冬と私と民衆歌劇
季節は流れ、エーレ学院に冬が訪れた。講義棟の屋根には昨夜からの雪が積もり、中庭の噴水もすでにその水音を止めている。空は鉛色に沈み、木枯らしが枝々の間を音をたて通り抜けていった。
年の暮れ、学院は冬季休暇に入っていた。とはいえ夏とは事情が違う。先生方を含めた全員が学院を離れる夏季休暇と異なり、冬のあいだでも学院は閉鎖されることはない。暖炉と給仕が用意された寮では、帰省をしない生徒たちのために最低限の生活が続けられる。
その日の朝、私はクララの荷造りを手伝っていた。彼女のトランクは二つ、どちらもきっちりと留め金が閉じられていて、中には毛糸のマフラーや手袋、愛読書やご家族への土産まで整然と詰められている。いつもながらその几帳面さが少し羨ましい。私なら、どこにハンカチを入れたかすぐに忘れてしまいそうだった。
そして今、彼女の家の馬車が門前に据えられている。深紅のマントを風にそよがせて、クララは私の前に立っていた。淡い青の瞳が名残惜しげにこちらを見つめている。髪には薄絹のような雪除けのレースがかかっていて、寂しげな表情には冬の静けさが映っていた。
「次にお会いできるのは、年明けですわね」
私は笑ってうなずきながら、「きっとすぐよ」と答える。けれど実のところ、心の中で冷たい風が吹くように感じていた。次に彼女の声をこうして聞けるのは、新しい年を迎えてから一週間のこと。それでも私たちにとってはとても長い日々のようで、しばしの間こうして別れを惜しむ。
「手紙を出しますわ。暖炉のそばで読んでくださいませ。……それと、あたたかくなさって」
「ありがとう。私も何か書くわ。クララのいない寮は静かすぎるもの」
やがてクララは振り返って馬車に乗り込み、扉の向こうからもう一度こちらを見る。手を振るその姿は、まるで冬の空の片隅の、ほんのひとときの光のようだった。
御者の手綱が鳴り、馬の蹄が雪をわずかに蹴った。馬車が門を越え、通りの角へと消えていったとき、私はようやくその場に立ち尽くしたままの自分に気がついた。
年が明けるまで、クララはいない。
けれど学院は閉じられない。冬のあいだもここに息づく灯がある。そして、そんな冬の日々を選んだのは私自身だった。
◆
その夜、私はひとりで食堂へ向かった。いつもなら隣を歩くクララの姿がないだけで、廊下の静けさがひときわ濃く感じられる。灯りの落ちた校舎の中で自分だけが目を覚ましているような、心細い感覚がついて回った。
食堂の扉を開けると、ほんのわずかに灯されたシャンデリアがぼんやりとした温かい光を机の上に落としていた。いつもなら賑やかな声や食器の音が満ちる場所だったのに、今夜はすっかり静まり返っている。
夕食のトレイを受け取り、湯気の立つビーフシチューをそっと運ぶ。煮込まれたお肉の香ばしさと、赤ワインの甘い香りが冷えた指先を少しずつ温めてくれる。
奥のテーブルに向かおうとして、ふと視線の先に見慣れた後ろ姿を見つけて私は立ち止まった。
「……アルフレート?」
彼は椅子の背にもたれて、スプーンに手を伸ばしかけたところだった。その指が止まり、振り返った横顔に落ち着いた眼差しが浮かぶ。
「なんだ、君も残ってたのか」
短く言って、彼は微笑んだ。私は急ぎ足でそのテーブルへと向かう。まさかここで彼の姿を見るとは思っていなかった。アルフレートはてっきり、休暇とともに家に戻っているものとばかり思っていたのだ。
「帰らなかったの?」
私の問いに彼はスプーンを手にしたまま、軽く頭を振って答えた。
「帰ろうにも帰れないんだよ。故郷は雪の深いところでね。例年通れる街道が今年は大雪で塞がれたらしい」
「そうだったのね」
見慣れた人の姿があったことに少しほっとして、彼の向かいの席に腰を下ろす。辺りを見渡してみると、食堂にはぽつりぽつりと数人の生徒の姿があるだけで、あとはすっかり人気がない。
「冬季休暇って、こんなに静かになるのね。学院を冬ごと借りきった気分だわ」
「そういう言い方をするのは君くらいだ」
私は目の前のビーフシチューに視線を落とした。あたたかな湯気が鼻をくすぐり、陶器の皿に浮かぶお肉の赤褐色が、蝋燭の光を受けてつややかに輝いている。
銀のスプーンを差し入れ、一口含む。とろみのあるソースと、香ばしいお肉と野菜の香りが舌の上でふわりと広がる。沁みるような熱が喉をくだり、冷えた身体の奥まで熱が満ちていくようだった。
夢中で口に運んでいると、向かいでアルフレートがパンの最後の大きめのひとかけらを軽々と一口で食べきった。視線を上げると、彼はふと話題を切り替えるように口を開く。
「そうだエリザベート。せっかく残ったなら、明日、ひとつ付き合ってくれないか」
「どこに?」
私はスプーンを持つ手を止めて問い返す。アルフレートは少しだけ笑って、食器の向こうからこちらを見つめた。蝋燭の光が彼の輪郭をなぞり、瞳の奥に淡く反射する。
「麓の町で民衆歌劇の公演があるんだよ。チケットを二枚もらって、余らせるのも忍びなくて困ってたんだ」
何気ない調子で、アルフレートはそう言った。声の調子も表情も、まるで昼下がりに散歩でも誘うような気軽さで。
「……麓の町?」
「そう。何年か前から人気の演目がそこでもやるらしい」
……ただそれだけのこと。彼の言い方はそう告げていた。学院に残っている者どうし、冬の休暇のひとときをどう過ごすか、彼にとってはその程度の何気ない提案にすぎないのだろう。それなのに、私はすぐには返事ができなかった。
——本当に、行っていいの?
心の中で、そんな問いが何度もぐるぐると巡った。民衆歌劇。思い出すのはほんの一度だけ、人混みをかき分けてこっそり覗いた光景。木組の舞台の上でスカートを翻して歌う人の姿と、楽しげに笑う観客たち。あのとき胸の奥で何かが弾けるように高鳴って、息をするのも忘れるほどだった。
けれどもう一度見たくても、絶対に許されないことだと知っていた。どんな振る舞いをし、誰と付き合い、どこへ足を運ぶべきか。私の選択はいつも伯爵家の娘という立場と共にあった。あれは見てはいけないもの。知ってはいけない世界。私の身にはふさわしくないもの。
だからあの記憶は誰にも言えない秘密の宝物のように、ずっと心の奥にしまっていた。眠る前にそっと思い出しては、あの歌声の続きを想像するだけで満たされた。
……だけど、今なら。ここには父の厳しい目も、母の咎める声も届かない。私はもう、誰にも咎められず、誰にも縛られず、ただ自分の願う心に従っていいのではないだろうか。だって今ならもう一度、あの鮮やかな世界に触れることができるかもしれないのだ。
「行くわ」
言葉にしてみれば、それは思いのほか自然に口をついて出た。私の答えは予想済みだったようで、アルフレートは驚くこともなく満足げに頷いた。
「じゃあ決まりだ。明日の昼、門で待ち合わせよう」
「ええ。……楽しみにしてる」
今度は心の底からそう思って、私の心はもう明日の方を向いていた。雪の中を歩いて、町に降りて、劇場で歌を聴いて——想像するだけで胸が弾む。夜が早く明ければいい。だって明日が来たら、私は自分の足であの光の中へ行けるのだから。
◆
朝の光は、カーテンの隙間からこぼれ落ちるようにして部屋に射し込んでいた。冬の陽は淡く、室内は氷のような冷たさを湛えているのに、それでも私は高揚した気持ちで目を覚ました。
朝食をとるために食堂へ向かうと、残っている生徒はやはり少なく、見知った顔もほとんど見かけない。長いテーブルに一人でつき、温かいミルクとパンを口にしながら、胸の奥にひそやかに芽生えていた期待を味わう。
今日は劇場へ行く。それも、民衆歌劇の劇場へ。
いつもなら休日はゆったりと暖炉のそばで過ごすのが常だった。詩集をめくったり手紙の下書きをしたり、そんな穏やかな時間が好きだったはずなのに、今日は心がそわそわとしてどうにも落ち着かない。
時間はまだ早く、出かけるのは午後の予定だった。けれどじっと待っていることがとてもできず、時計の針が十時を過ぎたあたりからそわそわと支度に取りかかることにした。
鏡の前で髪を梳かし、少し悩んでから、編み込みを二本、耳の横からまとめて頭に一周ぐるりと巻きつけた。ふだんはもっと簡単にまとめてしまうけれど、今日はなんとなく特別な日にしたかった。
季節ごとに生家から送られてくる服のなかには、外出用のものもある。麓の町に出るのは初めてで、なにを着ていこうかと頭を悩ませた。どんな服なら、劇場の人たちに馴染めるだろう。
あれでもない、これでもないと鏡の前で次々と当てては首を傾げ、気がつけばクローゼットの前にはドレスの山ができていた。
悩みに悩んだ末、青と黄色が混じった格子柄のお気に入りの一着を選んだ。厚手の生地は冷え込みにちょうどよくて、窓から入り込む白い光にも映える。
深く開いた前合わせには黒いトリムと細やかなフリルがあしらわれ、素朴な格子柄に愛らしさを添えていた。
ブラウスを着て、スカートを履いて、上着を羽織る。ペチコートは二枚重ねることにした。肌に触れる一枚目は絹の柔らかいもの、そしてその上に、馬の毛を織り込んだフリルの重なったもの。
裾を揺らすたびにふんわりと膨らむスカートが嬉しくて、ついくるくると回ってみたくなる。腰を締めるリボンは少し窮屈だけど、外に出るときにはきっとこれくらいの方が見栄えがする。
早くに支度を始めたつもりが、着替え終わるころにはもう出かける時間のぎりぎりになっていた。慌ててウールのマントを羽織り、手袋をはめ、ハンドバッグを手に取る。
最後にフリルの重なったボンネットをかぶって、鏡の中の自分をもう一度見つめてみる。頬がほんのり上気していて、目の色さえもいつもと違って見えた。
「私、劇場に行けるのね……」
足元が少しふわふわして、息まで浅くなる。これまで幾度となく夢見たこと。それが今日現実になる。なんて不思議で、なんて眩しい瞬間だろう。廊下に出て階段を降りると、鼓動の音がやけに大きく響いて聞こえた。
学院の門の前では、アルフレートがすでに待っていた。いつもより少しきちんとした格好で、白い息を吐きながら立っている。私に気づくと、ほっとしたように口元を綻ばせた。
「よく似合ってるよ」
その一言に、思わず足が止まった。冷たい空気の中、マントの中で指先が少し熱を帯びる。
「ありがとう。……お待たせしてしまった?」
「いや、ちょうどいい。さあ行こう」
街道に沿って歩いていると、山あいの冬の光が私たちの肩に淡く降り注いでいた。
隣を歩くアルフレートは、今日は襟のついたしっかりしたコートを着ていた。普段よりも丁寧に整えられた髪と控えめながらも品のある装いが、今日という日の意味をほんの少し物語っている気がした。
やがて、遠くの町並みが霞んだ空の下に見えてくる。斜面に沿って広がる家並みは屋根に雪を載せ、煙突から煙が立ち上っていた。通りには賑わいがあり、手押し車に果物を載せた老人や、子どもの手を引いた母親、それから雪靴の音が往来を行き交っている。パンの焼ける香りと、炙った栗の甘く芳ばしい匂いが風に混ざって漂ってきた。
「まあ……なんて賑やかなの」
思わず歩を緩め、辺りを見回す。目に映るものすべてが新しくて胸がいっぱいになる。この町の空気に混ざって歩いていると、それだけで自分が違う人間になれたような気さえする。
「劇場はもうすぐ?」
「うん、すぐそこだ。見えてきたよ」
アルフレートが指差した先、通りを曲がった向こうに、古びた煉瓦造りの建物が姿を見せた。正面には小さな屋根付きの掲示板があり、その下には手書きのポスターが掲げられている。踊るような文字と鮮やかな水彩画が今日の演目を告げていた。
その姿を見た瞬間、胸がはち切れそうで苦しくなる。長いこと夢見ていたものに、とうとう手が届く。頭ではわかっていたつもりだったのに、実際に目にすると込み上げてくるものを抑えるのが難しい。
アルフレートが一歩先に進んで扉に手をかける。その後ろ姿を見つめながら、スカートの雪を軽く払った。ボンネットのリボンをほどき胸に抱えて、深く息を吸う。扉の奥からは、低くざわめく人の声が聞こえてくる。
軋む音を立てて扉が開いて、冷たい外気と入れ替わるように室内の空気が流れ出す。木と人の体温が溶け合ったような、やわらかで密やかな温もりだった。
アルフレートに続いて中へ足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、天井の低いホワイエと並んだ木製の長椅子。客席の入り口ではスカーフを巻いた女性が笑顔で来客を迎えていた。
壁には過去の公演のポスターが貼られている。色褪せた紙の端はめくれかけていたけれどどれも誇らしげに掲げられていて、それがこの場所の生きた年月を物語っていた。
アルフレートが手にしていたチケットを差し出すと、係の女性がにこやかに受け取り、奥の扉へと促す。そのあいだ、私は夢中であたりを見回していた。視線が止まる間もなく、光と影と人の表情を追ってしまう。
「こっちだよ」
呼びかけに我に返り、頷いて彼の後を追った。扉を抜けた先の客席にはすでに多くの人が集まっていて、あちこちで話し声が交差し笑い声が響く。服装も背格好も様々で、町に住む人々がそれぞれのままでこの場所に集っていた。
舞台の前には小さなオーケストラピットが設けられていて、音合わせをする弦の響きがさざ波のように広がっていく。二人で並んで座った席は、舞台からそう遠くない中ほどの席だった。硬い背もたれの木の椅子が新鮮で、思わずぺたぺたと座面に触れてしまう。
私は胸に抱えていたボンネットを膝の上に丁寧に乗せる。指先が冷えているのに気づいて、軽く両手を擦り合わせた。ふと横を向くと、アルフレートがこちらを見ていた。
「緊張してる?」
小さく笑いながら囁くその声に、私は舞台を見据えたまま言葉を返した。
「少し。でも、楽しみのほうが大きいの」
どんな景色が待っているんだろう。どんな音が響くんだろう。そんな想いを抱えてつぶやいた言葉は、あまりに率直で自分でも驚くほど飾り気がない。舞台の幕がゆっくりと揺れはじめる。劇が始まる。私がずっと夢に見ていた瞬間が、今まさにここで始まろうとしていた。




