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アルフレート、貴族マナー特訓中

 夏季休暇が明け夏の名残がゆるやかに引いていく頃。エーレ学院の石造りの回廊には、朝夕の風が冷たく吹き込むようになっていた。梢をわたる風が銀杏(いちょう)の葉をさらさらと揺らし、陽が傾くと芝生の上に淡い影が長く伸びてゆく。

 午後、講堂の高窓から秋の初めの陽の光が床を照らしていた。私とクララは肩を並べて長椅子に腰かけ、夏の終わりを惜しむように小さな声でおしゃべりを続けていた。


「湖で摘んだ花、押し花にしてとってあるの。寮に戻ったら、手紙に添えて送るわね」


「まあ……わたくしも夏の空が今でも目に浮かぶようですの。あのときの小舟、思い出しますわ」


 私たちは互いに顔を向けてひそやかに微笑み合う。水辺の光、小舟の揺れ、押し花にした野の花のこと。そんな他愛もない話が秋の光のなかではなぜかいっそう美しく、ふたりだけの宝物のように思えた。季節は変わっても、あの夏の光に風、涼やかな湖とクララの手の温もりは心の奥の深いところに大切にしまっていた。


 そのとき、講堂の扉が控えめな音を立てて開いた。音に釣られてそちらを振り向いた私は、次の瞬間に目を見開く。

 入ってきたのはアルフレートだった。けれどどこか様子がおかしい。彼にしては珍しく足取りはやや慎重で、肩のあたりに妙な力が入っている。おまけにいつもはふざけたような笑みを浮かべて近づいてくるはずが、その顔には一分のゆるみもなかった。

 緊張、と言ってしまうにはあまりに真剣すぎる表情に、私は思わずクララの袖口を指でつまむ。彼女もまた微かに目を見張り、小さく息をのんだ。

 講堂の広い空間に、アルフレートの足音だけが響く。彼はまっすぐこちらへ歩み寄り、私たちの目の前で足を止めると、控えめに口を開いた。


「君たちに頼みがあって来たんだ」


 その口ぶりも態度もあまりに真剣で、思わず息を詰める。胸の奥で小さな不安が芽を出しかけクララも私も無言のまま頷くと、彼は意を決したように目を上げてまっすぐにこちらを見据えた。


「学院理事会の晩餐会に、成績優秀者として出席することになったんだ。それについては光栄な話だと思う。でも」


 そこで一拍、間が空く。ふだん饒舌な彼にしては、あまりにも慎重な言葉選びだった。


「晩餐会に出るにはそれなりに礼儀をわきまえていなきゃならないらしい。正直なところ、そういう場にはまったく不慣れでね」


 表情は真剣で、いつもの余裕に満ちた面影は影をひそめている。けれどその分だけ彼が本当に困っていることは痛いほど伝わってきた。しかしそこまで言ってから、彼はわざとらしく肩を落としてみせる。


「このままだとスープで溺れるか、前菜で失礼を犯して吊るされるかのどちらかだ。……だから君たちに教えてもらえないかな。マナーのこと、立ち居振る舞いのこと、いろいろと」


 その瞬間、空気がふっとゆるむのを感じた。深刻な知らせでも持ってきたのかと身構えていた分、思わず拍子抜けしてしまいそうだったが、アルフレートの顔はなおも真面目で切実さがにじんでいる。


「まあ、そういうことでしたのね」


 クララがそっと微笑んで、穏やかに頷いた。


「つまり貴族の作法を、わたくしたちに教えてほしい、と?」


「そう。ぜひ君たちの、お嬢様の英知をお借りしたい」


 そう言って彼はほんの少しだけ頭を下げた。大げさでなく、かといって軽すぎもしない、ごく自然で丁寧な所作だった。

 私はと言えば、唇の端が自然と緩むのを止められなかった。いつもは私たちが頭をひねり、彼の教えを聞くばかりの日々。けれど今ようやく先生役になる日が来たのだと思うと、なんだか心が軽くなるような気さえした。


「ずいぶん健気なお願いね。そんなにお行儀よくしないといけない晩餐会なの?」


 ほんの少し胸を張るような気持ちで言った。教わるばかりだった日々を思えば、こうして教える側に立つことが、なんだかくすぐったくて誇らしい。


「そうなんだ。少なくともナフキンで顔を拭いちゃいけないってくらいのことは、ちゃんと覚えたほうがいいらしい」


 けれどアルフレートはいつものように軽く受け流してくる。少しばかりの悔しさを覚えて、椅子の下でひっそりと手を握りしめた。


「せっかくのお申し出ですもの。遠慮なさらず、どこからでもご相談くださいませ」


 椅子の肘掛けにそっと手を添えたクララは、いつになく張り切って見えた。教えることに対する照れのようなものは一切なく、むしろこの状況を品よく楽しんでいるようだった。


「まずはお辞儀の角度からかしら? 十五度、三十度、四十五度、それぞれ使い分けがございますのよ。わたくしたち、ひと通りご説明できるかと存じますわ」


 さらりと語るその口調にどこか誇らしさがにじむ。クララもまたこういう機会を待っていたのだ。勉強でも論戦でも一向に敵うことのなかった彼に、ようやく教える立場で向き合えることを。


「……じゃあ先生方、よろしくお願いします。僕の晩餐会デビューが無事に終えられるように、どうかご指導のほどを」

 

 講堂の片隅。ちょうど陽が差し込む窓辺に、椅子を三つ並べて即席の特訓会場が設けられた。クララが「まずは座り方の確認からですわね」ときっぱり言うと、アルフレートはおとなしく指示に従って椅子に腰を下ろした。


 何も疑う様子もなく、まるでいつもの教室のような自然体で。椅子の真ん中に腰を下ろし、両脚は投げ出さないまでも、膝がゆるく開いている。そしてそのままの流れで、背もたれに体を預けようとしたその瞬間——。


「いけませんわ!」


 クララの声が軽やかに、しかし容赦なく空間を打った。決して怒鳴ったわけではないのに、あまりに的確な抑揚で私も背筋をぴんと伸ばしてしまったほどだった。

 アルフレートはぴたりと動きを止めたまま、見上げるようにクララの方を仰いだ。その顔に浮かんだのは少しばかりの狼狽と、やや引きつった笑み。

 きっと普段なら飄々とした軽口で切り抜けるのだろうけれど、今のクララの眼差しを前にしてはそれすらも空しくはね返されそうだった。


「お背中を背もたれに預けるのは、ご家庭でおくつろぎの際だけにいたしましょう。浅く腰掛け、両脚は肩幅と同じに、かかとはしっかり床につけて。はい、そうですわ。もう一度、最初からお座りになってみてくださいませ」


 アルフレートは素直に立ち上がる。そして今度はクララの言った通りに姿勢を整えてから腰を下ろした。背筋をすっと伸ばし、足元も綺麗に揃えている。ほんの一瞬前まで日常の雰囲気を引きずっていた動きは、今ではすっかり晩餐会の紳士に向かいつつあった。


「さすがね。言われた通りにはすぐできるのね」


 私は腕を組み椅子の背にゆったりと寄りかかって、少し得意げに言ってみせた。いつもは彼の返しに苦戦するばかりの私たちが、今日は主導権を握っている。そう思うだけでなぜか気分が良い。

 笑ってはいけないとわかっていたけれど、いつも余裕な表情をしている彼がこうして素直に指導されている姿は妙に愛らしかった。


「ええ、器用さはございますのね。けれど、お辞儀はどうかしら」


 クララが模範を見せるようにすっと一歩前へ出て、涼やかに身をかがめた。片足を後ろへ引き、踵で床を優しくなぞるように滑らせる。上体を丁寧に傾けながら、右手は胸元、左手は背に添え、動きの一つひとつが計算され尽くしたような美しさだった。


「これが正式な紳士のご挨拶ですわ。ぜひ、真似なさってくださいませ」


 アルフレートは軽く顎を引き表情を整えると、すぐに礼をした。足を引き、背を傾け、手を添える。少しだけ肩が固く見えたけれど、それも最初だけで、彼は一度動きを通すとすぐに感覚を掴んだようだった。

 二度目はもう驚くほど自然だった。柔らかく引いた足先、角度の正しいお辞儀、落ち着いた動作。クララが一拍置いてから拍手を送る。


「まあ……さすがでいらっしゃいますわ。たった二度でここまでとは」


「ありがとう。でも、先生のお手本がいいんだと思うよ」


 さらりとした調子で言いながらアルフレートは笑った。私は彼のお辞儀を見て、胸の内でつい感心していた。この人はほんとうに器用だ。たいていのことはすぐに覚えて、難なくこなしてしまう。


「……なんだか少しだけ悔しいわ。すぐに上達してしまいそうだもの」


「ふふ、確かに少しばかり。ですが、完璧になるまで容赦はいたしません」


 クララは端整な手つきでスカートを整えながら愉快そうに視線を向けていた。彼女の言葉遣いや立ち居振る舞いは、まるで仕立てのよいレースのように隙がなく、それでいて硬すぎることはない。


「では次は、淑女へのご挨拶を。手をとって、甲に口付ける仕草をするのです」


 クララが一歩引き、私の方へと手のひらを向けた。


「エリザベート、あなたが貴婦人役をなさって」


 え、と私は目を瞬かせた。クララの提案は自然で、そしてごく当然の流れのようにも聞こえたけれど、いざその立場を振られると不意に胸の内がざわつく。断る理由はない。でも、少しだけためらいを覚えるのはなぜだろう。


 戸惑ったものの、私は唇をそっと引き結びながら一歩前へ出た。内心を悟られないように、背筋をすっと伸ばし、指先に神経を込めながら、右手を差し出す。


 アルフレートは冗談を交えることもなく、ただ静かにその手の前にひざまずいた。先ほどとは違い表情はまるで演劇の一幕のように整っていて、ふざけた気配は微塵もない。

 まっすぐな眼差しでこちらを見上げて、それから丁寧に私の手の甲へと、唇を近づける。

 私はその視線を正面から受け止めることができず、ほんの少し視線を逸らした。儀礼をなぞっているはずなのに、なぜだろう。息が胸の奥に引っかかる。彼の顔が私の手の甲に近づいてくる。その距離が、思っていたよりずっと近い。

 彼の唇はほんのわずか手前で止まった。息が触れそうな距離。空気の揺らぎさえも伝わってきそうな、曖昧で繊細な境界。


「……こう、で合ってる?」


 アルフレートの低い声が、指の先を撫でるように届く。その声にふと我に返り、私はあわてて唇を開いた。


「ええ。合っているわよ」


 その間にも彼の瞳はどこまでも平静だった。何事もなかったように立ち上がると、さりげなく椅子の方へ向かっていく。クララは瞼を閉じ満足げに頷きながら、手のひらを軽く打ち鳴らして言った。


「たいへんよくできましたわ。所作も視線の使い方も、非の打ち所がございません」


「どうも、ご指導のたまものだね」


 アルフレートが肩を竦めて笑うその様子は、普段の彼そのものだった。けれど私の指先には、あの気配がまだ淡く残っている。たった数秒の出来事なのに、妙にくっきりと記憶に刻まれている。

 そんな自分の反応が少しだけ腹立たしいような、どうしようもなく不思議なものに思えた。


 

 

 その数日後、午後の講義が終わるやいなや私たちはふたたび談話室に集まった。クララは何やら大きな布包みを両手に抱えて、意気揚々と部屋へと現れた。いつもの落ち着いた足取りとは少し違ってどこか小さく弾むような歩き方だったから、私とアルフレートは顔を見合わせてしまう。


「なあに、それ。分厚いマナー教本を詰めてきたの?」


 私が問いかけると、クララは涼やかな微笑みを浮かべたままそっとその荷をテーブルの上に置いた。


「いえ、もっとずっと素敵なものですわ」


 言いながら、クララは慎重に包みをほどき始める。柔らかな厚手のクロスの間から、光の粒をまとったような銀器が列をなして現れた。

 スープスプーンにフィッシュナイフ、前菜用とメイン用のフォーク、それからデザート用のカトラリー。すべてが一対ずつ丁寧に重ねられ、柄の部分には細密な彫刻がほどこされている。揃えられた一式の持つ気品と迫力に、一瞬言葉を失ってしまう。


「こちらは父が外務を務めていた頃に、迎賓の晩餐で実際に使っていたものですの。少々古いものですけれど、今の目的には最適かと存じます」


 さらりと口にするけれど、それはつまり今日のために、わざわざ実家へ手配をかけ丁寧に運ばせてきたということだ。クララは談話室の丸テーブルに白いクロスをかけると、銀食器を一通り並べ始める。


「……これはまた、ずいぶんと本格的ね」


「ええ。実際の晩餐会と、できるだけ同じになるよう準備いたしましたの」


 クララが微笑みながら食器の配置を確認する。彼女はこういうことに抜かりがない。どこまでも優雅で、でも内実はとことん厳密だった。


「じゃあ今日はお食事編ってわけだね」


 アルフレートがいつもの調子で、さして緊張した様子もなく椅子を引いた。動作に無駄はない。けれど、私はすぐに声をかける。


「ちょっと待って。あのね、まずは椅子の引き方から教えさせて」


 アルフレートは一瞬動きを止め、私の方を振り返った。こうして教える立場に立ってみると、いろいろな細部が気になるものだ。普段なら見落としているような仕草も、今日はことごとく矯正対象になる。


「着席するときは、椅子の左側から近づくのが正式なの。真正面から座ったり、後ろから回って腰かけたりするのは無作法に見えてしまうこともあるのよ」


 私は声の調子を崩さないように気をつけながら言った。知識をひけらかすようにはなりたくない。けれどせっかくの機会だからこそ、正しく伝えたい。


「それから、もし椅子を引いてくださる方がいらっしゃるなら、その方に任せるのが礼儀よ。自分で引かずに、一歩左に立って相手の動きを待つの」


 私は一歩前に出て、椅子の背に手を添えながら、自分が支える側に立つかのように実演してみせる。語りながらふと視線を上げると、アルフレートが真面目な面持ちでこちらを見ていた。からかいも冗談も今はなりを潜め、代わりにきちんと受け止めようとする姿勢がその表情ににじんでいる。


「……なるほど。ありがとう、エリザベート」


 その声音は彼には珍しく、冗談ひとつ混じっていなかった。まっすぐで余計な色のついていない素直な言葉。気取らず飾らず、ただ誠実に礼を述べたというだけなのに、なぜか私は一瞬言葉を失った。

 別に照れるような内容ではない。むしろ教える立場としては嬉しい反応のはずなのに。なぜだか胸の奥に落ち着かない感覚が残る。


「では次は、ナフキンの使い方からまいりましょう。お食事が始まる直前に、ナフキンは二つ折りにして膝の上に置きますのよ。けして首元にかけたり、袖口を拭ったりしてはいけませんわ」


「……クララ、それはさすがにしないわよ」


「でも、アルフレートなら……ほら」


「いや、しないよ」


 アルフレートは苦笑しながらナフキンを受け取り、クララの指導通りに膝の上に丁寧に置いてみせた。私はその横顔をそっと見つめて、少し感心する。

 慣れない礼儀作法にも真剣に向き合い、素直に耳を傾けきちんと実践してみせる。指摘されても反発しないどころか、淡々と受け入れてすぐに身につけてしまうのだから、本当に器用な人だ。

 

「では次は、スープのいただき方です。手前から奥に向かって静かに掬って、音を立てずに丁寧にいただく練習ですわ」


 クララがナフキンの説明を終え滑らかに話題を移す。そんなふうにして、私たちの貴族作法講座は、まだまだ続いていく。気がつけば秋の午後の陽射しが談話室を金色に染めはじめていた。



 ◆



 秋が本格的に深まったころ、朝の廊下で私はふとした気配に振り向いた。窓際に差す光の向こうからアルフレートが近づいてきている。少し緩んだ制服の襟元、どこか晴れやかな足取り。そういえば、晩餐会は昨日だったと聞いていた。彼のその姿だけで、昨夜の様子がどうだったのかおおよそ察せられた。


「おはよう、エリザベート」


 いつもの飄々とした笑みを湛えながらも、眼差しの奥に静かな達成感のようなものが灯っている。彼は軽く手を上げながら、自然な足取りで私の前に立った。


「昨日は無事だった?」


 私が問いかけると、彼はわざとらしく笑ってみせる。


「うん、まあ……ぎこちない手つきでスープを掬ってる最中に、向かいにいた陸軍中将ににっこり頷かれたときは、さすがに肝が冷えたけどね」


「まあ……それで、ちゃんと音を立てずに飲めたのかしら」


「おかげさまで。君とクララのおかげで、ナフキンも膝の上、ナイフも落とさずに済んだ」


「すごいじゃない。私たちの特訓の成果ね」


 少しだけからかうように言ってみせながら、私は胸の内で安堵していた。あれほど懸命に練習していたのだから、何事もなく終えられたと聞いて、ほっとしないわけがなかった。

 私のその様子に気がついたのか、アルフレートは目元を和らげて口を開く。


「また何かあるときは頼らせてもらうよ。君たち先生にね」


 わざとらしく頭を下げるその仕草に、私たちは二人して笑った。鐘が鳴り、授業の始まりの合図が廊下に響く。私たちは自然と並んで、秋の光の差す中を歩きはじめた。

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