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鉄面教授と銀舌先輩

 日毎に暑さを増してゆく夏。蒸した空気のなか講義室の窓は半分だけ開けられていたが、そこから流れ込む風は重たく湿って、白いカーテンの端をわずかに揺らすばかりだった。前列に並ぶ生徒たちの背中はどれも硬く、息をひそめるように沈黙していた。

 机上のノートには走り書きの古語が並び、私の視線はその意味をつかみきれずに何度も彷徨う。教壇に立つのは、保守派貴族の代表とも謳われるベルナー教授——その老いた面差しと灰色の軍服のような装束は、まるで剣呑な石像そのもの。


「……よって、銀貨改鋳臨時令における王命の即効性とは、条文第十二条の——」


 口調は低く、抑揚なく、淡々としていながら、息を呑むほどに威圧的だった。一語一句がまるで断罪の鉄槌のように響き、質問の気配すら許さない空気が教室を支配していた。

 私はあまりの眠気を指先に託して、筆先でノートの余白にくるくると線を描いていた。言葉の意味は拾えても、頭に残らない。横目で見れば、クララが教本に「即効性→毒薬?」などと書きつけ、うっすらと眉を寄せている。たぶん、私の脳裏にも似たような連想があった。

 

 ──“王命は即効性をもつが、議会によって制限される”。

 ──“範囲条項” “期限条項” “暫定効力”……。


 文面の硬さと古語の混在に、ただでさえ法に縁遠い身には、理解は霞のはるか彼方であった。

 

 ようやく終了の鐘が鳴ると、生徒たちはまるで追い立てられるように席を立った。けれど誰一人、質問のために教壇へは近づかない。ベルナー教授がため息一つで十の問いを封じるという噂は決して誇張ではなかった。

 

「“王命の即効性と議決の拘束力の相剋”……ですって。もう言葉からして拷問ですわ」


 クララは白い手袋を片方だけ外しながら、苦々しげに呟いた。額には薄く汗がにじみ、金色の巻き髪の一房が肩の上でしおれていた。

 

「せめて歴史劇なら情緒があるのに……この授業、登場人物はたくさん出るのに誰も心を動かしてくれないわ」

 

 私は不機嫌な声でそう言いながら、ノートを半ば閉じた。しかし完全に閉じきるのがどこか後ろめたくて、わずかに開いたまま指を挟んで残しておいた。

 

「質問しに行くにしてもあの教授……睨むだけで人が卒倒するって噂じゃない」 


「本当に。あの眼鏡の奥から覗かれると、それだけで思考が三歩後退しますの」

 

 クララは頬に手を当て小さく息をつく。私は首の近くの細い毛が汗を吸い、肌に張りつくのを煩わしく摘み上げながらふいに窓のほうを見やる。夏の夕方の陽はまだ高く、白いカーテンの裾はまるで意志のない手のようにゆらゆらと動いていた。

 

「解説書を読んでも、かえって混乱してしまって……何か、こう、もう少し血の通った説明をしてくださる方、いらっしゃらないかしら」


 クララの声には珍しく弱さがにじんでいた。いつもは朗らかに笑い、誰とでも礼儀正しく応じる彼女がこうして眉を曇らせるのは、やはり相当くたびれている証拠だ。

 ふたりしてため息をついたそのとき、私は指を机の縁に沿わせながら、ふと、ある人物の横顔を思い出した。

 眉の片方だけを器用に上げて、本の山の中から顔を上げるあの姿。変わり者で、少し皮肉屋で、でも驚くほど頭の回転が速くて、何より話がうまい。初めて会ったときのその印象はあまりにも鮮烈だった。そうだ、あの人なら、もしかしたら。

 私は両手をぱんと鳴らして、椅子の背にもたれたまま顔を上げる。

 

「ひとり、思い当たる方がいるわ。アルフレート・ヴァイスっていうの」

 

 クララはぱちりと瞬きをした。


「ヴァイス……ああ、入学式のときのあの方。お話ししたことがあるの?」

 

「図書室で偶然会って、それから何度か顔を合わせたの。おかしな人だけれど、説明はとても明快だった。きっと、私たちにも分かるように話してくれると思う」

 

 私はそう言って立ち上がり、机の上から教本と筆記具をまとめてかばんに放り込んだ。ページの角が少しだけ折れたけれど、気にも留めない。


「さあ行きましょう。こんなにもやもやしたまま一晩を過ごすのはまっぴらだわ」


 クララは一瞬ためらったようだったが、やがて微笑みを浮かべて頷いた。私も頷き、扉のほうへと歩き出す。

 窓の外では、太陽が昼間のような様相で降り注いでいる。重たい午後の熱気のなかを私たちは並んで歩いた。目指すのは学院の東棟、古い図書室。静けさの奥に知の気配が息づく場所。彼はきっと、今日もあの席にいるはずだ。視線を落として、黙々とページをめくっているだろう。

 階段を上り、廊下を曲がり、重たい扉を押し開けると、図書室の空気が迎えてくれた。背の高い書架のあいだに、積年の紙の匂いが満ちている。窓辺には変わらず午後の光が差し込んでいたが、こちらはしんとした冷静さが支配していた。

 目を凝らすまでもなく、彼の姿はすぐに見つかった。窓際の端、決まった席に。うつむいて書物と向き合い、手元のノートに何かを記している。

  

「いたわ」


 小さく呟くと、クララは少しだけ緊張を纏って立ち止まった。私は歩みを止めず、そのまままっすぐアルフレートの方へと進んでいった。

 彼は私たちの気配に気がついたのか、いつものように眉をひとつだけわずかに動かして顔を上げた。光に照らされた瞳の奥に、冗談めいた色が浮かんでいる。

  

「やあお嬢さん、今日は何のご用かな。また講義にロマンがないと文句でも言いに来たの?」

 

「今日はね、助けていただきたくて来たの」


 私はそう言って、かばんから講義で使った教本を取り出した。中でぐちゃぐちゃになった教本とノートの角が少し折れていたのを、指先でそっと直す。


「“王命の即効性と議決の拘束力の相剋”——今日の王国法の講義で、ベルナー教授がお話しになったの。私たち、ふたりともどうにも理解が及ばなくて……」


 その言葉に、クララもおずおずと一歩前に出た。緊張を隠せずにいる様子だったが、丁寧に一礼して言った。


「突然のお願いで恐縮ですわ、ヴァイス様。お噂はかねがね、論旨明快にしてご説明上手と……」

 

「様はやめてくれ。慣れないから落ち着かない。アルフレートでいいよ。君は……エリザベートの同室のクララ嬢?」


 クララがこくりと頷くと、アルフレートは本を静かに閉じて、視線をこちらに向け直した。

 

「問題はベルナー教授の講義か。王命の即効性ってことは王命暫定条の話かな?」

 

 そう言ってアルフレートは椅子の背に軽くもたれた。机の上に広げられたノートにはびっしりと整然に並ぶ筆跡があり、圧倒された私は思わず目を逸らした。


「ええ、そうよ。銀貨改鋳(かいちゅう)臨時令騒動の例を出して解説されたのだけれど——」 

 

『銀貨改鋳臨時令騒動』の概要はこうだった。

 当時王国の経済は銀不足で貨幣価値が不安定だった。国王レオポルト二世は流通量確保の急場しのぎに「既存銀貨を溶かし、純度を下げて軽量銀貨を鋳造せよ」と王命を出した。

  王命は宰相を通じてただちに造幣局へ下達。翌朝には軽量銀貨の製造が始まった。

 ところが三日後に開かれた貴族合同議会が、純度低下は信用失墜を招き、地方では旧銀貨と混在し市場混乱を起こす、として拒否決議。

  議会の法定手続を経ずに改鋳を続けるのは違法だ——と造幣停止を求めた。

 その後、国王は「既に始めた分だけは有効、だが全国実施には議会法を待つ」という妥協勅答を出す。議会は数週間審議した末、改鋳は緊急財政対策として一年間限定、軽量銀貨は王都・軍給与のみで流通という『銀貨改鋳制限法』を可決した————。

 

「……それでそのあと王命は即効だけど議会を通さないといけなくてそれがセイブンホウとしてホウテンに……なんだったかしら、その、あの、メイブンカされて……」

 

 私は手元のノートをめくりながら、何とか記憶の底を探ろうとした。けれど書き殴った講義メモは要点をとらえておらず、意味もわからないまま写した板書の専門用語が罠のように張り巡らされている。

 私がそこで言い淀むと、アルフレートはくすりと笑って「だいたい合ってるよ」と呟いた。

 

「ベルナー教授の講義は用語や判例を噛み砕かずに投げてくるから難しいんだ。こう考えてみて。例えば先生が受け持ちのクラスに、“今日からプリントは半分に切って節約しろ”って言ったとしよう。理由は紙の在庫が足りないから」

 

 突然の言葉に私は瞬きをした。クララも意外そうに眉を上げたが、声を挟むことなく何かを理解しようとするように熱心に耳を傾けていた。

  

「先生の指示って、そのクラスでは即日有効だよね。プリントが本当に半分になる。でも校則ってわけじゃない。だから他のクラスには関係ないし、いつまで続くかもわからない」

 

 日差しのなか、アルフレートは一冊の本のように言葉を紡いでいく。私は自分のノートの新たなページに、今度こそ分かるような言葉で彼のたとえをゆっくりと書き写し始めた。

 

「でも、その紙を半分にするルールを学校全体に適用したいと思ったらどうする?」


 アルフレートはすっと指を一本立てて、クララと私を交互に見やった。その目には確信が宿っていて、言葉の先に導こうとする意志があった。

 

「……校則にしないといけませんわ」

 

 クララがそっと言った。躊躇いながらも導いたその答えは正しかったのだろう。アルフレートは満足そうに小さく頷いた。


「そう。全校生徒に一律で課すなら全校の決まりにしなきゃならない。それには先生ひとりの判断じゃ無理だ。学院長とか、生徒会とか、全体の話し合いを経て決める必要がある」

 

 私はノートをのぞき込みながら、彼の言葉を静かに追っていた。クララも同じように、真剣にノートと向き合っている。

 

「つまり、王命ってのは先生の裁量みたいなものなんだよ。緊急時にはすぐ動ける。でも正式なルールとして続けたいなら、議会——全校会議で校則として可決しなきゃいけない」

 

 アルフレートはそう言って、手元の本を軽く叩いた。その表紙には『王国法制史概説』と金文字が刻まれている。


「この流れが、まさに銀貨改鋳臨時令騒動の骨組みなんだ。そしてその一連の流れをもとに、“これからは緊急時に限って、先生が先に指示を出してもいいよ。でも、それを続けたいなら必ず校則化すること”って明文化した法律が生まれた。これが王命暫定条」

 

 その言葉は、驚くほど理にかなっていた。急ぎの対応と、熟慮された立法。その両方を両立させる仕組み。

 

「詳しくいうと、第十二条で“とりあえず出せる”、第十三条で“ちゃんと議会の確認を受けること”が義務になってる。今の王国統一法典の中にも組み込まれてる統治の基本だ」


 私は机の上の紙にそっと目を落とした。そこに書かれた二つの条文が、今は自分の中にきちんと刻まれている気がした。


「すごい……さきほどまでは全く理解できませんでしたのに」


 クララがそっと感嘆の声を洩らした。アルフレートは少しだけ照れたように笑って肩をすくめた。


「政治はだいたい学校の仕組みで整理できるんだ。意外と似てるからね」

 

 私は納得してそっと頷いた。ふいに肩の力が抜けるような心地がした。知識とはこんなふうに自分の中に降りてくるものなのかと今さらながらに思う。

 アルフレートは立ち上がることもなく、机に頬杖をつきながら相変わらず気取らない調子でこう言った。


「ま、あとはテストで点を取って、ベルナー教授を見返すだけだな」

 

 

 

 それから二週間後。ベルナー教授の講義ではテストが返却された。

 午後の陽が差し込む教室で、私の手元に置かれた答案用紙には、鮮やかな赤い字で「AA」と書かれていた。隣の席のクララの答案用紙にもまた、「AA」と記されている。


「……ええと、第十三条の王命を成文法へ転化のくだり、合っていましたのね」


 クララがそっと呟く。私は小さく頷いた。


「うん、ちゃんと議会で承認されたら全土施行の成文法へって書いてた。条文の番号も合ってたから、部分点じゃなくて満点になったみたい」


「……わたくし、はじめは成文法という言葉すらまともに読めませんでしたのに」


「でも今はちゃんと理解できてるでしょう? クララは覚え方も工夫していたし」


 クララは少しだけ顔を赤らめ、けれどもその瞳は明るく澄んでいた。

 そのとき、教室の扉の向こうを通りかかったアルフレートがちらりとこちらを見て手を振った。私は答案用紙を両手で持ち上げ、誇らしげに掲げてみせる。

 彼は少し笑って、そのまま何も言わず、通路の先へと歩いていった。私はにこりと微笑んで、光に溶け廊下に消えていくその背中を見送った。

 胸の内に溢れる感謝の気持ちは声にならないまま、けれど確かに彼へと届いたように思えた。 

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