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寂しがり屋、涙を飲む

 帰り道は、ほとんど言葉を交わさなかった。劇場の喧騒が嘘みたいに通りは静かで、靴音だけがメトロノームのように響く。隣を歩くアルフレートはいつもと変わらない歩幅で、私もそれに合わせて歩いた。

 話そうと思えばいくらでも話題はあったはずなのに、どれも今は口に出してはいけない気がした。


 家について、扉を閉める。帽子を外してランプに火を灯すと、柔らかな明かりに張りつめていたものが少しだけ緩んだ。足元にトルテがすり寄ってくる。小さな身体を撫でると、ご機嫌な様子で喉を鳴らす。


「……さっきの話なんだけど」


 その温もりにようやく息をついたところで、背後から声がかかった。身体が先に反応して、肩がわずかに強ばってしまう。

 二ヶ月、向こうの国、舞台。どれから来るのか、頭の中で順番をつける暇もなく身構えた、その直後。


「君に振られた、って話」


「え?」


 思わず間の抜けた声が出た。張り詰めていた力が一気に抜け、トルテを撫でていた指先が止まる。


「そっち?」


「うん、そっちだ」


恐る恐る振り返ると、アルフレートは驚くほど真剣な顔で頷いていた。冗談を言っている気配は微塵もない。


「もっと別の話かと思った?」


「ええ、覚悟までしたのよ」


「じゃあ先に、僕が一番引っかかってる方から片付けよう」


 彼はそう言ってソファに腰を下ろし、隣のクッションをぽんぽんと軽く叩いた。仕草に促されるまま隣に座ると、間近にある視線が逃げ場なく向けられて背筋を伸ばしてしまう。


「まず確認させて。君と彼は、恋人同士だった?」


「……いいえ、違うわ」


「なんか歯切れが悪い気がするな」


 ラウルとはただ一緒に舞台に立って、同じ時間を夢中で走り抜けただけなのに。なぜだか重大な罪を犯して法廷に立たされているみたいな気分になる。


「だって聞き方が悪いんだもの。だけど、恋人だったわけじゃないの。誓ってもいいわ、本当よ」


「でも?」


 アルフレートはそれ以上言葉を重ねず、黙ったままこちらを見ていた。急かされることのない沈黙が、かえって私の中に溜まった言葉を押し出していく。


「……あのね、留学の終わりに、求婚されたの」


 観念して事実を口にした瞬間、アルフレートの眉がほんのわずかに、けれど確実な不快感を持って動いた。


「それで?」


「ちゃんと断ったわ。当たり前でしょう?」


「すぐ?」


「……ううん、ちょっと考えたの」


 答えた途端、彼はふっと笑いながら息を吐く。


「正直だね」


 呆れたようでもあり、感心したようでもある。どちらともつかない反応に、内緒にしていたことを怒られる雰囲気ではなさそう、と少しだけ安心してみる。


「向こうの国で、あの舞台で生きていく、っていう意味よ」


 弁解のつもりだったけれど、アルフレートは静かに頷いた。


「君の好きな国だ」


「ええ」


「君の好きな舞台もあった」


「……あったわ」


 あの頃、異国の眩い舞台の灯りだけを命綱にして生きていく未来を、本気で思い描いたことがあった。あの胸を焦がすような高揚感を忘れたことはない。今でも、瞼を閉じれば拍手の音さえ鮮明に思い出せるほどに。


「でもね、私はこの国で夢を叶えたいと思ったの。だって、あなたがいるから」


 言いながら、私は無意識にアルフレートの袖を掴んでいた。その下にある熱を確かめるように、彼がどこかへ行ってしまわないように。


「うん。それで充分だよ」


 視線を上げれば、彼は驚くほど和らいだ表情で私を見ていた。その目に映っているのが自分だと思うだけで、どうしようもなく頬が熱くなる。


「どんなに遠くに行っても、君が帰ってきてくれるって僕は知ってる」


 声には、恐れも、疑いもない。たったの一言がずっと求めていた答えみたいで、涙が出そうになる。


「だからね、向こうの舞台に出演するって話も同じだと思う。エリザベート、君が行きたいなら行ってほしい」


 胸の奥で複雑に絡まっていた不安を、彼の鮮やかな手にほどかれて差し出されたような心地で、息の仕方すら忘れてしまった。堪えていたものが溢れて、声は知らず知らずのうちに震えてしまう。


「でも……結婚したのに、二ヶ月も離れるなんて」


 夢も暮らしも、どれも私のものなのに。どうして、同時に抱え続けるのは、こんなにも難しいのだろう。やっと手に入れた日常だった。朝、隣にいること。夜、同じ灯りを分け合うこと。その全部が、まだ手に馴染んでいないのに。


「まだ一緒になって一年も経っていないのよ」


 その言葉が唇を離れるより早く、私は引き寄せられるようにアルフレートに抱きついていた。逃げ場を塞ぐみたいに、シャツに額を押しつける。鼻先をくすぐる石鹸の匂いと、春の陽だまりのような確かな体温がすぐに伝わってくる。確かにそこにいる、とわかる温もり。


「それに、あなたは寂しがり屋だわ」


 くぐもった声で続けると、背中に大きな手が回された。耳元に伝わってくる彼の鼓動はほんの少し速くて、いつになく雄弁に胸の内を語っている。たぶん、私の心臓も同じだった。


「寂しがり屋は君の方だよ」


 耳元で囁く声が熱を持って、抱き締める力が強まる。思っていたよりもずっと。息が詰まるほどじゃない。でも、離す気なんてない、と言われているみたいな力だった。


「正直、二ヶ月も君に会えないのは辛い。まだ結婚して一年も経ってないのに」


「……やっぱり、あなたもそう思うのね」


「思うよ。思わないわけがないだろう。可愛い新妻を旅に出して平気な顔してる方がおかしい」


 顔を上げると、近すぎて彼の表情がよく見えた。いつもは理性的な双眸の奥に、今や隠しきれない少年のような不安が滲んでいる。それがわかっただけで、喉が詰まって言葉が出なくなる。


「でもその間に、君はいろんなものを見て、考えて、それを持ってまた戻ってくるんだ」


 額に額が触れる。息が混じる距離。アルフレートがさらに力を込めて、私は完全に腕の中に閉じ込められた。


「帰ってきたら聞かせて、全部」


「……うん」


 約束に短く頷いた瞬間、アルフレートの指が私の髪に触れる。梳くでもなく、撫でるでもなく、壊れやすいものを確かめるみたいに、ゆっくりと。その慎重さが、やけに胸にじんわり沁みた。


「……あなた、案外冷静だわ」


「今はね」


「今は?」


「出発前夜になったら多分もう少し面倒になるよ。くっついて泣くかも」


「やっぱり寂しがりね」


 腕の中で小さく笑い声を上げながら、私はこの温もりに身を委ねた。不安も迷いも消えたわけじゃないのに、今はそれでいいと思えた。離れても、ここに戻ってくる。夢を追っても、愛はここにある。舞台よりも拍手よりも、ずっと確かな感触で、私は知ってしまった。



 ◆



 ラウルに承諾の手紙を送ると、返事は私の決意を待ち構えていたかのように早く届いた。丁寧な礼と、期待の弾んだ言葉と、細かな段取りが詰め込まれた一通。さらには手回しよく手配してくれた汽車の切符も送られてきて、日付を見た瞬間、現実がぐっと近づいた気がした。


 出発まで一月。あまりに短いその猶予を前にして、私たちは並んで切符を眺める。アルフレートは心底不本意そうに頬杖をつき、しばらく沈黙を守っていたけれど、やがて絞り出すようにぽつりとつぶやいた。


「格好つけた言い方はいくらでもできるけどさ」


「……うん」


「本音は単純だよ。君が大好きで、可愛いし、物理的にも離したくない」


「それだけ?」


「それ以上、何がいるんだ」


 そう言って、彼は私の指先にそっと触れる。強く引き寄せるわけでもなく、ただそこに愛すべき存在が留まっていることを確かめるみたいに。

 離れる日が近づいてからも、私たちは特別なことはしなかった。むしろいつも通りの暮らしを、両腕で抱きしめるみたいに過ごしていた。

 夕方、並んで台所に立つ。野菜を刻み、鍋を火にかけ、味を見て──うっかり私が調味料を取り違えて、アルフレートが呆れて笑う。


「……これは、冒険してるね」


「間違えたの。ほんの少しよ」


「ほんの少しがいちばん危ないんだ」


 結局アルフレートが味を直してくれて、どうにか食べられるものになった。食後は並んで流しに立つ。彼が洗って、私が拭く。絶え間ない水音の合間に、アルフレートが何気なく問いかけてきた。


「向こうで食べたいものは?」


「ブリオッシュ。それから……コンフィとか、テリーヌも好きだったわ」


「美味しそうだね」


「でもきっと、一番恋しくなるのは……」


 布巾を動かす手を止め、視線を落とす。


「あなたの作ってくれるスープ」


 一瞬、水の音しか聞こえなくなる。


「帰ってきたらいくらでも作るよ。飽きたって言ってもね」


 さらりと言われて、私は彼の横顔をそっと見つめた。語ってくれる当たり前で、ほんの少し物騒な未来に安心して、私はまた食器を磨き始める。


 本格的に荷造りを始めたのは、出発の二週間ほど前だった。床に広げたトランクの前に座り込んで、お気に入りのドレスを一枚手にしたまま私は動けなくなっていた。畳むでもなく戻すでもなく、ただ眺めているだけ。


「全然進んでないね。時間が止まってるのかと思った」


 後ろから落ちた穏やかな皮肉に、振り向かずに正直な気持ちをそのまま口にした。


「だって、まだ行きたくないもの。荷造りってお別れの手続きみたいだわ」


「じゃあ今日はやめよう。無理に進めても君の涙を詰め込むだけだ」


 アルフレートは私の隣に腰を下ろすと、あっさりと鞄の蓋を閉じた。急かすことも、励ましを口にすることもしない。その程よく投げやりな優しさが、今は淹れたての紅茶みたいに身に沁みた。


 数日後、ようやく重い腰を上げて再開した荷造りは、今度は別の理由で難航することになった。クローゼットの前で、私は次々と服を取り出しては首を傾げる。


「……どれを持っていこうかしら」


「それ持っていくの?」


「だって、あなたが好きだって言ってくれたもの」


「それは家で着てるから好きなんだけど」


「……じゃあ、こっちのフリルがついたのは?」


「それも」


 次に差し出した服にも首を横に振られて、気がつけば候補はどんどん減っていく。


「ほとんど却下じゃない」


 私は膨れっ面になって、腕を組んだ。アルフレートは少し視線を逸らして、ぽつりと言う。


「向こうで他の人に見せる必要はないだろう」


 無意識に溢れたような本音。彼自身も気づいたらしく、私たちは顔を見合わせて、どちらからともなく気恥ずかしさに黙り込んでしまった。



 ◆



 出発の朝の駅は、思っていたよりもずっと騒がしかった。

 ホームでは白い蒸気が絶え間なく立ちのぼり、湿った空気の中に煤の匂いが混じっている。別れを惜しむ人々の話し声、車輪の軋み、発車を告げるベル──それらすべてが絡み合って、落ち着かないざわめきを作っていた。


「ほら、私は平気よ」


 そう言ってみせると、自分でも少し大人になった気がした。私は切符を指先で挟み、軽く弾いてみる。


「一度、あなたと一緒に乗ったでしょう? もう慣れているわ」


 アルフレートは返事をせず、しばらく汽車を見上げていた。伸びる黒い車体とそこから吐き出される蒸気を、宿敵でも見るような険しい目で眺めている。


「……君が一人で乗るとなると、世界の物理法則から治安維持の仕組みまで、何もかもが急に信用できなくなってきた」


「まあ、大げさね。どうしてそんなに心配なのよ」


「安全性、運行距離、正確な到着時刻。あと人の多さと座席の硬さも全部」


「そんなのあなたらしくないわ。理屈屋のアルフレートはどこへ行ってしまったの?」


「君のことになると感性が壊れるみたいだ」


 そのとき、短い汽笛が鳴った。別れを急かすみたいに空気を切り裂く音が、私たちの間に落ちてくる。


「……そろそろね」


「そうだね」


 アルフレートは手持ち無沙汰を誤魔化すように時計を確認し、一拍置いて思い出したように尋ねる。


「忘れものない? 道中のお菓子、気に入ってるリボン、それから──」


「アルフレート」


「それは持って行けないな」


「それならいいの。あなたが、私がここへ帰ってくる理由だから」


 しばらく沈黙が流れたあと、彼は何度か頷いて、それから降参したように正直すぎる声で言った。


「正直に言うよ。行ってほしい。でも、行ってほしくない。このまま手を引いて家に帰って、野菜を刻んでスープを温め直したい」


「めちゃくちゃよ」


「知ってる。……だけどね、君が戻ってくるって知ってるから、今ここでちゃんと見送れるよ」


 私は答えの代わりに、もう一歩近づいた。背伸びをして、彼の頬にそっと手を伸ばす。指先に伝わる体温が、離れがたい愛おしさを突きつけてくる。


「……泣かないでね、寂しがりやさん」


「泣かないよ。これでも僕は君の夫だからね。誇らしく背筋を伸ばして見送るよ」


 もう一度、汽笛が鳴る。今度は、迷いなく響いた。


「行ってくるわ」


「うん。行っておいで」


 私は振り向き、汽車の踏み台に足をかけた。寂しさに捕まって立ち止まらないように、前だけを見つめたその瞬間──。


「エリザベート!」


 すべてをかき消すような声が、駅のざわめきを突き抜ける。


「なあに?」


 振り返ると、アルフレートがいつになく大きな声で叫んだ。


「……大好きだ!」


 人目も憚らない、その声。周囲の視線も鉄壁の理屈もすべて投げ打ったような顔で、愛する夫は私にそう告げた。こんな姿を見られるとは思わなくて、胸いっぱいに息を吸い込んで、私も負けないくらいの声量で返した。


「知っているわ!」


 舞台に立って歌ってきたから声には自信がある。この一言には、今まででいちばんの力を込めた。

 汽車に乗り込み、窓越しに彼を見る。蒸気の向こうで、アルフレートはまっすぐ立ち、ただ私だけを視線で射抜いていた。車輪が音を立てゆっくりと動き出すなか、私はいつまでもいつまでも、その姿が白い煙の彼方に溶けて消えてしまっても、手を振り続けた。

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