歌を愛する人
春の光が中庭に柔らかく降り注いでいた。石造りの回廊の柱の影が淡く伸び、その隙間を縫うようにして、芽吹いたばかりの若葉がそよいでいる。マグノリアは盛りを迎え、甘い香りをただよわせる大輪が枝先で揺れていた。
足元には小さな花たちが誰に見られるでもなく咲いている。春の匂いというものがあるならば、それはきっと、土の温もりと花の香りがまじりあったこの朝の空気のように違いないと思う。
季節は確かにめぐり、私は二年生になっていた。校章入りのケープをはためかせながら一段ずつ石段を上っていく。手には新しい時間割表と革装の楽譜帳。
二年生から始まる選択授業。その時間割表に声楽という文字を見つけたとき、私は迷うことなくその欄に丸をつけた。
歌が好きだった。音符を追い、息を整え、胸の奥から声を響かせるたびに、自分のなかの澱がほどけていくような気がするのだ。
今日から始まる声楽の授業に私は期待を膨らませていた。授業ではどんな音楽に出会えるのだろう。芸術科目には外部講師も招かれると聞いていた。どんな人たちが私と同じように歌を愛して、この教室に集っているのだろう。
講義棟の奥の一室。声楽の授業に割り当てられた教室の中はすでに生徒たちの小さな話し声で満ちていた。壁際にはグランドピアノが鎮座し、その天板の漆黒の面が陽光を鈍く返している。
教壇にはまだ教師の姿はなく、数人の令嬢たちがそれぞれに椅子を選んで座っていた。白いブラウスの袖にレースのカフスをつけた令嬢たちがずらりと並ぶ様子はまるで舞踏会の前の控え室のようで、私は思わず足を止める。そっと息を整えて、空いている席を探そうと歩き出した、そのとき。
「わたくし、声楽なんて興味はなかったんですけれど、お母様がたしなみだとおっしゃって」
「ほんとう、仕方なくよ。人前で歌うなんて恥ずかしくて声を出す気にもなれませんわ」
ひそやかな笑い声が重なり合うように広がって、私は歩みを止めた。手に持っていた楽譜帳がぎゅっとわずかに歪む。どこに座ろうかと見回していた目はいまやその視線をどこにも向けられず、私は教室の入り口で立ち尽くしてしまった。
見渡せば教室にいたのは、開かれた楽譜を指先でめくりながら、内容にはまるで興味がないとでも言うように小さくあくびを噛み殺す者、口元を手で隠してひそひそと囁き合う者。窓の外をぼんやり眺める瞳は、舞踏会や春の帽子の新作のことでも考えているのかもしれない。
私は静かに視線を伏せた。席に着いたものの、胸の奥に沈んでいく期待を、どう繕えばいいのか分からない。
楽しみにしていた分、言葉の一つひとつが思いのほか心に刺さった。音楽をただ家柄に見合うための飾りとしか見ていないその声。
声楽を選んだ者は皆、歌に興味があるのだとばかり思っていた。少なくとも私のように、心からこの授業を楽しみにしていた者ばかりではなかったのだとようやく気づく。耳に入ってきたささやき声に胸の熱は一気に冷たくなった。
教室の壁に著名な音楽家の肖像画がひときわ美しく飾られているのがかえって滑稽に思えてしまう。歌うことが好き。ただその理由だけで選んだ自分が、完全に場違いな存在のように感じられた。
それでも授業は始まった。講師として紹介されたのは、外部から招かれた中年の女性だった。灰色混じりの髪を後ろで結い上げ、黒いドレスの胸元には淡い青のカメオが光っていた。
「声は魂の鏡です」と、初めに彼女は言った。「美しい声とは、美しい心を通してしか出せません。けれどどんな声でも、それが真実から生まれたものであれば、人の胸を打つものです」
その言葉に私はすこし救われる気持ちになった。けれど教室の反応はあまりにも薄い。誰かが静かに笑いを噛み殺し、誰かがうつむいたまま指で椅子の脚を撫でている。
講師が黒板に向かって基本的な発声練習の説明をしている間も、緊張感は教室に広がらず、むしろ空気は緩慢でぼんやりと温室のように曇っていた。
初日の授業は導入程度の内容で終わった。腹式呼吸、姿勢、音階。私にとっては知っていることばかりだったが、それでも声を出す時間はやはり楽しかった。けれど周囲の令嬢たちは早々に鞄を閉じ、出口へと流れるように姿を消していった。
名のある家柄の令嬢たちばかりだ。この場にはたしなみとして来ているだけで、心を寄せている者などもとよりいないのかもしれない。
私は席に座ったまま動けずにいた。思っていたのとは違った。それでも今日は最初の授業なのだ。これから先、何か変わるかもしれない。そう思いたかった。それなのに、心の奥底には深い寂しさが沈殿していく。
窓の外では春の陽が高い位置に登っていた。
教室に一人残った私は立ち上がって、静かにピアノの方へ歩み寄った。蓋を開けると、指先に伝わる木の感触が懐かしかった。
音を確かめるように鍵盤をひとつ叩く。澄んだ響きが教室に広がった。私は楽譜帳から一枚を開いて、それを譜面台にそっと立てかけた。
五線譜に刻まれた旋律は、自分の手で書き起こしたものだった。
私の世界を変えた曲。あの冬の日、アルフレートと観に行った民衆歌劇の中で歌われていた曲。音をひとつひとつ思い出しながら、試行錯誤で書き写した私なりの譜面。いつか一度歌ってみたいと、そう思っていたのだ。
指先が鍵盤に触れる。小さく、呼吸を整えるようにして最初の和音を奏でた。音が空気を割って、静かな教室に滲んでいく。誰もいないこの場所で、私はその旋律をそっと口ずさみはじめた。
「名前ひとつ呼ばれぬままに、誰にも待たれず目を覚ました朝……」
歌は私の中から自然にあふれ出た。誰かに聴かせるためでも、評価されるためでもなく、ただ歌いたくて声にした音だった。音符は紙の上ではただの記号だけれど、声に乗せるとたちまち色と温度を帯びて私の内側から立ち上がってくる。言葉が旋律のなかで揺れて、意味より先に感情が胸を満たしてゆく。
「……でも信じている。きっとあるはず、私の帰る場所」
ピアノの旋律が歌を支える。両手が静かに音を刻み、歌はその上を滑るようにして続いていく。歌うことで、思い出はただの記憶ではなくいまここにあるものとして息づくのだと思った。誰に届かなくても、私だけは分かっている。
「どこかで聞いた誰かの声、あの子守唄のなか」
私は目を閉じた。音を追いながら、心の奥に残る確かな温もりを手繰り寄せる。旋律のゆらぎのなかに、あの夜の劇場の光と舞台の幕がよみがえる。
「……星の下、眠れアンネリーゼ——」
その時だった。私の声に重なるようにして、もうひとつの声が空気を震わせた。
「——光がいつか、君を迎えに来る」
空気の中にまっすぐ線を引くような、芯の通った響きだった。私は息を呑み、振り返った。鍵盤に置いていた指が離れ、旋律も途切れる。
教室の扉が少し開いていて、その隙間に立つ影があった。優しい風が吹きつけて、髪がわずかに揺れている。少し乱れた前髪と、開け放たれた窓から差す光に目を細めた顔。見間違えようがなかった。アルフレートだ。扉の影から半身を覗かせた彼は、迷いなく教室へ足を踏み入れる。
「君の声だと思った」
彼はそれだけ言って、窓辺の空いた席の背に片手をかけた。私は信じられない気持ちで彼を見つめた。
ピアノの前に座ったまま、まだ心臓の鼓動を整えきれずにいる。まさかここで会うとは思っていなかった。しかも、よりによって私が歌っているところに。教室には誰もいないはずだった。だからこそ、私はあの旋律を口にできたのに。誰にも聴かれないと信じていたから、こんなふうに歌えたのに。
言葉を探そうとするけれど、すぐには何も出てこなかった。むず痒いような感覚が胸の内で入り混じって、どこに視線を置けばいいのかさえわからない。頬が赤らんでいるのが自分でもわかって、焦りを誤魔化すように私は咄嗟に口を開いた。
「あなた、歌が上手いのね」
声は少し上ずっていた。気取らぬふうを装おうとしたけれど、我ながら不自然な言い回しだったと思う。素直に驚いた、と言えればよかったのに。アルフレートの返事はすぐにはなくて、私は恥ずかしさに耐えきれずそっと目を逸らした。
「そうかな」
彼はふっと息をつくように笑って、気負わない声で言った。春の柔らかな光が教室の床に影を落としている。私は落ち着きなく指先を組み直す。
「たぶん慣れてるだけだよ。母が歌劇好きでね。何度も連れていってくれたし、家でも一緒に歌ったから」
懐かしむような、それでいて語尾に湿り気を帯びさせない声音だった。私は反射的に顔を上げて、アルフレートを見た。彼はひとつの景色を描き出すように穏やかに言葉を並べて、静かに窓のほうへと視線を移した。
「そう、お母様が……」
アルフレートは何も言わず軽く頷いた。視線は窓の向こうに逸らしたままだった。その横顔を見つめながら、私はふと気づく。そういえば、アルフレートから家族の話を聞くのはこれが初めてだ。彼がどんな家に育ったのか、どんな暮らしをしてきたのか、私はほとんど知らなかった。
秘密めいているというわけでもなかったけれど、自然とそういう話題は避けられていた気がする。あるいは、私自身が踏み込まなかったのかもしれない。
「母は歌詞をすぐに覚えて、家でも外でもお構いなしに歌ってたな」
アルフレートは笑いながら言った。視線は変わらず窓の外へと向けられている。その目に映るのは春の澄んだ空でも私でもなく、懐かしくあたたかい景色なのだろうと思った。穏やかな夕暮れ、小さな舞台、ささやくような拍手、あたたかい手。そんな断片が、彼のまなざしに重なっているのではないかと。
「素敵なお母様ね」
私の声は吐息のように洩れた。羨ましい、と思った。そう思わずにはいられなかった。
舞台を愛し、歌を愛し、彼の手を引いて何度も劇場に通ったひと。そんな人のそばで過ごす日々は、どれほど豊かで、どれほどあたたかかいものだろう。彼の語る風景はひとつの物語のようにきらきらと輝いて見えた。
私の母は音楽をたしなみのひとつとしては認めていたけれど、それ以上のものと見なしたことはなかった。私がどれほど歌を好きでも、それは単なる教養としての意味しか持たない。貴族の娘にふさわしいのは格式あるオペラだけで、それ以外の劇場に足を運ぶことなどとうてい許されなかった。
アルフレートの語る記憶はまるで夢の世界のようだった。拍手に包まれて幕が上がるあの高揚を、誰かと分かち合いながら育つということ。日々の暮らしのなかに民衆歌劇があって、歌うことが特別なことではない。そんな日常が、どれほどすばらしいものであるかを思った。
「まあ、外で歌われるのは正直ちょっと恥ずかしかったけどね」
くすりと笑いながらそう言ったアルフレートは、次の瞬間、ふいに窓から視線を移して、私の目をまっすぐ見つめてきた。軽やかだった声の調子がほんの少し落ち着いた色を帯びる。
「でも、君がさっき歌ってるのを見てなんとなく思い出したんだ。母さんもこんなふうに、嬉しそうな顔して歌ってたなって」
その言葉は、思いがけず胸の奥に届いた。まるで古い楽譜の間に挟まれた押し花のような、懐かしさと優しさを湛えた記憶のかけら。
アルフレートの母という人の存在が、急に形をもって私の想像のなかに現れた。高揚とざわめきのあいだで歌を口ずさみ、幕の上がる瞬間に息を呑んだひと。彼の語るその面影が、ほのかな光に照らされるように、私の心の中にゆっくりと浮かび上がってゆく。
私は思わず微笑んでいた。そうしないではいられなかった。あたたかくやさしい想いが胸いっぱいに広がっていた。私の歌う姿に彼がそんな記憶を重ねていたなんて、少し不思議で、でもとても嬉しかった。
……会ってみたいな。
その願いは、まるで一編の詩のように、自然に心の奥へと浮かんできた。どんな人なのだろう。どんな声で笑い、どんな歌を口ずさみながら、その人はアルフレートの手を取って歩いたのだろう。
彼が見上げたその横顔を、私もひと目見てみたいと思った。もし叶うなら、その人の隣に座って、あの民衆歌劇の幕が上がる瞬間を共に味わってみたい。舞台の光に照らされる瞳がどんなふうに輝くのか、そっと覗いてみたい。
……いつか、会えるかしら。そんな未来が、どこかにあるだろうか。
その想いは、切実な祈りのように芽を出して、風にゆれる花びらのように心のなかにとどまり続けた。
風がそっとカーテンを揺らす。遠くで鐘の音が鳴った。今この時がずっと続けばいいと、私はふと思った。彼の語ったやさしい記憶と、私の中で芽生えたひそやかな願いが、同じ空の下で寄り添っていることが、私はいまどうしようもなく嬉しかったのだ。




