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狩人の家の冬

 馬車は坂をゆっくりと登り、白く染まった森の間を抜けていった。車窓の向こうの木々の枝には雪が積もり、地面は一面の銀世界。凍った空気が肌を刺すようで吐く息が白く揺れる。やがて車輪の音が細くなり、馬車がゆるやかに止まった。扉が開かれると、吹き込む冷気に思わず身を縮める。


「着いたよ、ここがライプフェルトだ」


 アルフレートの声に頷いて、足元を確かめながら馬車を降りた。雪が深く積もっていて、ブーツが埋もれそうなほどの柔らかさと冷たさに息を呑む。


「こっちだよ」


 アルフレートは林道沿いの雪道を迷いなく進んでいく。私は歩幅を合わせながら、彼の足跡をたどるようにそのすぐ後ろをついていった。

 やがて森の白さの中に、深い緑の切妻屋根の家が見えてくる。積もった雪が自然と滑り落ちる形になっていて、雪と共に暮らす土地ならではの工夫なのだと足を止めて眺めてしまった。

 

 アルフレートが玄関の扉を軽く叩くと、内側で金具が外れる音がして、肩幅の広いがっしりとした体格の男性が姿を見せた。白い息を吐きながら、その人は目を細めて笑った。


「アルフレート、無事に帰ってきたな」


「ただいま、叔父さん。紹介するよ、彼女が学院の友人のエリーゼ・レッケル」


 そう紹介されて、私は馬車の中でアルフレートと考えた設定をふたたび頭の中に並べ直す。自分じゃない誰かになりきるなんて、やっぱり不思議で面白くて、私は勢いよく一歩前に出た。


「はじめまして、エリーゼと申します。お世話になります」


 意気揚々と名乗り、そのまままっすぐに手を差し出す。アルフレートの叔父様は口元をほころばせ、その大きな手を私の手に重ねてくださった。


「ようこそ、お嬢さん。ヘルマン・ヴァイスだ」


 握手を交わすと、指の節々に古い傷のような痕があるのに気づく。刃物で切ったような傷や火傷のようなものがあって、どうしてだろう、とふと疑問が灯った。


「寒かっただろう、中に入りなさい」


 促されて玄関へ足を踏み入れると、壁際に立てかけられた一丁の銃に目を奪われる。観兵式で見た軍の銃とも、父や兄の儀仗銃ともぜんぜん違う。装飾らしいものはほとんどなくて、木の部分は使い込まれたように暗い飴色になっていた。

 その隣の壁には鹿の大きな角が掛けられ、帽子が下げられている。玄関脇の棚には擦り切れた革の手袋、金色の薬莢、それから風合いのあるナイフ。

 人の家をこんなふうに見まわすのは失礼だとわかっている。わかっているのに、目が勝手に動いてしまう。だって、見たことのないものばかりだ。


「叔父さんのだよ」


 ふいに隣から声がして肩を跳ねさせた。アルフレートは私と同じように周囲を目で追って、苦笑いを浮かべている。


「うちは猟師なんだ。いつも森に入ってるから、道具は大体そこに置いてあって……ごめん、散らかってるだろ」


「ご、ごめんなさい……! 私のほうこそ、じろじろと見てしまって」


 私は慌てて取り繕うけれど、好奇心が先に口からこぼれそうで、つい近寄って眺めてしまう。


「……でも、すごく素敵だわ。狩りの道具なんて、私初めて見るの」


 金属は鈍く光っていて、長く働いてきた道具なのだと伝わってくる。金具の細工や木目、手袋の擦れた跡に、見知らぬ世界が物語みたいに詰まっている気がした。


「ねえ、森にはどんな動物がいるの?」


 振り返って問うと、アルフレートは少しおかしそうに片眉を上げて、指を一本ずつ折りながら名前を挙げていく。


「野うさぎに、リスもよく見る。それから、鹿も」


「鹿! 本当に?」


「そんなに食いつくとは思わなかったよ」


 その一言で胸が跳ねてしまって、つい前のめりになってしまう。苦笑するアルフレートの後ろで、ヘルマンさんが豪快に笑い声を上げた。


「鹿が好きなら、お嬢さん、運がいいぞ。昨日大きな鹿をしとめたところでね。夕飯にさばいて出そうと思ってる」


「ディナーに、鹿のお肉……」


 知らない世界に足を踏み入れたようで、自分でも驚くほど胸が高鳴る。ヘルマンさんは楽しそうに目尻をほころばせると、続けて言った。


「立派な角の雄鹿だったぞ。あとで見せてやろう」


「ほんとうに? 見たい、すごく見たいわ」


 喜びを隠すことなんてできない。貴族の嗜みとしての狩りなら知っているし、鹿肉も宴席で口にしたことはある。でもこうして生業として命をもらい、生活を立てている人が目の前にいるということは、驚きと敬意が混ざり合う不思議な新鮮さを帯びていた。


 それから部屋に荷物を置かせていただくと、旅の疲れがほんの少し肩から落ちる。窓の外には白い森がどこまでも広がり、あたりを包む沈黙は深いけれど怖いとは思わなかった。むしろここで過ごす時間がどんなものになるのか、楽しみで仕方がない。

 夕飯までにはまだ時間がある、とアルフレートが言ったので、私は迷わず彼の袖を軽く引きながら頼んだ。


「ねえ、外を歩きましょう。森が気になるの。すこしだけでいいから案内して」


「……危ないから、入り口の近くだけだよ。絶対に奥までは行かない」


「分かっているわ。大丈夫、ちゃんとついていくから」


 外に出ると空気はさらに冷たく澄んでいて、肺の奥まで雪の匂いが満ちていく。アルフレートの足跡を追うように雪を踏むたび、きゅっ、と音が鳴った。

 森の中では葉の重なりが風を受けて微かに揺れ、そのたびに針葉樹の奥で光がゆっくりと動く。王都では決して見ることのできない光景に胸が高鳴って仕方がない。


「野うさぎの足跡ってどんなふうに残るの?」


 私が身を乗り出すと、彼は少し笑いながらすこし先の地面を指さした。


「ほら、こうやって後ろ脚が前にくるんだ。跳ねて進むから両足が並んでるんだよ」


「ほんとね……かわいい。それじゃあ、リスはどこにいるの?」


「高いところ。ほら、あの枝のあたり。時々松ぼっくりを落としてくる」


「リス、見てみたいわ」


「僕はあんまり好きじゃない。昔、木の下で本を読んでたら耳を噛まれたことがあって」


「……馬にリスに、あなたは何か美味しそうな匂いでもしているのかしら」


 そのとき、木々の向こうで何かがこちらをうかがう気配がした。風が止まり、薄曇りの光が斜めに差して、私は顔を上げる。


 そこにいたのは、一頭の鹿だった。


 細い脚をまっすぐに揃え、こちらをじっと見ている。冬毛は淡く光をまとっているみたいで、首筋の線はしなやかながらも力強い。

 雪の中で、息だけが白く立ちのぼる。枝葉の間からこちらを見つめているその瞳は澄んでいて、森の静けさがそのまま宿っているようだった。


「……鹿だわ!」


 鹿はその声に驚いたように小さく身じろぎしたけれど、逃げずにもう一度こちらを見た。しばらく見つめていると、ふっと身を翻し雪の奥へ消えてゆく。 名残惜しくその影を追いながら、私は隣のアルフレートを見上げた。


「アルフレート、あなたも鹿を撃ったことがある?」


 彼はきょとんとしたように瞬きし、それから首を横に振る。


「ないよ。撃ちたいと思ったことがないんだ。祖父が生きてたころは何度か銃を教えようとしてくれたけど、そのたびに理由をつけて逃げてた」


「そうなの?」


「うん。でも、男なら一度は獲物を仕留めてみろってよく叱られたな。祖父さんは考えが古いんだ」


 ……古い、といえば、私にも似たような記憶がある。幼いころ、親族の集まりで従兄弟たちと庭を駆け回って遊んでいたら、私だけが叱られた。木登りだって彼らは「やんちゃだな」と一言で済んだのに、私だけは「そんなことをするものではない」と長々言われた。

 

「そうね、女の子だって獲物を仕留めたい時があるわ」


 私が言うと、アルフレートは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと息を漏らして笑った。


「うん、そうだね。それは……そうだ」


 気がつくと陽は沈みかけていて、木々の影が長く地面に伸びていた。空気の温度が一段下がり、指先がひんやりする。


「そろそろ帰ろうか。暗くなる前に」


 二人で並んで歩き出すと、雪を踏む小さな音だけが帰り道に点々と残っていった。森の奥はすでに薄闇が満ちていたが、家の方には温かな光が滲んでいて、その灯りがやけに心地よく思えた。



 ◆



 夕食の席には香ばしい匂いが満ちていた。ヘルマンさんが手際よく焼き上げてくださった鹿肉のステーキは、表面に肉汁が浮いていて、ほんのり野性味のある香りがする。


「さあ、食べてごらん。若い鹿だから柔らかいぞ」


「ありがとうございます。……とっても美味しそうだわ」


 切ってみれば驚くほど柔らかくて、刃が簡単に沈んでいく。一口頬ばると、香ばしさと深い旨みが舌に広がって目を見開いてしまう。


「叔父さん、普段より明らかに気合い入ってるよね」


「そりゃあ、お客さんが来てるんだから当然だろう」


「いつもこうならいいのに」


「贅沢言うな」


 そんな二人のやり取りがおかしくて、私は笑いながらフォークを口に運んだ。食卓はあたたかく、外の冷たい空気が嘘みたいだった。


「お嬢さん、森は怖くなかったか?」


「はい。むしろ、とても楽しくて……すっかり好きになってしまったくらい」


「それは嬉しいね。あの森を好きと言える人はそう多くないんだが」


「……僕たちは“用心しろ”って言われながら育つからね」


 アルフレートが苦笑まじりに言う。山の暮らしの空気がその一言ににじんでいて、私は彼が幼い頃どんなふうにあの森を見ていたのかを思ってみる。


「鹿を見かけたんです。それから野うさぎの足跡も……他にはどんな動物がいるのかしら」


 あの清らかな森の静けさの中で、陽に照らされた鹿の横顔がふと浮かんだ。私の言葉に、ヘルマンさんがナイフを置いて「ほう」と頬をゆるめる。


「昔は熊もいたんだぞ」


「熊?」


「ずっと昔の話だ。先代の猟師たちが獲り尽くしたのか、山を移ったのか、もう何十年も姿を見ていない」


 熊と言われて、祖父母の古い屋敷が頭に浮かんだ。祖父が仕留めたという大きな黒い毛皮が床に敷かれていて、幼い私は波打つ毛並みに触れながら、生きていた頃はいったいどんな姿だったのだろうと想像を繰り返していた。

 どれほど大きかったのか、どんな風に動いたのか、黒い毛は森の影みたいに見えたのだろうか——そんなことを思いながら。


「見てみたいわ。どんな姿かしら……」


「いや……見られたら困るよ」


 ぽつりと口に出すと、横にいたアルフレートがすぐ苦笑する。「どうして?」と聞き返すより早く、彼は鹿肉をナイフで切り分けながら付け足した。


「見たら最後、狩られるのはこっちだ」


 ……そうよね。ただ想像しているぶんには綺麗な輪郭をまとってくれるけれど、現実の姿はきっと甘いものじゃない。物語や絵の中だけで眺めているほうが、夢のような姿でいられるのかもしれない。




 食事が終わると、ヘルマンさんが立ち上がって「部屋を案内しよう」とランプを手に取った。廊下は木の匂いに満ちていて、夜の静けさが外より一歩先にこちらへ忍び寄ってくるみたいだった。


「ここだ、気に入ってもらえるといいが」


 案内された部屋は、まるで絵本から抜け出したような空間だった。明るい木目の家具に、花模様のカーテンと刺繍のクッション。手編みのレースがかけられた小ぶりな鏡台も可愛らしくて、少女の日記の中の寝室をそのまま再現したみたいに見えた。


「ここは私の姉——アルフレートの母親が使っていた部屋なんだ」


 そう言われて、私はようやくその人に思い至る。そういえば、アルフレートのお母様には、まだお目にかかっていないわ。

 初めてのことばかりで頭の中がふわふわとしていたせいか、そのことに今まで気づいていなかったのが不思議に思えるほどだった。家の中に他の人の気配はなかったから、きっと出かけていらっしゃるのだろう。今日は遅いから、会えるのは明日かしら。


「……とても素敵なお部屋。どうもありがとうございます」


 ヘルマンさんが「ゆっくり休むといい」と言って扉を閉めると、部屋は静けさに包まれた。さっきまでの食卓の笑い声が夢みたいに遠のいて、ランプの淡い光だけが私を柔らかく照らしている。

 私は窓辺に置かれた小さな椅子に近づき、そっと腰を下ろした。窓の外には深い夜の色に染まった空が広がっていて、その中に散りばめられた無数の星が、まるで冷たい空気の中で息をしているみたいに瞬いていた。


 星を眺めながら、私は今日のことを一つずつ思い返す。馬車で揺られながら見た景色や、アルフレートの足跡を追いかけて進んだ雪道の感触。

 森の入り口で教えてもらった野うさぎの足跡の形、それから、あの白い森にふいに立っていた一頭の鹿。どれも私の知る生活とは違っていて、初めて触れるものばかりだった。少し戸惑って、それ以上に胸が弾むような感覚がずっとついて回った。


 ——ここでの日々を、私はきっと好きになる。


 明日から始まる時間を思い浮かべると、眠るのが惜しいほどの期待で胸が膨む。星の光は遠くて小さくて、それでもどれも確かにそこにある。見つめているうちに、そのひとつひとつが胸のうちを照らしてくれるような気がした。

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