夢見た舞台
オイルランプの灯だけが頼りの劇場で、楽の音が立ち上がった。最初は一人の奏者が低く響く弦をひとつ引き、そのあとを追うように笛の音が細く差し込む。旋律は次第に厚みを増して、風が舞い上がるように舞台の空気を揺らし始めた。客席の誰もが息を潜め、視線は正面に釘づけになっている。
正面に重たく垂れ下がっていた幕が、きしむような音と共にゆっくりと左右に引かれていく。蝋燭の光を反射して、赤褐色の布が波打つように揺れた。
物語の始まりは、朝靄に包まれた村の風景であるらしい。薄い青と灰色で描かれた背景が、夜明けの空とまだ眠る山並みを思わせた。
その前には井戸が据えられ、洗濯物の干された綱が斜めに張られていた。村人たちがゆっくりと舞台上に現れ、木靴の音がコトコトと鳴り始める。笑い声が立ち上がり、舞台の上に朝が生まれていく。
中央に、一人の少女が姿を見せた。赤みがかった髪を三つ編みにして、同じく赤いスカーフを頭に被せている。身につけているのは洗いざらしのブラウスとスカート。肩にかけたストールはところどころが擦れて毛羽立っていた。
素足に近い足元で踊るように彼女は井戸の傍に立つ。水桶を引き上げる動作とともに、背後の弦楽が一度ふっと静まり返った。
『名前ひとつ呼ばれぬままに 誰にも待たれず目を覚ました朝』
歌声は、静けさに溶け込むように響いた。ランプに照らされた頬に、わずかに揺らめく影が宿る。舞台の上で、彼女はまっすぐ前を向いて立っていた。水をたたえた桶が井戸の縁に置かれたまま、両手は胸元で軽く組まれている。
『でも信じている きっとあるはず 私の帰る場所』
少女の動きは舞踊のように流麗でありながら、ふとした瞬間には子どもを笑わせるような素朴さもあった。桶の水を覗き込み、突然顔をしかめて「まあ、カエルが!」と叫ぶ場面では、拍子に乗せて足を跳ね上げ、桶を担いでその場をくるりと回る。肩の上に桶を乗せ、まっすぐ立ったまま歌い続ける姿に、観客のどこかからくすくすと笑いが漏れた。
『ひとりぼっち 孤独な子
朝が来てまた水を汲み 夜が来て声もなく眠る
それがあの子の日々』
村人が声を揃えて歌い始める。彼女の名はアンナ。身寄りがなく、孤児として育った少女。
『どこかで聞いた 誰かの声 あの子守唄のなか——
“星の下 眠れアンネリーゼ 光がいつか 君を迎えに来る”』
アンナの表情は、懐かしさと戸惑いのあわいに揺れていた。だれにも教えられていないはずの言葉を、なぜか知っている。幼い日の夢か、あるいは現実か、その境目を問うために少女は立ち上がった。
音楽が次第に速くなる。彼女の足元が軽く動き出し、ステップはいつの間にか、旅の出立を告げる力強い舞に変わっていた。
『行かなくちゃ きっと答えがある この唄 この胸の奥に』
そのときだった。小さな頃の記憶が、突然よみがえった。私は両手を組んで指を絡める。記憶のなかにあった旋律が、次々と繋がっていく。
この歌を、私は確かに知っていた。エミリーがいつか囁くように口ずさんでくれた歌、あの日、あの場所で聞いた歌。
スカートの裾が翻り、舞台の端へと向かって走り出す姿に、胸が締めつけられる。
『明日にはきっと 遠くへ行ける つぎはぎの靴であっても!』
ランプの明かりは絶えず揺れているけれど、少女の歩みは揺らがない。つぎはぎの粗末な靴で踏み出す、その一歩。私は知っている。この少女の旅路を。その果てに手にするものを。
目の前で始まった物語は、まさしく、そう、私が求めてやまなかったもの。いつか私の胸の奥に焼きついた、あの民衆歌劇だった。
アンナは袖口を握り、舞台の中央から端へと駆けていった。背後では村人たちが出立への祝福の唄を重ねていく。そして音楽が高まり、舞台の風景は旅の始まりへと移り変わっていった。
濃い藍色で塗られた板に遠くの森を模した木々の影が描かれ、舞台の中央には細い道が一本、夜明けの霧に滲むように浮かんでいた。
踊るような足取りのままアンナはその道に踏み出し、ひとつ、またひとつと、転びそうになりながらも立ち止まらずに進んでいく。
旅に出たアンナは、最初の夜を小さな森の外れで過ごした。薪の集め方も火の起こし方も覚束ない彼女は何度も手を擦りむいては枯れ枝を拾い、やっとのことで灯した炎の前で膝を抱えて丸くなる。
アンナが空を見上げる。星の並びが淡く夜空を縁取っているのだと彼女は歌う。
その姿を私は息をひそめて見つめていた。火が揺れるたびに、観客席に差す影の輪郭がずれてゆく。周囲の誰もが息を呑み、たった一人の少女の歩みに目を奪われていた。
舞台の奥から軽やかな足音が聞こえて、影の向こうから青年が現れる。白いシャツに旅人のマントを羽織り、肩には擦り切れた麻袋。彼は木々の間を抜けながら手を鳴らし、陽気に歌っていた。
アンナが顔を上げ、ディートリヒと名乗った彼の歌に応える。ふたつの旋律がやがて寄り添い、ひとつのハーモニーになる。
それはまるで、心の距離が縮まる瞬間をそのまま音に変えたようだった。ふたりの声が重なるたび、胸の奥に知らない間に灯っていた小さな灯が、ぽうっと明るさを増していくのを感じた。
舞台が変わるたびに、背景の描き割りが回され、小道具の家々や草原が新しい出会いの風景を作り出していく。
峠の村では、アンナのスカーフに気づいた羊飼いの婦人が、「なんて上等な生地! きっと王都で織られたものよ」と教えてくれた。
途中の町でアンナが子守唄と同じ旋律を口ずさむと、年老いた絵師がふと顔を上げ、「その唄を、ある貴族の屋敷で聞いたことがある」とつぶやいた。
その一つひとつがまるで道に撒かれた小石のように、アンナを王都へと導いていく
そしてふたりはついに、舞台の最奥に描かれた王都の城門を模した背景の前に立つ。扉が開かれると、袖から飛び出した人々が舞台上を行き交い、華やかなコーラスが始まった。
そのとき、ひときわ静かにひとりの女性が舞台上に現れた。人々の行き交う群れの隙間を縫うように、向かって左の舞台上へと現れる。
ドレスの裾が波打ち、首元には繊細な刺繍が施されたショールがかかっていた。美しい衣装に身を包んだその貴婦人がアンナとすれ違いざま、ふと動きを止めた。
『その横顔 髪の色 あの子にそっくり』
彼女のまなざしがアンナに向けられ、ゆっくりとスカーフへと移る。揺れも、迷いもない目だった。次の瞬間、貴婦人のまぶたが見開かれ、旋律は震えるように、しかし明確な意志をもって続いた。
『これは妹が織らせたもの この子がまさか……!』
その一節が劇場に響いたとき、舞台の下の空気が変わった。観客席の息を呑む音がまるで水面に小石を落としたように広がり、私の耳にもそれがはっきり届いた。
音楽が静かに低く流れ始める。コーラスは遠のき、人々のざわめきが舞台の奥へと退いてゆく。貴婦人がアンナの手を取り、そっと囁くように歌う。
『あなたを連れて行きましょう 私の妹とその夫のもとへ
あなたが本当にあの子なら 私たちは失った日を取り戻せる』
背景がゆっくりと変わっていく。アンナが貴婦人に導かれ、豪奢な屋敷へと連れていかれる場面だった。書き割りの奥には金と白で塗られた階段が斜めに走り、そこが貴族の屋敷であることを告げている。
貴婦人が声をかけ、ひと組の夫婦が登場する。背筋を伸ばした紳士と、瞳の奥に痛みを湛えた夫人。そのふたりがアンナを見つめている。舞台の空気が一瞬、止まる。楽団の音も息を潜め、観客席の緊張が波のように伝わってきた。
『まさか! 娘はもうこの世にいないのよ』
歌声はひとつの叫びのように響き、すぐに抑え込むように低くなった。夫人の声には哀しみと固い拒絶が織り混ざっていた。旋律は低く、悲しみを引きずるように進む。
私は唇を引き結んで舞台上の光景を眺めていた。この夫人にとって、目の前の少女は失われた娘の幻影なのだ。信じることは、また傷つくことだった。そんな痛みが歌声の奥に滲んでいる。
舞台は静まっていた。蝋燭の炎が壁の装飾に揺れ、板張りの床にかすかな影を描いている。誰も動かない。ただ二人の女性が向かい合って立っていた。ひとりは旅衣の少女。もうひとりは、深い色のドレスをまとった夫人。
『あの子は死んだ とうに風に還った
もう戻らない これは夢 過去の幻……』
夫人の低く柔らかな声が、蝋燭の灯に包まれながら舞台に満ちてゆく。それは希望を断ち切ろうとする旋律だった。記憶にすがらないように、心を守るために。しかしその旋律にかぶさるように、アンナの声が上がる。
『私は誰? なぜ胸が痛むの?
なぜこの館に 懐かしさを感じるの?
答えが欲しい 過去が欲しい 私を見て……!』
澄んだ声はただまっすぐで、切実だった。食い入るように眺めた視線の先で、アンナがまるで炎に照らされた紙のように震えている。
二人の旋律が交差し、ぶつかり、溶け合っていく。諦念と希求、拒絶と渇望を、音楽がそれぞれの糸を一つの布へと変えるように織り上げてゆく。舞台の空気が濃くなる。客席の誰もが呼吸を忘れたように、ふたりの二重奏を見つめていた。
『これが終わりか それとも始まりか
ひとつの歌に すべてを委ねて
教えてください 私の知らない私を!』
アンナがゆっくりと顔を上げる。そして深く息を吸い、口ずさんだのはあの旋律だった。
『星の下 眠れアンネリーゼ 光がいつか 君を迎えに来る……』
蝋燭の炎が、風もないのにふっと揺れた気がした。
母親の目が大きく見開かれる。その視線は目の前の少女の瞳の奥を見つめていた。彼女の瞳は、過去の記憶をまざまざと見ていたのだ。幼子を膝に抱き、夜ごとに歌っていたあの頃の、確かな体温と重みを。
『アンネリーゼ……?』
その一語が、再び音楽を呼び戻す。旋律が溢れ、胸の奥を震わせる。それは少女が名を取り戻し、母親が失われたはずの命を、もう一度この世で抱きしめた瞬間だった。
観客席のあちこちで、ハンカチをそっと目元に運ぶ人の姿が見えた。私もまた、言葉にならない思いでその場面を見つめていた。アンナは確かに帰ってきたのだ。記憶を持たずとも、旋律を辿って、自分の居場所に。
『ああ……愛しいアンネリーゼ! あなたを忘れたことなんて一度としてなかった!』
しかし、アンナの後ろに立っていたディートリヒが、ふたりの再会の歌に何も言わず、そっと後ずさったのが見えた。衣装の裾が床をかすかに鳴らし、その音にさえ彼の決意がにじんでいた。舞台の袖へと背を向けた彼は、誰にも気づかれないように、けれどはっきりと去ってゆく。
いつかの記憶が、ふいに胸の奥から立ちのぼってくる。幼いころ、エミリーが話してくれた物語。あの日私は、愛のかたちを初めて考えたのだ。
……手放すことって、ほんとうに冷たいことじゃないの?
今もあのときの自分の声が耳の奥に残っている。少し鼻にかかったような幼い調子で、納得しきれない思いをそのまま投げ出した声。
——好きだったのに、いなくなってしまうの?
ディートリヒが舞台の袖へと去っていったとき、あの日の言葉がゆっくりとよみがえってきた。
アンナの目には涙があった。母の腕のなかで、かつて失われた名前を取り戻したその瞬間。あの暖かな抱擁のすぐ背後で、ひとりの青年がそっと背を向けた。拍手も歓声もなく、ただ蝋燭の明かりが長く影を落とすばかりの別れ。
……その身を抱きしめる代わりに、未来を抱きしめるような。
エミリーの言葉の意味が、あれから幾年も過ぎた今ようやく胸にすとんと落ちる。アンナを手放したディートリヒが、どれほどの想いを胸に隠していたのかを、今の私は知っていた。
胸の辺りで知らず握りしめていた手をそっと膝に戻し、舞台を見つめた。これから先アンナが選ぶ道を、私は知っている。
彼女はあのまま幸福な屋敷の暮らしにとどまることを選ばなかった。身分を手放し、ドレスを脱ぎ捨て、彼を追いかける。たとえ迎える世界が風にさらされた野原でも、彼のいるところが自分の居場所だと信じて。
旋律が再び動き出す。軽やかな足取りで、アンナが舞台の中央を駆け出す。豪奢な室内が引き割られ、背景が変わってゆく。画家と出会った町、峠の村、そして彼と出会った森の小道。彼女が走るごとに、過ぎてきた景色が反転し、舞台上に時の流れを描いていく。
やがて舞台の奥に一人の影が浮かび上がった。ディートリヒは一人で歩いていた。未練と名残惜しさを断ち切れないまま、ただ進むしかないと自分に言い聞かせているような背中だった。けれどそこで彼の歩みが止まる。足音の向こうから、確かな声が追いかけてきたのだ。
『私が望むのは たくさんの宝石よりも
美しいドレスよりも——』
彼女の歌声は、変わらず凛として澄んでいた。
その手には、もう貴族のスカーフも、豊かなドレスの裾もない。ただ一人の旅の少女として、彼に向かって歩み寄る。
『あなたの手のぬくもりよ』
ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、かつて旅の途中で出会ったひとりの少女。けれどその姿は、すべての真実を知ったうえでなお自分の選ぶ道を決めた、一人の女性の凛とした姿。
ふたりのあいだに沈黙が落ちる。音楽は細くたゆたいながら、再び旋律を編み始める。彼が一歩、彼女の方へ踏み出す。その表情には言葉よりも先に、深い後悔と、それ以上の歓喜があった。
音楽が最高潮に達し、二人の声が重なった。背景には、新たに描かれた未来が現れる。花咲く野の道、手を取り合うふたりの影。かつて彼女が夢に見たものとは違っても、そこには確かな幸福がある。
幕が引かれる。余韻の残る音楽のなかで、客席の誰もが息をつめたまま、その結末の光に目を奪われていた。
やがてひとりの手が叩かれ、次いでまたひとつ、そして一斉に、惜しみない拍手が湧きあがった。客席は歓声に包まれ、鳴りやまない拍手が天井を揺らすように続いていた。
幕が再び開かれ、まず登場したのは、ディートリヒ役の青年。舞台衣装のまま、少し照れたように笑いながら深くお辞儀をする。次いで、アンナ役の女優が姿を現すと、場内の熱はさらに高まった。旅衣の裾を片手で持ち上げながら、彼女はしとやかに、何度も頭を下げる。
最後に脇を支えた役者たち、演奏家たちが舞台へと呼ばれ、全員が一列に並んだ。壮麗な音楽劇の終幕にふさわしい、華やかなカーテンコール。何度目かの拍手のなかで、アンナ役の女優がひとつ深く呼吸をして、観客席にそっと視線を向けた。
拍手の音の中で、ふと頬を伝うものに気づいた。いつから涙がこぼれていたのだろう。幕が閉じた瞬間だったのか、それともその前からだったのか、思い出そうとしても曖昧だった。目の奥がじんわりと熱く、手のひらがかすかに震えている。
胸の奥で鳴り続ける旋律は、物語の終わりを越えても消えなかった。アンナとディートリヒの歩んだ旅路、互いを求め合う歌声、照明の陰影の中で浮かび上がる表情——その一つひとつが心に触れて離れない。
けれど、涙の理由はそれだけではなかったと思う。私は劇場の椅子に座って、幕が上がる瞬間を待って、エミリーの語りと共に何度も想像した場面を、実際の人間が演じ歌い、立ち上げていくのを観ていた。
ずっと遠くにあった光のような舞台に、幼い頃から願い続けたものに、私はようやく触れたのだ。
夢がかなった、という言葉はあまりに単純で、いまの気持ちには少し届かない。けれど、それ以外に言える言葉がなかった。
アルフレートが連れてきてくれた今日この場所での光景は、いつまでも私の胸に残るだろうと思った。彼が持て余していたというチケットは、私にとっては一枚の魔法の切符のように思えてならなかったのだ。




