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アデリナという少女

 稽古が終わる頃には、外はすっかり暮れていた。小屋の中には蝋燭が立てられ、かすかな灯火と余韻が揺れている。

 残っていたのは私とニーナ、それにアルフレートとユスティンの四人だけだった。床に置いた楽譜の束を整えたり衣装を片付けたり、私たちはそれぞれの手を動かしていて、室内には穏やかな沈黙が流れていた。


「……私、アデリナに向いていないのかしら」


 そんな最中、思わずこぼれるように言葉が出ていた。マルタさんに言われた言葉が胸の中に残っていて、どこか引っかかっていたのだ。私は上手くアデリナを演じられていないのではないか。そう思えば思うほど、自分の声や仕草が、どこかしら違っているように感じられてならなかった。


「いやいや、初めてであんなふうに歌えて、あんな堂々と演技できるなんてすげえよ。俺なんて最初の年、稽古が始まって三分で足が震えて声が裏返ったんだから」


 手を止めたユスティンが顔を上げて言う。大げさな口ぶりに、アルフレートがふっと笑う。


「うん、エリーゼは堂に入ってた。僕なんて、舞踏会の場面で出遅れそうになるのを必死でごまかしてるよ」


 冗談めかした言い方だったが、二人の目には真剣さもあって、私は少しだけ、肩の力が抜ける。


「……ありがとう」


 ようやくそう言うと、今度はニーナが口を開いた。少し考えるように目を伏せていた彼女は、やがて真っ直ぐに私を見た。


「たしかに、エリーゼのアデリナは今までのとは少し違うかも」


 ニーナのその言葉に、私は無意識に指先を固く握っていた。やはり私は、求められているアデリナを演じられていないのだろうか。胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じる。けれどその沈黙の隙間に、彼女の声がそっと届いた。


「でもね、私はあなたのアデリナが好き。品があって、気高くて……それでいて、どこか傷ついたり、迷ったりしている感じがあるの。そういうの、舞台にすごく深みを出すと思う」


 にこやかに、しかし真剣な眼差しで語られるその言葉は、胸の奥に小さく火を灯すようだった。誰かにそんなふうに見てもらえるとは思ってもいなくて、私はただ黙って見つめ返すしかなかった。そのまま、ニーナはほんの少し口角を上げる。彼女の瞳には、雪明かりのような微かな光が宿っていた。


「ねえ、だったらさ、今年はちょっと内容を変えてみるのはどうかな。たとえば——アデリナは実はいい子、っていう展開にしてみたり」


「え……?」


 不意打ちのような提案に、思わず声を漏らしてしまった。

 小屋の片隅には、古びた脚本が積まれている。年ごとに少しずつ書き足され、村の人たちが大切に受け継いできた物語。その伝統を、私ひとりのために変えてしまうなんて、そんなこと。


「でも、そんな……私なんかのために、伝統ある脚本を変えてしまっていいの?」


 問いかけというより、ほとんど自分自身への戒めのように、そう口にした。けれどユスティンは豪快に笑い、アルフレートも肩をすくめて見せた。


「いや、それ、面白そうじゃないか」


「ああ。もともと脚本って言っても、歌詞はちょこちょこ書き直してるし。今年の冬祭りも、ちょっと違う台本ってことでさ」


「そうそう!」とニーナが言葉を継いだ。「もともと歌劇って、みんなで作るものなんだし。演じる人が変わるなら、物語も少し変わっていいと思うの」


 私は、ゆっくりと顔を上げてニーナを見つめた。彼女の目には、ほんのりと未来を照らす灯がともっているように見えた。それは私に気を遣って脚本を書き換えるのではなく、ただ純粋に——この物語をもっと素敵にしたい、そんな想いがにじみ出ているようだった。


「たとえばさ、アデリナは本当は意地悪なんかしたくないの。でも母や姉に逆らえなくて、仕方なくフローラをいじめてしまう。……そんな設定にしたら、エリーゼのアデリナ、きっと素敵な役になると思う」


 彼女の言葉が空気の中に溶けていくのを感じながら、私はその場にじっと立ち尽くしていた。舞台装置の木の香りと、夜の寒さがわずかに入り込んでくる小屋の静けさの中で、胸の奥にかすかに震える何かがあった。

 それはまるで、霧の中から現れた見知らぬ少女が、そっと私の手を取ってきたような感覚だった。

 アデリナ——意地悪で、高慢で、王子にすがる姉。けれど、その仮面の奥に、誰にも言えない孤独や怯えを抱えていたとしたら。

 私はゆっくりと頷いた。心の奥に、まだ名前も持たぬ少女の影が静かに輪郭を持ちはじめていた。彼女の声が遠く小さく響く。どうして私は、こんなふうにしか生きられないの——と。


「それに、アデリナがとある村の青年と出会って、心を通わせる……そんな場面があってもいいかも。彼女自身が自分の願いに気づくような」


「それいいな!」


ユスティンが目を輝かせて身を乗り出し、即座に食いつく。


「俺、王様とお父さんの役やってるけど、村の青年もやろうか?」


 そう言ってユスティンは胸を張るけれど、隣で聞いていたニーナは小さく首を振って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ううん、カミルはもっと静かで、優しい感じの人がいいな」


 その言葉に、私は「カミル?」と小さく聞き返していた。ニーナは目を輝かせて、脇に積まれていた古い脚本の束の間から、数枚の白紙を引き抜いた。膝の上に置いた板の上に紙を広げ、手早く鉛筆を走らせはじめる。


「名前だよ、アデリナが出会う村の青年の。カミルって呼びたいの。静かでまっすぐで、人の痛みがわかる人」


 彼女の筆致は迷いなく、文字が紙の上に次々と現れていく。新しい物語の息吹が、静かにその場を満たしはじめるのがわかる。


「アデリナはね、最初はフローラに冷たくしてる。でも、本当はそんなことしたくなくて、ただ母親や姉の言うことを聞くしかなかったの。でもカミルと出会って、少しずつ変わっていく。誰かに従うんじゃなくて、自分の心で選ぶことを覚えていくの」


 彼女の言葉を聞いていると、その情景がまぶたの裏に浮かんでくるようだった。雪が降る村の外れで出会うふたり。寒さに頬を赤くしながら、カミルを前に話しはじめるアデリナ。名前も知らずに、ただ言葉を交わすうちに、彼女はほんの少し笑えるようになる。

 そのとき、ニーナが顔を上げて、まっすぐアルフレートを見つめた。


「ねえ、カミルの役、アルフレートがやってくれない?」


 ふいに呼ばれた彼は、一瞬ぽかんとして、それから少し眉を上げた。


「僕が?」


「うん。あなた、エリーゼの前だとちょっと優しすぎるくらい優しいじゃない。だからきっと、舞台でもそのまま自然にあたたかい雰囲気が出ると思うの。カミルはアデリナにとって救いみたいな存在だから」


 その言葉に、私は思わず視線を落とした。救いという響きが胸の奥に静かに触れてくる。誰にも期待されず、ただ意地悪な姉という役割を演じていた少女が誰かに肯定されるとき、彼女の心はどれほど感動に震えるだろう。

 アデリナという少女の孤独、葛藤、そして希望。私が彼女を演じたい。まっすぐにそう思った。誰かの型をなぞるのではなく、私自身の声で、身体で、彼女を生きてみたい。あの舞台の光の下で、一人の人間として、観ている人に届く物語を紡いでみたい。


「……私、演じたいわ、新しいアデリナを」


 声に出したのは自分でも驚くほど静かな一言だった。でも、言葉の芯ははっきりとした熱を帯びていた。ニーナは振り返って私を見て、そしてにっこりと微笑んだ。


「うん、そう言ってくれると思ってた。あなたのアデリナは、これからもっと素敵になる」


 彼女は手元の紙を整えながら、膝の上に載せた楽譜の余白に走り書きを続けていた。音符の線はまだ細く、仮の旋律の形も完全ではない。それでも、その筆先には迷いがなかった。書かれていくのは、アデリナとカミル——舞台の上で出会うふたりの魂の対話、そして変化の始まりの歌。


「この新しい歌のこと、ウェーバーさんに相談してみる。楽士の中でも一番音づくりにこだわる人だし、物語に深みがでるとなれば、きっと全力で考えてくれるよ」


 紙を重ねて抱え直し、彼女は立ち上がった。ユスティンもそれに続き、荷物をざっくりとまとめながらひとつ大きく伸びをする。


「そろそろ片付けるか。今日はずいぶん中身の濃い稽古だったなあ」


 アルフレートも穏やかな笑みをたたえたまま椅子を引き、軽く埃のついたコートを払った。


「いろんなことが一気に動き出した感じがするよ。いい方向にね」


 確かな期待を胸に、私たちは小屋の灯を順に消していった。夜の空気はすでに頬を刺すほど冷たかったが、なぜだか凛として心地よかった。

 閉じられた扉の向こうで、未完成の物語が静かに息づいている。明日からの稽古はもう決められた台本ではない。私たち自身の手で紡ぎ出す、誰も知らない新しい歌劇が、今ほんとうに始まろうとしていた。



 ◆



 翌朝、定められた時刻に合わせて、私はアルフレートとともに稽古場へと向かった。

 夜の冷え込みがそのまま残った朝の空気は冴えわたり、吐く息が白く立ち上る。けれど寒さに身を縮めるどころか、胸の内には確かな熱が灯っていた。昨日生まれたあの物語が本当に動き出すのだと思うと、足取りも自然と軽くなる。

 小屋の扉を開けると、すでに中ではいくつかの明かりが灯されていた。手を動かしているのは、案の定ニーナだった。ひとり、壁際の長机に譜面を広げ、鉛筆をくるくると回しながら、その端にさらさらと文字を書き加えている。


「おはよう、ふたりとも。昨日のうちにウェーバーさんに相談したら、夜通しで仮の旋律を書いてくれたの。さっき楽譜が届いたのよ」


「……もう?」


 驚くより先に、尊敬の念が胸を満たした。ニーナの決断力と行動力、そして楽士ウェーバー氏の情熱。歌劇はみんなで作るものだという彼女の言葉が、こうしてひとつずつ形になっていく。

 譜面を覗き込むと、そこには昨日までには存在しなかった旋律の連なりがあった。アデリナとカミル——ふたりが物語のなかで初めて出会い、心を通わせてゆく。そんな情景がそのまま音として紙の上に息づいている。

 やさしい和音の重なり、柔らかく伸びる線。始まりは戸惑いに満ち、それが次第に確信に変わっていく——そんな推移までもが旋律の流れに込められていた。


「ね、すごいでしょ?」と、ニーナは誇らしげに言った。


 扉が軋む音と共に、続々と人の気配が増えていった。演者たちが一人また一人と小屋の中へ入ってきて、ほどなく稽古場は昨日と同じ熱気を取り戻す。朝の空気をまとったままの衣服が、次第に温もりを帯びてゆく気配が肌に伝わってきた。

 ニーナは手にした楽譜の束を胸に抱き、小屋の中央に立つと、顔を上げて皆を見回した。その目に躊躇の色はなかった。前夜の思いつきが、すでに確かな構想となって彼女の中に息づいているのだと、誰の目にも明らかだった。


「みんな、おはよう。今日はひとつ提案があるの」


 自然と周囲が静まった。人々の視線が彼女に集まり、戸口に立っていた者も歩み寄ってくる。


「今年の『灰かぶり姫』に新しい場面を加えたいの。アデリナが実は心優しい娘で、でも家族の中で思うように振る舞えず……そんな彼女が、とある村の青年と出会い、少しずつ自分の心を見つけていく、って流れを」


 一瞬の沈黙ののち、誰かが「へえ」と小さく声を上げた。それに続いて、「それって、アデリナが変わるきっかけを描くってこと?」「悪い姉のままじゃないんだ」と、ぽつぽつと反応が漏れ出す。ざわめきはやがて好意的なものへと変わっていった。


「エリーゼちゃんのアデリナ、上品で優雅だったしね。正直、ただの意地悪な姉って感じじゃなかったから、そういう解釈もありだと思うな」


 背の高い女性がそう口にすると、別の青年が頷いた。


「うん、あの歌声なら、心の動きがある場面のほうが引き立つと思う。新しい場面、きっとエリーゼの見せ場になるよ」


 見せ場。そんなふうに自分の歌が受け取られる日が来るとは思っていなかった。マルタさんも腕を組みながら、周囲の反応に頷いていた。


「物語にもう一枚皮が増えるようでいいわね。新鮮だし、こういう変化も面白いと思うわ」


 マルタさんの口から賛成の言葉が出たとたん、胸の内がふっと軽くなった。元のアデリナを演じることは私には難しかったけれど、私らしい新たなアデリナが受け入れられている。


「じゃあ、村の青年の役はアルフレートで決まりか?」と誰かが言えば、彼はちょっと照れたように肩をすくめていた。小屋の中は、冬の寒さを押しのけるような熱と、穏やかな興奮に包まれていた。私は静かにその中心に立ち、手の中の楽譜を見つめた。新しい場面、新しい旋律、新しいアデリナ。今まで知らなかった少女の声が、心の奥で静かに響き始めていた。


 ニーナが周囲に譜面を配り始めたころ、私はアルフレートと目を合わせ、小さく頷き合った。彼とともに小屋の隅へと移動する。アルフレートが譜面を広げ、私はその横に腰を下ろした。風が窓をかすかに揺らす音の中で、二人で音符をなぞる。アデリナの台詞、そして歌詞の一節をそっと声に乗せてみた。アルフレートはすぐに応える。低く穏やかな歌声が、私の旋律に重なった。


 ——アデリナ。

 無理に誰かを傷つけて、愛されようとした少女。けれど、カミルという青年に出会って、自分のまことの願いを知る。ただ、笑いかけてほしかった。本当は、優しくしたかった。誰かに愛されて、ほんの少しの光が欲しかった。


 旋律の中でアデリナは語る。自分はひどい姉だった、誰の心にも触れられないまま、ただ母に従って生きてきた。笑うことも許されず、優しさを口にする余地もなく、母の望む役割を演じてきた。

 けれど、カミルと出会ったことで、何かが変わり始める。彼の優しい笑顔は彼女の心を溶かし、扉を開いたのだ。


 アルフレートの声が、アデリナの揺れる心を優しく受けとめる。彼の歌は、カミルという青年のまなざしそのものだった。誰かを裁くでも、問いただすでもない。目の前にいるアデリナという少女の声に耳を澄ませ、そっと答えるような旋律。

 君のことを知っても、僕のまなざしは変わらない。君が望むなら、それが本当の君なら、僕はそれを信じる——そう告げる旋律が、柔らかく流れていく。

 私はその音に身を預けながら、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていくのを感じていた。


 アデリナは気づいてゆく。恐れから身を守るための仮面ではなく、自分の内に確かに存在する、誰かを想う優しさと、それを伝える勇気。それを、自分も持っていてよいのだということに。

 旋律は次第にふくらみを増し、ふたりの歌声が重なって高まり、やがてまた静かにひとつの終止に向かって収束していく。

 ふと息を止めたような一瞬の沈黙の中で、私はただ楽譜を見つめた。指先の余韻に、まだ微かに音が残っている。

 暖炉もなく灯も少ない小屋の隅でも、心の奥には確かな火が灯っていた。


 アデリナという少女の声を、私は今、初めて本当の意味で理解したのかもしれない。彼女の孤独を、哀しみを、そしてその先にある微かな希望を、私の声で奏でることができたなら——。


 アルフレートがそっと譜面を最初の頁へ戻した。何も言葉は交わさなかった。もう一度最初から合わせようというように、彼が床を軽く叩いて拍をとる。そのしぐさを見て、私はうなずいた。

 この旋律が舞台の上でどんなふうに響くのか、今はまだわからない。それでも歌で語られるこの物語の中で、アデリナの歩みと同じように、私自身もまた、少しずつ前へと進み出していた。

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