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凍てつく星々

 戸口を開けると、暖かな空気が鼻先を撫でた。外気の冷たさを忘れさせるような暖気が室内から流れ出してくる。玄関を抜けて顔を覗かせると、火にくべられた薪がぱちぱちと燃える音がした。香ばしい木の香りとともに、ほのかに甘いワインの残り香が部屋の空気に溶け込んでいた。


「おかえり。待ってたぞ」


 暖炉のそばに腰を下ろしていたヘルマンさんが、ゆったりとした動作で背を起こし、振り向いた。分厚い毛糸のベストを羽織った大柄な体に、年季の入った丸太椅子が軋む。


「広場でちびっ子たちがずっと騒いでたぞ。夢みたいだったって、目をまんまるにして」


 ヘルマンさんは愉快そうに笑いながら言った。火の揺らめきが彼の顔の陰影を際立たせ、その目尻に刻まれた笑い皺が、やさしく灯に照らされている。


「今頃大騒ぎで寝付かないだろうなあ。あの子たち、すっかり君たちに惚れちまったよ」


 その言葉に思わず自然に笑みが溢れる。アルフレートが笑って「エリーゼの功績だね」と言うと、彼は「違いない」とうなずいた。

 中央に置かれた椅子の前に、木製の低いテーブルがある。私たちは抱えていたものをそっとおろし、村の方からいただいた品々を並べた。それを見たヘルマンさんが、信じられないものを見るように目を丸くする。


「まさかそれ、ぜんぶもらってきたのか?」


「はい。劇のあと、あちこちで声をかけられて……」


 そう言いながら、自分でも信じられないような気持ちで包みを開いていく。焼き菓子の袋を開けると、香ばしい湯気が立ちのぼり、部屋の中に新たな香りが広がった。目の前に並べられた温かな食べ物を前に、ヘルマンさんが感心したように眉を上げる。


「シチューに、胡桃菓子、りんごのワイン煮……本気のもてなしだな」


 ふと視線を移すと、アルフレートがいつの間にか棚の奥から陶器の皿を三枚持ち出し、手際よくテーブルに並べているところだった。

 素朴な皿にたくさんの食事を並べて、三人で囲む食卓はどこまでも穏やかだった。温かいシチューを分け合いながら、あれこれと他愛もない話をした。屋台での出来事や、舞台裏での様子、舞台で小道具を落としかけたことまで、笑いながら思い出す。

 湯気の立つ皿が静かに空になってゆく。甘い菓子の香りも、煮込みの残り香も、ゆるやかに空気へと溶け、いつしか満たされた静けさが室内を包んでいた。

 暖炉の炎は静かに燃え続けていた。赤々と揺れる光が壁を照らし、影がほのかに揺れている。時折ぱちんと薪がはぜる音がして、そのたびに誰かの小さな笑い声や、椅子のきしむ音が溶けて消えていった。

 穏やかな時間。笑って、食べて、冗談を言って、それにまた笑って。心がまるごとほぐれていくような、何も考えずにここにいていいと思える空間。

 幸福だった。ずっとこうしていられたなら、この時間がずっと続いたならどんなに幸せだろうと思った。 

 もしも私が、貴族ではない家の娘に生まれていたなら。ほんの一瞬だけ、そんなことを思う。

 貴族でなければ、礼儀も役割も、策略も嘘もいらない。身分の差を思い悩むことも、家の期待に応える必要もない。そうであったなら、私はもっと自由に、この夜を、そしてこの人たちとの時間を、すべて受け取ることができるのだろうか。

 そっと息を吐き、手を膝の上に重ねる。炎のあたたかさが心の輪郭をやわらかく包んでいた。


「……よし、もう夜も遅い」


 沈黙を破ったのは、ヘルマンさんの低い声だった。暖炉の火は小さくなり、室内に広がる明かりもやわらぎを帯びている。彼はふと時計の針を見やって、ゆっくりと立ち上がった。


「こっちは片づけておくから、君たちはもう休みなさい。今日は疲れただろう」


 ヘルマンさんの穏やかな声に、私はすぐに首を振った。


「そんな、お手伝いを——」


 気を遣ったつもりはなかった。ただ、本当に申し訳ないと思っただけだった。ここまで歓待してもらって、手伝いもせずに寝るなんて。


「うちの決まりでね、舞台で拍手をもらった人はその晩の家事を免除されるんだよ」


 けれど、その言葉はすぐに隣からの声にさえぎられた。見れば、アルフレートが椅子にゆったりと腰掛けたまま、立ち上がる様子もなくこちらを眺めている。


「……そうなの?」


「いや、今作ったけど」


「……もう」


 苦笑まじりに声をこぼすと、ヘルマンさんが「まったく、おまえは」とぼやいた。


「相変わらずだな、アルフレート。そういう軽口は治らんのか」


 そう言いながらも、彼の声音はどこかあたたかい。年季の入った皿を両手に抱えて、テーブルの端へと運びながら、私のほうを振り返った。


「いいから、こっちは任せておきなさい。二人は今日はもう、ぐっすり休むといい」


 そう言ってヘルマンさんは笑い、背中を押すように手を振ってみせた。私は立ち上がって深く頭を下げる。


「……ありがとうございます。おやすみなさい、ヘルマンさん」


 隣のアルフレートと目を合わせる。彼も無言でうなずき、静かに私のあとに続いた。

 心からのもてなしというのは、恩に着せないやさしさのことを言うのだろう。暖炉の光を背に、私たちは寝室の方へと歩き出した。薪の匂いと菓子の残り香が、まだ背後でゆらゆらと漂っていた。




 寝室の扉を閉めると、室内はひっそりとした静寂に包まれていた。外から届く音はほとんどなく、薪がくべられた暖炉の奥で、火が名残惜しそうに燻る音が聞こえるだけだった。

 小さな卓の上には陶器の水差しと、布が一枚畳まれて置かれている。

 水差しを暖炉の上に置いて温まるのを待つ間に、鏡の前に座って髪を解いた。髪留めを外し、軽く指を差し入れて編み込んだ束をほどく。

 静かな音を立てて、髪は肩と背中に落ちた。ほどかれた髪は癖がついて波打っていて、何度か手ぐしで梳いてから、寝乱れないように緩くリボンでひとつにまとめる。

 ドレスのリボンをほどき、背中の金具や袖を外す。厚手のペチコートも下ろしシュミーズだけになると、冷えた夜気が肌に触れ、思わず身がすくむ。

 暖炉から水差しを下ろし、湯気の立つその中に指を沈めると、じんわりとした温かさが掌に広がった。私はそばの布をそっと濡らし、片手で水気を絞る。シュミーズの紐を胸元で解く。

 今日一日を共にした布地が肩を滑り落ちると、温めた布をそっと肌に押し当てた。うなじ、肩、腕、そして鎖骨のあたりまで、ゆっくりと、肌に残る汗を拭い落としていく。

 腰をかがめ、裾をたくし上げて脚を清める。指先から足首まで、布をすべらせるたびに、肌が静かに息をつくのがわかった。今日という長い一日がこうして少しずつ、身体の表面から拭い去られていく。

 着替えは簡素な夜着だった。学院から持ってきたそれは肌にやさしくなじむ柔らかな綿布で、着るとすぐに体温を吸って温かさが広がった。襟元を整え腰のリボンを結ぶと、肩のあたりがようやく軽くなった気がした。

 ようやく、身の回りのすべてが夜のための姿になった。私は残った湯で布を濯ぐと、しっかり乾くよう椅子の背にかけ、卓の上を整えた。

 ベッドに向かうと、淡い灯りの中でシーツが広がっていた。中に滑り込むと布地の冷たさが背に伝わり、思わず肩をすくめる。膝を折り、毛布を胸まで引き上げて深く息をついた。


 けれど瞼を閉じてみても、すぐには眠気は訪れてこなかった。

 静かだった。火の音も、笑い声も聞こえない。ただ自分の呼吸と、時折、外の風が建物の角を撫でていく音だけが、かすかに耳に届いていた。

 眠ろうとすればするほど、かえって意識はさえてしまう。歌劇のこと、子どもたちの賑やかな声、村の人たちの笑顔、あの温かな食卓のこと。そして、アルフレートのまなざし。

 あの穏やかな、でも決して曖昧ではない、まっすぐな視線。冗談めかして話す口調の裏に隠しきれないまじめさと、何も言わなくてもこちらの思いを汲んでしまうようなやさしさ。こんなふうに思い出している自分が、少しだけおかしく思える。けれど、眠りが訪れない静けさの中では、すべてが異様に鮮やかで、やけに切実だった。

 私は、そっと体を起こした。薄明かりの中で毛布をたたみ、冷たい床板にそっと足をおろす。クローゼットの扉にかけていた赤いショールを手に取り、厚手のそれを肩にかけると、足音を立てないようにして扉を開け廊下に出た。階段の手すりに手をかけて一段ずつ降りていくと、古びた板がきしむ音が微かに響いた。

 扉のかたわらで、まだ小さく灯るランタンの明かりを頼りに、私は外扉の鍵をそっと外した。


 外気に触れた瞬間、全身が縮こまるような思いがした。

 寒い、というより、痛い。空気が肌を突き刺すようだった。吐いた息はすぐに白く凍って、ショールの隙間から忍び込んだ冷気が背筋を這い、指先はたちまちかじかんでいく。身をすくめて両腕を胸の前で交差させたが、それでも寒さは容赦なかった。

 けれど私は、踵を返さなかった。冷たい雪の上に、じっと立ち尽くす。頭上には曇りひとつない夜空が広がっていて、星が凍てついたような光を静かに放っていた。風はなかったが、その分、冷たさがじわじわと体の芯にまで染みこんでくるようだった。


 寒さが心地よいと思えないほど厳しいものだった。それでも、この身を刺すような夜が、確かに私はここにいるのだと思わせてくれる。

 これは夢ではない。目を閉じて浮かぶ舞台や歓声も、食卓のあたたかさも、アルフレートの眼差しも。今、全身で受け止めたこの痛みを通して、すべてが現実だったのだと、ようやく信じられる気がした。

 私は、ここにいる。貴族の娘としてでも、誰かの期待に縛られた存在としてでもなく、ただの「エリーゼ」として。

 やがて、指の感覚がすっかり失われ始めたのを感じて、私は小さく震えながら扉へと戻った。金具にかけた手がじんと痛むほど冷たく、急いで屋内へと身を滑り込ませる。

 身を翻し扉を閉めた途端、外気と室内の空気の差に身体が驚いたように震えた。吐息が暖かく頬に当たるのを感じながら、ショールをきゅっと握りしめた、そのとき。


「……寒かったろう」


 不意に、低く静かな声が背後から響いた。

 驚いて振り向くと、そこにはランタンを手にしたヘルマンさんの姿があった。暖炉のある居間から出てきたばかりらしく、毛糸のベストを羽織った姿のまま、こちらを見つめていた。私は咄嗟に頭を下げる。


「……すみません、眠れなくて、少しだけ外の空気を」


 声がやや掠れていたのは、寒さのせいばかりではなかった。自分でも気づかぬうちに、心のどこかで後ろめたさを感じていたのだろう。こんな夜更けに、ひとりで戸外に出ることなど、生家の屋敷であれば考えられなかった。だがヘルマンさんは特に驚いたふうでもなく、ただ静かに私を見つめた。


「眠れないなら、あたたかい茶でも飲むといい。ちょうどいい茶葉がある。気持ちが落ち着くぞ」


 私は一瞬ためらったが、その申し出に甘えることにした。ショールの端を少し引き寄せて、小さく頷いた。

 居間に戻ると、先ほどまで賑やかだった空間はすっかり落ち着いていて、薪が小さく燃える音だけがかすかに耳に届いた。ヘルマンさんは手慣れた様子で戸棚から茶葉の詰まった袋を取り出すと、ポットに水を注ぎ、暖炉に吊るして火にかけた。

 私は暖炉のそばの椅子に腰を下ろし、両手でショールを抱えるようにして、火のぬくもりに身を寄せた。体の芯が少しずつ解けていく。寒さの残滓と、心のどこかに渦巻いていた高揚と不安が、湯気のようにゆっくりと薄れていくようだった。

 ポットがふつふつと音を立て始めると、ヘルマンさんはふたつの小さな陶器のカップを取り出しお茶を注いだ。立ちのぼる香りはラベンダーやレモンバームのような香草の匂いが混じっていて、ほんの少しだけ甘い。


「砂糖は要るかい?」


「……いえ、このままで」


 手渡されたカップを両手で包みこむと、その温もりが指の先からじんわりと沁みわたった。冷えた手が少しずつ動きを取り戻していくのを感じながら、私はそっと一口、口に含んだ。熱すぎず、優しく喉を通っていく。ハーブの香りが鼻に抜けた。

 暖炉の火はすっかり勢いを弱めていて、薪がぱちりと弾けるたび、部屋の隅にかすかな影が揺れた。ヘルマンさんは自分のカップを手にしたまま、長く黙ってその炎を見つめていた。


「君の歌を聴いて……ベルティーナを、姉を思い出したよ」


 やがて、カップを軽く揺らしながら、ぽつりと呟くように言った。私は顔を上げて、ヘルマンさんを見る。彼の声は、火の音に溶けるように静かだった。


「姿が似ているわけじゃない。でも、あの人も歌が好きでね。君の声を聴いたとき、不意に昔がよみがえった」


 ランタンの光が穏やかに揺れて、ヘルマンさんの頬の陰影を静かに撫でている。その瞳の奥に、懐かしさのようなものが滲んで見えた気がした。

 ——ベルティーナ。その名前を、私は初めて聞いた。けれど彼の口ぶりには、それが当然私にも通じるはずだというような親密さがあった。私はそっと目を伏せる。ゆっくりと心のなかでその名前を繰り返しながら、やがてひとつの輪郭が、音もなく立ち現れていく。

 ヘルマンさんの姉。アルフレートの母。かつて、アルフレートが語ってくれた、歌の好きな人。その三つが、今この瞬間にぴたりと重なった。

 彼は確かに言っていた。母は歌が好きだったと。そして、私の歌う姿をみて、お母様を思い出したのだと。

 私は静かに息を吸った。まるで霧の奥から、見えなかった風景がようやく姿を現したようだった。アルフレートのお母様。その人の姿が今、彼の叔父の口からふと漏れ出した言葉のなかに、かすかに浮かび上がってくる。


「……前にアルフレートにも、同じようなことを言われました」


 私はそう返しながら、そっと目を伏せた。

 あたたかな湯気の立つカップを両手で包み込む。けれどその温もりだけでは、胸の内に生まれた小さな疑問は消えてくれなかった。


 ベルティーナさん。その名を口にした彼に対して、今なら訊けるかもしれないと思った。

 ここに来てからというもの、温かな空気のなかで、私はずっとその人の帰りを待っていたのだ。気がかりというほど深く悩んでいたわけではないが、そのうちにお会いできるものだと思っていた。

 それなのに、今日になっても姿は見えない。民衆歌劇がお好きだと聞いていたから、冬祭りの当日には帰っていらっしゃるかも、と淡い期待を抱いていたのに。


 けれど、それでも心のどこかで迷っていた。確かめたい気持ちと、踏み込むことへのためらい。その間を何度も揺れながら、私はカップの中に視線を落とす。私は静かに息を吸う。

 尋ねるなら、今しかない。そう思ったとき、言葉は自然と唇をついて出ていた。


「……あの。ベルティーナさんには、ずっとお会いしたいと思っていたんです。でも、ここに来てからもう何日も経って……それなのに、まだお目にかかれていなくて」


 深い意味をこめたつもりはなかった。ただ、この家に流れる暖かい空気の中に、その人の声が加わったらどんなだろうと、ふと想像しただけだったのだ。

 

 けれど、返ってきた言葉は、思いがけないだった。


「まさか、アルフレートから何も聞いていないのか?」


 カップを置く音が、わずかに響いた。

 私は瞬きもしないまま、その言葉の意味を探ろうとした。どうしても答えは出てこなかった。胸の奥で、何かがざわめく気配だけがあった。


「……どういうことですか?」


 問い返した自分の声が、自分のものとは思えないほど細く、頼りなかった。

 ヘルマンさんはしばらくのあいだ何も言わず、暖炉のほうへ視線を落としていた。淡い橙の炎が、彼の横顔を揺らめかせる。静寂は重く、やがてその沈黙を破ったのは、ごく短い、しかし決定的なひとことだった。


「……姉は亡くなってるよ。もう、ずっと昔のことだ」

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