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オペラ座の一幕

 結果を言えば、わたしはすぐに追いかけてきたお兄様に連れ戻された。広場の舞台に夢中になっていたところ、突然背後から襟首を掴まれ、わたしの足は宙に浮いた。まるで狩人の罠に絡め取られた野うさぎのように、あれよあれよという間に人々の波から引き離され、夢のような時間は手の届かぬところへ遠ざかっていく。

 

「いい加減にしないか、エリザベート!」

 

 お兄様の顔はいつになく真っ赤だった。額に汗をにじませ、眉根を寄せ、肩で呼吸している。焦燥と苛立ちを隠そうともせず、怒鳴りつけるように言った。

 

「……ごめんなさい」

 

 口先だけの言葉ではなく、心から申し訳なく思っていた。心配させて驚かせてしまったし、これ以上のわがままを言うつもりはもうなかった。しかし心はまだ震えていて、お兄様のお説教は半分も頭に入っていなかった。あの舞台の光景が胸の奥を燃やすように焼きついて、一瞬の間にそれまで知っていた世界をまるごと書き換えられてしまったのだ。

 

 わたしが馬車に押し戻されると、幸いなことに、わたしが抜け出したことにお母様は気がついていなかった。御者台のところで何やら話している最中で、扇子を手にこちらを振り返ることもなく、わたしの頬が紅潮していたことも、息が切れていたことも、ほんの少し裾が土埃に薄汚れていたことにも目を向ける気配はなかった。

 

「まったく、とんだ災難だわ。馬車の管理をしていた者にきちんと言いつけなければ」

 

 お母様はそう言いながら、軽やかに車内へと乗り込んだ。シルクサテンの裾が舞い、繊細な刺繍が淡くきらめく。高く結い上げられた髪に香水をひと吹きし、ハンカチを膝にのせると、鏡越しにわたしとお兄様をちらりと見やった。

 

「二人とも、髪が乱れているわ。こちらへ寄りなさい」


 わたしたちは顔を見合わせ、おずおずと頭を差し出した。お母様は腕を伸ばし、わたしたちの揃いの髪を撫でた。家に恥じない振る舞いを、と何度も言い聞かせられても、お母様のふとした優しさは、いつもわたしたちを年相応の子どもに戻してしまう。「風に吹かれたのね」と囁く声と、髪を梳く指先があまりに穏やかなものだから、わたしは厳格な母を嫌うことができないのだった。

 

「さあ、じきに出発よ。今日は特別な演目なの。一流のソプラノが来ているのよ。あなたもきっと感激するはず」

 

 お母様の瞳には、わたしへの期待が映っていた。伯爵家の令嬢にふさわしく、立ち居振る舞いに気品を宿し、芸術や美しいものに心を寄せる。そういう娘であるようにと、いつも望んでいた。音楽を愛するという一点だけを見れば、わたしはお母様の望む娘に相応しいのだと思った。たとえ母の描く音楽が、あの広場の旋律とはまったく別のものであったとしても。

 

 

 ◆

 

 

 劇場には、すでに華やかな人波が集っていた。入り口の大階段を飾るかのように、色とりどりのドレスやコートが並んでいる。シルク、レース、金糸に銀糸。うっとりするような布地の光沢と、繊細な細工を施された裾が、舞踏会のように優雅に宙をすべっている。

 

「あらあら、ローゼンハイネ伯爵夫人!」


 ひときわ高く澄んだ声が空気を割った。遠縁のシュヴァルツベルク侯爵夫人が扇子を小さく振ってこちらに近づいてくる。白い羽根飾りのついた帽子に、波打つようなドレス。まるで舞台の一部であるかのように完璧に飾られた姿だった。


「ごきげんよう、シュヴァルツベルク侯爵夫人。まあ、そちらのお召し物、新調されたものですか。白いお肌に若草色がよく映えて、ほんとうにお似合いですわ」


「ええ、王都で人気のモード商に仕立てさせたものですの。そちらはヴォルフガングにエリザベート? 二人ともまたひときわ背が伸びて、すっかり紳士と淑女のご風情ですわね」

 

 兄が頭を下げるのに続いて、わたしはドレスの裾を持ち上げ膝を下ろした。

 

「侯爵夫人、お目にかかれて光栄です」

 

「まあまあ、なんてお行儀のよろしいことでしょう。以前お目にかかったときとは、まるで別のお嬢様のよう」


 侯爵夫人が目元に笑みを浮かべ、わたしの姿をうっとりと眺めた。わたしは晴々しいほどの作り笑いを、そうとは気取られぬよう浮かべてみせた。笑顔の仮面は、ドレスと同じくらい、この場所では必要なものだった。

 

「そうなんですのよ、おほほ……」


 お母様は今朝の騒動などまるでなかったかのように、涼やかに笑った。手にした扇子をぱたりと閉じ、絢爛なホワイエで、まさに貴族の夫人らしい振る舞いを続けていた。



 ◆



 金に縁取られたベルベットの幕があがれば、今宵もまた高らかに悲劇が歌われる。

 相変わらずオペラは難解で退屈だったけれど、今日はこれ以上、お母様とお兄様の期待を裏切るわけにはいかない。小さな矜持が、わたしの背を豪勢な劇場の座席に繋ぎ止めていた。

 舞台の中央では、深紅のドレスに身を包んだプリマ・ドンナが、今まさに切ない愛を歌い上げようとしている。ゆっくりと腕を広げ、重厚なオーケストラが厳かに彼女の背中を押すと、艶やかに彩られた唇から歌があふれ出した。

 張りつめた空気が、その声にほんのわずかに震えた気がした。

 劇場に響いたソプラノの一節に、わたしは目を見開いた。思わず、耳を澄ませた。それは、いつもの「つまらないもの」とは、どこか違う。

 そう、美しいと思った。

 それは、あまりにも素直な感想だった。気取った批評も、退屈な感想文も、頭をかすめはしなかった。

 民衆の広場で聴いたあの歌のように、奔放で自由ではない。構築され、洗練され、枠にはめられた芸術だった。言葉は背伸びをしないと届かないし、譜面通りの歌声は堅苦しい。結末は分かりきった悲劇で、わたしが夢見るような幸福はきっとない。

 けれど、凛とした重みのある声は素晴らしく胸に響いて、じわじわと熱を持って染み渡るのだ。

 技巧や格式に包まれながらも、あの声の中には確かに情熱がある。燃え上がる火ではなく、熾火のようにゆっくりと燃えている命の温度を、わたしは感じていた。何かがゆっくりと変わっている。今まで退屈だと思い込んでいたものに、思いもよらない輝きを見たとき、人はこんなふうに心の目をひらくのだろうか。

先入観という名の厚い幕が、一枚、音もなく剥がれ落ちていったようだった。

 気がつけば、わたしは息をするのも忘れて舞台を食い入るように眺めていた。

 目の前のプリマ・ドンナの姿がそっと静止すると、劇場の空気はしんと張りつめたまま一瞬の間を置き、拍手がまるで嵐のように湧き起こった。まわりの観客たちは一斉に立ち上がり、手を打ち鳴らし、口々に賞賛の言葉を投げていた。フロックコートの袖、絹の手袋、扇子の縁から漏れる歓声が、重ねられた天井の装飾を跳ね返って渦巻く。

 わたしはなぜだか、立ち上がることができなかった。腕を動かすのも、手を叩くことも忘れて、ただただ呆然と座席に沈みこみ、舞台の残光を見つめていた。隣に座っていたお母様が、そんなわたしの横顔をじっと見つめていたことなど、まるで気づきもしなかった。

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