わたしは歌が好き
よその人はわたしを「素晴らしい芸術を理解できない子」だと言うけれど、わたしは歌が好きだった。
でも好きなのは、やさしくて、心が春風のように軽くなるような歌。小川の音や、鳥の声や、メイドのエミリーが朝にこっそりくちずさんでいたような、そんな歌の方が好き。お父様たちは、強くあることとお金を動かすことばかりを話していて、お母様たちは着飾ることやおしゃべりに夢中で、絵や詩や音楽のことは、だれも本気で語ろうとはしない。
きっと今夜のオペラにも、たくさんの人が集まる。けれど、舞台を見ているふりをしながら、となりの人のドレスを見たり、後ろの席の人の噂話をしたりして、それなのに「芸術って素晴らしいわね」なんて言う。そういう場所に、誰も歌を喜ばない場所に、わたしはこれから向かっている。
王都へと向かう道のかたわらには、スミレが太陽の光を浴びて咲いていた。わたしの意思とは裏腹に、馬に引かれた車輪はからからと音を立て、細い道を無情にも進んでいく。春の陽射しは柔らかく、空気は新しい季節の香りで満ちているのに、わたしは相変わらずの浮かない面持ちで馬車に揺られていた。
「恥ずかしい真似は、二度となさらないことね」
向かいに座るお母様が、まるで型通りの美術品のような優雅な装いで、涼しげに扇をあおぎながら告げた。声色には温度がなく、その瞳はわたしを映さないままだった。空気は絹の糸をぴんと結びつけたかのように張り詰め、わたしは顔を上げる勇気も出せず、俯いたままこくんと首を縦に振った。
「貴族の娘には、貴族の娘としての振る舞いがあるのです。そう教えてきたはずよ」
シルクのグローブに包まれた手元で扇がしなやかに揺れるたび、わたしの心はぴしぴしとひび割れていくようだった。お母様の言葉はいつも正しい。それゆえに、わたしの思いはどこにも行き場がない。
「……母上。妹は、もう充分反省しています」
隣に腰掛けていたお兄様が、静かに抑られた声で、しかしはっきりとそう言った。
思いがけない言葉に、わたしはそっとお兄様の横顔を見上げた。兄はまっすぐにお母様の方を向いたまま、微動だにしない。幼さを残す面差しのなかに、妙に大人びた影がさしていて、わたしは息をのんだ。けれど、長いまつ毛がほんのかすかに震えているのが分かって、これがお兄様なりの精一杯の勇気なのだと気がついた。
「お前まで甘やかしてどうするの、ヴォルフガング」
母の声に微かな苛立ちが混じる。完璧な装いと姿勢のまま、視線だけでお兄様を制した。しかし兄は膝に置いた拳を握りなおすと、目を逸らさないままに続けた。
「甘やかしているのではありません。ただ、エリザベートは、叱られるよりも先に自分で分かっています」
お兄様の声は小さく揺れていた。母はしばらく黙ったまま、扇を閉じた。
きつく結ばれた口元がわずかに緩み息を吐き出すと、それ以上は何も言わなかった。
馬車は森を抜け石畳にさしかかり、車輪が硬く乾いた音を立て始めた。
この先にある白亜の劇場に、わたしの望む歌はきっとない。
けれど、わたしの心に寄り添ってくれる人が少なくとも一人はいるのだと知って、冷たい宵の劇場に向かう心がほんの少しだけ軽くなったように思えた。
「きゃあ!」
そのとき、馬車が急に傾き、身体がぐらりと揺れた。外から、御者の叫び声と蹄の音が聞こえる。
母が小さく悲鳴を上げ、兄がわたしを庇うように肩に手を伸ばした。馬がけたたましい鳴き声をあげ、車体はまるで嵐の日の船のように荒ぶった。しばらくののちに馬車はようやく止まると、御者が顔を真っ青にして扉を開けた。
「奥さま、車輪の一部が破損したようです……」
お母様は外の様子を伺うと、不安げに扇で顔を隠した。
「……まさか、こんな場所で!」
◆
馬車は、思いもよらぬところで立ち往生してしまった。
王都の下町。舗装が甘い石畳の道に、車輪のひとつが嵌まって割れてしまったのだという。お母様は忙しなく周囲に指示を飛ばし、御者は興奮した馬を宥めるのに手一杯になっている。
急ごしらえで呼ばれた職人たちが車輪の修理に取り掛かっているけれど、出発までにはどうやら時間がかかりそうだった。
わたしは窓から身を乗り出し、あたりを見渡した。目に飛び込んできたのは、王都のきらびやかな表通りとは違う風景。街道の石畳はところどころ剥がれていて、店の軒先には干した布や古ぼけた看板が揺れている。細い路地からはパンを焼く匂いや、どこかで演奏しているらしいアコーディオンの音楽が流れてきた。
「……この間に、すこし歩いてきてもよろしいかしら」
誰にともなく言ってみたが、答えは返ってこない。お兄様も手伝いに降りていて、車内にはわたし一人しかいなかったからだ。
……これは、好機というものだわ。
悪いことを思いついた人間が浮かべる顔を、わたしはたぶんしていた。そっと扉の取っ手に手をかけ、音を立てぬように開ける。すこしでも音を立てたら最後、お母様の「あの声」が飛んでくるのだけれど、今日は運がいい。まるで神様も、わたしの小さな冒険を応援してくれているみたいだった。
裾が地面に触れぬようスカートを持ち上げ、片足を静かに馬車の外に滑らせる。わたしが意気揚々と歩き出そうとした、その瞬間。
「どこへ行くつもりだ」
静かな声がすぐ背後から落ちてきて、わたしは飛び上がる。冷や汗をかきながら振り向けば、ジャケットの袖をまくり、額に薄く汗を浮かべたお兄様が立っていた。
「その、ほんのすこし外の空気を吸おうと思ったのよ。ほんとうよ」
「空気なら窓から吸える」
「窓からじゃ思いきり吸えないわ」
咄嗟に言い訳を並べてみたものの、自分でもその軽さが分かっていた。声は浮ついていて、説得力もなく、兄の静かな目がまるで鏡のようにわたしの子どもっぽい衝動を映し返してくる。
「お前、抜け出そうとしていたな」
わたしの魂胆はすぐに見破られ、厳しい声がぴしゃりと飛んできた。わたしはそれ以上言い訳も見つけられず曖昧に笑ってみたが、お兄様の眉は一寸たりとも緩まない。
「……反省していないのなら、先ほど母上の前で庇った意味がない」
失望を滲ませた声に、わたしはわずかに怖気付く。けれど、こんな機会は二度とないと耳元で悪魔が囁いたのだ。わたしはほんの一拍だけ目を伏せて、次の瞬間、くるりと身を翻して走り出した。
「エリザベート!」
「きっとすぐに戻るから、約束よ、お兄様!」
返事を聞く前に、わたしは小道の角をひらりと曲がった。石畳がごつごつしていて足をとられそうになる。
焼きたてのパンの匂い、野いちごを煮詰めたお菓子の香り、それから、香草と肉をいっしょに焼いたあの香ばしさが鼻をくすぐって、思わず息を吸い込む。
まるで見えない何かに手を引かれているように、地面を跳ねるように駆けて、わたしは人並みの奥へと足を踏み入れた。
細い路地を曲がった先、賑やかな音と笑い声が頬を撫でていく。
風にあおられて、薄紅色の花弁が地面に舞い落ちた。気まぐれな春の風はそのまま通りを抜けて、露店のひさしをはためかせ、角を曲がった先にある広場の、長く垂れた赤い布を膨らませた。わたしはその布のゆらぎに、ふと足を止めた。偶然だった。けれど、神様からの啓示のようにも感じた。透明な糸に引かれるように、胸の奥のどこかが、ゆっくりと熱くなっていくのを感じながら、わたしは広場へと歩を進めていった。
中央に、板を組んだだけの簡易な舞台があった。煉瓦の壁に背をもたれかけた、小さな舞台。木枠に吊るされた簡素な緞帳が、風に吹かれてぱたぱたと音を立て、周囲の花壇の花たちを揺らしていた。
舞台の前には、木箱を積み重ねた客席があり、子どもや市場帰りと思われる婦人たち、麦わら帽子を被った労働者風の男性たちが思い思いに腰を下ろしていた。
わたしが何より驚いたのは、こんなにも多くの異なる出立ちの人たちが、誰も彼も目を輝かせて、声をあげて、ひたむきに舞台に見入っていたことだった。
「こんな光景、わたし、知らない……」
その視線の先にあるものを一目見たくて、人々の間を潜り抜ける。
洗濯物を干したロープが向かいの家からこちらへと張り渡されていて、それがまるで祝祭の飾りつけのように見えたのは、きっとわたしの心が浮き立っていたからに違いなかった。
赤いリボンを髪に巻いた若い女の人が、舞台のまんなかで、夢見るように歌っていた。澄んだ声が空に抜けて、どこまでも届いていきそうだった。
木製の古いオルガン、カスタネット、高い笛の音。歌は朗々と想いを語り、時には踊り、役者たちは身振り手振りで物語を紡いでゆく。
宙に投げられた帽子、観客に投げかけられる台詞、笑い声と歓声と手拍子。
「こんな歌が、歌劇が、あるの?」
誰に問うでもなく、わたしはつぶやいた。まるで物語が、目の前で生きているのだと思った。
ここは劇場のなかの、きらびやかな衣裳と金ぴかの照明のなかの世界じゃない。
舞踏会のような華やかさも、貴族たちの上品な作法もない。けれど誰もが歌を愛していて、喜びと希望に満ちている。
こんな歌があるなんて、知らなかった。
声はただの旋律ではなくて、まるでひとつひとつの想いについた色が空気に溶けて、聞く人の心に降りそそぐような歌。
怒りも、喜びも、寂しさも、恋しさも、ぜんぶまっすぐに抱えて、それでもなお誰かに届けようとするみたいに、あの人は歌っていた。それは整った音じゃなくてもよかったし、むしろ粗い輪郭のまま、むきだしの感情が音になるたび、胸がじんと痛くなるくらいだった。
これだ、と思った。まるで世界のかたちが、いま変わったような気がした。
「これこそが歌よ。これこそが、歌劇というものなんだわ」
豪華な天井絵や、黄金のシャンデリアなんて、なくていい。大理石の柱も、絹のドレスもいらない。舞台は、板と布きれだけでよかった。観客は、貴族じゃなくたって、みんなで笑って、みんなで泣ける。目の前の人に、心が届く。嘘じゃない。飾りじゃない。
舞台の上で起きているすべてが、まるで夢のようで、でも夢なんかよりずっと真実らしく感じられた。
「……わたし、やっぱり歌が好き」
わたしのなかで、何かが生まれた気がした。あたたかくて、まぶしくて、涙が出そうで、それでも笑いたくて、なんだかよく分からなくて、でも、たしかなものだった。
本当に、たしかなものだったのだ。