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リラの花咲く街から、リンデンの待つ家へ

ノルトハルデン王国 ロッセン市

新市街東区 ヒルシュ通り七番地

アルフレート・ヴァイス様


 無事に着きました。まずはそれを一番に伝えたくて、机に向かっているの。

 汽車は思ったより揺れて、あなたが隣にいたら絶対に文句を言っていたはず。「君が一人で乗るとなると信用できなくなる」と言っていた声を何度も思い出して、おかしくなって笑ってしまいました。


 滞在するホテルはリラという可愛らしい名が入っています。ライラックの花という意味だそうよ。とても素敵でしょう? 中庭にリラの木があって、今は花の季節ではないけれど、いつか枝いっぱいに紫の花が咲き誇る日のことを考えています。


 あなたが家で寂しがっているだろうことも、ちゃんと想像しています。でも、私も同じ気持ちです。だからやるべきことを終えたら、迷わずにあなたの待つ場所へ帰ります。これは心からの約束です。


 それからね、駅で別れたときのことがずっと引っかかっています。あなたが「大好きだ」と言ってくれたのに、私は「知ってる」なんて返してしまったでしょう。

 いま思い出して猛烈に後悔しているの。本当はちゃんと言葉にして答えたかった。


 私も本当に、心の底からあなたが大好きです。


 エリザベート


──


ルシェーヌ王国 首都サン=トレゾール 第九区

グラン・ホテル・デ・リラ 六一二号室

エリザベート・ヴァイス様


 無事に着いたと分かって、まず安心した。

 列車の時刻表と君の行程は何度も確認していたけれど、やっぱり実際にこうして手紙を読むまではどうにも落ち着かなかった。


 リラという名前はいいね。紫の花は君によく似合うし、気に入った理由もなんとなく想像がつくよ。


 こちらは特に変わりない。君のカップはまだ棚の一番取りやすいところに置いたままだし、椅子も君がいつも座る方を空けている。

 理屈では意味がないって分かっているのに、体が勝手にそうする。君がいない生活にはどうやらまだ当分慣れそうにない。

 トルテも君の不在には気づいていて、最近は僕の膝を定位置に決めたらしい。それなりに仲良くはやっているから心配はいらないよ。


 駅でのことだけど、「知ってる」と返されたとき僕は少し笑ってしまった。君らしいと思ったから。でもこうして改めて書いてもらえるなら、ありがたく受け取るよ。


 無理はしないこと。食事と睡眠を疎かにしないこと。それから、面白い話は溜め込まずに小出しに教えてほしい。


 帰りを待っている。


 アルフレート


──


リンデンの木々が揺れる通り、北の夜空の星の数

親愛なるアルフレートへ


 聞いて。今日はお稽古が午前だけだったの。だから午後は、少しだけ街を歩こうと思ったの。


 気がついたら美術館を二つ巡り、劇場の外観を三つ眺め、市場でお菓子を四つ買い、路地裏のヴァイオリン弾きに夕暮れまで見惚れてしまいました。


 でもね、これは全部私にとって必要な時間だったと思うの。役作りや将来のため、そして何より表現者としての勉強だと言えば、真面目なあなたなら分かってくれるでしょう?

 それに異国の街で空がどこまでも広くて、建物がすべて見たことのない顔をしてこちらを伺っていたら、ついずっと先まで歩いてみたくなる気持ちもあなたなら分かってくれるはず。


 帰り際に見た夕焼けの川沿いは息を呑むほどきれいで、いつかあなたと一緒にここへ来られたらと思った。


 追伸

 大事な報告。たぶん……いえ、確実に、お土産がトランクに入りきらなくなりそうです。

 上質なクロス、古書市で売っていた楽譜、雑貨屋さんで見つけた変な仮面、それからあなたに似合いそうな手袋。


 なので、一足先に小包で送ります。届いたら中身を一つずつ開けて、私がどんな思いであなたの喜ぶ顔を想像したか、じっくり推理してみて。


 エリザベートより


──


 エリザベートへ


 君の書いた素敵な所書きのおかげで、配達員が困惑した顔で訪ねてきたよ。君のせいで僕の社会的評価が詩人に分類されそうだ。


 それから手紙を読み終えて、まず数を順番に数えてみた。美術館が二つ、劇場が三軒、お菓子が四つ。僕たちが共有していたはずの少しの定義は、君の中でだけずいぶん広くなってしまったらしい。


 ただし、君の言う「全部必要だった」という理屈は残念ながらよく分かる。勉強だと言われると反論しにくいし、役作りと将来と続けられるともう止める言葉が見当たらない。


 それでも一応言っておく。


 君は歩きすぎだ。


 それから荷物の件。小包を送る判断は正しいと思う。前回の旅行でも君のトランクは閉まらなかった。

 仮面については正直少し不安があるが、まあ、君が選んだものなら何かしら理由があるんだろう。

 手袋の方は純粋に楽しみにしている。

 無事に届いたらまた知らせる。君が帰ってくる前に、家のどこに置くか考えておくよ。


 アルフレート


──


 夢の家の大切なあなたへ


 今日という日を絵葉書で同封します。路地で画家の方が売っていたの。

 この絵に描かれている通り、今の空は薔薇色なのよ。私のいちばん好きな色。屋根の上も川の水面もみんな同じ色に染まっていて、この街は見れば見るほど、あなたと一緒に歩きたい場所ばかり。


 それからね、役作りの話を聞いてほしいの。今回の私は、いつまでも結婚してくれない恋人に内心やきもきしている女の人。

 台本を最初に読んだとき、「なんで言わないの?」って不思議で仕方がなかったわ。私なら三ヶ月目くらいで言うと思うの。たぶんお菓子を食べながら、「ところで、いつ結婚するのかしら」って。


 でも彼女は言えないのよ。言えないまま、恋人が新聞を読む横でわざとらしくため息をついたり、指輪売り場の前で足を止めてみたりして、でもなにもかも空振りなの。


 観ている人は彼女の空回りを見て笑うんだろうけれど、私は毎日「言えばいいのに……」ってもどかしくてたまらなくなるのよ。

 ちなみに今日のお稽古では、やきもきしすぎて椅子から立ち上がる間合いを間違えて、相手役の方と派手にぶつかってしまいました。


 マドモワゼル・アドリーヌこと、エリザベートより


──


 寄り道好きの妻へ


 絵葉書、受け取ったよ。まず言っておくけど、「また路地か」とは思った。でも絵を見たら、それ以上は文句も言えなくなった。きれいだったから。


 薔薇色の空、という表現は初めて聞いたな。夕映えとか茜色とかいろいろ言いようはあるのに、君は昔からそうだ。辞書に書き込めない種類のものを真っ先に見つけてくる。

 

 役の説明を読んで、僕はまずその恋人役に同情した。たぶん言う時を永遠に逃し続けてるね。気持ちは分からなくもないよ。結婚の話を切り出すのはかなり勇気がいる。

 それにしても、椅子から立ち上がる間合いを間違えるほど悩む役とは思わなかった。本番では家具と喧嘩しないように気をつけてほしい。


 ただ、その悩みを現実にまで持ち込む必要はないからね。舞台の上ではやきもきして、終わったら全部置いて帰ってきてくれ。家では夕食に何を食べたいか悩むくらいで十分だ。


 君の帰りを待つ夫より


──


 愛するアルフレートへ


 初日の幕が開きました。まずは何よりの結論から伝えさせて──私は今、こうして無事に生きています。

 朝からずっと心臓が耳元で鳴っているみたいに落ち着かなくて、お気に入りの髪留めを三回も落としたり、台本を逆さまに持ったまま震えていたり。

 挙句の果てには気合を入れすぎて楽屋の扉を思い切り開けたら、隣の方の部屋だったりしてもう散々な始まりだったの。


 舞台のほうの彼女はというと、相変わらず恋人の態度にやきもきし通しだったわ。客席から笑い声が聞こえてきたところで、安心すぎて次の台詞が出るのがほんの少しだけ遅れてしまったのは、あなただけに教えてあげる。


 今はようやくホテルに戻ってきて、アドリーヌのヒールの高い靴を脱いでこれを書いているの。明日もまた公演が続くけれど、今日はもう、頭も心もいっぱいいっぱいで、これ以上は何も考えられそうにない。


 でも、ちゃんとやれていると思うの。たぶん。いえ、きっとね。


 エリザベート


──


 愛するエリザベートへ


 無事に生きていて何よりだ。初日の報告としては十分すぎる。

 楽屋を間違えた話はいかにも君らしいと思った。たぶん、明日も何かしらやらかすだろうね。

 でも、舞台でやるべきことはやっている。観客が笑って拍手があったなら、それが一番確かな証拠だ。


 僕はここで、君が今日こそちゃんと楽屋に辿り着いていることを祈っている。


 アルフレート


──


ルシェーヌ王国首都 グラン・ホテル・デ・リラ御滞在中

エリザベート・ヴァイス様

 

 拝啓


 突然のお手紙、どうかご容赦ください。ノルトハルデン王国、文化省文化芸術局のアドラーと申します。


 さて、奥様にご報告すべきか少々迷ったのですが、最近の局内が思いのほか賑やかなため、あえてお知らせいたします。


 ご主人は相変わらず真面目に執務に励んでおられますが、以前のように定時になると慌てて帰宅することがすっかりなくなってしまいました。

 その変化を見逃さない者が多く、「ヴァイスさんの奥さん、ついに愛想を尽かして出ていってしまったらしい」などという実に想像力豊かな噂が広まっております。


 本人はその都度否定していますが、かえって「あまりの精神的打撃に否認期にある」と受け取られている節もあり、余計な心配まで招いている始末です。


 奥様がお仕事でご不在であることは承知しておりますので、どうぞご安心ください。とはいえ、ご帰国の折には噂の訂正も兼ねて、ぜひご主人を早めに帰宅させて差し上げてください。


 敬具


ノルトハルデン王国 文化省文化芸術局

アドラー


──


 アルフレートへ


 聞いてしまいました。ええ、ええ、ちゃんと同僚の方から正式に。


 どうやら私は、家を飛び出してしまった薄情な奥さんになっているそうですね。あなたが最近、ちっとも早く帰らなくなった理由まで推理されていて笑ってしまいました。

 そんなに分かりやすく家に帰っていたの? それはそれで……なんだか独り占めしたいくらい可愛い人だわ。


 でも、一生懸命に否定しているのにむしろ誤解を招いているという一文には胸が痛みました。あなた、きっといつになく真面目な顔をしているのでしょうね。それが逆効果になるところまで、手に取るように想像できます。


 安心してね、アルフレート。私は今だって、あなたの隣が世界でいちばん好きな、あなたの妻です。ちゃんとあなたのところへ帰ります。

 帰ったら責任を持って噂の訂正を手伝うわ。必要なら局内を一周して「この人の妻です」と名乗ってもいいの。


 ……冗談よ、半分くらいはね。


 エリザベート・“ヴァイス”


──


 ルシェーヌ某所 最愛の妻へ


 まず笑っただろう。君の文章からそれがよく分かる。

 前みたいに急いで帰らなくなったのは、家が静かすぎて正直つまらないからだ。君がいない家は片づいているし問題も起きないけど、鼻歌も窓を勢いよく開ける音もない。

 だから仕事を長引かせている。効率はいい。気分は良くない。


 噂については気にしなくていい。訂正するたびに話が膨らむから、最近は最低限だけにしている。放っておけば、そのうち別の娯楽を見つけるだろう。


 ただ一点だけ訂正させてほしい。僕は不安には思っていない。君は今遠くに行っているだけで、僕の妻で、僕たちの家は君の帰る場所で、その事実は一日たりとも変わっていない。

 君が必ず帰ってくると分かっているから、今日も余計な心配をせずに眠れるよ。


 アルフレート


 追伸

 夕食を二人分作る癖が抜けない。そろそろ帰ってくる頃だと思うと、分量の調整が難しい。早く二人でこの大盛りの料理を片付けたいものだね。


──


 今日のルシェーヌは朝から光が多すぎて、少し落ち着かないくらいでした。窓を開けたら街が一斉に深呼吸をしたみたいに爽やかな風が吹いて、「さあ、何かが起こるよ」と言われた気がしたの。


 舞台は相変わらず夢みたいに眩しいわ。ここでは歌うことも踊ることも呼吸と同じくらい自然なことで、もし私がこの国に生まれていたら、きっと空を飛ぶことでさえ特別じゃないと信じてしまうでしょうね。


 でもね、今日はあまり書くことがありません。だって、もうすぐあなたに会えるから。


 二ヶ月分の積もる話と、トランクの口が閉まらないほどのお土産と、おそらく道中で増えてしまう余計なものたちも一緒に持って帰ります。置き場所がないと叱るかしら?


 この続きは手紙ではなく、あなたの顔を見て話します。

 とても、とても愛しています。明日、あなたの待つ場所へ帰ります。


ノルトハルデン王国 ロッセン市

新市街東区 ヒルシュ通り七番地

私の帰る場所“夢の家” 最愛の人へ



 ◆



 汽車が駅に滑り込み、金属が擦れる低い音を残して止まった。あれほど長く、途方もなく感じられた二ヶ月という時間は、いま扉が開くのを待つ一瞬に比べれば、驚くほど短くて儚いものに思える。

 扉が開き、白い蒸気と人の波が一気にホームへと溢れ出した。私は手に馴染んだトランクの取っ手を握り直し、母国の地へと一歩を踏み出す。ようやく帰ってきたのだという実感が、熱を帯びて胸に迫ってきた。


 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと視線を上げる。

 ──わざわざ探すまでもなかった。


 行き交う人混みの向こう、待合室の近くに、ひときわ背筋の伸びた姿がある。背が高いって、こういうとき本当に便利だわ。今この瞬間だけは、心の底から神様に感謝した。

 トランクの重みも指先の痺れも、もうどうでもよかった。周囲の人波を器用にすり抜け、彼という光だけを見つめて、私は駆け寄る。

 

 アルフレートは私を見つけたとたん、はっきりと表情を変えた。いつもの穏やかで澄ましたような微笑みじゃない。驚きと安堵と、そして心の奥底から溢れ出した抑えきれない喜びが、そのまま形になったような顔。


「……おかえり」


 ただいま、と言葉にするより早く、荷物をその場に放り出して手が伸びていた。アルフレートの襟元を掴み、ぐっと引き寄せる。彼が何か言う前に思いきり背伸びをして──口づけた。


 言葉より先に溢れ出した想いが、そのまま形になったみたいだった。唇に触れた温もりが、二ヶ月分の寂しさを跡形もなく連れ去っていく。


 アルフレートは一瞬だけ小さく息を呑み、驚いたように、それからどうしようもなく愛おしそうに目を細めて笑った。背中に回された大きな手が、私をそっと引き寄せる。


「帰ったわ、アルフレート」


 ようやく、言葉が心に追いついた。今度こそはっきりと告げて、私は額を彼の胸に預ける。

 家から連れてきたリンデンの香りと、いつもの優しい体温。ここが私の帰るべき、世界で唯一の居場所。

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