ふさわしい名
昼食はこっそり部屋に運んでくるようメイドに頼んだので、私が兄と顔を合わせたのは夕食時だった。
気の乗らないまま簡単に最低限の身支度を整え、食堂の扉を開けたとき、思わず足が止まった。
テーブルにはすでに三人が揃っていた。向かって右手には母が、左手には兄が、そして最奥の席には父がいた。
……知らされていなかった。いつの間に帰ってきていたのだろう。父はまだ軍の本部に出向いているものとばかり思っていた。背筋に冷たい緊張が走る。父の存在がこの場の温度を一段低くしているように感じた。
「……失礼いたします」
私は軽く頭を下げ、控えめに席へと向かった。母はこちらに何の感情も見せずナプキンを膝に整え、兄は一瞥をくれただけですぐに視線を戻した。父は私の挨拶に答えることもなく、黙ってワイングラスを手にしていた。
食事は無言のまま始まった。前菜の皿が下げられ、スープが注がれる。銀器のかすかな触れ合う音だけが、広い部屋の静けさに溶けていった。
「ヴォルフガング、士官学校での振る舞いはどうだ」
父が初めて口を開いたのは、スープの半ばを過ぎたころだった。その声に食卓の空気がぴんと張る。兄はすぐに答えた。
「問題ありません。四年次の課程では部隊運用の演習が始まっていて、実地訓練も増えました。先月は山岳部隊との合同演習に参加しました。気候の厳しさはありましたが、有意義な経験でした」
兄は淀みのない口調でそう語りながら、礼儀正しくスプーンを持ち直した。話しぶりは以前と変わらないように見えるのに、何かが決定的に違っている。私はそれを言葉にできないまま彼の横顔を見つめていた。
「よろしい。現場の厳しさを知るのは何よりの糧だ。お前の成績なら士官候補としても申し分ない」
父の声音にかすかな満足が滲んだ。だがその響きも、兄に向けられるというより彼自身の期待をなぞるようなものに聞こえた。
「エリザベート、おまえもエーレ学院に入学してしばらく経つな。学業の様子はどうだ」
不意に視線がこちらに向けられた。父の瞳は何年経っても変わらない。私は姿勢を正し、言葉を選ぶように答える。
「……今のところ取りこぼしはございません。未熟な点も多くありますが、ひとつひとつ学びを重ねています」
曖昧さのない報告を心がけたのは、父の前での癖だった。
まっすぐに、すこしも揺らがない声で言い切ること。事実の外にある感情や迷いは見せないこと。父が求めるのは誠実な努力の証であり、感想や感情ではない。
父はひとつ頷き、「そうか。これからも励みなさい」と告げただけで、再び食事に戻った。
もともと多くを語る人ではないが、それでも何の言葉も返ってこないのは、こちらの答えが関心の的ではなかったのだとはっきり突きつけられていることにほかならない。
新たな料理が運ばれ、皿の上で音が細く響く。私も黙って食事を再開しようとした、そのときだった。
「……友人はできたか」
兄の声だった。あまりにも突然だったので、思わず顔を上げて彼を見た。
兄はフォークを握った手を軽く止めたままこちらを見ていた。どこか無表情に近い顔つきでありながら、その目はまっすぐに私を探っているようだった。問いそのものはありふれていたのに、食卓の静けさと父母の沈黙の中に放たれたそれは、妙に浮いて聞こえた。
「……ええ、少しは」
私はわずかに息を詰めるようにして答えた。自然と返せたわけではない。むしろ、何を答えればよいのかわからず、最も無難な言葉を選んだ結果だった。
「クララという子がいます。寮も同室で……とても話しやすい子です」
「そうか。……ならよかった」
ぽつりと漏れたその言葉に、意図をはかる手がかりはなかった。社交辞令のようにも聞こえたし、どこかで安堵しているようにも思えた。
けれどそれ以上のことを問うても、きっと兄は答えない——そう思って、それ以上言葉をつなぐことができなかった。
再び沈黙が降りる。だが先ほどとは少しだけ違っていた。問いかけのあとに生まれた間は張りつめたものではなく、手探りのような空白だった。
私は水のグラスを揺らしながら、兄の言葉の意味を探っていた。士官学校で彼が誰とどんな関係を築いてきたのか、私にはわからない。それと同じように、兄も今の私のことをきっと知らない。私たちは兄妹でありながら、長いあいだ別々の地図の上を歩いてきたのだと思った。たまにこうして線が交差するたび、互いがどこに立っているのかを確かめる手段さえもうよくわからない。
「……クララ?」
静かな食卓に、母の声がふと差し込んだ。これまで料理の音と銀器の触れ合う音の中に沈黙を紛れさせていた彼女が、初めて私の言葉に反応を示した。
「もしかして、ミュルベル家の?」
驚きとも確信ともつかない声音に、私は一瞬、口の中の言葉を飲み込んだ。
「……はい、クララ・フォン・ミュルベル嬢です」
私はナプキンの端にそっと指を添えながら、静かに答える。母は軽く顎を引いた。その表情はすぐには動かず、何かを確かめるような沈黙が数秒のあいだ流れた。すると、今度は父が低い声で言葉を継いだ。
「ミュルベル家といえば、本家は議会でも長く席を持っている。あの家の娘なら、礼儀や振る舞いも申し分ないだろう。交友を深めるにはまこと適切な相手だ」
ナイフとフォークを置いてそう言うと、父は一度うなずいた。声に感情は少なかったが、それでも肯定の色は読み取れた。私が貴族の家柄と関わりを持っていると知り、どこか安心したようにも見える。
母はその言葉を受けて、もう一度私を見た。
「クララ・フォン・ミュルベル……ああ、あの子なのね。昔、一度だけお目にかかったことがある。しっかりとした育ちの、礼儀正しい子だったと思うわ。あなたがそのような方と親しくなれたのなら、私も嬉しく思います」
食卓の空気がわずかに変わったのを感じた。明確に肯定されたわけではない。ただ、私の交友に両親が安堵を見せたことで、その話が穏やかなうちに収束するような空気が流れた。
「……先日の王国法の試験では、クララと共にAAの評価をいただきました」
声に出すかどうか、ほんの一瞬迷った。しかし話題の終わった空白に差し挟むには、これ以上なく無害な報告に思えた。
「王国法は基礎のなかでも特に重視される分野だ。よくやった」
父がふたたび頷いた。ほのかに評価の響きを帯びたその言葉に、私は胸の奥に微かな波紋が広がるのを感じる。
「……学院で知り合った方に、教えていただいたんです。とても頭のいい方で、講義への理解も深く、私、とてもお世話になっています」
事実を静かに告げるだけならば、誰の感情にも波を立てないだろうという淡い予感が私の口を軽くした。
「そう。その方のお名前は?」
母が言った。何気ない口調だった。自然な問いにもかかわらず、答える前にわずかな躊躇いが生まれる。名前を出すだけなのに、言葉の奥が測られるような、妙な気配が背中に沿った。
「……アルフレートという方です」
思ったよりも声は静かに出た。しかし私の淀みを母は見逃さず、訝しげに目を細めた。
「姓は?」
言葉は穏やかだったが、口調は揺るがなかった。私が返答をためらっていると察したのか、今度は父がわずかに眉をひそめた。
「ヴァイス……アルフレート・ヴァイスです」
私が返答した瞬間、食卓の空気がすっと変わった気がした。
「ヴァイス?」
父が繰り返す。唇にかすかな皺を寄せながら、どこか記憶をたどるような間を挟む。
「その姓は聞いたことがないな。……平民か?」
その言葉は、冷水を浴びせられたように私を凍らせた。問いというには余地のない声だった。私が思わず押し黙ってしまったことは、すでに想定された結論を裏打ちするものにすぎなかった。
母の眉がぴくりと動くのを、私は見た。明らかな不快がそこに宿っていた。言葉にならない断絶が空気の底にゆっくりと沈んでいく。
「あなた、まさかその方と親しくしているの?」
わずかな沈黙ののちに落とされた一言は、否応なく私とアルフレートの間に線を引いた。名が問われるということはつまりそういうことなのだと、今さらになって私は心底理解した。
「貴族の娘が、平民の男と並んで名を連ねるなど笑い種だ。おまえ自身だけでなく、家の体面にも関わる」
淡々とした声が、食卓の上に冷たく落ちた。
行き場のない感情が胸にぐるぐると渦巻いている。私の中にあった何かが、小さく、音もなくひとつ崩れたのを感じた。
平民。貴族。自分で選んだわけでもない、生まれたときから配られていたカード。そんなことに、何の意味があるんだろう。そんなことに。あの人はとても優秀な人だ。私なんかとは比べ物にならないほど。
「……そんなことで、私の友人を否定しないでください」
言葉は、自分の意志よりも先に口をついていた。声を上げたというより、胸の内にたまり続けた何かが、とうとうあふれ出たのだった。
「彼がどんな考えを持っていて、どれほど誠実に学んでいるかを、あなたたちは何も知らないでしょう」
声は次第に細くなり、喉の奥でかすれていく。感情を抑えようとするほどに、語尾がふるえた。だが、それでも言葉を止めたくはなかった。語らなければ、彼の存在そのものが否定されてしまうようで、それだけはどうしても耐えられなかった。
「名前や家柄なんて、関係ありません。その人がどう生きてきたかには、何の関係もありません……」
父は視線を逸らさなかった。その瞳には怒りも落胆もない。私の言葉が父にとってどれほど軽々しい反逆に映ったかを思えば、胸の奥に鈍く焼けつくような痛みが残った。
「否定しているのではない。選ばれた立場に生まれた者としての責務を思い出せと言っている」
私は唇を閉ざし、それ以上何も言わなかった。
貴族。格式。家名。責務。生まれながらに背負わされたものたちが私を縛り付け、ふたたび自由を奪おうとしている。
ふと、目の奥が熱くなった。涙ではなかった。飲み込んだ感情が、体のどこにも行き場を見つけられず、奥でじっと燃えているだけだった。




