌が好きだと聞いていたから、もしも時間が合えば、一緒に歌えるかもしれない。そんな淡い想像を、心の片隅に描いていた。

 胸が締めつけられるように苦しい。教えてくれていたなら、心のどこかで覚悟ができたのに。何も知らなかった自分が、あまりに愚かに思えた。知らないまま、会いたいなどと思っていた自分がいたたまれなかった。


 それでも、ふと息を吸ったとき——私は我に返った。この問いを今ここでヘルマンさんに向けることも、ましてやアルフレートに向けることが、正しいとは思えなかった。


 あんなにも優しく接してくれていたアルフレートが、なぜ、そのことを教えてくれなかったのか。それがただの偶然だったのか、あるいはまだ話す覚悟がなかったのか。問いただすことはできる。ここで感情のままに、「どうして」と叫ぶこともできた。でも、そうはしたくない。私は彼のことを信じたい。彼のまなざしを、言葉を、心を、私は信じたいと思った。

 だからこそ、その答えは彼の口から聞きたい。そうでなければ、きっと私は納得できない。


「……教えてくださって、ありがとうございます」


 気づけば、私は静かにそう言っていた。火のあたたかさが、今はやけに遠く思える。それでも私は、ハーブの香りにかすかに気持ちを落ち着けながら、深く頭を下げた。


「それ以上のことは……アルフレートが、いつか話してくれると思います。ですから……そのときまで、待たせてください」


 絞り出すように声を出す。小さな声だったけれど、私の中では確かな決意だった。


「……そうか」


 低い穏やかな声が、私に答えた。ヘルマンさんが一つ息をついて、私の目を見据えた。


「君になら、あの子もきっといつか話すだろう」


 その言葉に、私は黙ったまま頷いた。私の中に残るわだかまりが、少しずつ形を変えていく。

 誰かの過去を聞くというのは、決して軽いことではない。それでももし、もしすべてを聞かせてくれる日が来るなら、それまで私はただそばにいたい。

 胸の奥に残る動揺は完全には消えない。それでも、夜の気配の中、深く息をついて私は思ったのだった。




 ◆



 翌朝、目を覚ますと、窓の外には雪明かりが広がっていた。雲ひとつない空のもと、夜のうちに降った新雪が白く世界を包み、朝の光を反射してぼんやりと輝いている。

 私はゆっくりと起き上がり、冷えの残る室内で肩をすくめながら、昨夜のやりとりを思い返していた。今までに感じたことのない思いが胸の底に沈んでいる。けれどそれは今、確かに自分の中で受けとめることができるものだった。

 簡単に身支度を整え、厚手のドレスを纏って髪をまとめる。雪が止んでいるとはいえ、朝は格段に冷える。暖炉の火が落ちていないことに安堵し、小さく息を吐いた。

 廊下を抜けて階段を下りると、食卓にはすでに二人が揃っていた。パンと温かなポタージュの香りが立ちのぼり、三人分の朝食が並べられている。


「おはよう。よく眠れたか?」


 ヘルマンさんが椅子から振り返り、いつもと変わらない落ち着いた声色で私に声をかけてくれる。その向かいに腰掛けたアルフレートが、湯気を立ち上らせる焼き立てのパンにバターを塗りながら、ちらりとこちらを見た。


「おはよう。もうちょっと降りてくるのが遅かったら、全部食べるところだったよ」


 アルフレートはそう言うと、柔らかな笑みを浮かべながらトングを手に取り、バスケットからパンを掴んで私の皿にのせた。香ばしい香りがほんのりと漂い、朝の澄んだ空気と混じり合って心地よく胸に染み渡る。

 ありがとう、と口にして席につくと、私の前にまたひとつパンが差し出された。ほんのりと焼き色のついた丸いロール。


「あの、私、ひとつでいいのよ」


「朝はしっかり食べたほうがいいって、どこかの誰かが言ってた気がしてね」


 私の言葉を遮るように言いながら、アルフレートは真剣な顔つきを装ってふたたびバスケットにトングを伸ばす。彼の手が動くたびに、私の皿の上には新たなパンが着実に追加されていく。


「十分よ。こんなに食べられないわ」


 私は次々に積まれていくパンを一縷の不安を抱えながら見つめた。皿の上にはもう三つも四つも、小ぶりなパンが山を成して積み上がっている。


「朝からふざけるのはやめてよ」


 言いながら、私はアルフレートの手元をにらみつけた。トングを持つ彼の手の動きは、まるで悪戯を仕掛けた子どものように軽やかで、止めどころを知らない。


「一応、真面目な動機なんだけどな」


 とぼけたように肩をすくめながら、彼はバスケットの中をもう一度覗き込んだ。その仕草がさらに私の胸の中に火種を落とす。


「今日は少し歩くからね。しっかり食べておかないと」


 ひとこと言ってやろう、と口を開きかけたそのとき、何気なく告げられたその一言に、私は言葉を飲み込んだ。冗談の延長のようでいて、そこだけが妙に真剣だった。何かを隠すような目の奥の色に、つんと張っていた感情が少しだけゆるむ。


「……歩く?」


 小さく繰り返しながら彼を見やると、アルフレートはどこか満足げな顔でうなずいていた。朝の光に照らされた表情はいつもより穏やかに見える。


「うん。君に見せたいものがあってさ」


 まるで散歩の途中で花を摘みに行くような、なんでもない調子で語る。今日の天気がいいから、とでも言うような淡々とした口ぶり。けれどその声音の奥には、何か少し特別な思いが潜んでいるようにも思えた。

 私は皿の上に重なったパンを見下ろす。焼きたての香ばしい匂いが立ちのぼり、さっきまでの軽い苛立ちが、まるで溶け出すように静まっていく。


「……そう。わかったわ」


 私は小さくうなずき、パンの端をちぎって静かに口に運んだ。外はさっくりと香ばしく、中はほんのりと湯気を含んでいて、舌の上でやわらかくほどけていく。淡い塩気とバターの温かさが、冷えた体の内側にじんわりと広がっていくのを感じた。

 いつものような冗談混じりの言葉だったけれど、その奥にあるものは、きっとふざけてなどいなかった。だから、彼の思いのままについていこうと思った。理由を聞くよりも先に、その言葉の向こう側にあるものを知りたくなったのだ。

 そのまま何も言わず、黙って次のひと口をちぎる。横目でそっと視線をやると、アルフレートは何も言わずにパンをかじっていた。けれど彼の表情は静かな安堵をたたえていて、私もそれを追うように、もう一度パンを口に運んだ。



 ◆



「こっちだよ」


 朝食ののち、私たちは外へ出た。私はなにも言わず彼の背を追ったけれど、雪道を進んでいくうちにやがて小道は細くなり、道という道さえ判然としなくなっていった。気づけば足元の踏み跡もまばらになっていて、あたり一面を覆う白い雪だけが、私たちの行き先をぼんやりと照らしている。

 私はふと歩を緩めて、視線を前に向けたまま口を開いた。


「……あの、どこへ行くの?」


 アルフレートは振り返らないまま、少しだけ肩越しに答えた。


「もうすぐだ。もう少しだけ、こっち」


 彼はそれだけを言ってまた歩き出す。私は内心で戸惑いを覚えていた。「見せたいものがある」とだけ言われてなにも聞かずについてきたけれど、まさか道を外れて森に入っていくとは思わなかったのだ。

 降り積もった雪の下は、見た目以上に不安定だった。木の根や石に足を取られないように、注意深く歩を進めるたび、裾が湿るのがわかる。そんな中、前を歩くアルフレートがふと振り返り、私に手を差し出した。


「気をつけて。ここから少し足元が悪いんだ」


 私は無言で片手を伸ばし、彼の手を取った。冷えた空気の中でその掌だけが、驚くほどあたたかかった。もう一方の手で裾を軽く持ち上げ、一歩ずつ慎重に雪を踏みしめていく。

 森の奥へと分け入る道はますます細くなっていった。肩先で枝が擦れる音がしてはっとして振り向くと、伸びた枯れ枝が髪を軽く引っ掛けていた。

 枝を振り払いながら手を引かれるままに進んでいると、やがて木立の間から影が浮かび上がってきた。

 目を凝らしてみると、それは小さな丸太小屋だった。粗く削られた丸太を組んで作られた素朴な造り。屋根は木の板を斜めに組んだ切妻造りで、昨夜の雪が均等に積もって白く覆っていた。

 近づいてみると、小屋の正面には低い木製の扉が一つだけあり、蝶番のあたりには赤錆が浮いていた。側面には小さな窓が一つだけあり、ガラスがはめ込まれている。外側には雨避けのための庇と、細い枝で編んだ簡素な格子がかけられていた。

 私はその場に立ち尽くし、小屋のたたずまいをしばらく黙って見つめていた。こんな場所があるなんて。誰にも知られていないような、森の奥深くに。こんな小さな家が、ひっそりと。


「……ここは?」


 胸の奥に浮かんだ疑問を、私はそっと言葉にした。アルフレートは小屋の前で立ち止まり、振り返る。その表情には、懐かしさにも似た柔らかい笑みが浮かんでいた。


「僕のとっておきの場所だ」


 軽い調子の返答だったけれど、その声にはどこか誇らしげな響きがあった。彼は小屋の扉に手をかけながら続ける。


「小さいころに偶然見つけてね。静かにひとりになりたくなると、よくここに来てた」


 彼の指先が、ゆっくりと古びた扉を押し開けた。蝶番がぎしりと軋む。静かな森林にその音が一瞬だけ響いた。アルフレートは振り返って、まるで悪戯を見せる子どものような目で私を見た。


「今でもときどき来るよ。何も考えたくないときとか、むしろいっぱい考えたいときとか。現実逃避の名所ってやつだ」


 私は彼の言葉に軽く笑いそうになりながらも、どうしても胸の奥に浮かぶ疑問が拭えなかった。驚きと、なにか少し胸を締めつけるような感情が一緒になって喉を震わせた。

 どうして、ここに私を?

 彼の口ぶりからして、おそらくは誰にも見せていなかっただろう場所。そんな大切なところへ私を連れてきたことが、どうしようもなく不思議だった。


「……そんな場所に、私を連れてきていいの?」


 だから、気がつくと言葉がこぼれていた。問いかけに、アルフレートは少しだけ笑って言った。


「まあ、君ならいいかなって。なんでかって言われるとちょっと困るんだけど」


 さらりとした口調だった。それでもその言い方に、ふいに心を揺さぶられる。

 もう一歩踏み込んで尋ねたくなる衝動が胸の奥に浮かびかけたけれど、その言葉は飲み込んだ。今、無理にその理由を聞いてしまえば、この静かな時間が崩れてしまうような気がしたのだ。

 アルフレートがひと足早く小屋の中へ入り、振り返ると肩越しに手招きをした。私は一歩を踏み出し、彼のあとを追って、小屋の中へ足を踏み入れた。

 何がこの先にあるのかはわからない。でも、今だけはその手の示す方へ進みたい。

 彼は私をここへ連れてきてくれた。打ち明けるような言葉はなくとも、それはきっと、彼の過去のひとかけらを差し出すということなのだから。

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