波瀾万丈期末試験
晩冬、空はいつも物憂げだった。淡雪が気まぐれに舞い、晴れているのか曇っているのかも曖昧な空。冷たい風が石造りの校舎の隙間を縫って吹き抜け、くすんだ灰のような光をあたりに散らしていく。
白く降り積もっていたはずの雪も、今ではすっかり灰を含んだように色を変え、ところどころ土に溶け込んでいた。
冬の名残を引きずったまま春に足を踏み出しかけた季節。溶けかけた雪に足をとられないようつま先立ちで渡った渡り廊下の先で、私は忌まわしき“それ”と対面することになった。
「ねえ、クララ。これを見て……」
冷たい風に揺れながら壁に掲げられた、白地に黒の手書き文字。記されていたのはそう、言葉にするのも憚られる忌まわしきもの。
「……期末考査日程表、ですわね」
クララはためらいなくその名を口にした。しかしその表情は恨めしげで、目を細めて掲示板を見つめている。大きく丁寧に書かれた「期末考査日程一覧」の紙はあまりにも潔く、あまりにも堂々と、私たちの逃げ場を塞いでいた。これからの数週間は春などという穏やかな言葉を胸に思い描く余地もなく、私たちの記憶は試験勉強の苦しみで埋め尽くされるのだ。
朝食前の澄んだ空気のなか、廊下を行き交う生徒たちがその紙を目にしては次々と絶望の色を深めていくのが横目にもよくわかった。誰かが息を呑み、誰かが目をそらし、誰かが祈るように項垂れていく。
「……見るんじゃなかった」
私は小さく呻くように呟いて、視線を掲示板からそっと逸らした。けれど目を背けたところで、記されていた文字は脳裏にくっきりと焼きついてしまっている。王国史。王国法。古典語。外国語。算術に幾何。礼法。誰の目にも等しく明らかなその列挙は、容赦というものを一切知らない。
夕食後、私たちは講義棟の自習室にこもることにした。自発的に、というよりは追い詰められて。
自室では他のことに気を取られ身が入らないことが分かりきっていたし、寮の共用スペースでは他の生徒たちがすでに試験対策に本腰を入れていたので、私たちが勉強できる場所を求めれば、必然的にそこへ行き着くしかなかったのだ。
早々に窓際の長机を確保しクララと並んで腰かけると、私たちは黙々と準備を始めた。花柄のハンカチを広げて机の中央に敷き、その上にクッキー缶を慎重に置く。続いてチョコレート、キャンディ、スティック状の焼き菓子、そして最後に砂糖のかかったレモンピールの包みを並べていく。配置を細かく調節するクララの手際はまるで宝石を扱うかのようで、もはや陳列と呼ぶにふさわしい見栄えだった。
ポットとティーカップを並べ終えると、私はようやく教本とノートを取り出した。けれどいざ開こうとして、ふと手を止める。広げる場所がない。
「……クララ、少しだけ場所をもらってもいいかしら」
「まあ、どうぞ。くれぐれも配置は崩さないようにお願いいたしますわ」
本末転倒もここまでくると見事だと思いながら、私はそっとクッキー缶を左へ移動させた。続けて、キャンディの列を慎重に上へ。皺ひとつつけまいと気を遣いながら焼き菓子のナフキンをずらし、なんとか片隅に小さな空白をこしらえる。
ようやくできた掌ほどのスペースに、私はそっと教本を開いた。ぱらりとめくると、開いたそのページからは重々しい活字がこちらを見返してくる。王国法・第一章、建国と統治機構の変遷。心して向き合うべき章ではあるけれど、私の意識は開かれた缶の中から香るクッキーの匂いにやや引き寄せられていた。
「ねえ、クララ。ここの条文なのだけれど……つまり、これはどういうことなのかしら?」
私は王国法の教本を開き、ページの端を指で押さえながら訊ねた。
クララはしばし難しい顔で活字を見つめ、それからぽつりと答える。
「たぶん……そういうことですわ」
「……どういうこと?」
「うふふ……それを調べるのが学びですわよ」
お茶をひとくち啜りながら笑うその横顔は余裕に満ちているのに、それでいて中身はだいぶあやしい。私はため息をつきつつ、自分のノートを開いてみた。……開いたまま、白紙である。
「古典語の勉強は進んだ?」
「ええ、文の意味がわからないところまで、しっかりと」
「進んでいないわね」
そんな具合で私たちは一応、机に向かっていた。お菓子を囲み、教本を睨み、互いにわからないところをそれっぽく指摘し合いながら。
ノートの余白には「?」「これなに」「要再考」といった書き込みが踊り、ティーカップの中身だけが順調に減っていく。
どこまで読み返しても頭に入らない条文と、もはや詩のようにしか見えない古典語の訳文を前に、私たちはとうに無言になっていた。気づけば頁をめくる音よりも、お菓子の包みをほどく音のほうが頻繁に響いている。
「……クララ。チョコ、そっちまだ残ってる?」
無言のままそっと渡される包み。私はそれを受け取りながら、片手で教本の角をめくった。さっき開いた章の隣にある次章に目を走らせてみたが、内容はさらに難解だった。そうして一行読んではチョコを噛み、一行進んでは舌の上で甘さを転がす。
「この“統治権限は、第二機関の承認を前提として”っていうの、どう思う?」
「では、まず第二機関というのはクッキーの二枚目のことだと仮定して……」
それでも私たちは、懲りもせず教本を前にし続けていた。思考は砂糖まみれ、語彙はふんわりと曖昧。ノートの余白には意味をなさない記号とともに、いつしか「たすけて」といった悲鳴のような文字が書き加えられていた。
「……何をやってるんだ、君たちは」
低く落ち着いた声に振り向くと、そこにはアルフレートの姿があった。教本を片腕に抱え、こちらの机を見て眉をひそめている。
「勉強ですわ。ご覧になればお分かりいただけますでしょう?」
「お菓子パーティーの間違いじゃないのか」
彼は眉間にしわを寄せながら机上に並べられた菓子の山を一瞥し、続いて私たちのノートに目をやった。何か言いたげに眉を動かしていたが、やがて深い息をひとつ吐いて、無言のまま手にした教本で顔を覆った。
「いいか、まず第二機関はクッキーじゃない。国家評議会だ」
「やはりそうでしたのね」とクララが何事かを悟ったように頷いた。
「ではその国家評議会がクッキーを——」
「絶対にしない。むしろ誰もそんなことはしていない」
即答されて、クララは「残念ですわ」と微笑んだ。もはや冗談なのか本気なのか判然としないが、彼はそれ以上追及せず、持っていた教本を机に置いて私の隣に腰を下ろした。
「……さて、どこから手をつけるべきか」
アルフレートは静かに椅子を引き寄せると、目の前の教本と、そこに添えられたクッキー缶とキャンディの列とを一瞥した。まるで学問と砂糖菓子の境界をどう線引きすべきか思案しているような表情である。
「まずエリザベート。君の王国法のノート、ちょっと見せてくれ」
そう言われて、私は渋々ノートを差し出した。アルフレートは黙って受け取り、ぱらぱらと何ページかめくった。そして、ある一行のところで指先が止まる。
「“第二機関はクッキーらしきもの。職務は不明”……」
「あ、それ、下書きのつもりで……」
「“統治機構、たぶん偉い。あと名前がむずかしい”……」
「覚えるために特徴を書いたつもりだったの」
「……“このへん、アルフレートに聞く”」
「そのへん、アルフレートに聞くつもりだったの」
「うん。見事な計画倒れだ」
彼はそこで静かにノートを閉じた。こちらを一度じっと見たあとあきらめたように息を吐き、次にクララのほうへ視線を移した。
「クララ。君の進捗は?」
「古典語の復習をしておりましたの。順調ですわ」
「そうか。それじゃあこの文の訳を」
穏やかな声で答えるクララの表情には達成感めいたものが浮かんでいたが、私はそっと不安になった。彼が開いた文法書をくるりとクララのほうへ向ける。示されたのは短い一文だった。
“Veritas liberabit vos”
クララはしばらく静かにその文字を追い、わずかに首を傾げ、それから朗々と口にする。
「……ヴェリタスさんが、あなたたちを解放する?」
「個人名じゃない。“真理があなたたちを自由にする”だ」
「まあ。深いお言葉ですわね。ではヴェリタスは、まるごと真理のことでしたの?」
「そう、古典語で真実とか真理。名前っぽく見えるけどそうじゃない」
クララは感心したように頷き、紅茶をひとくち啜った。まるで格言を一つ噛みしめた詩人のような表情である。私はそっと姿勢を正し、隣で満ち足りた顔をしているクララのノートをちらりと覗き見る。案の定、そこにも「動詞?」「たぶん何かする」といった書き込みが躍っていた。
「ねえアルフレート。もしこの調子で試験を受けたら、どうなると思う?」
「君たちが落第しない未来が想像できない」
即答だった。うっすらとした情けも含んでいたが、それ以上に現実を見据えた声音である。アルフレートは肩を落としながら、それでも呆れるだけでは終わらせずに、机に置いていた教本を手元に引き寄せた。
「……よし、今日は第二機関と古典単語の正しい意味を知るところから始めよう。君たちは聞いて、分かったふりじゃなく、分かろうとしてくれ」
私は姿勢を正し、クララはレモンピールに伸ばしかけた手を引っ込め、ノートと万年筆を取り直した。お菓子も紅茶もまだ残っているけれど、それは脇に置いておこう。まずはこの一問、正しく解くことから始めなくては。
勉強会、再開である。たぶん、今度こそ。
◆
「胃薬持参で教えに来た。……覚悟はいいな?」
翌日。まだ朝の冷え込みが部屋の隅に残るうちに、アルフレートは現れた。開口一番に発せられたのは、いささか物騒な宣言だった。
手には革張りの教本と資料の束、そして本当に胃薬の小瓶。冗談とも本気ともつかないその口調に、私は思わずクララと顔を見合わせた。けれどもその目は、教える気満々の本気そのものだった。
その日、アルフレートはまさしく歩く辞書と化した。
条文を開けば即座に要約し、時には施行年と修正箇所まで口にしてみせる。クララのノートに迷いなく赤線を引きながら、不要な語句には「削除」「言い換え」「そもそも意味が通じない」と評価を加える冷静さと手際の良さ。私の拙い質問にも、まるで法廷の弁論のように三段論法で返してくるのだから恐れ入る。
「訳文を書いた下に、“たぶん”って何?」
鋭い声が飛んだ。クララのノートを覗き込んでいたアルフレートの眉が、じわりと八の字になる。
「希望を添えましたの」
クララは真顔だった。何がどう希望なのか、説明を求められたら困るのはそちらなのに、彼女はどこまでも堂々としている。たじろいだのはむしろアルフレートのほうだった。
「……希望を、ね。まあ、希望は自由だ」
そう言いながらも、彼はしっかりと「たぶん」に二重線を引き、「曖昧な語句」と赤字でコメントを書き込んでいた。
私はといえば、ノートに自分なりの理解を書き留めようと懸命だったのだが、どういうわけか書いた端から修正が飛んでくる。
「この“偉い人”って何」
「偉そうだったから……」
「印象で法体系を語らないでくれ」
三秒後にはその部分がきれいに塗りつぶされ、「正確な官職名を」と赤字で書き加えられる。私は思わず筆先を止めた。アルフレートの筆さばきは容赦がなく、数分前に書いたはずのページがまるで試験帰りの答案用紙のような惨状に変わっている。と
はいえ、彼の教え方が的確であるのは間違いなかった。説明はわかりやすく、順序立っていて、質問すればすぐに返ってくる。それだけについていくこちらのほうが精一杯だ。
クララはいつの間にかノートの隅にささやかなイラストを描きはじめていた。議会の議長席に座ったウサギと、ハンコを持ったタヌキ。
「……これは何のつもり?」
アルフレートがクララのノートを覗き込み、静かに問いかけた。冷ややかな視線の先には、議会の壇上で得意げに演説するウサギと、脇で書類にハンコを押しまくるタヌキ。クララは万年筆の先で、タヌキの眉をちょっとだけ太く描き足しながら、何食わぬ顔で答えた。
「エリザベートのお手伝いですわ。第二機関の働きが視覚的に理解しやすくなりますの。記憶の定着には、文字よりも絵が有効と伺いました」
「理屈としては分からなくもないけど……」
アルフレートは困ったように眉を寄せ、そしてやや長めに黙った。おそらく彼の中で「可愛い」と「許せない」のせめぎ合いが起きていたのだろう。
「じゃあこれは?」
私は横からそっと指を伸ばし、クララのノートに描かれた、王冠をかぶったリスらしきキャラクターを指さした。
「国家の象徴ですわ。ちょっと威厳が足りない気がしたので、マントもつけてみました」
アルフレートがそっと目を伏せた。どうやら、赤を入れるにも分類が難しいらしい。
「まあいい。エリザベート、次の章に進もう。今度は立法過程について」
その言葉に、私は即座に姿勢を正した。クララはリスのマントに装飾を描き加えたあと、ようやく万年筆を持ち替えてノートの新しい頁を開く。ページの最上段にはすでに大きく「たぶん」と書かれていたが、今回は見逃してもらえた。
「……長くなりそうだな」
私たちはそろって黙ったまま頷いた。今日が終わる頃、アルフレートの赤のインクはあと数滴しか残っていないだろう。けれどそれは私たちが書き間違え続けた証ではなく、そのぶん学びと修正を積み重ねた軌跡になるのだ。その分きっと、私たちは成長しているはず。たぶん。希望を添えて。
◆
長かった試験期間が終わりを告げ、ついに迎えた翌週。成績発表の日はまるで天気までが空気を読んだかのように晴れ渡っていた。
中庭の樹々が春めいた風に揺れ、講堂の石畳に木漏れ日がちらちらと踊っている。掲示板の前には人だかりができていた。
全員が前の肩越しにつま先立ちになって目を凝らす。私とクララも、ひとつ呼吸を合わせてから歩を進めた。遠慮がちな声で人をかき分け、ようやく紙面の全体が見える位置にたどり着く。
そこにはくっきりとした文字で名前と得点がずらりと並んでいた。自分の名を見つけた瞬間私は息を詰める。思っていたより悪くない位置だった。いや、それどころかむしろ、よくやったと言ってもいいのかもしれない。隣を見ると、クララも小さく息をついていた。安堵と確かな笑みを浮かべている。
「二人とも、落第じゃありませんわ!」
思わず顔を見合わせる。クララが目をうるませて笑っていた。私は胸に手を当て、思い切り息を吸い込む。掲示板の前のざわめきはまだ続いている。あちらこちらから悲喜こもごもが聞こえてくる中で、私たちはこの上ない喜びに胸を躍らせていた。
「でも……」
クララが不意に動きを止めた。小さな声が空気のなかにひっそりと沈んでいくように落ちた。
「アルフレート、ご自身の勉強は大丈夫でしたのかしら。あれほどわたくしたちに時間を割いてくださって……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、曇り一つない青空を仰いだ。さっきまでの笑顔の名残をまだ口元に残しながらも、その瞳は遠くを見ていた。
私もふと思い返す。夜が深まっても席を立たず、疲れた顔も見せずに条文を引き、ノートを開き、問いかけにすぐ答えてくれたあの人の姿を。忍耐強く的確に、ひたすらに教えることに徹してくれていた。
「そうよね、ほとんど毎日付き合ってくれたし……自分の勉強をまともにしてる時間なんて——」
そのとき、不意に人だかりの前方で声が上がった。
「おい、二年の成績出てるぞ。一位はまたヴァイスだ!」
その名に、私もクララも思わず振り返った。声の指すほう、少し離れた位置に貼り出された別の紙。その紙の上部に、くっきりとした筆致で記された一行が目に飛び込んできた。
一位、アルフレート・ヴァイス。
目を疑う、とはこういうときに使うのだろう。私の視線はその名前に釘づけになり、脳が理解を追いつかせるまで数秒かかった。隣を見ると、クララも同じように呆然と掲示を見つめていた。数瞬ののち、彼女はそっと口元を引き結び、まるで何かを悟ったように目を伏せた。
「……おそらく、わたくしたちの理解の及ばない領域に生きていらっしゃいますわ」
あまりに的確な総括に、私はそれ以上なにも言えなかった。陽光が木々の間をすり抜けて、掲示板の角にひとすじの光を落とす。アルフレートの名前は、その光の中で静かにきらめいていた。




