ミュルベル家の避暑地
季節はゆるやかに夏へと傾きはじめていた。
高くなった空にはつばめが翼で弧を描き、風にそよぐ木々の葉は春よりも濃くつややかな緑を帯びている。教室の窓辺に差し込む光にも乾いた熱が混じりはじめていて、制服の襟元にささやかな汗ばみを感じるたび、私はふいに胸の奥がざらつくような思いに包まれる。
あと少しで、夏季休暇。
生徒たちは日に日にそわそわしはじめていた。故郷の空気を懐かしむ声、家族との再会を心待ちにする声、どの机にも陽気な話題が咲きこぼれていた。けれど私の胸の内はそんな浮き立つ空気から取り残されている。
学院が閉じられるあいだ、私は帰らなければならない。
冷たい階段も広すぎる応接間も、笑い声ひとつ響かない食卓も。窓辺のカーテンのひだにさえ、私はただ所在なく立ち尽くすのだ。夏が近づくほどに私は息苦しさを覚える。しかし待ち受ける運命を変えることもできず、私は日々の課題に身を預けるようにして過ごしていた。
午後の講義を終えた私たちは、学院の中庭にほど近い並木道を歩いていた。柔らかな緑の葉がそよ風に揺れ、制服の袖口をすり抜けていく。クララの髪は光を帯びてきらめき、その横顔はどこか楽しげだった。
「エリザベート、今年の夏季休暇はもうご予定がおありかしら?」
唐突ではないが、どこかいつもより改まった調子の声だった。私は少し歩みを緩めて彼女のほうを見た。
「いえ、特には。去年と同じで、家に帰るだけよ」
そう答えながら、私はほんの少し先を読むような気持ちでクララを見つめた。彼女は期待を含んだ目で微笑み、ほんの一拍の沈黙ののち、口を開いた。
「でしたら、よろしければ避暑地へご一緒しませんか? 夏のあいだだけ、家族と共に過ごすのですけれど……」
私は思わず立ち止まった。クララも足を止めて、私の顔をまっすぐ見つめていた。
「山と湖に囲まれた、とても静かな場所ですの。空気が澄んでいて、夜になると星がまるで降りそそぐように見えるのです」
美しい自然の光景が、まるで絵本の挿絵のように彼女の口から紡がれていく。彼女の語るその場所には私の知る冷たく沈黙に満ちた屋敷のどこにもない、あたたかな空気がある。
「……私が、行ってもいいの?」
「あなただからこそいらしてほしいのですわ。わたくし、ひとりではきっと退屈してしまいますもの」
庭先のバラがやさしく風に揺れるような声音だった。押しつけがましくもなければ、無理に誘うようでもない。ただ隣にいてほしいという、素直で穏やかな願い。
「……ありがとうクララ。ぜひ、ご一緒させていただきたいわ」
そう言うと、クララの顔にぱっと花が咲いたような笑顔が浮かんだ。それはひときわ明るい夏の予感のようだった。私たちの足元を包む陽の光も、さきほどよりやさしくなったような気がした。
◆
馬車の扉が開いた瞬間私の頬を撫でたのは、学院のそれとはまったく異なる、澄んだ空気だった。湿り気のない肌をやさしく包むような風。頭上には高く抜けるような青空が広がり、雲はまるで絹のように淡くたなびいていた。
ここが、ミュルベル家の避暑地——湖と森に囲まれた、夏の邸宅だった。
邸宅というよりも、館と呼ぶほうが相応しいかもしれない。自然の中に静かに溶け込むような灰白色の石造りで、蔦の葉が一部の壁を柔らかく彩っている。
切り立った装飾などは少なく、控えめながらも風格があり、広い敷地には湖から吹き渡る風が松の香を運んできていた。夏の陽光が木洩れ日のように屋根を照らし、玄関の前には夏花の鉢が整然と並べられていた。
クララが微笑んで手を差し伸べてくれる。旅装を整えて馬車から降りると、私はしばし言葉を失った。視界のすべてが息を呑むほど美しい。耳に届くのは鳥のさえずりと、木々が風にそよぐ音、そしてどこか遠くで水のせせらぎが流れる微かな音だけ。
「どうかしら、空気がずいぶん違いますでしょう? このあたりは標高が高いから、夏でもとても過ごしやすいの」
クララはうれしそうに説明を続けながら、私を屋敷の中へと案内してくれた。
玄関の扉が開くと、涼やかな石の香りが流れ込んでくる。奥には品の良い絨毯が敷かれ、窓辺から差し込む光が白いカーテンを透かしていた。装飾はどこまでも洗練されていて、過剰ではなく、けれど細部にまで上品な気配りが行き届いている。清潔で穏やかで、やすらぎのただよう穏やかな空気だった。
「ようこそ、エリザベート嬢。お暑い中、お越しくださってありがとう」
クララのご両親が、応接間で私を迎えてくださった。ご夫妻はクララによく似た穏やかな物腰の方々で、私が一礼すると、あたたかな笑みと共に「よくいらしてくださいましたね」と丁寧に声をかけてくださった。
そしてクララの長姉——ヘレネ様とそのご主人も、夏のあいだここに滞在されるという。ヘレネ様はしっとりとした雰囲気のある方で、妹であるクララのことを心から大切に思っているのが、柔らかな言葉の端々から伝わってきた。ご主人も穏健な方らしく、私にも「どうぞごゆっくりなさってください」と気取りのない微笑みを向けてくださる。
私は、まだどこか夢を見ているような気分だった。
クララの手を取って「ありがとう」と小さく囁くと、彼女は「こちらこそ、来てくださって嬉しいですわ」と目を細めた。どこまでも静かで、澄んだ湖のような瞳だった。
それからすぐに、私たちは屋敷の裏手に広がる庭へと足を運んだ。
そこには白いテーブルと籐椅子が置かれ、テーブルクロスの上では風に揺れる花瓶の花が陽を透かしていた。庭の向こうには、木々の合間にひっそりと湖面がのぞいている。まるで銀の鏡のように、陽光を静かにたたえている水面。その先には緑の丘がゆるやかに連なり、湖は丘をあざやかに写して揺れていた。
クララは慣れた足取りでテーブルのそばへ歩み寄り、籐椅子のひとつに腰を下ろす。私はその隣に腰掛け、広がる景色にそっと目を細めた。木々の梢が金色の光をちらちらと落としながら風に揺れている。
「お気に召していただけたかしら?」
クララの問いかけは、息を飲むほどに美しい庭の風景とまるで調和していた。私は顔を向けてうなずく。
「ええ……夢を見ているみたい。こんな場所が本当にあるなんて」
自分の口からこぼれた声さえ、現実から少し浮いて聞こえるほどだった。湖岸に咲く草花をゆらす風がかすかに葉擦れの音を連れてくる。しんとした静けさのなかに、自然の息づかいだけがやさしく満ちていた。
「そう言っていただけて、とてもうれしいですわ」
クララは少しだけ目を細めて微笑んだ。その表情はまるで長い間大切にしまっていた宝石を、ようやく誰かに見せることができたような、静かな喜びに満ちていた。
「子どものころから、この庭が大好きでしたの。春の終わりが近づくと、毎年胸がそわそわいたしまして……夏が来るのが待ち遠しくてたまらなかった」
クララの声は風にそっと乗って運ばれてきた。ゆるやかな時間のなかで、その言葉だけが確かに形を持って胸に届く。私はそっと頷いて彼女の視線の先に目を向けた。
「あちらの湖畔まで、姉と小舟で渡ったこともございますの。花を摘んで、それを水面に浮かべたりして……」
手で指し示された湖の対岸には小さな桟橋が見えた。水辺に近い草地が陽に輝いていて、鳥が一羽、音もなく飛んでいった。
「物語の中の世界みたい……」
思わずそう呟くと、クララはふふ、と穏やかな声を立てて笑った。私は静かに息を吸い込んだ。湖の香り、森の香り、陽だまりの匂い。それは胸の深いところまで満ちて、私の中に絡まっていた小さな緊張の結び目を、ゆっくりほどいていく。
「ご一緒に渡ってみませんこと? きっとエリザベートとでしたら、もっと素敵な記憶が残りますわ」
「まあ、すてきなお誘いね」
私は笑って呟いた。風がそよぎ、テーブルの上のナプキンをひらりと揺らして通り過ぎていった。空の青はどこまでも澄んでいて、湖面に落ちた木々の影が、まるで水のなかでも同じように夏を楽しんでいるようだった。
湖の岸辺に向かうと、すっかり高くなった陽が湖の水面を一面にきらめかせていた。まるで無数の小さな宝石を撒き散らしたような眩しさのなかで、私たちは桟橋の先端に係留された小舟に乗り込んだ。
クララが軽やかに裾を持ち上げて先に乗り込み、私はその後に続いた。舟はわずかに軋みながら、私たちを優しく迎え入れる。船底に座り込んだ私の足もとでは、涼しい水音が静かに響いていた。
「この時間の湖がいちばん好きですの。光が暖かくて、水面が穏やかで……」
クララはそう言って小さな櫂を手に取り、ゆっくりと湖面を押した。舟はするすると音もなく滑り出す。風がそっと背中を押してくれるようで、水の上を滑るというより、風に導かれているような気がした。
遠くの岸辺には、白鳥が二羽、首を揺らしながら泳いでいた。湖面に映る自らの影に戯れるようにして、ゆったりと静かに揺れている。羽毛の白さは陽を反射してきらめき、まるで湖そのものの化身のようだった。
「まあ……白鳥ですわ。あの辺りがお気に入りなのかしら。お姉様と来たときも、あそこに浮かんでおりましたのよ」
クララの指差す先には、木々の影が水に落ち、陰と陽が交差する場所があった。そこは湖の中心から少し外れた、風が少しだけ強く吹き抜ける静かな入り江だった。
私は風に揺れる髪を耳にかけながら景色を見つめた。水面はさざめきながらきらきらと光り、舟の縁をやさしく叩いてくる。
クララはほほえみながら、もう一度ゆっくりと櫂を動かした。湖が軽く鳴って応える。舟は小さく揺れながら、あたたかく息づく夏のなかを進んでいく。
私は目を細めてクララの横顔を見やった。彼女の睫毛が陽に透け、湖面のきらめきと同じ色を帯びていた。
風が穏やかに水面を撫で、陽を浴びた波紋がゆるやかに広がっていく。白鳥はもう遠くの入り江に身を潜めていて、湖は私たちだけのものになったかのようだった。
舟の縁に手をかけたまま、私はそっと視線を湖の向こうに向けた。対岸には小さな桟橋がのびていて、そのそばの草地には陽を浴びた野花がちらほらと咲いている。
「……あの桟橋、さっきクララが言っていたところ?」
水面を指さして尋ねると、クララはうなずいて、柔らかく微笑んだ。
「ええ。お姉様とよくあちらに渡って、お花を摘んだり、浅瀬で水をすくったりしましたの」
「……お姉様とご一緒に、ってなんだか素敵ね。私、姉妹がいるって、どこか憧れてしまうのよ」
思ったままの感想が自然と口をついて出た。クララの話すお姉様という響きには、親しみと尊敬が自然に織り込まれていて、聞いているこちらの胸まで温かくなるようだった。
「クララのお姉様は、どんな方でいらっしゃるの?」
ふと訊いてみたくなったのだ。その思い出に登場するお姉様がどんな人なのかを。クララを記憶をたぐるように少し宙を見上げたあと、微笑んで口を開いた。
「ヘレネお姉様は、いまは家の跡を継いでおりますの。婿殿をお迎えして、父の公務の補佐もなさっていますわ。とても聡明で、落ち着いていて……頼りがいのある方ですのよ」
「なんだか、想像できる気がする。クララと雰囲気が似ているのかしら」
「まあ。そうおっしゃっていただけるのは光栄ですわ。でもお姉様のような方には、なかなかなれませんのよ」
私の言葉に、クララはふんわりと微笑んだ。舟の縁に添えた指が少し水に濡れていて、きらきらと光を弾いている。
「次女のアマーリエお姉様と三女のギーゼラお姉様は、それぞれよき縁に恵まれてお嫁入りなさいました。おふたりとも今は遠くにお住まいですが、季節の折々にお便りをくださいます」
「三人も……すてきね。賑やかだったでしょうね」
「ええ、とても。けれど、今ではそのぶん静かになりましたのよ。ですからわたくし、ひとりでこの舟に乗るより、今日こうしてご一緒できて本当に嬉しいのです」
私は彼女の言葉を胸に、ふと湖の彼方へと目を向けた。対岸の緑が陽を受けて淡く揺れていた。水音はささやくように小さく、風は木々の葉を撫でて、ときおり水面にさざ波をつくった。白鳥たちがすこし離れたところで首を寄せ合い、優雅に漂っているのが見えた。
穏やかな時間の中で、クララがふいに視線を湖のかなたへ向けたまま、ぽつりと声を落とした。
「わたくしたちも、いつかはお嫁に行くのでしょうか」
その声音は、はっきりとした憧れとも不安ともつかず、未来をそっと手のひらに載せて眺めるような響きだった。
「……そうね。きっといつかは」
私もつられるように空を仰いで、そう答えた。遠くで鳥の鳴く声がして、舟の揺れが夢の中のように現実を淡く溶かしていく。
「どんな方とご縁があるのかしら。まだまるで想像もつきませんわ。けれど……優しくて、落ち着いた方がよろしゅうございますね」
「クララにはそういう方がぴったりだと思うわ。丁寧に言葉をかけてくださるような人……なんだか、目に浮かぶようよ」
そう言うとクララは少し頬を染めて、照れながら微笑んだ。
「エリザベートは? どんな方がよろしいと思われますの?」
クララに尋ねられて、私は少しだけ首をかしげた。目の前には、光をたたえた湖面が広がっている。小舟は穏やかな波にゆらゆらと揺れて、その揺れが心の中の言葉を少しずつほどいていくようだった。
「うーん……そうね。何か、特別に立派な人じゃなくていいの。対等に並び立っていられる人がいいわ」
湖を眺めながら、ぽつりと答える。
「私が何か失敗しても笑ってくれて、でも必要なときには本気で叱ってくれたりして……お互いに支え合って、足りないところを補い合えるような、そういう人よ」
言いながら自分でも少し照れくさくなった。そんな人、簡単に見つかるはずもないのに。
「えっと、変かしら、今の」
問いかけると、クララはふわりと笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいえ、素敵ですわ。対等でいられる相手……とても大切なことですもの。きっと見つかりますわ。そういう方。あなたの隣に立てる人が」
クララの声はそっと風に乗ってやわらかに耳に届いた。私はうなずきかけて、けれどふと、湖面に浮かぶ葉を見つけて視線を逸らした。なぜだか、クララのまなざしにまっすぐ応えるのが、ほんの少しだけ恥ずかしかった。
「……でも、もし誰かと結婚したら、こうして二人でおしゃべりすることも減ってしまうのかしら」
私がぽつりとこぼすとクララも静かに頷いた。
「それは、とてもさびしくなりそうですわね。でも——」
クララは舟の縁を撫でながら、やわらかな声で続けた。
「どんなに離れても、思い出の中でこうした時間はずっと残りますわ。大切な人と過ごした日は、いつまでも心の中にありますもの」
その言葉になんだか胸がじんとした。白鳥の羽音が、静かに水面をわたっていった。
「……うん。私、きっとずっと覚えているわ。クララと一緒に、小舟に乗ってお話しした夏のこと」
そのとき、風がすこしだけ強く吹いた。帆もない舟が小さく揺れながら、夏の陽にきらめく湖の上を、ふたりを乗せて進んでいった。




