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私の歌が

 舞台の幕が降りると、まるで張りつめていた糸が緩んだように空気が和らいだ。だがその直後、緞帳の向こうから嵐のような拍手が湧き上がった。はじめは控えめに、やがて力強く、鳴りやむ気配はない。その音に押されるようにして私は隣を見た。カミルの衣装を着たままのアルフレートが、同じようにまっすぐこちらを見ていた。

 彼もまた言葉を持たないように、ただ笑っていた。額にうっすらと浮かぶ汗が、蝋燭の明かりを受けて光っている。それがなぜか、涙が出そうになるほど嬉しい。

 次の瞬間、舞台裏から「はけて!」と小さく鋭い声が飛んでくる。そうだった。これで終わりじゃない。まだ、もうひとつ残っている。私は裾を持ち上げて、舞台袖へと駆け出した。私の横を、農民の装束を纏った青年や貴族の衣裳を着た女性がすり抜けていった。いずれもこの舞台のために全力を尽くした顔ぶれだ。誰もがほてった顔をして、まだ夢から醒めていないような目をしていた。


 まず彼らが幕の向こうへと出ていくと、客席の拍手がさらに高まった。私は袖からそれを見つめながら、小さく息を整える。


 次に、王とフローラの父の役を務めたユスティンがゆったりと歩み出た。彼はまるで本当に王国を治めているかのような堂々たる風格で頭を下げた。その隣には魔法使い役の女性、柔らかくローブを揺らしながら深く礼をする。続いて、アルフレートが現れた。カミルの姿のまま、観客席に向かって笑みを浮かべている。


 近くにいた大道具役の女性が笑って、私の背中を軽く押す。私は深くうなずき舞台へと踏み出した。アデリナのまま、それでも今度は彼女を演じた自分自身として。

 重たいスカートの裾を両手で持ち上げて、アグネスさんと並んで歩く。視界の端でマルタさんの姿が見えた。継母を演じ切ったあの堂々たる存在感のままに、彼女は誇り高く舞台へ出ていく。

 客席を見渡せば、たくさんの人々が立ち上がって拍手をしていた。私の胸に燃えるような熱が押し寄せてくる。打ち鳴らされる手のひらの音が、脈を打つように耳に響いていた。


「アデリナ!」


 そのとき、客席のどこかからひときわ高く澄んだ声が響いた。拍手と歓声を裂くようにして、まっすぐに私の耳に届く。

 アデリナ。私が演じた彼女の名前。これはきっと、私に向けられた声。

 胸の奥で何かが震えた。堰を切ったように、込み上げてくるものがあった。喉の奥がひりついて、息を吸うだけでも苦しいほどなのに、私はまだ笑っていた。そうするしかないくらい、嬉しくてたまらなかった。

 私は舞台に立っていた。物語の中で呼吸し、言葉を紡ぎ、心を生きた。そして今、それが誰かの心に届いたのだ。


 ゆっくりと、私はもう一度カーテシーをした。


 先ほどよりも深く、両手でスカートを持ち上げ、膝を折り、頭を垂れる。立ち上がった私は、舞台の右手へと静かに歩き出した。

 視界の先にアルフレートの姿が見える。あの物語の終幕と同じように、少し斜めに身体を向けて私を待っていた。強すぎない光がその肩に降り注ぎ、髪がやわらかく輝いて見える。アルフレートと目が合う。演技ではなく、物語の役を超えて、今は彼自身のまなざしだった。

 彼の口元に浮かんだ微笑に、私も自然と笑った。作られたものではない、この上ない喜びの感情で形づくられた笑み。それが、今はどんな言葉よりも確かな答えになる気がした。

 私がアルフレートの隣に並ぶと、左手の舞台袖から、王子役の青年がゆっくりと歩み出てきた。濃紺の礼装が微かに光り、引き締まった表情のまま、彼は舞台中央に立つ。

 ひと呼吸おき、彼は観客に向けて深く、端正な礼を送った。その動きは舞台の上で見せていた品格を保ちながらも、晴れやかで飾り気のない喜びを帯びていた。観客席からふたたび大きな拍手が巻き起こる。

 青年は頭を上げると、静かに手を伸ばし、掌で舞台の奥を示す。誘うようなその仕草に観客の視線が一斉に導かれる。


 そして奥から、ひときわ鮮やかな姿が現れた。

 フローラ——ニーナが、ゆっくりと歩みを進めてくる。舞踏会の夜に着ていたドレス。 

 淡い青のドレープが光を受けてきらめいていた。繊細なレースの袖、胸元に散らされた小さな花の飾り。

 彼女は微笑んでいた。歓声のすべてを受け止めるような、まっすぐで穏やかな微笑みだった。艶めく黒髪はやわらかく巻かれ、頬にはうっすらと紅が差している。息をのむような静寂のあと、客席からまばゆい拍手と歓声が湧き上がる。

 ニーナは王子役の青年の隣に並び、彼と見つめ合ってから、そっと手を取った。物語のなかでふたりが歩いたあの道が、再びここに生まれたようだった。


 舞台の上に、すべての登場人物がそろった。誰もが晴れやかな表情を浮かべ、整然と並んで客席を見つめていた。

 私もその一角に、アデリナとして、そして私として立っていた。スカートの裾を指先で軽く持ち、正面を見据える。

 目の前に広がる客席には、拍手を送る人々の姿があった。涙をぬぐう手、身を乗り出す肩、誰かの名を呼ぶ口元。そして、誰からともなく全員がいっせいに頭を下げ、深く礼をした。幕がゆっくりと降りていく。拍手がなおも続く中で、光は閉じていくのだった。



 ◆



 夜の更けた村の中を、私はまだ胸をいっぱいにしたまま歩いていた。

 舞台の光も、拍手の音も、客席からまっすぐに飛んできた声も、すべてがまだ血の中で鼓動している。

 胸を張り裂けそうなほどの感動を抱えたまま、降り積もった雪を踏みしめる。冷たい雪の夜の中にあっても、体は冷めない熱を持っていた。


「こんな夜が来るなんて、想像もしていなかったわ」


 立ち止まることもせず、前を向いたまま話した。隣を歩くアルフレートはいつも通りの足取りで、静かに私に付き添っていた。言ってからふと見上げると、彼はほんの少し視線をこちらに向け、それから小さく笑った。風に揺れる前髪の下、横顔がやわらいでいく。


「君の歌、すごくよかったよ。……いや、ほんとに。聴いてて胸が熱くなった。驚いたよ」


 そう言われたとたん、胸の奥に再び熱がこみあげるのを感じた。観客の拍手とは違う、もっと近くて、もっと穏やかな肯定の声。私は本当に舞台の上でアデリナになれたのだと、ようやく実感が降りてきた気がした。


「来年の今ごろには、君がすっかり主役をさらってるかもな。誰も敵わないって噂になる」


 アルフレートは、そんな私の心情に追い打ちをかけるようにさらりと続けた。思わず足を止める。私は彼を見上げて、その目を見つめて尋ねていた。


「来年も連れてきてくれるの?」


 自分でも気づかぬままに唇をすり抜けたような問いだった。驚きととまどいと、こぼれ落ちそうな希望が一度に胸を満たして、それでも声は不思議と澄んでいた。

 アルフレートは私を見て、驚いたように目を見開いてから、ほんのわずかに視線をそらした。いつもの余裕のある笑みが一瞬だけ崩れ、不自然な間が落ちる。


「いや、来年の冬には僕はこの村に入れてもらえないかもしれない。君が上手くなりすぎて、僕は帰って来なくていいって」


 ほんの少し遅れて、彼はそんな言葉を軽く笑いながら口にした。言いながらわざとらしく肩を落とし、深いため息までつけ加える。けれど声色はいつもと少し違っていて、冗談にしては歯切れが悪い。

 私は歩みを緩めながら、彼の横顔をそっと見つめた。いつもなら軽やかに流れていくその言葉が、今夜に限ってほんの少し遅れて届いた。その違和感に、私はすぐに気づいた。不意に、胸の奥が静かに波立つ。怪訝に思ったそれが、ある可能性を照らし出す。

 ……もしかしたら彼は、無意識のうちに来年のことを語ったのかもしれない。そして私がそこに、彼のそばにいることを当然のように想像していたことに気がついて、照れているのかもしれない。

 そう思いあたれば、目の前にいる彼の反応はあまりにわかりやすかった。あたたかなものが胸の奥でふくらんで、そっと形を成していく。


「今夜くらい、真面目に話してくれていいのよ」


 私はほんの少し声を和らげて、そう言った。咎めるでもなく、笑い飛ばすでもない。わざとらしい芝居と、視線の揺らぎと、わずかな間。それらがばつの悪さを覆い隠そうとして生まれたものだと気づいて、私は微笑む。ふいに見えた未来の予感。その中に私の姿があることに、胸が締めつけられるような喜びを覚えた。

 アルフレートは何かを言いかけて、目を伏せた。そして雪明かりの下、わずかに頬を赤く染めながら、黙って歩を進めた。見上げた横顔が赤らんでいるのは、はたして寒さだけのせいだろうか。そう思いながらも、私は何も言わず寄り添って歩いた。


 

 

 

 少し進んだ先の広場に出ると、そこにはいくつもの灯りが瞬いていた。仄かな明かりに照らされた屋台が円を描くように並び、鍋の中で煮込まれるスープの匂いや、甘く香ばしい焼き菓子の匂いが夜気に混ざって漂っていた。人々の笑い声と話し声は絶えず、小さな村の冬の祝祭は、聖夜の市にも劣らないほどの賑やかさを見せていた。

 広場に足を踏み入れた途端、どこからかぱたぱたと駆け寄ってくる足音がした。見れば、年端もいかぬ子どもたちが数人、手袋をはめた小さな手を振りながらこちらへ向かってくる。 


「アデリナだ! アデリナとカミルが来た!」


 興奮気味にそう叫んで、子どもたちは私たちの周りに集まった。誰からともなく「すっごくきれいだったよ!」と声を上げ、あどけない瞳が真っ直ぐに私を見つめてくる。

「アデリナ、ほんとうに歌ってたんだよね?」とひとりの少女が訊いた。「ええ、そうよ」と返すと、子どもたちは「ね、やっぱり本物だって!」と顔を見合わせて跳ねるように笑った。

 私は言葉を返すより早く、目元が熱くなってしまって、ただ笑ってうなずいた。小さな手のひらが私の手を握り、次の瞬間には、誰かの腕が私に抱きついてくる。その温もりに、舞台の余韻がまた静かに胸を打った。


「カミル、あの歌また歌ってよ!」


 上がった声に視線を向けた先では、アルフレートのもとにも子どもたちが押し寄せていた。ぐいぐいと迫る子どもたちに囲まれて、片方の腕を引っ張られ、「カミルって普段何食べてるの?」と妙なことを聞かれ、背中を押されながら「もう一回、あの場面やって!」とせがまれる。

 最初のうちこそ、アルフレートはいつもの調子だった。子どもたちの奔放な好奇心にも動じず、にこやかな笑みを浮かべたまま、落ち着いて彼らの問いかけに応じていた。


「普段? 朝は自分で焼いたパンだよ。焼きたてをつまみ食いして、親方に怒られるのが日課でね」


 と、芝居がかった声色でさらりと返す。その声に子どもたちは「ほんとにカミルみたい!」「ねえ、もっと言って!」と湧き立つように騒ぎ出す。彼は目を細めて笑いながら、「参ったな」とつぶやいたが、それでも余裕の表情を崩さなかった。


 だが、子どもたちは容赦がなかった。片腕を取られ、今度は背中を押され、誰かがもう片方の袖をつかんだかと思えば、別の子が襟元を引っ張りはじめる。アルフレートの姿はたちまち子どもたちの海に呑まれていった。


「ほら、あの場面って、アデリナと会ったときのやつ!」「パンを渡すとこ!」「そうそう、“名前も知らない君だけれど”のとこ!」


「ちょっと待って、そんなに順番に言われても……いや、そもそも順番になってないか……」


 彼の声は次第に押され気味になり、最初の余裕は見る影もなくなっていく。笑顔は崩れずにいるものの、完全に包囲され、まるで人質のようだった。子どもたちの勢いに圧倒され、次第に彼の動きは鈍くなり、ついには両手を子どもにふさがれて、立ち尽くしていた。


「……エリーゼ、助けてくれないかな。さすがに僕、そろそろ戦力的に不利なんだけど」


 彼は私の方を振り返りながら言ったが、その腕はすでに三人の子に絡まれて、わずかに指先が動く程度だった。無理に振りほどこうともせず、かといって完全にあきらめてもいない、なんとも言えない困惑の顔に、私は思わず笑みをこぼした。


 なんとか子どもたちの手をほどき、アルフレートがようやくこちらへ戻ってきたのは、それからしばらく経った頃だった。


「歌うより体力を使った気がするよ」


 息を整えながらそうこぼす彼に、私は小さく笑って、「おつかれさま」とだけ言った。お祭りの一夜にふさわしい、にぎやかで心あたたまる光景だった。

 近くの屋台から、そんな様子を見ていた年配の女性が笑いながら声をかけてきた。


「あんたたち、今日の劇はほんとに素晴らしかったよ。さあ、これを持っていって」


 渡されたのは、熱々のシチューがたっぷり注がれた木椀だった。次の屋台では焼きたての甘い胡桃菓子、さらに隣ではりんごのワイン煮を手渡された。アルフレートにも同じように振る舞われていたが、彼は笑いながら「僕はおまけだね」と肩をすくめていた。

 私は丁寧に礼を言いながら、差し出された湯気ごしに人々の顔を見渡した。どの顔もあたたかく、やさしかった。舞台の上で紡いだ物語が、この小さな村の中に根づいて、ほんの少しでも人の心を照らしていたことが、胸に染み入るように嬉しかった。雪の夜は静かに深まっていくけれど、心はどこまでも温もりに満ちていた。

 

 ふたり分の手には、もう持ちきれないほどの食べ物と飲み物が抱えられていた。少し歩けばまた誰かに呼び止められ、また新たなご馳走が増えていく。気がつけば、私は何度「ありがとう」と口にしたか分からなかった。やがて屋台の明かりが遠のき、雪の降りしきる小道へとふたりで歩き出すと、あたりはまた静けさに包まれていった。人の声も、灯の熱も、徐々に背後へと溶けていく。


「ねえ、アルフレート」


 歩きながら、私は小さな声で呼びかけた。彼は足を止めずに、「うん?」とだけ返してくる。彼は手に持った胡桃菓子を一口かじりながら、特に何を言うでもなく、ただ私と並んで歩いていた。あの舞台に私を立たせてくれた人。その世界の扉を開いてくれた人。胸の奥から湧き上がってくる思いに、私は自然と口を開いていた。


「ありがとう。あなたはいつも、私の知らない世界を見せてくれるのね」


 言葉にしてみると、それはあまりに簡素で、幼いほどに率直だった。けれど今の私は、その一言しか見つけられなかった。どんなに飾り立てた言葉よりも、私の感謝と驚きと敬意をまっすぐに伝えてくれる気がした。アルフレートはわずかに足を緩めて、私の方を見やった。ほんの一瞬、何かを言いかけてから、彼は口元に静かな笑みを浮かべた。


「君の歌が、この夜を特別なものにしたんだよ。僕はただ、連れてきただけだ」


 その声は静かで、どこまでも優しかった。自分がしたことを誇るのではなく、私の成し遂げたことを静かに肯定してくれる、そんな響き。私は返す言葉を持たずに、ただ彼の横顔を見つめた。

 私たちはそのまま、ゆっくりと歩き続けた。足もとには雪が積もり、手には村の人たちの善意が重なって、心は満たされていた。エリーゼとして生きるこの村で、私は今、自分がどれほど多くの心に迎え入れられているかを知っていた。

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