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息をひそめて

 定期試験が終わり本格的な夏が訪れたころ、学院の空はいつになく高く澄んでいた。教室には誰もおらず、試験期間の喧騒は跡形もなく消えて、廊下には久しぶりに自由な時間が流れていた。


 私は寮の自室に戻り、出発の準備を整えていた。たたみかけた制服の襟を直し、机の引き出しをひとつずつ確かめながら、忘れ物がないかどうかをゆっくりと確認する。

 一番下の引き出しの奥から、小さな香水瓶が出てきた。春の初め、母が送ってきた手紙と共に、使いなさいと添えられていたものだった。琥珀色の香水はほんの少しも減っていない。蓋を開けずにそのまましまい込んでいた私の気持ちを、瓶は黙ったまま映していた。


 帰らなければならない。もちろんわかっている。どんなに気が進まなくとも、私にはそうする義務がある。

 机の上には、昨夜まで書いていた日記が置かれていた。何度も書き直しながら、それでも結局、最後の言葉が見つからずにいた。私はそれを静かにたたみ、トランクの隅にそっとしまった。


 クララは昨日のうちにひと足先に学院を発った。別れ際、彼女は名残惜しそうに私の手を取って、「夏季休暇が終わるのが待ち遠しいですわ」と言った。入学当初から寝食を共にしてきたクララと長く離れるのはこれが初めてで、「かならず手紙を書くわ」と約束した。


 私はトランクの留め金をしっかりと締める。部屋を見渡しても、もう取り残されたものはなかった。淡い光が斜めに差し込む窓辺にしばらく立ちつくし、最後にゆっくりと扉を閉めた。

 階段を下り、寮の玄関を抜け、学院の正門へと向かう道を一人で歩いた。道の両側に続く並木はすっかり夏の装いで、深く濃い緑の葉が茂り、枝と枝のあいだから太陽の光がこまやかな粒となって降り注いでいた。


 迎えの馬車はもう正門についているだろうか。思えば寮を出てからずっと足元ばかりを見つめている気がする。憂鬱な気持ちが私の歩みを阻んでいた。

 ふと、葉のこすれる音の合間に誰かの足音が聞こえて、私は顔を上げた。

 曲がり角の向こう、茂った木の影から見覚えのある人影が現れる。手にはいつものように書物を抱え、シャツの襟を無造作に整えながら、のんびりとこちらへ歩いてくる。


「エリザベート。どうしたんだ、死刑執行に向かう人みたいな顔して」


 開口一番、いつもの調子で言う。私は反射的に小さく眉をひそめた。冗談と分かっていても、あまりにも突拍子もない言いようだったからだ。


「結構なあいさつね、アルフレート」


 そう言いながらも、すこしだけ肩の力が抜けているのが自分でも分かった。彼はよくそういうふうに、まともな話の切り出し方を放棄しては、平然と場の空気を和らげてしまうのだ。

 アルフレートは私の返答に構うふうもなく、足元に落ちた木漏れ日を蹴るようにして歩み寄ってくる。まるで時間に追われるという感覚を知らないかのような悠然とした歩き方で、書物の角が彼の腕の中で少し傾いていた。


「こんな晴れた日にそんな顔して歩いてるの、君くらいだよ」


 言いながら、彼は懐から小さな紙片を一枚取り出した。何かの挿絵が描かれた古い新聞の切れ端のようだった。よく見ると妙に誇張された鶏の顔が印刷されている。


「これは?」


「図書館の本に挟まってるのを見つけた。『語尾が全部コケッになる呪いにかかった男』って記事。あげるよ、君の旅路の無事を祈るお守り代わりに」


 私はそれを受け取り、紙の端を指先でつまんでじっと見つめた。少しくすんだ紙には、荒削りな線で描かれた人物が大袈裟な驚き顔で叫んでいる。吹き出しのなかのセリフも、確かに「コケッ」で終わっていた。


 私は堪えきれず口元に手を当てた。面白かったからではない。内容はくだらなくて、子供だましにもならない。ただそれを渡してきたアルフレートが、冗談に見せかけて彼なりの気遣いをそっと差し出してきたことがわかってしまって、それがどうしようもなくおかしくて、あたたかかったのだ。


「……ありがとう、アルフレート」


「礼には及ばないよ。どうせ僕は気の利いた慰めの言葉も素敵な餞別も持ってないからね」


 アルフレートは笑いながら続けた。


「その代わりに、君がうっかり泣きそうになったときは、笑えるようなくだらない話を一つや二つ提供するくらいはできる」


「『語尾が全部コケッになる呪いにかかった男』に笑ったわけじゃないわよ」


 風が吹くたび木漏れ日が足元に揺れ、私の影もそれとともに淡く波打った。

 光の粒が葉のあいだからこぼれ、彼の髪に淡く降り注いでいる。トランクの取っ手を持ち直した私は、もう一度だけ紙片に目を落とし、それをそっと外ポケットにしまった。

 

「じゃあ、行くね」


「お土産は期待しないでおくよ」


「ええ、そうしてくださる」


 軽いやりとりのあと私は背を向けた。けれど歩き出してから、振り返らずにはいられなかった。後ろを見ると彼はまだそこにいて、書物を抱えたまま木洩れ日のなかですこしだけ目を細めていた。


「またね、アルフレート!」


 私は思わず声を張っていた。まっすぐに彼を見据えて、そう言った。風がひとすじ木々の間を通り抜けて、草の匂いを運んでくる。アルフレートが手を振りかえしたのを見届けて、私は背筋を伸ばし、ひとつ呼吸を整えて馬車の方へと歩き出した。


 夏の終わりにもう一度、この場所で笑っていられる自分を、私は想像してみた。

 この先にどんなに気の重い日々が待っていたとしても、その果てには、再びこの道を帰ってくる自分がいる。

 もう足元ばかりを見つめたりはしなかった。あの紙片のくだらない呪いのように、何気ないことで笑いあえる時間がまたちゃんと戻ってくることを、ほんの少しだけ信じてみたくなったからだ。

 

 

 ◆

 

 

 屋敷が見えたのは、馬車に揺られてしばらくのことだった。馬車が最後の丘を登り切ったところで見慣れた高い塀が目に入る。懐かしさよりも先に、背筋を撫でるような冷たい緊張が私の身に走った。疲れではない。馬車の扉が開けられるその瞬間に身構えている自分がいるのだ。

 大きな鉄製の門が音を立てて開かれ、屋敷の敷地内へと馬車が入る。車輪がきしみ、花壇のそばを通ると手入れの行き届いた夏の植栽が少し揺れた。昔から変わらない光景でありながら、肌に合わない異国の庭のようにも感じられる。


 馬車は正面の玄関前で止まり、御者が降りて扉を開けた。私は一呼吸おいてから立ち上がり、スカートの裾を整える。革靴のかかとが石畳に触れて、一歩を踏み出す。

 扉の前には執事が控えていた。長年仕えている人物で、いつも通り整った姿勢で一礼し私に微笑を向ける。その穏やかな眼差しがかえって居心地の悪さを際立たせた。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様。奥様が応接間でお待ちでございます」

 

 促され、玄関ホールに一歩足を踏み入れる。高い天井と磨き上げられた床、壁にかかった重厚な絵画と古い振り子時計。扉が閉じられる音が背後で響くとしんとした空気が広がる。

 室内はよく冷えていて、外の陽射しの残り香を含んだ衣服がひどく場違いに思えた。私は執事のあとについて応接間へと向かう。ぬかるみに足を取られたように歩みが遅くなる。

   

「お嬢様がお戻りです」


 扉の前に着くと執事が声をかけた。すぐに返事はなかった。けれど向こう側から微かに動きの気配を感じ取る。執事は扉を開けると、片手を差し出して私に道を譲った。

 応接間の空気は、見えない糸が一切の緩みもなく張り巡らされているようだった。窓際のカーテンはきっちりと束ねられ、革張りのソファに母が座っていた。薄いグレイのドレスに身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしている。

 

「……ただいま戻りました」


 私は一礼し、控えめな声で言った。形式ばったあいさつだったが、それ以上の言葉が出てこなかった。母は微かにうなずき、ほとんど表情を変えないまま「よく戻りました」とだけ言った。

 

「移動の疲れは?」


「……たいしてありません」


「そう。ならばよろしいわ」

 

 私は静かに答えた。たったそれだけの応酬で、なぜこんなにも息が詰まりそうになるのか、自分でも分からない。

 ただあらゆる言葉がこの部屋ではひどく重たく、選び損ねればすべてが音を立てて崩れそうな気がしてならなかった。

 

 

 ◆

 

 

 私の居場所は、食事の時間を除けば常に自室だった。母と過ごすよう求められることもあったが、絹のドレスをまといながら紅茶を飲むあの時間は私にとって休息ではなかった。

 小さな銀器の扱い方、ティーカップを置く音の加減、話すときの声の調子、すべてが監視されているような気がしてならない。


 何を切り出して良いのかもわからず、父の所在を尋ねれば「軍務で忙しい」とだけ返され、兄の帰省予定を訊いても「未定」とだけ言われる。

 母は私と会話を楽しみたいのではない。私がこの家の令嬢として相応しいかどうかを見定めている。それがわかる。彼女の視線は、私の言葉ではなく姿勢に注がれている。話題が逸れて笑みが浮かぶようなことがあっても、その目の奥に緩みは見えなかった。


 私はひととおり形式を終えると、礼儀に支障のない程度に退席を願い出た。丁寧に微笑んで、頭を下げて、部屋を出る。母はそれに何も言わない。許可でも同意でもなく、ただ無言でそれを受け入れる。

 

 空虚な日々はそうして過ぎていった。私の部屋の窓は東向きで、朝になるとやわらかな光がカーテン越しに差し込む。

 けれどその陽光も学院で過ごしていた頃のように新しい一日を予感させるものではなく、ただ物憂げな影を部屋の奥に落とすばかりだった。


 机の上には、学院から持ち帰った数冊の本と整えた便箋、それから封筒がひと揃い置かれている。しかしどの本を開いても数ページと進まず、ただ文字の並びが瞼の裏にすべるように消えていく。

 読みたい気持ちよりも読むべき理由が先に立つような感覚があって、私はしばしば途中で本を伏せ、ぼんやりとページの端をなぞる指だけを動かしていた。

 

 ある日のこと、私はクララに手紙を書こうと思った。

 彼女は別れ際、「かならずお便りを」と言ってくれた。机の引き出しには、クララから届いた最初の一通が大切にしまわれている。淡い紫のインクで綴られた、気品と温かみをたたえた文字。紙面から彼女の声がそのまま聞こえてきそうだった。

 その返事を書こうと、私は便箋を一枚取り出した。日差しの角度を確かめるようにして椅子を引き、インク壺の蓋を開ける。万年筆の先にインクを含ませ、紙面に滑らせて最初の一文字を書いた。

 

『親愛なるクララへ』


 それだけ書いたところで、手が止まる。次の言葉が浮かばなかった。

 何を書けばよいのだろう、と自問する。日々の出来事? それともこちらの天気や、庭に咲いた花の名前でも並べておけばいいのだろうか。本当のところ、私が伝えたいのはそんなことではなかった。

 会いたい、と。今すぐにでも学院に戻って、何気ない会話の中に身を委ねたい、と。でも、そんなことを言葉にすれば、きっと愚痴ばかりになってしまう。


 私は便箋を引き出しに戻し、鍵をかけた。

 クララの笑顔を思い出すと、軽やかな声が部屋の沈黙を割って響くような気がした。

 彼女に届けるべき言葉は、もっと別のものであるはずだ。少なくとも、こんな灰色の気持ちではない。

 何もせず、私はしばらくじっとしていた。机の天板に両肘をつき、額を手のひらにあずけてゆっくりと目を閉じる。思考は何も形を成さず、ただ体の中を空気のように通り過ぎていくだけだった。


 そのとき、遠くから馬車の車輪が道を擦る音が聞こえた。鈍く重い音だった。私は顔をあげ、窓ガラス越しに中庭を見下ろす。

 見慣れた馬車が正門を抜け玄関に向かっている。その屋根に射し込む朝の陽光が、曇りのない金の飾りに一瞬だけ光を跳ね返した。


 御者が手綱を引き、馬が足を止める。使用人がひとり駆け寄ると、重々しく馬車の扉が開かれた。

 朝の光を受けながら、馬車から一人の人物が姿を現す。襟元に金の飾緒のついた制服。磨き上げられた軍靴と、まっすぐに伸びた背筋。


 ……屋敷の敷地に足を踏み入れたその人物は、疑いようもなく兄だった。


 お兄様が、ついに帰ってきたのだ。


 私は無意識のうちに、窓辺から一歩退いていた。胸の奥が静かに軋む。

 

 最後に会ったのは去年の夏だった。短い滞在のなかで交わした言葉はあまりにも淡々としていて、互いにどこか本音を避けていた気がする。

 兄は何を考えているのだろう。士官学校で過ごした三年のあいだに、何を学び、何を経験してきたのか。誰と出会い、何に怒り、何に傷ついたのか。それを私は知らない。想像しようとしても、どこまでも手応えのない霧に指を差し伸べているような気がするだけだった。


 幼い頃は、もっと分かりやすい人だった。感情の起伏も、言葉にしてくれることもあった。

 でも今の兄は、まるで深い水面のようだ。穏やかに見えてもその底には何が沈んでいるのか見通せない。

 会いたい気持ちがないわけではない。けれどそれは、兄という人間を前にしたいという思いではなく、かつての、すでに過ぎ去ってしまった時間に触れたいというような願いに似ていた。


 扉の外からは足音ひとつ聞こえず、屋敷はしんと静まり返っている。どこかの部屋で、いま母と兄が向かい合っているのかもしれない。母はどんな声で迎えたのだろう。兄は、何を話すだろう。

 私のことが話題に出ることはあるのだろうか。私が、学院でどのように過ごしているか、兄は気にしてくれているだろうか。


 ……それを訊いてどうなるというの。自分がどう思われているのかを知っても、それをどう受け止めて良いのかさえ分からない。

 幸いというべきか、私はまだ寝巻きのままだった。着替える気力がわかなかっただけだったが、この姿は自室からは出られない。 

 私はベッドの端に腰を下ろして、両手を膝の上で組んだ。寝巻きの皺が指先に触れる。それをなぞるようにしても、気持ちは少しも落ち着かない。

 再会は必ず訪れる。それが日の高いうちなのか、あるいは夜になってからなのかは分からない。

 けれどそのときまでに、私はひとつでも言葉を用意しなければならなかった。目を見てかわせる、たった一つでもまっすぐな言葉を。

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