うららかな再会の日
永遠にも思えるような夏が終わり、私は再びエーレ学院の門をくぐった。
石造りの塔の上に澄んだ空がひろがっている。幾日も雨が降らなかったせいか空気は乾いていて、鋭さを失った陽の光があたたかい金色を帯びて校庭の芝生に降りそそいでいた。
梢の先では風が葉を揺らしている。ひとつふたつ、色の変わりはじめた葉が陽を受けてきらりと光った。
私は重たいトランクを片手に引きながら、まだ人の姿もまばらな中庭を横切っていく。夏の盛りにはあれほど生い茂っていた草も少しずつかさを減らし、緑の合間は野百合がいくつか名残を惜しむように咲いていた。けれどその花も色を褪せ頭を垂れ、咲ききった花弁の縁には秋の翳りがそっと降りていた。
「エリザベート!」
背後から名前を呼ばれた瞬間、私は驚いて立ち止まった。耳に届いたその声にゆっくりと振り返る。
淡い藤色のリボンを編み込んだ髪が、秋の風にほどけるように揺れていた。陽の光を受けて、彼女の瞳は海色のガラスのように透きとおって見えた。細い手が胸元でかすかに震えている。駆け寄る足取りの軽やかさに、彼女の喜びがそのままに滲んでいた。
秋の陽射しのなかに立っていたのは、間違いなく会いたかったその人——クララだった。
「クララ!」
身体が先に動いた。思わず私は駆け出していた。石畳の上を踏み鳴らす音が、自分でも驚くほど大きく響く。制服の裾が風に揺れ、視界の隅で草木がきらめいていく。
再び会えた。ようやく、ここに戻ってこられた。その想いが胸いっぱいにあふれて、どうしようもなかった。
駆け寄った勢いのまま私は彼女の手をとった。クララは少し驚いたように目を丸くし、それから笑って、同じように私の手を強く握り返してくれた。
「……ようやくお会いできましたわ、エリザベート」
声は静かだった。けれどその一言にどれだけの想いが込められていたか、私にはよくわかった。長い手紙の代わりに、何度も言いかけて飲み込んだ言葉の代わりに、いまこの手のひらがそれらすべてを伝えてくれているのだと思った。
「私も……クララに会いたかった」
知っている声。知っている目の色。
夏が終わって、またここで顔を合わせるまでのあいだ、ひとりきりで思い出していた声。名前を呼んだのはほんの一言なのに、どうしてこんなにも心がゆるむのだろう。
目が合って、ふたりしてふっと笑った。言葉の隙間に、秋の風が吹き抜けていった。
手をつないだまま、その場に立ち尽くす。どちらからも言葉を切ろうとはせず、ただ、この再会の瞬間をひたすらに味わっていた。
ああ、やっぱりここが私の居場所だ。
心の底からそう思えた。夏のあいだどれほど自分を保とうとしても、この瞬間のような真実の安らぎはなかった。
「さあ、わたくしたちの部屋へ戻りましょう。お土産もたくさんありますの。今日はたっぷりお話しできますもの」
「うん……ありがとう、クララ」
クララとふたり並んで歩き出す。指先にはまだ、互いのぬくもりが残っていた。空は少しずつ高く、澄みわたっていく。秋が静かに深まっていくように、私の心もまた落ち着いた色を取り戻しはじめていた。
◆
寮の扉を開けふたりの部屋に足を踏み入れると、長く離れていたとは思えないほどすべてがいつも通りだった。カーテンを引いて秋の光を取り込みながら、クララは自分の鞄に手を伸ばし、淡い花模様の袋を取り出した。まるで絵本から抜け出したような優雅な手つきで、彼女はそれを机の上にそっと置いた。
「これは、わたくしの祖母が庭で摘んだハーブで作ったポプリですの。夏の終わりに一緒に縫いましたのよ。気にいっていただけるとよろしいのですけれど」
クララの手から受け取った小さなポプリの袋は、まるで野の花で綴じられた手紙のようだった。布越しに指先へと伝わる柔らかな重みと、ゆるやかに香り立つ草花の気配に、私は思わず目を閉じる。
「……まるで、夏をそのまま閉じ込めたみたい。素敵なお土産をありがとう、クララ」
私はクローゼットの扉を開くと、内側にそっとポプリの袋を掛けた。この香りが朝ごとに私を迎えてくれるだろう。心が曇るときも、きっとこの香りが私を立ち返らせてくれる。
それを見たクララはほっとしたように笑って、言葉を続けた。
「今年の夏は、祖父母の別荘で過ごしましたの。湖のそばの古い館で、毎朝、水面が絹みたいに光っていて……。早起きしてほとりを歩いたり、午後には花を摘んだり……」
その語り口には香りと同じように、クララの夏が織り込まれている気がした。光のかたち、風のやわらかさ。彼女の言葉を通して私の胸にそっと降り積もっていく。
「ある日、湖のほとりで白鳥を見かけましたの。雛を連れていて、まるで夢のなかの光景のようで……それを、エリザベートにも見せてさしあげたかった」
クララの夏が澄んだ水面のように私の中へ静かに流れこんでくる。美しい光景が目に浮かぶようで、私は目を細めた。
「エリザベートは、よい夏を過ごされましたか?」
私は笑みを返しながら、言葉を探して唇を開いたが、そのまま黙った。なにかを話そうとしても、言葉がでない。
私の夏の記憶は、クララのように優しいものではなかった。暖かな午後や、静かな読書の時間、美しい景色を分かち合う誰かの笑顔。そういったものとは別の場所にあった。窓の向こうに広がる蒼穹を仰ぐ暇もなく、息をつくたび、胸の奥がひりつくような緊張ばかりがあった。
それでも、それを語ってどうなるのだろう。再会を喜ぶこんな日に、水を差すような話をするべきではない。そう思うと、舌先まで出かけた言葉は霧のなかへ消えていった。
「……あまり話すようなことはないの。でも、いつも通り元気にしていたわ」
少し遅れて、それだけを口にした。ほんの一滴の嘘を混ぜるには、これが精一杯だった。
クララは私の沈黙を追い詰めるような真似はしなかった。ただ小さくうなずいて、柔らかいまなざしを私に向けていた。何も問わず、何も確かめずに。私はそのまなざしから目を逸らすようにして、ポプリの香りが漂う部屋の奥を見つめた。
◆
秋のはじまり、陽射しの輪郭がくっきりとして、校舎の窓から差し込む光は床に静かな影をつくっている。石造りの講堂のなかに、女子生徒の裾と男子生徒の靴音が交じり合い、柔らかなざわめきが満ちていた。
社交舞踏の授業。それは学院における伝統行事のようなもので、初秋に一度だけ、上級生と下級生の合同で行われることになっていた。
教養の一環である以上に、学院に多く在籍する貴族や上流家庭の子弟が将来を見据えて経験する、いわば「社交界の予行練習」のようなもの。とはいえここではまだ形式ばった優雅さよりも、生徒たちの好奇と不安が入り混じったどこかぎこちない空気が支配していた。
私は講堂の壁際に静かに立っていた。指先が薄く震えているのに気づく。今日は初めての合同授業。加えて、ペアはくじ引きで決まると聞かされていた。運命がほんの紙片ひとつに託されているという不確かさが、どうしようもなく落ち着かない。
「さあ、そろそろ始めますよ」
講師の声が講堂に響く。三拍子のリズムのように整った声。
整列させられた生徒たちがひとりずつ小さな銀盆に並べられた紙片を引いていく。誰と組まされようと、ほんの一時のこと。そう思おうとするのに、胸の奥では心臓が抑えきれない音を立てている。
私の番が訪れて、紙の端に指をかけた瞬間、思わず指先に力がこもった。小さな紙を手に取る、たったそれだけの動作なのに、何か取り返しのつかないものを手繰り寄せたような気さえする。
全員が引き終えると、講師の合図とともに生徒たちは思い思いに講堂の中へ散っていった。誰もが手にした小さな紙片を頼りに、まだ見ぬ相手を探そうとしていた。手に自分の番号を掲げながら、ぎこちない笑みと小さな声で互いに番号を確認し合っている。
私は紙に記された「八番」の数字を見つめながら、講堂の端をゆっくりと歩き出した。
誰に声をかければよいのかもわからないまま、私は何度も顔をあげてはすぐに目を逸らした。知らない顔が多すぎる。ましてや、男子生徒の中には一度も言葉を交わしたことのない上級生もいる。
胸の奥が落ち着かず、私はそっと紙を握りしめた。誰かが笑っている。誰かが迷っている。講堂の天井は高く、音がすべて遠くで反響しているようだった。
そのとき、ふいに前から歩いてきた誰かと、視線がぶつかった。
「「あ」」
指先に掲げられた番号が私の目に映るのと、彼が私の手元を見やるのと、ほとんど同時だった。
「……君か」
「……アルフレート」
その名を口にした瞬間、胸の奥に風が通ったような気がした。
私は息をつきながら、内心とても安堵していた。知らない誰かじゃなくて、本当によかった。
くじ引きで決まるとはいえ、ワルツなどという肩を並べる役を気まずい相手と過ごすことになっていたらどれほど居心地が悪かっただろう。そんな不安が今ではもう遠い霧のように消えていた。
「……知ってる人で、あなたでよかった」
私は微笑みながら言った。口にすると少しだけ照れくさかったが、それは紛れもない本音だった。アルフレートは一瞬きょとんとしたように私を見て、それから見慣れたいたずらな笑みを浮かべた。
「まさか君のくじ運がいいとはね」
「あなたこそ」
自然と目が合う。また、ふたりで少し笑った。
まわりには、まだ番号札を手にうろつく生徒たちの姿があちこちに見えた。ざわめきと足音が混じるなか、私たちはまるで周囲から切り離されたように、互いの姿だけを見ていた。あの長い夏のあいだに溜めこんだ心の重さが、すこしずつ、指の隙間からほどけていくようだった。
「じゃあ、踊ってくれる?」
彼の言葉は、いつもの調子よりも少しだけ丁寧だった。
私は小さくうなずいた。まだ始まりきっていないこの秋の空気の中で、ふたりの間だけがほんのわずかに色づいていくような気がした。
講堂の奥では黒服の楽師たちが立ち位置につき、指揮者が合図を送ると、チェロとヴァイオリン、そしてピアノが穏やかな調べを奏ではじめた。
音楽に導かれるように、生徒たちはゆっくりと動き出す。うららかな午後を思わせる緩やかなワルツ。揃いの紺地の制服の裾が、淡く差し込む光の中でひらりと揺れていた。
アルフレートは軽やかに一歩を踏み出し、私の手を取ると優雅な所作で腰を支えた。動作に無駄はなく、指先の動きまで整っている。私は一瞬ほっとする。そう、彼は何事もそつなくこなせるはずだった。
「じゃ、いくよ。踏まないように祈ってて」
「……祈らなくちゃいけないの?」
ふたりの足が揃い、音楽の導くままに一歩を踏み出す。すべり出しは悪くなかった。ステップは教本どおり、姿勢もたぶん及第点。すれ違う生徒たちの、優雅に弧を描く動きに並んで、それなりに形になっている……ような気がした。
……気がしたのだが。
「……ねえ、アルフレート」
「なに?」
「今、足、逆じゃない?」
「……いや、これは新しい解釈だ」
「そんな解釈、聞いたことがないわ」
なんとか態勢を戻そうとするが、焦る気持ちが拍に追いつかない。アルフレートの足がわずかに内側へ滑り、私のステップと微妙に交錯する。やがてふたりのリズムは、音楽の優雅さと微妙に乖離しはじめていた。
「落ち着いて。ほら、一、二、三、四……」
「三拍子に四はないわよ!」
動きながら、ふたりで声を潜めて小競り合いを始める。だがその様子はどうにもぎこちなく、視線を交わすタイミングすら合わない。気がつけば、まわりのペアはゆったりと円を描いているのに、私たちだけがやや斜めに、円というより楕円というより、もはや……迷走。
「えっと、こちらのペアは……?」
講師の声がかすかに震えている。
「あの……これは……現代舞踏への挑戦……でしょうか?」
その言葉に私たちはたまらず顔を見合わせて、息をひそめながら肩を震わせた。笑ってはいけない場面だという自覚はあったけれど、それでももう堪えられなかった。
「ほら、さっきも言ったろ。これは新しい解釈なんだって」
彼は涼しい顔で私を見下ろし、わざとらしく胸を張って言った。肩を揺らして笑いながら、私はアルフレートの腕をそっと手の甲で小突いた。
「だとしても、これ以上前衛芸術を演じる勇気はないわ」
指揮者がタクトを振り、再び柔らかな旋律が講堂に流れ始める。今度の曲は、さっきよりもほんの少しだけ落ち着いたテンポだった。私は深く息を吸い、アルフレートの差し出す手を取った。
この一歩が、さっきよりもきれいに決まりますように。
心の中でそっと願いながら、私はふたたび彼と足を揃えた。光が床に淡い模様を落とし、生徒たちの足音がその上に軽やかに重なっていく。まるで何事もなかったかのように、ふたりのステップが静かに始まった。




