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冬の招待

 カーテンの向こう、中庭の木々はもう葉を落とし、細い枝先が白くけぶる空に伸びている。朝の冷気は刺すようになり、吐く息は白く濁る。

 エーレ学院に、ふたたび冬が訪れた。校舎の窓辺にはうっすらと霜が降り、芝生は凍りついて朝陽を返している。廊下を渡れば、毛織の外套を羽織った生徒たちが吐く息を弾ませながら歩いていた。

 学院の中でも冬支度は進んでいて、どこもかしこも冬の匂いがする。薪の匂いを纏った暖炉の炎が毎朝決まった時刻に点けられるようになり、暖かいミルクの用意された食堂には早起きの生徒たちが少しずつ増えている。

 もうすぐ冬季休暇——寮の部屋では荷造りの音が絶えず、手紙のやりとりも一段と活発になる。講義の合間には今年は家族とどこへ行くのか、雪はどれほど積もるだろうか、贈り物はもう用意したか、そんな他愛もない会話がそこかしこで交わされていた。


 そんなざわめきの中で、私は廊下の窓辺の椅子に腰かけて外の庭を眺めていた。寒さの中でひとつ息を吐くと、ガラス越しに見る空は低く、雪雲を孕んで鈍く広がっていた。


 冬季休暇は今年も学院に残るつもりだった。口実はいくつでもある。課題の提出、冬季講習の自主参加、図書室の整理の手伝い。だけど、そんなものはただの上塗りの言い訳にすぎない。本当の理由はいつもと同じ。あの屋敷には、私の居場所がないから。


 クララは今年も家族のもとに帰るという。あたたかな屋敷で、家族に囲まれながら過ごす冬。彼女には、そういう世界がきちんとある。私にないものが、彼女の傍にはある。

 もちろん、クララに会えないのは寂しい。だけどそれは去年も同じことだった。冬の休暇は夏よりずっと短いのだから、きっとまたすぐに笑顔で顔を合わせる日が来る。そう自分に言い聞かせれば、やり過ごすことはできる。


 ……けれど、今年はそれだけでは済まなかった。


 アルフレートも故郷へ帰るのだという。当然といえば、当然の話だった。去年の冬、彼はやむを得ない事情のため学院に残っていただけ。彼にも家族がいて、年の瀬を迎えれば彼は帰る場所がある。 

 一年前の冬の日々を思い出す。アルフレートとともに過ごした時間は、陽だまりのように気楽で、そしてあたたかかった。

 年末も年始も特別なことは何もなかったけれど、雪を踏みしめながら一緒に歩いた中庭や、暖炉の前で交わしたとりとめのない会話が、今でもふとした拍子に思い出される。小さな笑いも静かな沈黙も、あの季節の色と一緒に心に残っている。


 それが今年は叶わないのだと思うと、思いのほか心が冷えていくのがわかった。私は自分でも気づかないうちに、アルフレートの存在にずいぶんと救われていたのだと、今になってようやく思い知る。


 がらんどうの食堂、誰もいない図書室。火の消えた暖炉の前に、一人きりで座る自分の姿がありありと思い浮かぶ。

 帰る家がないわけではない。けれど、帰っても居場所があるとは限らない。


「……仕方ないのよね」


 私はつぶやいて吐息を落とした。一人で過ごす冬は寒いだろう。それでも、ぬくもりのない屋敷に帰るよりはずっと気が楽だった。


 するとそのとき、廊下の向こうから誰かの足音が近づいてきた。一定で迷いのない、けれど急がない歩調。


「エリザベート」


 ふいに名を呼ばれそちらへ振り返ると、廊下の向こうにアルフレートの姿があった。彼は朝の冷気をまとったまま歩み寄り、私の前でふっと表情をやわらげる。


「ちょうど探してたんだ。話したいことがあってさ」


 言いながら、制服の上に羽織った外套の裾を軽く整えて、私の隣に腰を下ろす。その動作があまりにも自然で、まるでここに来ることが最初から決まっていたみたいに思えた。


「今年も休暇は学院に残るつもり?」


「ええ。特に帰る理由もないもの」


 なるべく感情を込めずに、努めて平静に言葉を選んだつもりだった。けれどその実、心のどこかでは身構えていたのかもしれない。ほんのわずかに視線を泳がせた私の仕草を、アルフレートは見逃さなかった。


「……去年の夏、休暇から戻ってきたとき、少し様子がおかしかった」


 その一言が胸の奥で針のように刺さって、私はわずかに息を詰めた。咄嗟に返す言葉が浮かばないまま、視線を膝に落とす。


「君はいつも通りに振る舞ってた。でも僕もクララも気づいてた。たとえば話の途中で急に黙り込むようになったし、誰も見てないところでよく遠くを見てたり」


 その通りだった。誰にも悟られないように、笑顔も言葉も取り繕ってきたつもりだった。でも——。


「……気づいていたのね」


 かすかにこぼれた声は、自分のものなのに遠く感じられた。あれほど必死に感情を隠し、日々を何ひとつ変わらない顔で過ごしていたはずだったのに。私が不意に黙って目を伏せたその時間は、きっと彼の目には確かな違和感として映っていたのだと思う。


「僕だけじゃない。クララもきっと心配してる。今年の夏、あの子が君を避暑地に誘ったのもたぶん同じ理由だ。君を放っておけないと思ったからだよ」


 クララの笑顔がふと脳裏によぎる。何も言わずに差し伸べられた手と、明るく柔らかい声。あの夏、クララがくり返し言ってくれた言葉を思い出す。

「ひとりではきっと退屈してしまう」「こうしてご一緒できて、本当に嬉しい」……そう言いながら、彼女は何度も私の心を安らげてくれた。

 私が言葉にしないことも、きっと最初から察していたのだろう。それでも私の負担にならないようにと、決して「心配だから」とは言わなかった。ただそっと手を伸ばすようにして、私を包み込もうとしてくれていた。


「……それで、僕も何かしたいと思った」


 アルフレートの声は、どこまでも静かだった。語調に押しつけがましさは一片もなくて、ただ真っ直ぐで、揺るぎない想いがそこにあった。彼が私の方を向いているのがわかった。視線を受け止める勇気が持てなくて、膝の上で組んだ手をぎゅっと握る。


「うちに来ない? 冬の休暇。よかったらさ」


 その言葉が空気を揺らして、時間が一瞬だけ止まったように感じられた。心臓の音が遠く聞こえて、息をするのも忘れそうになる。


「……私が?」


 自分の声が、自分のものとは思えないほど弱々しく響いた。驚きと戸惑いと、そしてそれ以上の喜びがにじみ出てしまったことが恥ずかしかった。でも彼は笑って、うなずいてくれた。


「うん。村で祭りがあるんだ。地元の人たちが集まって、劇をしたり歌を歌ったり。雪は深いけど、スープは温かいし、パンも甘くておいしい。派手じゃないけどにぎやかで楽しいよ」


 彼の言葉にはたくさんの幸せが詰まっていて、目を閉じれば、薪の香りと笑い声が交ざり合う風景が浮かんできそうだった。

 きっとそのお祭りには、私が今まで触れたことのない温かさがあるのだろう。誰かのために焼かれたパンや、歌われる歌や、集う人々の笑顔。


「無理にとは言わないよ。でもここにいるよりずっと楽しいと思う。君が少しでも気楽に過ごせるなら、それが一番だって思ってる」


 その言葉に、私はもう何も返せなかった。

 胸の奥にじんわりと熱いものが満ちてくる。思いがけず浮かんだ涙が、まばたきでこぼれないように、私はそっと目を伏せた。


「……ありがとう、アルフレート」


 声は震えていた。押し殺したつもりなのに、想いが言葉のすき間から零れ出てしまう。彼は何も言わずに、ただ穏やかに私を見守っていた。そのまなざしに、私は言葉を続ける勇気をもらう。


「私……あなたたちに、そんなふうに思ってもらえるなんて思っていなかったの。ほんとうに、ありがとう。誘ってくれて。私のこと、気にかけてくれて」


 アルフレートも、クララも、私にはないものをたくさん持っている。愛される居場所に、差し出される言葉と、誰かと過ごす時間。

 二人は、それらを私にためらいもなく差し出してくれる。まるで当然のことのように、優しさを分けてくれる。

 アルフレートは私の言葉を聞いて、照れたように目を細めて笑った。


「感謝されるようなことはしてないよ。ただ、君に笑っててほしいって思っただけだ」


 あっさりとしたその言葉が、かえって心に沁みる。そんなふうに何でもないことのように言えるところが、きっと彼の一番優しいところなのだと思った。




 それから、私はすぐに寮に戻った。部屋に入るとクララはちょうど荷造りの途中だったらしく、小さな旅行鞄を手に振り返る。


「エリザベート。そんなに慌てて、どうかなさいましたの?」


「少し話したいことがあって……いいかしら?」


 クララはすぐに頷いて、窓辺の椅子を指し示してくれる。私はそこに腰を下ろして、さきほど交わした会話のことを話した。アルフレートが冬に招いてくれたこと、そして——あなたが、去年の私に気づいていてくれたことも。

 話し終えるとクララはふうっと小さく息をついて、そっと手を伸ばして私の手を包んだ。


「わたくしはただあなたに、少しでも穏やかな時間を過ごしていただきたかっただけですわ。去年の夏、あなたの様子を見てから、自分に何ができるかずっと考えておりました」


 目の奥が熱くなるのを感じて、けれど今度は、涙を我慢しようとは思わなかった。その申し出がどれほどありがたくて、どれほど私の心を救ってくれたか——そのすべてをうまく言葉にすることができなくて、私はただ彼女の手を強く握り返した。


「ありがとう、クララ」 


 クララはアルフレートと同じように少し目を細め、静かに頷く。その仕草には、言葉にしなくても伝わる理解が込められていた。


「……そうですわ。ご両親には、ミュルベル家にて冬を過ごすとお伝えなさってはいかがかしら。わたくしの両親に事情をお話しして、あらかじめご挨拶のお手紙を差し上げるようお願いしておきます。そうすれば、ご心配なさらずに済むでしょう?」


 言いながらクララは、まるでそれが当然のことのように微笑んでみせた。思いついたばかりの策を手早く整えていくその聡明さはいつもながら見事で、でも今日はそれ以上に胸を打たれるものがある。

 どうしてこんなにも、私は恵まれているのだろうと思った。生まれた家では得られなかった無償のぬくもりが、こうして友人たちから差し出される。見返りを求めることもなく、降り注ぐ陽の光のように。


「……そんなふうに言ってくれて、ありがとう。クララも、アルフレートも、本当に……」


 言葉が詰まりそうになって、私は一度俯いた。けれどそれ以上何かを言わなくても、クララはすべてをわかってくれているようだった。

 家のことも両親のことも、私はずっとひとりきりで立っているつもりだった。けれど、そんな私にさりげなく傘を差し出してくれていた人が、こうして二人もいたのだ。


「お礼なんていりませんわ。わたくしたち、お友だちでしょう?」



 ◆



 本格的な冬を迎える気配が窓の向こうからじわじわと忍び寄ってきていた。朝に吐く息は白く、芝の上の霜は昼を過ぎても溶けきらない。

 寮の部屋の中、絨毯の上には旅行鞄が二つ。私はベッドの上に座り、手にしたドレスの重みを両腕で確かめていた。


「そのドレスは厚手ですし、よろしいと思いますわ」


 クララは椅子に腰かけながら、膝の上に小物入れを広げていた。中には金色のブラシ、薔薇の香りの小瓶。繊細な刺繍入りのハンカチが折り畳まれており、仕切りの奥には銀の留め具がついた小ぶりの懐中鏡が収まっている。

 私が手にしているのは、アイスブルーの冬用のドレスだった。柔らかく温かいシルクのベルベットで、スカートは三段に重なっており、裾にはごく控えめなレース飾り。膨らんだ袖の先には白いフリルがひと巻きあしらわれていて、同じ生地で仕立てられたマントには、裏地に淡いシルバーグレーの綿が仕込まれていた。


「少し派手すぎないかしら」


「町の人たちがどんな服装をしているのかわからないの」と、私は視線を落としながら続けて言った。


「やっぱり少し心配なの。アルフレートの客人として行くのだから、変に目立ってしまって彼に迷惑をかけたくない」


 言葉にしてしまえば、胸の奥に巣くっていた不安が明確な形を持ったように感じる。これはただの旅支度ではなくて、アルフレートの家族や故郷の友人に会うという、私にとって未知の扉を開く準備だった。

 これまで訪れたことのない土地へ行くというのは胸をときめかせるけれど、行き先は私の知らない世界で、慎みを忘れてはいけない。

 クララはトランクにハンカチをしまいながら私のほうに顔を向けた。目元はやわらかく、いつものように私の気持ちを受け止めてくれる。


「まあ、エリザベート。心配には及びませんわ」


 彼女は穏やかにそう言ってから、少しだけ身体をこちらに寄せて声の調子をやさしく落とした。


「お召し物がどのようなものであれ、あなたがどういう方であるかはすぐに伝わります。あなたは素敵な方ですもの。あなた自身がそのままでいれば、きっと温かく迎えていただけますわ」


 彼女の声はまるで、冷えた手をそっと包んでくれる手袋のようだった。否定も慰めもなく、ただ私が私でいていいのだと、そう優しく伝えてくれる。


「心配でしたら、もう少し落ち着いた色味のドレスもお持ちになりますか?」


 クララはそう続けて、クローゼットの中に目を向けた。そこには濃紺やモスグリーンの厚手のドレスも並んでいる。けれど彼女はすぐに私の手元に目線を戻して柔らかく微笑んだ。


「でも、わたくしはそのアイスブルー、とてもよくお似合いだと思います。雪の中に立ったら、きっと絵のように美しいでしょうね」


 私は少しだけうつむいて、ドレスの布地に指先をすべらせた。裾のレースが揺れ、マントの裏地の銀色がそっと顔をのぞかせる。華やかすぎるかもしれない。だけど私のためを思って口にしてくれたクララの言葉が、ひとつずつ心の奥の不安をほぐしてくれていた。


「……ううん。やっぱりこれを着ていくわ」


 私はそっと立ち上がり、両腕でアイスブルーのドレスを抱えてクローゼットの扉の前へと歩く。上部に取りつけられた真鍮のフックにドレスをかけたハンガーを吊るすと、光沢のある布地が柔らかく垂れ下がった。袖口の白いフリルがほのかに揺れ、裏地の銀色の綿がちらりと覗く。その姿は、部屋の中に冬の空気を一滴だけ垂らしたような清らかな存在感を放っていた。


 振り返ってトランクへと歩み寄ると、ベッドの上に並べてあった他の衣装の中から、すみれ色のウールのドレスと、淡いローズピンクのドレスを選んで畳んだ。慎重に重ねながら、荷の中にそっと納める。次に取り出したのは厚手のウールで仕立てられたペチコート。これを入れておかないと、北部の寒さにはとても耐えられそうにない。


「このティペットもお忘れにならないでくださいまし」


 クララがそう言って私の手元に置いてくれたのは、白色の毛皮のティペットだった。真ん中でリボンを結んで首元を包むその形は、冷たい風を遮るのにきっとちょうどいい。毛の流れはなめらかで、私はそれを撫でてからそっとドレスの上に重ねた。

 最後にクローゼットから淡いアイボリーのボンネットを取り出す。縁にレースを少しだけあしらった控えめなデザインで、耳まで包むような形が心強い。トランクの中で形が崩れないよう、クララが器用に布を詰めてくれた。


「ふふ、少しずつ旅の実感が湧いてまいりますわね」


 実感、という言葉の響きが胸に残る。ほんの数日前までは、冬の休暇がこうも胸を騒がせるものになるなんて想像もしていなかった。

 アルフレートの生まれ育った土地は、どんな空の色をしているのだろう。雪の降る日の匂いも、風の冷たさも、そこに暮らす人々の声も、まだ何ひとつ知らない。未知のすべてが私を誘うように胸の奥をくすぐった。


「旅立ちの朝には、わたくしもお見送りいたしますわ。きちんと温かくしてお出かけくださいね」


「うん。……任せて」


 そう返すと、思わずふたりで顔を見合わせて笑ってしまった。ささやかだけれどあたたかい時間。もうすぐ始まるまだ見ぬ冬の景色の中に、このあたたかさも連れていけたらいい——そんなことを思いながら、私はトランクの錠を丁寧に閉めた。カチリと小さな音が鳴り、心のどこかで「準備完了」の合図が灯った気がした。

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