クララ、料理に目覚める
秋の午後、調理実習室は静かな高揚を含んだ空気に包まれていた。
天井近くに並んだ窓から差し込む光は薄く濁ったガラス越しに広がり、室内に長い影と白い照り返しをもたらしていた。銀色の計量器や真鍮の小鍋が光を受けて硬質な光沢を放っている。
本日の課題は、果物を用いた冷菓の基礎技術に親しむというものだった。焼き菓子よりも温度と手際に左右されやすいこの分野は慎重さと正確さが求められ、あわせて素材の香りや色合いを引き出す繊細な感覚も試されるらしい。
生徒たちは定められた持ち場につきながら、それぞれ準備を進めていた。湯を張る者、果物を刻む者、書き写したレシピを覗き込む者。そしてその中に、明らかに場違いなまでに熱意に満ちた人物がいた。
「ご覧になって、エリザベート。わたくし、本日はこちらのレシピに挑戦いたしますの」
クララは両手でレシピ帳を大切そうに抱え、ぎゅっと両端を握りしめたまま私のほうへと開いてみせた。差し出されたページを覗き込むと、そこには優雅な筆致で「自家製ルビー色のゼリー」と題されたレシピが記されている。
ぶどうとざくろの果汁で仕立てた深紅のゼリー。香り高い白ワインが香気を添えるそれは、まるで宝石のような気品を帯びたデザート。クララはひときわ上等な刺繍入りのレースを施したエプロンを着け、レシピをまるで何かの魔法の儀式であるかのように、神妙な面持ちで読み上げていた。
「難しそうだけれど、大丈夫?」
「いえ。材料も揃っておりますし、あとは混ぜて、煮て、冷やすだけ……そう書いてございますもの」
クララはどこまでも自信たっぷりに微笑んでいた。
私はレシピの行間をもう一度目で追った。混ぜて、煮て、冷やすだけ。たしかに文面だけをなぞれば、それは単純な手順のようにも見えた。しかし私自身、料理に詳しいわけではない。実家では専属の料理人がいて、手を動かすどころか厨房に入ったことすら数えるほどしかない。手順も火加減も頭の中で想像するだけで、それが本当に正しいのかどうかも分からなかった。
「それで、まずは何から?」
そっと訊ねると、クララはぱらりとページをめくり、器具の並んだ棚を振り返った。
「ええと……果汁を搾る、のですわよね?」
「ざくろの実は、まず皮を割って取り出すんじゃないかしら」
「まあ、そうでしたわ」
クララは目を丸くし、それから大きなざくろを手に取り、しばしじっとそれを見つめた。その頬はすこし紅潮していて、まるで秋の林檎のような色をしている。
隣の卓では、すでに果物の皮を剥くナイフの音が軽やかに響いていた。私たちの調理台だけが、ひときわ優雅な沈黙に包まれている。
クララは真剣な面持ちでまな板の上にざくろを載せた。艶やかな紅色の果皮はいかにも硬そうで、触れるだけでひんやりとしている。彼女は小さな包丁を慎重に手に取り、恐る恐る表面に切れ目を入れた。
実を潰さないように慎重に切れ目を入れ手で割り開くと、宝石のような赤い粒がぽろぽろとこぼれた。
クララはそっとその果肉を指先でつまみ、水を張ったボウルへひと粒ずつ零れるように落としていく。その様子は料理というよりも儀式のようで、見ているこちらまで身じろぎひとつせずに見守ってしまうほどだった。
彼女は割ったざくろの半球を水の中に沈め、指先でそっと粒を取り出していった。透明な水の中でざくろの実が光を帯びて揺れ、無数の粒が水底に沈んでいく。
やがて二人の手元にはたっぷりと実が沈んだ水と、浮き上がってきた薄皮の層ができあがった。クララはそれを匙でそっとすくい取ると、底に沈んだ赤い粒をざるにあげた。果肉の透明な膜が光を受けて微かにきらめき、小さな一粒一粒が息をするように輝いていた。
「ぶどうも皮を剥くのかしら」
私は向かいの籠に並んだ房を手に取り、果実を一粒ずつ摘み取っては白い小皿に移していく。
「これは、潰したほうが早いかもしれませんわ」
クララがつぶやき、私はうなずいて銀色のしぼり器を手にとった。ふたりで交互に握りしめながら、ざくろとぶどうを潰していく。甘酸っぱい香りがふわりと鼻先に立ちのぼり、赤い果汁がしだいに鍋の底を染めていく。潰された果実が混ざり合うたび、果肉の隙間から小さな泡が弾けた。木べらを使ってその果汁をすくってみると、ざくろの深紅とぶどうの紫が溶け合い、まるで織物のような複雑な色合いが現れていた。
「次は……白ワインと、お砂糖、ですわね!」
クララはそっと棚から瓶を取り上げた。深緑色をした細身のガラス瓶。慎重に蓋をひねり小鍋へと注ぐと、ワインが流れ出る音が静かに響いた。
続けて白い磁器の器から砂糖をすくい、小鍋に落とす。粒子はさらさらと音を立てながら、雪が温もりに溶けてゆくかのように沈んでいった。
「ええと……次は、火にかけるのよね?」
私はクララのとなりでレシピ帳を覗き込みながら、文字を追った。だがそこには、あいまいな表現ばかりが並んでいた。「弱火で煮詰める」「透明感が出たら火を止める」「余熱で香りをなじませる」……どれも曖昧で、時間も温度も載っていない。
「弱火って、どのくらいが弱火なの?」
私はそっと聞いてみたが、クララはにこりと笑って「たぶん、静かに燃えているくらいですわ」と、心強いのか心もとないのか分からない返事を返した。
私たちの調理台には、鋳鉄で組まれた黒々としたかまどが備え付けられている。奥には小さな薪がくべられ、うす赤い炎がちらちらと燃えていた。そこに小鍋を乗せると、鍋底に伝わる熱がじわじわと果汁とワインの混ざった液体を温め始めた。
しばらくのあいだ、何の変化もなかった。クララと私は鍋の中を交代で木べらでかき混ぜ、その色がわずかでも変わらないかと無言のまま覗き込んでいた。
「わっ……!」
突然、静かだった鍋の表面がひと息に泡立ち、つづけざまにぶくぶくと音を立てると、赤い泡が縁から飛び跳ねた。中身が持ち上がるように煮え立ち、泡が鍋の縁を超えんばかりに踊り出す。
私はあわてて布を掴み、かまどから鍋を持ち上げた。だが底にあたる部分は熱を蓄えたまま、鍋の中はなおもしゅうしゅうと音を立てていた。
「ちょっと沸きすぎたみたい。大丈夫、焦げてはいないと思うけど……」
私は不安を押し隠して言い、鍋を別の台の上に移した。かまどではなおも薪がぱちぱちと鳴っていたが、鍋の中身は落ち着きを取り戻し、泡も次第に引いていった。
「火から下ろして、ここでゼラチンですわ!」
クララは棚から小瓶を取り出し、銀色のスプーンを手にした。中には雪のように白く乾いた粉末が詰められていた。レシピには「小さじ一杯半」とあったが、彼女はなぜかひとさじ、またひとさじと勢いよく瓶からすくっては鍋へと投入した。
「クララ、それ、そんなに入れて大丈夫なの?」
「え? でも、少し多い方が固まりますわよね?」
それは確かに事実かもしれなかったが、「少し」という言葉が意味する範囲には、今まさに鍋の上で起こっている光景は含まれていなかった。粉末が湯気の立つ液面に触れるたびに白い綿のようにふくれあがり、しゅわしゅわと泡立ちながら沈んでいく。その様子はまるで料理というよりは実験、あるいは見習い魔法使いの失敗した呪文のように思えた。
クララは満足げに鍋をかき混ぜながら、「あとは型に流して冷やすだけですわね」と言い、私はその光景を半ば呆然と眺めていた。
◆
午後の授業をすべて終え夕日が差し始めるころ、私たちはふたたび調理実習室へ足を踏み入れた。氷の入った保冷庫の扉を開け、私たちの名前が振られたトレイを取り出す。
ゼリーはすでに固まっていた。花のかたちを象った銀の型を、白磁の皿の中央にそっと伏せる。クララは息を止めるようにして型の底を軽く叩き、慎重に持ち上げた。静かな時間のなか音もなく滑り出たゼリーは、まるで深紅の宝石のようにそこに姿を現した。
うっすらと光を透かし、ぶどうとざくろの果汁が混ざり合ったその色は、ルビーのごとく麗しい透明感をたたえていた。輪郭はくっきりと整っており、花弁の一枚一枚まで、型押しされた模様が歪みなく映し出されている。
だがその美しさとは裏腹に、ゼリーの表面は異様なまでにしっかりとしていた。皿の上のゼリーは揺れもせず、わずかに触れれば震えるどころか、まるで芯をもった塊のように押し返してくる気配がある。
「……あれ、これ、ちょっと固すぎないかしら」
私はそっと問いかけたが、クララは気にしたふうもなく微笑んだ。
「きっと、冷やしすぎましたのよ。さあ、提出の前にどなたかに試食していただかなくては。……まあ、ちょうどよい方が」
彼女の視線の先に、廊下の先を歩いてくる青年の姿があった。アルフレートだった。手に本を持ち、ぶらりと講堂を移動しているところらしかった。
「アルフレート!」
クララが手を振ると、彼は軽く片手を上げながら、こちらへと向かってきた。
「やあ二人とも、調理室で実験でもしてるの?」
爆発物なら実験室で作った方がいいよ、といい加減なことを言いながら、彼は実習室の戸口まで来てクララが両手で差し出すゼリーを見下ろした。夕陽を受けて、ゼリーは美しい深紅にきらめいていた。
「これ、食べていただけますか? 本日の成果ですの」
「へえ。ずいぶん立派な見た目だね。味の方は?」
「ぶどうとざくろ、それに白ワインの香りづけですわ」
アルフレートは少し眉を上げ、私が差し出したスプーンを手に取った。そしてゼリーの縁にそっと差し込もうとした——が、銀のスプーンは押し返された。彼はもう一度、今度は少し力を入れて押し当てた。だがそれでも表面は微動だにせず、しなることもなく、ついにはスプーンがはじかれた。
「……これは……食べ物、か?」
言葉を失ったような表情のまま、アルフレートはゼリーをじっと見つめた。
クララは両手を口元に添え、呆然とその様子を見ていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……わたくし、ゼラチンを……ほんの少し多めに入れましたの……」
「これ、ちょっとやそっとじゃ砕けないぞ。軍の兵糧にしたら五日はもつな。いや、最前線に投げたら武器になるかもしれない」
そう言ってアルフレートはくつくつと笑い、ゼリーにもう一度挑戦しようとスプーンを構えた。
私とクララは青い顔を見合わせる。作り直そうにも提出には到底間に合わない。
「まあ、飾っておく分には綺麗だし。君たち案外向いてるかもな、錬金術師」
クララは小さく吹き出し、私は肩をすくめた。日が傾き、実習室の窓には橙色の光が長く映り込んでいた。開け放たれた扉からは外の空気が流れ込み、果汁と砂糖の甘い匂いを連れ出していた。
……後にクララの筆跡で綴られたレポートには、こう記されていた。「果汁の香りは損なわれず、見た目にも美しい。ただし、食感にやや難あり」
私たちが仕上げたのは、たしかに完璧な菓子ではなかった。レシピの文言に戸惑い、温度の感覚も分からず、ゼラチンの匙加減すら見誤った。だがそれでも確かに、手を動かして味わいを想像し、仕上がりを待った。淡々としたその記述の中に、わずかな照れと満ち足りた思いが滲んでいた。
実習は終わった。お皿は片付けられ、エプロンのリボンは解かれ、調理室は再び静寂を取り戻している。けれども私の胸の奥には、あのゼリーの鮮やかなルビー色が色褪せずいつまでも残っていた。
クララが大量のゼラチンを鍋に入れていったあの瞬間も、私が火加減に戸惑って鍋の前で眉をひそめていたことも、アルフレートが言い放った「武器になる」というあの一言も、笑い話として記憶のどこかに残っていくのだろう。そしていつか振り返ったときに、きっと思い出すのだ。甘く、すこし不器用で、けれどもたしかに温かな午後のことを。




