聖夜の市
劇場を出るころには、空はすっかり淡い紫色に染まりはじめていた。冬の日は短く、まだ十六時を回ったばかりだというのに、通りにはじんわりと宵の気配が滲み出している。照明に火が入った劇場のファサードを見上げながら、私はゆっくりと吐く息の白さを眺めた。
あれほど心を揺さぶられたのに、劇場を出てからしばらく、私は口を閉ざしていた。どこから話しはじめればいいか、選んでいるうちに喉の奥が熱くなって言葉が出ない。
隣を歩くアルフレートも何も言わなかった。彼なら何か言ってもおかしくないのに。いつも通りの調子で「感想は?」とでも、訊こうと思えば訊けたはずだった。
でも彼はそうしなかった。私がいつになく口をきかないから、彼もそれに倣ったのかもしれない。こういうときのアルフレートはやけに気が回る。
街角の路面が濡れていて、昼間に雪がちらついていたことを思い出す。積もるほどではなかったけれど、石畳の継ぎ目にかすかに白が溶けずに残っていた。
まばらな雪と街灯の明かりが、川のように細く道を照らしている。通りの向こうからは、二頭立ての馬車がゆっくりと通り過ぎていった。
「……この演目、ちいさな頃に一度だけ観たの」
蹄の音が石畳に響くのを聞きながら、私はようやく一言目を紡ぐことができた。
言いながら、遠い日の情景がはっきりと蘇ってくる。ざわめきのなか、広場の舞台で風に揺れていたスカーフのこと。立ち止まって見ていたほんの一瞬の情景が、長い時を越えて今日、舞台の上で確かなかたちを取り戻したということ。
「いつか話したでしょう。馬車を抜け出して、って。あの日から私、ずっと憧れていたのよ」
声に出してはじめて、自分の中にあった思いがようやく輪郭を持った気がした。言葉にしてしまえばこそばゆくなるはずだったのに、今だけは違う。劇場の明かりがまだ心に差していて、私は素直にならざるを得ない。
「劇場を出てから妙に静かだから、気に入らなかったのかと思って焦ったよ。泣いてたのは感動じゃなくて、椅子が硬かったせいとか……」
その言い方があまりにも彼らしくて、思わず私は顔を伏せた。たぶん、それはアルフレートなりの優しさだった。明るくからかうような調子だったけれど、その目はほんの少しだけ安堵したように揺れている。私が言葉に詰まっているあいだ、彼はきっと何度か尋ねるきっかけを探してくれていたのだろう。
私はアルフレートを見つめる。ひと呼吸、空気が細く揺れた。
「今日は連れてきてくれてありがとう」
言いながら、自分でも驚くほど声が震えていた。寒さのせいにしてしまえば済むけれど、そんなことをしても彼にはきっと見透かされてしまう。だから、私はありのままを伝えなければならない。
マントの中で、指先が冷えているのを感じていた。風はないのに頬がぴりぴりとするような寒さで、気づけば袖口に指を引き込むようにして歩いている。
ずいぶん昔、寒さを知らなかった頃の私なら、こんな日にも白い息を喜んで吐いていたのだろう。だけど、今はもうそんな子どもではない。
「私の夢を叶えてくれてありがとう。ほんとうにすばらしいことだったの。いま私がどんなに感動しているか、あなたに伝わるかしら」
子どもではないはずの私の声は、子どものような調子で響いた。感動という言葉はあまりにもありふれていて、いまの自分の心のすべてを言い表すにはどこか軽すぎる気がして、口にしたあとで少し悔やんだ。
けれど、他に言葉は思いつかなかった。心が揺さぶられて、今もまだ余韻が身体の奥に残っている。そんな自分をまるごと差し出すようにして、私はアルフレートの顔を見上げた。
◆
角を曲がって大通りに出ると、そこには思いがけない景色が広がっていた。
街の広場いっぱいに、小さな木造の屋台が肩を寄せ合うようにして並んでいる。屋根にはもみの枝と赤いリボンが飾られ、暖かな光を灯すランタンが一つずつ吊るされていた。
どの店先にも人の輪ができていて、湯気をたてる鍋や、焼き立てのお菓子、手づくりの飾りが賑やかに並んでいる。冷たい空気のなかで、甘い香りと香辛料の匂いが混ざり合っていた。
「……わあ」
そこにあるのは、いつも馬車の窓から遠巻きに眺めていた賑わいの光景だった。遠くから眺めているあいだはまるで別の世界の出来事のように思えていたのに、今はそこに自分が立っている。
屋台の間を吹き抜ける風が頬にあたって少しくすぐったい。心の奥が浮き立つようで、けれど足を踏み出すのが惜しくも感じる。あまりに眩しくて、近づけばこの光は粒になってほどけてしまいそうだった。
「こんなに近くで見るの、初めて」
立ち止まった私の肩にすぐ後ろからアルフレートの歩みが並んで、つぶやいた言葉に彼が勢いよく私を見た。
「え、まさか今まで来たことなかったの?」
頷くと、彼は目を見開いて信じられないという顔をする。いつもこの時期、聖夜の市が開かれることくらいは知っていた。騎馬警備が厚くなるとか夜は賑やかになるとか、屋敷のなかにいても人々のざわめきだけは耳に入ってくる。でもそれは、門の内側にいる私には縁のない出来事だった。
「毎年来てる人みたいな顔して歩いてたから、てっきり」
彼は小さく笑い、すこし歩調を緩めた。屋台の列の手前で立ち止まり、振り返って私を見る。
「ほら、せっかくだし少し見て行こうか。君がまだ知らない世界って案外近くにあるんだな」
その言葉に私は勢いよく何度も頷いてしまった。降りかかるような光の粒のひとつひとつが、やわらかく私の輪郭をなぞってくる。まるで長いあいだ閉ざされていた窓を開けて、外の光と風を初めて吸い込んだような気分だった。
アルフレートの背中を追って歩き出せば、視線のやり場に困るほどのきらめきに包まれる。雪だるまの形にくり抜かれた小窓や、蝋燭の灯に照らされた手縫いのぬいぐるみ。屋根の縁には松ぼっくりの飾りが吊されていて、その合間に吊るされたランタンはまるで星のように瞬いていた。
ある屋台では、手彫りの木製オーナメントがずらりと並んでいた。掌ほどの天使が金のトランペットを構え、その隣には赤い頬をしたサンタクロースがちょこんと腰かけている。絵の具のかすれた色合いが温かみを帯びていて、すべてが人の手で大切に作られたものだと伝えてくる。
「見て、あの飾り……!」
私は思わず声をあげ、隣のアルフレートの袖を軽く引いた。彼はそのたびに足を止め、私と視線を合わせるように少し屈んで店先を覗き込む。
ガラス細工の屋台では、灯りを受けて光る小鳥や雪の花の飾りが、風に揺れてほろほろと音を立てている。指先で触れてみたくて仕方がないけれど、壊してしまいそうで手を引っ込める。
通りを進んでいくと、柔らかな旋律が耳にふれた。喧噪の中でもはっきりと届く鮮やかな音色に視線を向けると、片隅に腰を下ろした年配の男性が、小ぶりな楽器を抱えて弦をつま弾いている。
「……きれい」
私は知らず知らずのうちにその音に引き寄せられてしまっていて、小さくつぶやいた声に男性が顔を上げて微笑む。皺の間からのぞく眼差しはあたたかく、どこか誇らしげでもある。
「ツィターだよ。南の方の楽器でね。ほら、こうやって弾くんだ」
男性が弦を軽くはじくと、再び鮮やかな音が宙に散る。私が見入っていると、彼は「やってみるかい」と言って楽器を差し出した。
「まあ、ほんとうに?」
教えられるまま、右手の指先で弦を撫でてみる。すると、少し頼りないながらも確かに音が生まれた。指先に集中しているうちに、ふと懐かしい旋律が頭をよぎる。
昔、屋敷でピアノを弾いていたころ好きだった小曲。試しにその主旋律だけを探すようにして弦を爪弾いた。音は少しぎこちなくてところどころ途切れたけれど、旋律のかけらが空気の中でかすかに形を成していく。
「上手だね」
アルフレートの声に顔をあげると、二人はじっと私の手元を見つめていた。少し驚いて、でも誇らしい気持ちになる。自分の奏でた音が誰かの表情を変えるなんて、そんなことは久しぶりだった。
「ありがとう。とてもきれいな音ね」
楽器を返すと男性は朗らかに笑い、再び旋律を奏ではじめる。その音を背に、私たちはまた屋台の間を歩き出す。
きらびやかな光に囲まれ、目に映るものすべてが見慣れないもので、歩を進めるたびに視線が忙しくあちこちをさまよった。ひとつひとつの屋台の前で足を止めては、立ち去りがたく振り返る。
隣を歩くアルフレートは、私のその様子に何も言わずついてきていたけれど、ふと横目に見上げると、笑いをこらえているように唇の端を少しだけ引き結んでいた。
「楽しい?」
短く問われてはっと我に返る。寒さのなかで頬が少しずつ火照っていくのを感じた。
「……初めて見るものばかりで、目が回りそうなの」
「そんな君を見てる僕の方が目が回りそうだけどね」
そう言われて、私は言葉の代わりに視線を逸らす。広場を進んでいくと、不意にふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。冬の空気に紛れて、あたたかい香りがどこからともなく漂ってくる。
香りの糸をたぐるように足を止めて首をかしげる。視線を巡らせて、小さな炎が揺れる屋台のあいだから、うっすらと白い湯気を立てている棚を見つけた。
赤と金の布で飾られた小さな屋台。屋台の奥では鉄板の上に型で抜かれた生地が並べられ、先端の曲がった棒を使って石窯の中へ押し込まれる。正面には焼き上がったばかりの湯気の立つお菓子が並べられていて、シナモンと甘い蜜の匂いが立ち上っていた。
「食べてみる? ご馳走するよ、ついて来てくれたお礼に」
私の目がその光景に吸い寄せられているのを察したのか、アルフレートが少し笑って言った。私は少しだけ迷って、でも鼻をくすぐる香りに抗えず頷く。こんな風に通りすがりの屋台で何かを食べるなんてこと、これまでの人生では考えたこともない。
アルフレートは店主に何かを言いながら二つの焼き菓子を受け取った。店主が笑いながら返す言葉に彼が肩をすくめると、屋台の炎がぱちりと音を立てる。
「熱いから気をつけて」
そう言って手渡された焼き菓子は、薄い紙の袋に包まれていた。袋越しにも湯気が立ち上っていて、掌にじんわりとした熱が伝わってくる。
表面にうっすら粉砂糖の積もった焼き菓子に、火傷をしないよう恐る恐る歯を立てた。一口かじると生地は柔らかくしっとりとしている。蜂蜜の甘さが舌に広がり、シナモンの香りが鼻に抜けていく。香ばしい焼き色と、やさしく染み込んだ甘み。
「……おいしいわ!」
心の底からそのまま飛び出してきたような言葉に、アルフレートは嬉しそうに目を細めて笑う。
「それは良かった。レープクーヘンは聖夜の市の定番だからね」
彼の言葉に頷きながら、口の中でほどけていく生地のやわらかさと、ほのかなシナモンの余韻を味わう。粉砂糖が唇に残り、指先にほのかな甘い香りが移った。
その間に、隣にいたはずのアルフレートの気配がふと離れたのに気づいて顔を上げた。振り返ると彼はすでにレープクーヘンを食べ終えていて、何かを目当てにすたすたと向こうの屋台へと歩いている。
やがて戻ってきた彼は片手にカップを二つ、もう一方の手には白いお皿を持っていた。器用に差し出してくれたカップを受け取ると、じんわりとした熱が手に伝わる。なかを覗くと琥珀色の液体が揺れていて、生姜と蜂蜜の匂いが混ざった湯気がやさしく鼻をくすぐる。
広場の隅、屋台のそばに木製の長椅子と丸テーブルがあるのが見えた。アルフレートが視線でそちらを示して、二人でゆっくりとそこへ向かう。
「乾杯、とまではいかないけど、まあ、今夜に」
私はにっこり微笑んで、彼のカップに軽く自分のカップを触れさせる。金属の澄んだ音が小さく陽の落ちた広場に響いた。
「好きなだけ食べて」
アルフレートが差し出してきたのは、香ばしい焼き色の腸詰めだった。表面はこんがりと焼け、薄い皮がところどころ裂けて、そこからじわりと肉汁がのぞいている。
私は手元の木のピックを取り、そっとひと切れを刺した。指先に伝わるのはほんの少しの抵抗と、それから中身の柔らかい感触。口元へ運ぶと、香草の香りがふわりと鼻をくすぐり、焼けた脂のあたたかい匂いが胸をくすぐった。
恐る恐る一口。皮が小さくぱり、と裂けたかと思うと、その中から溢れ出した熱い肉汁が舌の上に広がった。ほどよい塩気に黒胡椒と香草の風味が複雑に絡んで、想像していたよりもずっと深い味わいをしている。
辛さはあるけれど、それを覆うほどに旨みが濃くて目を見開く。温かさと香りが喉の奥までしみていくようで、冬の冷えた身体の芯まで満たされていく気がした。
木のピックを持ったまま、ふとお皿に目を落とす。そこで私は、腸詰めが一種類だけではないことに気がついた。私が食べたものは柔らかく明るい茶色で、焼き目も控えめだったのに対して、反対側に載せられているもう一方は赤褐色に近い色味で、香辛料の粒がところどころに浮かんでいる。わずかに立ち上る湯気の香りも尖っていて、さきほどのものよりもずっと香ばしい。
「こっちはなあに?」
「こっちは辛いやつ。たぶん、君には向いてない」
「試してみてもいいかしら?」
「やめといた方がいい。涙が出るよ」
そこまで言われると、かえって気になってしまう。けれど私は声を返さず、カップを手にしながら、その腸詰めをしばらく見つめた。アルフレートはなにも言わず一切れ自分の口に放り込むと、もぐもぐと咀嚼する。
確かに辛かったのだろう、眉根を寄せて、すぐに熱い湯気の立つカップを手にした。勢いよく飲み込む音がして私は笑ってしまう。
「だから言ったろ」
「ええ。でも、あなたが泣くとは思わなかったわ」
「泣いてないって」
強がるようにそう言って、彼は視線を逸らした。けれど端正な横顔の目尻はわずかに赤らんでいて、それを見たらまた笑いを堪えきれなくなる。
ふいに、遠くで鐘の音が鳴った。夜の訪れを告げる、町の教会の鐘だった。夕暮れと夜のあわいに広場の光が一層鮮やかに浮かび上がる。屋台の明かりは橙色の花のように灯り、炎はときおり風に揺れて、揺らめく影を路上に描き出す。
「冬の街がこんな風に息づいているなんて、知らなかったわ」
澄んだこぼれた言葉は、吐息といっしょに白くほどけていった。
これまでだって、冬は毎年来ていたはずなのに。いま感じているこの冬は、まるでまったく別の物のように生き生きとしている。すべてがきらきらしていて、まるで世界がいま初めて動き出したみたいだった。
貴族の娘として屋敷のなかだけを歩いていれば、与えられたものだけを口にしていれば、気づくこともできなかった。焼きたてのレープクーヘンの匂いも、風の冷たさも、隣を歩く人のぬくもりも。
どれもが新鮮で、何度も足を止めては目につくものを確かめたくなる。誰に止められることもなく、好きなところで息をして、好きなものを見ていい。それがこんなにも自由で、こんなにも楽しいなんて。
自分の目で確かめて、自分の手で選んで、自分の舌で味わうこと。それはどんなに贅を凝らした日々を送っていようと、屋敷の中にいては得られないことだ。
冬の日、星のようにまたたくランタンの下で、私は初めて、私自身でいることを知った気がする。たとえ寒くても、たとえ迷っても、誰かの庇護の下にいなくても、私は私の歩幅でこの世界を見ていきたい。
どこかに用意された幸福ではなく、自分で見つけた幸福を心から胸いっぱいに抱きしめていたい。ドレスを脱ぎ捨て駆け出した野原に、この上ない幸福を見つけたアンナのように。




