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裁縫地獄と友情の糸

 私は講堂の机に手を組んで座りながら、視線をじっと前に据えていた。といっても、何かを熱心に見つめていたわけではない。むしろできることなら、今日の講義そのものを視界の外に押しやりたかった。


 今日の教養実習から“刺繍”の単元が始まる。そんな事実を思い出すだけで、胃のあたりが重くなる。

 教養課程のひとつであるこの実習は、回によって書簡や礼装、食事の作法から、詩作や生け花までさまざまな内容を扱う。けれどこと針仕事に関しては、私の中で揺るぎない敗北の記憶として刻まれていた。


 生家でも幾度となく刺繍の稽古はあった。けれど私には針の先がどうにも合わなかったのだ。刺すべき位置を目で追えば手が迷い、針を引けば糸がからまる。意識すればするほど手元がぎこちなくなり、挙句の果てには布地にうっすらと血が滲む始末。

 貴族の娘たるもの、刺繍のひとつやふたつ軽くこなせねばという母親の期待にはもちろん応えられず、母がそっとため息をついた時の静かな絶望は、今も胸の奥で古い針の錆のように残っていた。


 私の前の席ではクララが上品に背筋を伸ばしており、既に支給された糸の色を吟味していた。彼女はこうした作業が得意らしい。ああいうふうに、穏やかな顔で針を持てる人間が羨ましい。

 私は机の端に置かれた布と刺繍枠を睨むように見つめ、肩を縮める。どうせ、また上手くいかないのだ。指に針を刺すくらいなら、最初から黙って突っ伏していたい。


「皆さん、静かに着席してください。針と糸はまだ手を触れないように」


 教室の前方から、講師のきびきびとした声が響いた。品の良いドレスに身を包み、手に出席簿を携えた女性が入ってくる。この教養実習を担当している技芸の講師、ニッセン夫人だった。ドレスの裾を翻しながら、彼女はいつものとおり無駄のない動作で教壇へ向かう。


「さて、本日から裁縫の単元に入ります。課題は各自が刺繍を施したハンカチの製作です」


 教室のそこかしこからささやきが漏れた。私はひとりため息をつき、机の下でひっそりと肩を落とす。


「ですが、安心なさい。今年は特別補佐として、ある上級生が補助に入ってくれます。去年の授業で大変優秀な成果を上げ、教員団からの推薦もあり、協力を申し出てくれました」


 その言葉を聞いた瞬間、私はゆっくりと顔を上げた。私の中にほんのわずかな希望がよぎる。補佐がつくということは、多少なりとも技術面の助力が期待できる。助言や実演、手本の刺繍など——誰が来るのかは分からないけれど、せめて穏やかで根気強い人であってほしい。


「どうぞ、入っていらして」


 扉の脇に控えていた人影が、するりと教室へ足を踏み入れた。栗色の髪を無造作に分けた、やや長身の制服姿。見慣れた歩きぶり。落ち着いた目の色。補佐として呼ばれたその人物の姿を見て、私はあっけにとられた。


「アルフレート・ヴァイスです。去年この授業で刺繍をやってみたら、針の扱いが上手いって褒められたんだ。今回は補佐として協力することになったよ。困ったら遠慮なく声をかけて」


 その声音はどこまでも平然としていた。飄々とした笑みを浮かべ、本人はどうやらこれを誇りに思っているらしい。

 一拍を置いて、「……男子生徒?」と小さなどよめきが広がった。ささやき交わされる声のなかには、意外そうな響きも、やや納得したような声音も混じっていた。


 王立エーレ学院では近年の男女平等教育の方針に基づき、教養実習科目は性別を問わず履修することになっている。とはいえ刺繍などの針仕事が、未だ淑女のたしなみと称されているのもまた事実だった。


 ……それなのに、なんで、あなたなの。


 そんな問いが喉元までこみ上げてくる。勉学で彼に敵わないことはもう百も承知だった。けれどまさか、裁縫までとは。

 生家で刺繍を習わされていたころ、指を包帯だらけにした私を見て、「あとはお嫁に出すときに誰かに教えていただきましょう」と匙を投げた母の姿を思い出す。

 私は心の奥で静かに決意した。せめて今日くらい、まともに布に針を通してみせる。意地でも。

 ……もちろんそれは、指ではなく布に刺せるなら、の話だけれど。




 机の上に置かれた布地と糸の束が、まるで小さくうなだれているように見えた。私が睨んでいるからだろうか。刺繍枠の内側にはまだ何の形もなく、ただの白い布が広がっている。何も描かれていないというのに、もう既に敗北感が漂っているのはなぜなのだろう。

 私は前の席で熱心に針を動かすクララの手元を覗き込んだ。針が布地にすっと差し込まれる。その動作のなんと滑らかなことか。まるで布の方から迎え入れてくれているかのようだ。しかも、糸の引き方に無駄がない。ひと目ひと目が整っていて、私は思わず感嘆の息を漏らした。


「すごく綺麗。どうしてそんなに上手なの?」


 背後から呟くと、クララは小さく振り返って微笑んだ。


「いえ、そんな。ほんの少し習っていただけですのよ」


 そのほんの少しの成果が、布地に丁寧に浮かび上がる花々の繊細な輪郭だというのだから、世の中の少しは信用ならない。クララの手元では淡い桃色の糸がまるで春の庭園を再現するかのように咲きかけていた。


「この世の中、不公平すぎるわ……」


 私は鉛筆で布の端にぐにゃりとした線を描きながら、ひとりごちた。これが花の茎になる予定だったが、どう見ても迷子の蛇である。刺繍をする前から方向性が崩壊している。いっそ何もかも抽象画ということにしてしまいたい。


「エリザベートは、どのような図案を?」


「……ええと、花……かもしれないし、星……でもいいかもって思っているけれど……最終的に気が向いた糸の交錯になるかもしれないわ」


 なんとも詩的な逃げ口上だったが、クララは丸い目を見開いて笑ってくれた。天使のような寛容さだと思う。


「感性のおもむくままの作品なんて、自由で素敵ではなくて?」


「……ありがとう、クララ。でも現実的には血痕の滲む物体になる可能性の方が高いの」


 布地に意識を向けながらそう返すと、クララは口元を手で覆い、くすくすと笑った。ふたりで笑い合う間にも、講堂には生徒たちの針と糸が布を通る音が重なっていく。そんなときクララがふと首を傾け、何気ない調子で口にした。


「アルフレートに手本をお願いしてみてはいかがかしら」


「いやよ。絶対に頼みたくない」


 自分でも勢いが良すぎたと思ったけれど、本音だった。彼に刺繍の手本なんて頼んだら、見事な出来栄えを見せつけられるのが目に見えている。それもあの、妙に堂々とした笑顔とともに。

 勉強でも刺繍でも、あの人が私の一歩も二歩も前を行っているのはもう疑いようがなかった。だけど、少なくともこの淑女のたしなみですら私が劣っているとは知られたくない。そうでなければ私の面目はどこに置いてくればいいのかわからなくなる。


 私はふたたび鉛筆を手に取り、勢いに任せて布地の片隅に小さな線を重ねた。縦、横、そして斜めにもう二本。四本の線を描けば、それはきらめく星の形になる。

 クララが刺すような洗練された図案とは比べ物にならないが、私にはこれで十分だった。アルフレートに見られず、ただ課題をこなせさえすればそれでいい。


 私は針を取る。銀の糸の端を指先でつまみ、針の穴に通す。……三度目でようやく通ったことは、今は数えないことにする。

 針を構え、布地の裏から表へ。ためらいながらも、最初の一刺しを。するすると糸が引かれ、布の表面にきらきらとした線が現れる。

 まずはやってみなければ始まらない。誰に言われたわけでもないが、今日という日に自分を動かすための数少ない言葉だった。

 私はそっと星の中央にもうひとつの針目を加えた。ぐにゃりと歪んだ線にすでに少し後悔しているけれど、まあ、刺繍というものはきっとそういうものなのだ。

 さあ、地獄の扉はすでに開いた。あとは誇りと指先を賭けて、地獄の奥地へと刺し進むだけである。

 私は呼吸を整え、星のもう一辺に針を運ぶ。小さな布地の上で震える指を叱咤し、慎重に、慎重に針先を落とす。


 ——そこへ、不吉な影が落ちた。


 はじめは何かの見間違いかと思った。けれど私の刺繍枠の向こうに差し込む光が、唐突に遮られたのだ。誰かが立っている。それもやたらと存在感のある、妙に堂々とした誰かが。


 ……嫌な予感しかしない。


 恐る恐る顔を上げると、そこには案の定、気配をこれっぽっちも隠すつもりのないアルフレートの姿があった。例によって例のごとく、微塵の遠慮も見せず当然のようにこちらを覗き込んでいる。


「星か。いいじゃないか。形は……まあ、気持ちがこもってれば」


 形がどうなのか、気持ちがどうなのか、聞いておきたいような、聞きたくないような。私は頬が熱くなるのを感じて布地で顔を覆った。そもそもどうして彼はこう、私が一番見られたくない瞬間に限って現れるのだろう。

 刺繍枠を盾のように掲げて睨んだ先のアルフレートはまるで怯える様子もなく、逆にちょっと感心したような顔でこちらを見ていた。なぜそんなに落ち着いていられるのか、心底不思議である。

 ふとクララがそっと針を休めた。白磁のような手を膝に置き、横目にアルフレートのほうを見ると、柔らかく首を傾げて口を開く。


「昨年の成績が大変素晴らしかったと伺いましたけれど、わざわざ補佐をなさるなんて、よほど刺繍がお好きですのね」


 クララが穏やかに尋ねると、アルフレートは少しだけ肩をすくめて答える。


「いや、そういうわけでもないんだけど。去年の授業で講師に妙に気に入られてさ。社会奉仕活動ってことで評価も上がるって言うし、断る理由もないだろ?」


 実に合理的で抜け目のない理由だった。堂々たる面構えで言うものだから、講堂のあちこちでも「なるほどね……」「加点か……」と微妙に現実的なざわめきが広がる。

 でも断ってよかったのよ。いやむしろ、断ってほしかった。そんな私の心の叫びなど知る由もなく、アルフレートは器用な手つきで、試し布に軽やかに糸を通し始めた。あまりの手際の良さに、周囲がひときわ静まりかえる。

 ニッセン夫人が「よい手本になりますね」と満足げに頷き、すぐそばの席の生徒たちが針を持つ手を止めて食い入るようにその手元を見つめていた。あのクララでさえ、息を飲むようにして「まあ……本当にお上手」と感嘆の声を漏らしている。

 ……ああ、もうこれは才能というしかない。



 ◆



 刺繍枠のなかで銀の糸が震えていた。それは針を通す私の手が緊張のあまり微かに震えているせいでもあるし、夕暮れの光が窓辺から差し込んで、糸の光沢をゆらめかせているせいでもあった。講堂の大きな窓の向こうでは、西の空が静かに茜色へと沈みはじめている。講義が終わってからすでにしばらくの時が過ぎていたが、私はまだ座ったまま、針と糸とに悪戦苦闘していた。


「もう少し、針を浅く通してみて。そう、そのくらい。ずいぶん手元が安定していらしてよ」


 傍らではクララが変わらぬ姿勢で私を見守っていた。彼女は疲れた様子ひとつ見せず、優しくも粘り強い声で私の針の動かし方に助言を重ねてくれる。

 私は浅く息を吐いてそろりと針を進めた。細い銀の糸が先ほどよりもわずかに素直に布の上を走る。

 クララは私が何度針を落とそうと、何度糸を絡ませようと、何度指を刺そうと一度も咎めることはなかった。慈しむような瞳のまま、真剣に私の手元を見つめ続けてくれる。


「……どうして、そんなに根気強く教えてくれるの?」


 不意に、問いが胸の奥から零れ落ちた。問いというより、どこか戸惑いを帯びたつぶやきに近い。なぜクララは、不器用な私にここまでつきあってくれるのだろう。優しさは理由が見えないほどまっすぐで、春の光みたいに当たり前にそこにある。

 クララは私の問いを受けてしばし黙った。けれどそれは返答に窮していたのではなく、きっと言葉を選んでいたのだと思う。少しだけ伏せた睫毛の影が、夕映えのなかに繊細な弧を描いていた。


「……あなたが努力していらっしゃるからですわ」


 ゆっくりと顔を上げた彼女は、まっすぐなまなざしを私に向けて、微笑んで口を開いた。そのまなざしは飾り気のない誠実さに満ちていて、透き通るような瞳の奥にためらいのないやさしさがあった。

 胸の奥にふいに微かな痛みのようなものが走った。それは傷口ではなく、触れられたことのない場所を撫でられたような感覚。

 思わず私は視線を落として、細い針を布地に向けた。手元はさっきよりも幾分ましになっていたけれど、それでも美しい刺繍とは程遠い。


「……これが努力なんて、言えるのかしら」


 ぽつりと口をついて出たのは、自分に対する苛立ちのような言葉だった。私はただ、自分が下手だと知られるのが怖かっただけだ。得意なふりをして、黙ってやりすごせるものなら、そうしたかった。


「意地だけ張って、できないくせに諦めも悪くて……変なプライドにしがみついてるだけ」


 自嘲のように笑って、私はうつむいた。視界に刺繍枠の中の歪な糸の軌跡が映る。指先の震え、糸のよれ、針の通し跡の不揃い。どれもが私の拙さをそのまま露わにしていた。誰かに見られるのが怖くて、けれど見せられるほどの何かを持っているとも思えなくて、私はいつだってその中途半端な場所に立ち尽くしていた。

 勉強が得意なわけでもない。アルフレートのような賢さには遠く及ばない。裁縫もこうして手取り足取り教えてもらわなければ糸一本満足に通せない始末で、クララのように上品に笑うことも、立ち居振る舞いも私には真似できそうにない。

 いつもどこかで、誰かに追いつけない自分を感じている。得意と呼べるものもなければ、自信と呼べるものもない。ただ出来ないことを隠してやり過ごす術ばかりが、少しずつ上手くなってしまった。


「それでもあなたはここに座って、針を持っていらっしゃる。それはとても素敵なことですわ」


 ひだまりのような声に、針を持つ手をそっと膝の上に下ろして、私は顔を上げた。クララは変わらぬ眼差しでこちらを見つめていた。その瞳にはあたたかい光が宿っている。


「誰だって、得意なことばかりではございませんもの。大切なのは、それでも投げ出さないこと……だって、できないことに手を伸ばすのは、勇気が要りますでしょう」


 クララの目はまっすぐだった。静かでやわらかくて、どこか少し誇らしげでさえあった。まるで私の中にある何かを、私自身でさえ信じきれなかったものを、彼女が確かに見つけてくれたかのように。

 クララの手がそっと私の手の近くに置かれる。触れはしないけれどその距離が温かい。

 そんなふうに誰かに言われたのは、いつ以来だっただろうか。あるいは、初めてだったのかもしれない。私が何かに優れているからではなく、ただやめなかったことに、誰かが価値を見つけてくれるような経験は。

 

「……ありがとう、クララ」


 私はそっと糸を持ち直し、再び布地に針を落とした。さっきより、少しだけ迷いのない手つきで。

 胸の奥、ひとつ冷たく固まっていた場所に、静かな灯が置かれたような気がした。春の午後に降り注ぐ明かりのようなクララの言葉が、耳に届いたあともしばらく心の中で揺れている。銀糸が夕映えの光を受けて静かにきらめいていた。

 歪でも不格好でもかまわない。これは私が縫っているのだと、今なら言える気がした。失敗を怖がるだけの私ではなく、誰かの信じる目の中で自らの手を動かしてみせる。そんな自分になりたいと、私はいま思ったのだった。

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