ライプフェルトの雪
霜の降りた石畳の停留所に、北部行きの大きな馬車がゆっくりと滑り込んできた。車輪が凍てついた地面を噛む音が、静かな朝の空気を震わせる。私は木製の階段を一段ずつ踏みしめ、深く息を吸った。頬を刺すような寒さの中、ぽつりぽつりと積もった雪が氷の結晶のように光を反射している。
扉を引いて馬車の中に乗り込むと、席にはすでに数人が腰かけていた。乗合馬車という存在は知識として知ってはいたが、乗るのはこれが初めてだった。
座席には地元の商人や農夫、あるいは荷物運びらしき屈強な男性。口々に旅の行程を確かめる声が交錯し、北へ行くという共通の目的が乗客たちをひそやかに結びつけている。
御者が声をかけ、握った手綱のさばきで馬を動かす。重厚な車体が軋み、小さく弾むようにして馬車はゆっくりと発車した。振り返ると停留所の小屋が遠ざかっていく。背後から雪を踏む足音が消え、冷たい風だけが車窓を撫でる。
「乗り心地は大丈夫?」
隣に座るアルフレートが、私の様子を気遣うように声を落とした。彼の声はいつものように穏やかで、私は少し安心する。
「ええ、大丈夫よ。でも、すこしだけ緊張しているの」
言葉にして初めて、自分がいかに不安と好奇心の入り混じった気持ちでこの旅に臨んでいるのかを実感した。揺れる車内、並んで座る他の乗客の気配、車窓に流れていく見知らぬ風景。すべてが新しく、どこか心細い。
「大丈夫だよ、君ならすぐ慣れる。……それに、もうしばらくすれば、景色もだんだん雪に変わるはずだ。きっと綺麗だよ」
彼の言葉に、私は小さく頷いた。馬車は街路をゆるやかに進み、王都の景色が離れていく。
アルフレートは膝の上に置いた鞄の革紐を弄りながら、時折、私の方へ目をやった。何か言いたげに口を開きかけ、けれどすぐに閉じる。その様子がどこか可笑しくて、私は思わず微笑んだ。
「どうしたの?」
「……いや、君がこうして一緒に来てくれるのが、ちょっと不思議でさ。まだ実感が湧かないんだ」
「私もよ。夢を見てるみたい」
笑い合った後の沈黙は、気まずくはなかった。馬車の揺れに身を任せながら、私はそっとマントの端を引き寄せた。アルフレートの肩に少しだけ触れそうになって、でも、そっと距離を保つ。
最初の停留所、小さな集落の入口で一度扉が開き、数名の農夫が降りた。彼らの顔は赤らみ、凍った息を吐きながらも足早に家路へ戻っていく。
馬車に残された座席はほんのわずかに空き、次に分厚いウールのマントを羽織った年配の修道士が乗り込んできた。灰色の頭巾を軽く下ろしながら、「失礼しますよ」と柔らかい声で言って、私の隣に腰を下ろす。彼の吐く息もまた白く、外の寒気をそのまま連れてきたようだった。
「おやおや、お若いお二人。恋人同士ですかな?」
修道士はふと私たちの顔を順に眺め、穏やかな笑みを浮かべて言った。私はきょとんと目を瞬いた。すぐには言葉が出ず、隣のアルフレートを見ると、彼もまた一瞬目を見開いたあと、鞄の革紐を指先で弄ぶのをやめて私の方を見た。
「い、いえ、そういうわけでは……」
すこし遅れて私が慌てて否定すると、修道士は小さく笑って、手のひらを上げてみせた。
「これは失礼。あまりにもお似合いだったので、つい」
おだやかで悪意のない口ぶりに、私は顔が熱くなるのを感じながらもやわらかく微笑んだ。隣のアルフレートは視線を窓の外に向けたまま、小さく咳払いをしていた。
馬車は雪の気配を運ぶ北風を切って、道を静かに進んでいく。外はすでに曇天に覆われ、白い霜の降りた畑と、枯れかけた木立が連なる田舎道が続いていた。
いくつかの停留所を過ぎ、乗客の数はさらにまばらになっていった。雪深い高原を越えれば、もっと寒さは厳しくなるという。馬は息を荒げるが、その足取りは確かだった。凍てついた大地を蹴り、馬車を北へ、北へと押し進めていく。
「そうだ、エリザベート」
アルフレートが、ふと思い出したような声で私の名を呼んだ。私は顔を向ける。
「なあに?」
「ちょっとお願いがあるんだ。向こうでは、君が貴族のお嬢さんだってこと、隠してくれる?」
私は目を瞬かせた。驚きはしなかったけれど、思っていたよりも深刻に切り出されたので、つい笑いそうになる。
「どうして?」
「いや、学院の友人を連れて帰るって言ってあるんだけど……まさか貴族の娘なんて知ったら、みんなびっくりすると思うんだ。下手したら村人総出で寝込むかも」
私が笑うと、アルフレートは「半分は本気だ」とやけに真面目な顔をして言った。
「だからさ、ちょっとだけ設定を考えておこうと思って。……たとえば、君はエーレ学院に通う商家の娘のエリーゼ・レッケル。どう?」
「エリーゼ・レッケル?」
「うん。ご両親は服飾店を営んでいて、王都の南通りにお店がある。これなら君のドレス姿にも説明がつくはず」
彼はすっかりその気で、目を輝かせながら話し続ける。あまりに綿密な設定に私は思わず吹き出した。
「……なんだか面白いかも。でも家名はともかく、エリザベートまで隠す必要があるの?」
「王都じゃ珍しくないかもしれないけど、地方じゃ“エリザベート”は充分高貴で立派な名前なんだ。昔の王妃様にもいるくらいだし。君がエリザベートって名乗ったら、翌朝には肖像画が飾られてるかもしれない」
彼はことさら真面目な顔でそう言って、一人で納得するように目を閉じて頷いた。私はくすくすと笑って、マントの端をそっと引き寄せた。ほんのわずかに肩と肩が触れたけれど、彼は気にする様子もなく、何でもないようにこう言った。
「それからエリーゼは音楽の素養がある。ピアノを習っていて、学院では音楽が得意科目。これは君らしいだろ? あと街で評判のパン屋が近所にあって、幼いころから毎朝そこのクロワッサンを食べて育った」
「なにそれ」
「大事な情報だよ。現実味が出るから」
二人で顔を見合わせて笑った。“エリーゼ・レッケル”を形づくっていく作業は、まるで秘密を共有するようで、思った以上に楽しい。
「自分じゃない誰かになりきるって、不思議で面白いわ。せっかくですもの、今のうちからエリーゼと呼んでみてくださる」
「君がそれでいいなら、僕はずっとエリーゼ嬢と一緒に旅してたいくらいだよ」
窓の外を見ると、周囲はすでに雪景色へと変わっていた。車窓が霜で縁取られ、雪をいただいた木々の梢が流れていく。薄曇りの空に太陽の輪郭はぼやけ、遠くの山裾がしんと白く沈んで見えた。
馬車は坂をゆっくりと登り、白く染まった森の間を抜けていった。窓の外には、見慣れぬ風景が続いていた。木々の枝には雪が積もり、地面は一面の銀世界。凍った空気が肌を刺すようで、吐く息が白く揺れる。やがて車輪の音が細くなり、馬車がゆるやかに止まった。扉が開かれると、吹き込む冷気に思わず身を縮める。
「着いたよ、ここが僕の故郷、ライプフェルトだ」
アルフレートの声に、私は頷いてから足元を確かめながら馬車を降りた。雪が深く積もっている。ブーツが埋もれそうなほどの柔らかさと冷たさに、思わず息を呑んだ。
雪用のブーツを選んできて正解だった。裾を押さえながら歩を進めると、周囲の家々からはうっすらと煙が上がっていた。それでも人の気配は少なく、静けさの中で雪がしんしんと降り続いている。
「こっちだよ」と言って、アルフレートは雪道を先導した。歩幅を合わせて彼のすぐ後ろをついていくと、やがて見えてきたのは、深い青緑の屋根に雪を載せた木造の家だった。窓辺には小さな鉢植えとレースのカーテンが揺れており、古びた造りながらどこか暖かな雰囲気がある。
扉が開く音がして、そこに立っていたのは、がっしりとした体格の壮年の男性だった。白い息を吐きながら、彼は目を細めて笑った。
「おお、アルフレート。無事に帰ってきたな!」
「ただいま、叔父さん。紹介するよ、彼女が学院の友人のエリーゼ・レッケル」
アルフレートが一歩脇に退いて私を促すと、私は深く一礼した。
「はじめまして、エリーゼと申します。お世話になります」
馬車を降りてからというもの、もう自然とこの名前で名乗ることに違和感はなかった。目の前の男性——アルフレートの叔父様は、にっこりと口元を綻ばせて、こちらを覗き込むように言った。
「ようこそ、お嬢さん。ヘルマン・ヴァイスです。寒かっただろう、早く中に入りなさい」
彼の声は大きく、どこか懐かしいような、暖炉の火のようなあたたかさがあった。差し出された手を手袋のまま軽く取ると、私はほっと胸を撫で下ろした。張り詰めていた旅の緊張が、彼の笑顔にゆるゆるとほどかれていくのを感じる。
雪で濡れたマントを脱ぎ、ブーツを履いた足を一歩家の中に踏み入れた瞬間、足元の敷物の柔らかさと、室内のぬくもりに思わず安堵の息が漏れた。暖炉の薪が静かに弾け、部屋の中には木の香りがほんのり漂っている。
「さあさあ、こっちだ。部屋を用意してある」
そう言ってヘルマンが案内してくれたのは、二階の一室だった。部屋の扉を開いた瞬間、私は小さく息を呑む。
そこは、まるで絵本から抜け出したような空間だった。明るい木目の家具に、花模様のカーテンと刺繍のクッション。刺繍入りのレースがかけられた小ぶりな鏡台と、棚の上には乾いた花束が飾られている。ベッドの枕元には、リボンのついた小さなぬいぐるみがひとつ、ちょこんと置かれていた。
「まあ……なんて可愛らしいお部屋」
思わず感嘆の声がこぼれると、ヘルマンさんは懐かしそうに笑った。
「気に入っていただけて嬉しいよ。ここは私の姉——アルフレートの母親が娘だった頃に使っていた部屋なんだ。今では時おり客人用に使うだけだが——ほら、女性向けの部屋はほかになくてね」
そう言われて、私はふと、ようやくその人に思い至った。
そういえば、アルフレートのお母様には、まだお目にかかっていないわ。
初めてのことばかりで頭の中がふわふわとしていたせいか、そのことに今まで気づいていなかったのが不思議に思えるほどだった。家の中に他の人の気配はなかったから、きっと出かけていらっしゃるのだろう。会えるのは今夜か、それとも明日か——。なんにしろ、お会いできるのが楽しみだ。
「荷をほどくのはあとで構わんよ。まずは道中の疲れを癒してくれ。あたたかい飲み物でも用意するから、下へおいで」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
私は手袋を外し、トランクとマントを室内の小さな椅子の上に置かせていただいた。階段を降りていくと、木の軋む音が心地よく耳に届いた。壁には素朴な風景画や、古びた掛け時計が飾られていて、ほっとするような温もりがある。台所の方からは、火にかけた薬草茶の香りがゆるやかに漂ってきていた。
「さあ、好きなところに座ってくれ。アルフレートもほら、お嬢さんの隣に」
「……そんなにお嬢さんって言わないでよ、叔父さん」
アルフレートが少し恥ずかしそうに口を尖らせると、ヘルマンさんは豪快に笑った。
「いいじゃないか。気立てもよくて上品な子だ、どこからどう見ても立派なお嬢さんだろう?」
私が「いえ、そんな……」と遠慮がちに微笑むと、ヘルマンさんはお湯を注いだポットと三つのカップをお盆に載せて戻ってきた。
「寒い道中だったろう? これでも飲んであったまってくれ。ミントとレモンバームを少しな、うちの庭で採れたやつだ」
「まぁ、手づくりのハーブなのですね。とても香りが良くて……ありがとうございます」
湯気の立つカップを両手で包み込むように持ちながら、私はふうっと息を吐いた。ハーブの優しい香気が、胸の奥まで届いてくるようだった。
こんなふうに誰かの家に迎え入れられて、火のそばでお茶をいただくなんて。初めて尽くしの旅のなかで、少しずつ体の芯がほぐれていくのを感じながら、私はふと視線を横に向けた。
アルフレートは、私の表情をちらりと見て、なぜか少し照れたような顔をしていた。彼にとってこの家は帰る場所なのだという事実が、しみじみと胸に落ちる。
「道中は順調だったかい? 雪道は慣れないと足を取られるからな。エリーゼ嬢、靴はしっかりしたのを履いていただろう?」
「はい、こんなに深く積もっているとは思っていませんでしたわ。雪用のブーツを持ってきて、本当に良かったです」
思わず笑って答えると、ヘルマンさんは「そうか、それは何よりだ」と嬉しそうに頷いた。
「ここらは朝晩の冷え込みも厳しいからな。今夜はしっかり温まって、ぐっすり休むといい。部屋の暖炉もあとでもう一度見ておこう」
「ありがとうございます。ご親切にしていただいて……」
「なに、お客をもてなすのは好きなんだよ。こうして若い人が来てくれるのは、私も楽しみでね」
彼はそう言いながら、アルフレートに視線を投げると、にやりと口元をゆるめた。くつろいだ様子でカップを手にしながらも、その目にはどこか面白がっているような色が宿っている。
「しかし、アルフレートが女の子を連れて帰ってくる日が来るとは思わなかったなあ。いや、立派になったもんだ」
「叔父さん、またそういうことを……」
アルフレートがあからさまに狼狽し、カップを持つ手がわずかに揺れたのを見て、私は思わずくすりと笑ってしまった。笑い声が、しんと静かな家の空気にふわりと溶けていく。暖炉の火がぱちぱちと小さく爆ぜ、カップの中のハーブティーはまだやわらかな湯気を立てていた。窓の外を見ると、雪はすこし強まったように見えた。しかし家の中には対照的なぬくもりがあって、私はこの土地での滞在をきっと好きになるだろうと、確信めいた予感を抱いた。




