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帰る場所と幕の向こう

 劇場のそばの並木道は夕陽に照らされ、舗道の石が金色に輝いていた。公演の入れ替えの時期なのだろう、賑やかな雰囲気があたりに満ちている。私はその空気が好きで、帰り道にはついこのあたりまで散歩にきてしまう。

 入り口の近くでは、若い男性が束ねられた紙束を胸に抱え、熱心に客引きをしていた。彼が「どうぞ、今季の新作です」と差し出したその一枚を受け取った瞬間、息が止まってしまった。


「……えっ」


 隣国──ルシェーヌで大評判のあのオペレッタが、ついにこの国でも初上演されるという知らせ。そして演目名のさらに下、出演者の欄の懐かしい名。


 主演、ラウル・ド・ヴァロワ。


「ラウル……!」


 あの留学時代、誰よりも色濃く私の記憶に残っている人。私にオペレッタという世界の楽しさを、体ごとぶつけるように教えてくれた人。嬉しさが波のように広がり、私はそのまま家まで駆け出していた。


「アルフレート、帰ったわ!」


「おかえり、エリザベート。ずいぶん早いね。……それに、何だか嬉しそうだ」


「聞いて。じゃなくて……見てほしいの。ほら、これ」


 はやる気持ちが抑えきれず、勢いよく紙を差し出す。アルフレートは椅子から少し身体をずらし、私をそばに引き寄せるようにして隣に座らせてくれる。 


「劇場の前で配っていたの……読んで、ここの名前」


 私が示すとアルフレートは全体をざっと目で追い、それから私の指先に視線を落とした。


「……ラウル・ド・ヴァロワ。ごめん、知らないな。有名な人?」


「あのね、留学中にすごくお世話になった方なの。私にオペレッタを教えてくれたのよ。彼は芸術を愛していて、私たちは同じ夢を見ていたの」


 口にした途端、懐かしい光景が次々と浮かび上がる。埃っぽい稽古場、夜遅くまで灯っていたランプ、楽譜を挟んで向かい合った時間。


「……また会えるなんて思わなかった。この国で、彼が主演のオペレッタを観られるなんて」


 アルフレートは一瞬だけ考えるような顔をしてから、穏やかに笑った。


「だったら観に行こう。一緒に」


「いいの?」


「君がそんなに喜んでるのに、置いて行かれるほうが嫌だ」


「寂しがりなのね」


「うん、そうだよ」


 あまりにも気負いなく言われて、どう反応すればいいのかわからなくなる。からかわれたような、でも大事にされたような、不思議な気分だった。だから私は結局、素直に心のままの言葉を伝える。


「ありがとう、嬉しいわ。本当に……すごく楽しみよ」



 ◆



 当日は楽しみで仕方がなくて、気がつけば開場と同時に劇場の中へ足を踏み入れていた。扉をくぐった瞬間の空気と、靴音が反響する感覚は何度経験しても胸が高鳴る。チケットを確かめながら通路を進み、記された番号の前で立ち止まる。


「ここね」


 二人分、きっちり並んだ座席に腰を下ろすと、視界の先に舞台が広がる。まだ幕は下りたままで、客席は落ち着かないざわめきに包まれていた。座席に置かれていた紙束を手に取って、私は思わず声を上げそうになる。


「……翻訳されたリブレットだわ」


「へえ、親切だね」


「留学していた頃ね、いつか母国でも上演してほしいって思ったことがあったの。でも言葉が違うから、楽しめる人は限られてしまうでしょう? だから……」


 ページをめくりながら、自然と留学時代の記憶が立ち上がってくる。


「こんなふうに解決できるなんて、思っていなかった」


 客席を見回せば、正装の人もいるけれど、肩の力の抜けた服装の人も多い。年齢も身なりもまちまちで、それでも皆、同じ方向を見つめている。


「……チケットも手頃だし、普段着で来ている人もいる。向こうと同じだわ。誰でも同じ劇場に来られて、同じ舞台を見られるの。……この国にも、こんな時代が来たのね」


 言葉が止まらなくて、気がつけば私は留学先の劇場のことや初めて観たオペレッタの衝撃、ラウルとのお稽古に彼の舞台への情熱まで、次から次へと話していた。アルフレートはそれを止めることもなく、「そうなんだ」「へえ」と短く相槌を打ちながら聞いてくれる。

 その途中で彼は少しだけ前に身をずらし、座高を低くしていた。後ろの人の視界を遮らないようにしているのだと気づいて、内心で感心する。けれど同時に別のことも目に入ってしまう。脚が少し窮屈そうで、腰の位置もなんだか落ち着かない。


「……無理をしていない?」


「ん?」


「腰を痛めそうだわ」


「ああ。まあ大丈夫だよ」


 どう見ても大丈夫な座り方じゃないけれど、本当に何でもないことのように言うから、それ以上は何も言えなくなる。

 背の高い人は舞台に立つと本当に映える。留学中に会った役者たちも皆そうだった。でもこうして客席に座っている姿を見ると、別の大変さがあるのだと妙に現実的なことを考えてしまう。


 けれど一度幕が上がれば、私はもう舞台に釘付けになってしまった。編曲は大胆で、テンポも呼吸もずっと洗練されている。踊りと歌のつなぎは滑らかで、台詞の間合いも軽やかだった。昔観たオペレッタを思い出しながら、それでも懐かしいだけでは終わらない新しさに何度も目を見開く。

 ずっと圧倒されっぱなしで、幕間の拍手が鳴りやむ前から、私はアルフレートのほうを向いていた。


「ねえ、今の構成すごいと思わない? 一幕で全部説明してしまわないで、観客に考えさせるでしょう」


「うん、なんとなくわかる気がする」


「それに合唱の人たちも背景じゃなくて、ちゃんと登場人物として生きていたわ。ああいうの、すごく好きなの」


 自分でも呆れるくらい、口が止まらない。アルフレートは相槌を打ちながら、ときどき舞台のほうを振り返って、「確かに」「そこは気づかなかった」と短く返す。その温度がちょうどよくて、私は安心して喋り続けてしまう。


「……楽しい?」


「ええ、とっても」


 不意に尋ねられて、私は間髪入れずに頷いた。それだけで十分だとでも言うように、アルフレートは小さく笑ってまた前を向いた。


 終演後の拍手は長く続いて、何度もカーテンコールが繰り返された。ラウルが姿を現すたび、客席から歓声が上がる。留学先で見ていた彼よりもずっと堂々としていて、本当に遠くまで来たのだと思った。


 終演後のざわめきに紛れて、そろそろ帰ろうかとアルフレートと顔を見合わせたところだった。突然、後ろから声をかけられる。


「失礼ですが、エリザベート・フォン・ローゼンハイネ様でしょうか。主宰がお呼びです」


「えっ?」


 状況を理解する間もなく、私たちは通用口から裏へ案内されていた。足音が響く廊下を進んで、扉が開いた瞬間。


「エリザベート!」


 弾んだ声と一緒に、懐かしい顔が飛び込んでくる。衣装の一部を脱いだだけの姿で、満面の笑みを浮かべている。


「やっぱり君だった! 客席にいるのが見えて、まさかと思ったんだよ」


「わ……!」


 言葉を整える間もなく、ラウルが迷いなく腕を伸ばしてくる。次の瞬間、胸に顔が当たって、背中をぽんぽんと叩かれた。ああ、彼はこういう人だった。再会の仕方まで、記憶の中と少しも変わらない。


「元気にしてた? 本当に久しぶりだ」


 勢いに押されながらも思わず笑ってしまう。突然で騒がしくて、でも嫌じゃない。舞台の上とは違う、少し汗を含んだ息づかいも、距離の詰め方も、あの頃のままで懐かしい。


「ラウル、あなたこそ……」


 そう言いかけたところで、腕を引かれた。少しだけ力が強くて、驚いて顔を上げる。引き寄せられた先にはアルフレートがいて、何食わぬ顔で私の腕をしっかり掴んでいた。


「おっと、失礼」


 ラウルは一拍遅れて状況を飲み込み、はっとしたように手を離す。一歩分距離を作って、それから何事もなかったかのように笑った。


「舞台、どうだった?」


「……素晴らしかったわ。言葉も違うのに、置いていかれなかった」


「それなら大成功だ」


 ラウルは即座にそう言って、満足そうに頷く。その反応が嬉しくて、私はもう少し舞台の話を続けたくなる。間の取り方や合唱の重なり、物語の運び方。留学中に何度も交わしたやりとりがそのまま続いているみたいだった。


「ちょっと、本当に本人だったの?」


 そのとき、後ろからかかった声に空気がふっと変わる。ラウルから視線を外し振り向くと、そこに立っていたのは、やっぱり記憶のままの彼女だった。


「……ミレイユ!」


「久しぶり。相変わらず落ち着きがないわね」


「あなたも相変わらず遠慮がないわ」


「褒め言葉ね」


 そう言いながら、ミレイユは私の隣へと視線を滑らせた。ほんの一瞬、観察するみたいにアルフレートを見る。


「で、横の苦労が顔に出てる人、どなた?」


 あまりにも率直な言葉に、場の空気が一拍遅れて追いつく。アルフレートは一瞬きょとんとした顔をしてから、困ったように、けれど面白がるように小さく笑った。ミレイユの早口の異国語が耳を滑るように過ぎてから、意味が少し遅れて胸に落ちたのだろう。


「えっと、夫よ。アルフレートです」


 私も笑って、手のひらで示しながら紹介する。けれど、ラウルとミレイユは同時に動きを止めてしまった。声も、表情も、そのまま固まる。


「ちょっと待って。結婚したの? なんで言わなかったのよ」


 ミレイユが声をあげて、腕を指先で突っつかれた。力は大したことないけれど、勢いが強くて小さく声が出る。


「ご、ごめんなさい……」


 そう言いかけた私を置いて、ミレイユはすでに話を進めていた。今度はラウルのほうを見て、妙に納得したように頷く。


「なるほどね。この人がいたから、あんた振られたのね?」


 前触れもなく、とんでもない一言が飛んできた。私が反応する前に、ラウルが力の抜けた様子で手を振る。


「いやいや、昔の話だしもう吹っ切れてるんだ」


 次いで私とアルフレートを順に見て、にっこり笑う。その軽快さが、かえって状況をややこしくしている気がする。


「むしろエリザベートが幸せそうで良かった。……ただ、できれば教えてほしかったな。友達だろ?」


 責めるというより、少し拗ねたような言い方だった。今度こそちゃんと謝らなくては、と思って、けれど「ごめんなさい」と口に出るより先に、横から低い声が落ちてきた。


「……ん?」


 アルフレートだった。今まで黙って私たちのやり取りを聞いていた彼が、首をわずかに傾ける。


「……振られた? どういう意味?」


 声の調子はいつもと変わらない。顔も、たぶん普段通り。でも問いの切れ味だけがやけに鋭くて、私は一気に言葉を失う。


「えっと、あの、それは……」


 頭の中で説明を組み立てようとするけれど、どれも余計な一言がくっついてきて、何を話せばいいのかわからない。いつの話から始めればいいのか、そもそもどこまで話すべきなのか、考えれば考えるほど視線が宙をさまよう。


「あ、もしかして言っちゃダメだった?」


「そうみたいだ」


 今さら気づいたようにミレイユが首を傾げて、ラウルも頷いた。二人で顔を見合わせていて、その息の合い方が余計に腹立たしい。


「帰ったら、ゆっくり聞かせてもらえる?」


 アルフレートは穏やかな表情のままそう言った。責める調子でも、問い詰める様子でもない。


 ……けれど、ほんの少しだけいつもより間が長い。


 何も荒げていない分、逆に分かってしまう。これはきっと、椅子に座ってお茶でも淹れて、本気で聞くつもりだ。

 私は口を開きかけて、何も言えずに閉じる。そして、とてもお行儀よく頷いた。その様子を見て何かを察したのか、ラウルがわざとらしく手を叩く。


「さて、暗い話はここまで。せっかくだし、会わなかった間のことでも話そう」


 場の流れが強引に切り替わる。ラウルは今、各地の劇場から声がかかっていて、次の演目もすでにいくつか決まっているらしい。


「忙しそうね」


「ありがたいことにね。でも、今が一番楽しいよ」


 ミレイユはというと、王立バレエ団に正式に所属しながら、こうして外部の舞台にも呼ばれているという。


「依頼が来たら、内容次第。王立バレエ団のバレリーナが踊れない舞台に出る気はないもの」


 相変わらず彼女は潔かった。そうして一通り話したあと、ラウルがふっと表情を改めた。さっきまでの軽さが引き、なんだか真面目な顔になる。


「実はさ、エリザベート」


 空気が嘘みたいに変わって、私は背筋を正した。


「来季のオペレッタに出演してほしいんだ」


「……え?」


「主演じゃなくていい。君の声がほしい。二ヶ月ほど、こっちの国に滞在してもらうことになるけど」


 一拍遅れて意味が頭に届いて、呼吸がひっくり返る。嬉しい、という気持ちは確かにある。でも、それ以上に話が急すぎた。


「舞台人にとっては悪くないでしょ。むしろご褒美よ」


「それは……そうだけれど……」


 ミレイユの言葉に、理解も追いつかないまま私は考え込んでしまう。二ヶ月。二ヶ月も……。


「で、どうするの? 行く? 夫、置いて」


 二ヶ月も、アルフレートを置いて?

 そう思った瞬間、私は完全に固まってしまった。口が閉じてしまって、何も言えない。


「ねえムッシュ。二ヶ月ってそんなに長く感じる?」


 今度はアルフレートに向き直って、ミレイユが尋ねた。アルフレートは少し考える素振りをしてから、淡々と答える。


「……長いかな。毎日エリザベートの大騒ぎの相手をするのに慣れてしまったから」


「いい答え。優秀」


「お、ミレイユが褒めるなんて珍しいよ。判断の基準はよくわからないが」


 三人の楽しそうなやりとりを、私は呆然と眺めていた。一人きりで取り残されていると、ラウルが私のほうへ一歩近づく。


「急がなくていい。すぐに返事が欲しいわけじゃないんだ。君が帰る場所を持ったことも分かってる」


 そう言ってから、私の肩に軽く手を置いた。昔と同じ、距離の取り方。


「でも、また同じ舞台に立ちたいのは本心だよ」


 ……また向こうの舞台に立てる。留学中、あの国でしか学べなかったこと。歌い方も、間の取り方も、舞台に立つ姿勢も。思い返せば、あの時間が今の私を形作っている。

 今からだって、また新しいものを吸収できる。そのすべてが、私を前に進めてくれるはずだ。


 ……でも。


 私は、無意識のうちにアルフレートのほうを見ていた。彼は今度はすぐに反応せず、私とラウルの会話を静かに聞いている。意味を追いながら、表情を崩さない。その沈黙が、余計にいろいろなことを想像させる。


 二ヶ月は短いようで、決して短くない。そのあいだ、私はいない。アルフレートを、この国に置いていく。


 夢のために?


 それは、本当に必要な選択なの? それとも、ただのわがまま?


 ルシェーヌの舞台に立ちたい。でもそれと同じくらい、今の生活を大事にしたい。どちらも本心で、どちらも嘘じゃないからこそ、答えが出ない。私は両手をぎゅっと握りしめて、曖昧に笑った。


「……少し、考えさせて」


 ラウルはそれで十分だと言うように頷き、ミレイユは「まあそうなるわよね」と肩をすくめる。三人の会話はまた別の話題へと流れていったけれど、私の中では、さっき投げかけられた問いだけが、ずっとその場に置き去りにされていた。




改稿のお知らせ


第四幕を改稿しました♩♩

結末や大きな流れは同じですが、途中の展開はいろいろと手を入れています。


もともとは二人の身分差や恋愛模様を中心に描いていたので、本筋はわりとすんなり苦労せずに進む展開でした。

ただ読み返して、十九世紀が舞台で、芸術家の女性主人公の話としては引っかかるところが出てきてしまって、結局直すことにしました。


すでに読んでくれていた方には、展開が変わってしまってごめんなさい。それでも、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

ネット小説ですし、気軽に楽しんで読んでもらえたら一番うれしいです!


ついでに活動報告にも番外編を一編のせています♩♩

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