潮風の寄り道通り
グラウハーフェンの表通りは活気づいていて、昨日よりも少しだけ明るく見えた。昼の陽射しが白い石畳に反射して、歩くたび靴の先にきらめきがついてくる。
海沿いの通りには色とりどりの店が軒を連ね、歩くたびたくさんの看板が視界に飛び込んできた。木枠の看板に描かれた魚、手書きの菓子屋の文字、布の旗が並ぶ雑貨店。
道をゆく人たちは観光客も地元の人も混ざり合い、笑い声があちこちからこぼれている。そのあいだを三毛猫が尻尾を揺らしながらすり抜けていくのも見えて、「かわいい」と声を上げてしまった。
「トルテへのお土産、何にしようかしら」
そう言いながらも、目に入るものがどれも魅力的でまっすぐ歩くのさえ難しい。
お土産を探しに来たはずなのに、最初に足を止めたのはチョコレートの専門店だった。扉を押すと甘い香りがあふれ、奥の棚にはドライフルーツやナッツが散りばめられた板チョコがずらりと並んでいる。ガラス越しの光に粒がきらりと光って、まるで宝石箱を覗き込んでいる気分になる。
「このベリーのチョコ、美味しそうだわ……あ、こっちのオレンジも」
「まだ悩んでる」
「だってぜんぶ美味しそうなんだもの」
呟いた自分の声が店の甘い空気に溶けていく。見惚れていると隣からアルフレートが顔を寄せてきて、同じガラス越しの棚を覗き込む。
「じゃあ全部買って、あとで後悔した分は僕が引き取るよ」
「後悔しないわ」
「それならなおさら全部買えばいい」
そうは言われてもやはりためらいが浮かんでしまう。けれど彼の声色には迷わせる隙がなくて、逡巡は本当に一瞬だけだった。
「……じゃあこれと、これと、これ」
「早いな」
チョコレートを包んでもらって店を出ると、すぐ近くから甘い生地の焼ける香りが流れてきた。振り向けば鉄板の上でワッフルがこんがり焼けていて、外側が金色に光っている。
その隣のベーカリーにはサーモンの燻製をたっぷり挟んだバゲットサンドが並べられていて、頬張ったときのことを想像するとつい足が止まってしまう。
「……どうしましょう」
ワッフルの甘い香りも魅力的だし、サーモンの方も絶対に美味しい。けれどお腹には限りがあって、全部を選んだら確実に食べきれない。迷って立ち止まっていると、また横から声がした。
「好きなだけ選べばいいよ。残ったら僕が食べるから」
ひと言でまた背中を押されてしまって、本当に好きなだけ買った。ワッフルもバゲットサンドも、そしてさっきのチョコも両手の紙袋の中で揺れて、歩くたびに香りが潮風の中に漂う。
海沿いのベンチに腰を下ろし、まずワッフルを半分。熱をまだ抱いた生地の甘さが広がって、その一瞬で満たされる。バゲットサンドも一口かじって、燻製の香りの深さに思わず目を細めた。
けれど、三種類のチョコレートを二欠片ずつ味わったところで手が止まる。結局私がお腹に入れられたのはほんの半分で、気づけばすべてがきれいに半分ずつ紙袋の中に戻っていた。
「……その……これ、よかったら食べて」
怒られるかもしれないという気配が胸の中でほんの少しだけ震える。けれどアルフレートは、受け取った途端にお腹の底から笑った。
「いいよ、任せて」
そう言うと、ワッフルの残り半分を一口で食べてしまった。驚きのあまり思わず身を乗り出す。
「……えっ、いまの、どうやったの?」
「どうって?」
「どうやって一口で食べたの?」
「普通に」
あっさりと言われて、思考が一瞬止まった。私よりずっとたくさん食べる人だとは思っていたけれど、まさかそんな芸当ができるなんて。
「ぜんぜん普通じゃないわよ」
「君の一口が小さいだけだと思うけど」
あまりにも自然に返されて反論どころか笑ってしまう。バゲットサンドの残りも二口であっけなく消えてしまい、包み紙だけが風に揺れた。
気持ちがいいほどの見事な食べっぷりに、ふと胸の奥で企みが芽生える。
……これなら、まだ気になるものを見つけても大丈夫かもしれない。
視線の先にはまた別の店の看板が揺れていて、新しい香りが風に流れてきた。通りはまだまだ続いていて、寄り道の余白はいくらでも残っている。
紙袋が軽くなると、足取りも軽くなる。道の先には雑貨屋の看板が出ていて、木でできた小舟や灯台の置物が窓越しに並んでいた。店に入ると手作りだという石鹸の香りが漂って、柑橘とハーブの香りが混ざり合う。
棚の端で、ふと小さな赤いものが目に留まった。ちょこんとした目と丸いはさみのついた、エビのぬいぐるみ。
「あ……これ、トルテが喜ぶかしら」
あの子はぬいぐるみをよく持ち歩くし、最近のお気に入りはくたびれて縫い目がほつれてきていた。それが少し気になっていたから、こうして新しい子を見つけられたのが嬉しかった。
「喜ぶよ。あの子、なんでも喜ぶからね。紙袋でも喜ぶよ」
「たしかに……」
紙袋の取っ手を噛んで遊んでいた姿を思い出して思わず笑ってしまう。すると、彼は少しだけ声を落として言った。
「それに、君が選んだものなら間違いない」
その言葉が、なんだか胸の奥で真っ直ぐ響いた。褒められたというより信頼そのものを手渡されたみたいで、自然と姿勢が伸びてしまう。
「そうね、トルテは絶対に気に入るわ」
少し得意げになった自分を自覚しながら、お会計を済ませてお店を出る。潮風が紙袋の端を揺らし、通りの喧騒がまた耳に戻ってきた。
緩やかな傾斜を下りきると、建物の隙間から海のきらめきが覗き始め、やがて視界がぱっと開けた。港に白い船体が並び、波が岸壁に寄せて返して陽の光を細かく砕いている。
「ちょうど遊覧船が出るみたいだ。人が集まってる」
アルフレートが指さした先で、小さなベルが鳴った。私はその音に背中を押されたみたいに振り向く。
「ねえ、乗りましょう? 私、船をこんなに近くで見るのも初めてなの」
「じゃあ行こう。君がそんな顔してるなら、乗らない理由はない」
桟橋に近づくと潮の匂いが濃くなり、足元の木板が湿り気を帯びてきしむ。遊覧船はこぢんまりとしていて、船内には白い木のベンチがいくつか並んでいた。
船がゆっくり桟橋を離れると同時に、体がふわりと沈んだり浮いたりする。思ったより強い揺れに、つい横の腕に手を伸ばしてしまった。
「……これ、思っていたより揺れるのね」
「さっきまで全然怖くないって言ってたのに」
「言ったかしら?」
「言ってたよ。はっきりとね」
アルフレートが肩を震わせて笑う。悔しいけれど、揺れるたびに彼の腕を掴んでしまう私には反論の余地がない。
それでも数分もすれば慣れてしまって、小さな不安は波に揉まれるようにだんだん薄くなっていく。そうなるともう、揺れよりも外が気になって仕方がない。
甲板に出ると風景は一気に開け、港全体を見渡せるようになった。波は穏やかで晴れた日の陽光を細かく砕きながら揺れていて、人々の賑やかさが海に溶けて心地よい。
柵に近づいて身を預けるように覗き込むと、まぶしいほど青くて、果てが分からないほど広い光景が広がった。陽が差す場所は銀に、影になるところは青に沈み、船の揺れに合わせて色が混ざって溶けていく。
けれど後ろからそっと肩を掴まれて、軽く引き寄せられるようにして一歩分戻される。強くはない、でもそこまでだと言われているのが分かる手つきだった。
「エリザベート、前に出すぎだ」
耳元に落ちる声は普段なら嬉しくなる距離なのに、今日は理由が理由なのでほんのわずかに不満が湧き上がる。前のめりになりがちなのは自覚があるけれど、船から落ちるようなことはしない。
「大丈夫よ、そんなに無茶しないわ」
「君は景色に夢中になると、踏み出す距離のことを忘れるから」
言い返そうとして、口が止まった。風を受け続ける海面に目を落とすと、暗くて深さがよく分からない青をしている。とてもきれいだけれど、たしかに心細くもあった。勢いよく揺れれば危ないのは本当で、もう文句を言う気持ちはどこかへ消えた。
それから船は灯台の近くを回ったり、入り江の前で少し速度を緩めたりしながら、ゆったりと航路を進んだ。私もいつのまにか揺れにすっかり慣れて、船の動きを読むみたいに体を揺れに合わせてみる。
「ほら、平気になったでしょう?」
「本当だね。最初の五分は必死だったのに」
「忘れてくれないかしら」
「忘れないよ」
日が傾き始める頃、船はゆっくりと港へ戻り始めた。船が岸に触れてきしむ音がして、乗客が一人ずつ降りていく。タラップの上に足をかける瞬間、ほんの少し高さの違いで体がぐらりとした。
すると当然のようにアルフレートの手が差し出される。しっかりした温かさが指先から伝わってきて、足が着いても彼は手を離さずに、段差を全部降りるまで支えてくれていた。
夕陽がゆっくりと海へ沈んでいくにつれて、空は幾層もの色を重ねながら深まっていった。橙と薔薇色が境目を失い、薄紫が滲むように広がり、光の粒が海面にこぼれるたびにさざ波のひとつひとつが淡く染まる。
夕食まで少し時間がある、と気づくと、胸の奥からひとつ願いが浮かび上がった。
「ねえ、私、波打ち際を歩いてみたいの」
言うと、アルフレートは短く息を吐いて笑い、うなずいてくれた。港から離れると観光客の姿もまばらになり、しんと静まった砂浜に出た。海風はひんやりしていて、そのたびにドレスの裾や髪の先をやわらかく揺らす。
ずっと憧れていた光景を前にして、胸の高鳴りを抑えることなんてできない。私は靴を脱ぎ、手で裾を少し持ち上げて砂のうえに足を下ろす。
「エリザベート、足を出すのは……」
「誰もいないもの、いいでしょう?」
アルフレートの困ったような声を受け流しながら、私は波のすぐそばを歩き、濡れた砂を踏む感触を確かめ続けた。波の白い筋が足もとでほどけ、陽が沈む前の最後の光が水面を金色に散らす。
押し寄せては戻っていく小さな波が足首に触れるたび、くすぐったいほど冷たかった。私のはしゃぎように、アルフレートは呆れたように笑う。
「子どもみたいだ」
「子どもの頃、ずっとこうしてみたかったの」
砂に足を埋め、波と遊ぶ。そんなささやかな願いすら許されなかった幼い日のことが思い出される。立場や周囲の視線が背中について回って、いつも私を縛っていた。
「私はずっと私だもの。ようやく好きにしていいって教えてくれる人がそばにいるだけ」
言った瞬間、ひときわ高い波が足元に押し寄せる。
「わっ……!」
冷たい水が膝まで跳ね上がり、砂が崩れて体がぐらりと傾いた。視界が一瞬揺れ、足が取られかけたその刹那、アルフレートの手が強く背中と腕を支えて、私を引き寄せる。
「大丈夫?」
思わず彼の胸にしがみつく形になって顔を上げると、そこにはほっと息を漏らすような表情があった。心配で眉がわずかに寄っていて、でも私が笑った瞬間、緩むようにほどけていく。
「そんな顔をするほど心配してくれたの?」
「したよ。君が突然飛んでいくかと思って」
「飛ばないわ」
「今日の君なら飛んでいってもおかしくない」
彼はそう言って、小さく安堵の息を漏らしながらそっと私の片腕を離した。だけど背中に置かれた手だけは、その場に残るようにゆっくりと下がっただけで離れなかった。
ふと、風がいたずらのように髪を前へ流した。頬に触れるほど乱れた後ろ髪を、アルフレートが迷う気配もなく指先で拾う。
指が私のこめかみに触れ、耳の後ろへ髪をかけ直してくれる。海風の冷たさとは違う、やわらかい体温がかすかに残る。
「……風が強いから、君の顔がよく見えない」
低い声の響きに心臓がほんの少し跳ねた。視線を逸らそうとしたけれど、頬に添えられた指がその動きをそっと止めてしまった。逃がしたくないと言うほど強くない。けれど、離れてほしくないと伝わるくらいには抗えない力で、呼吸が少しだけ浅くなる。
距離がゆっくり縮まって、指先とは違う、もっと近い温度が触れた。どちらが触れにいったのか、曖昧なまま一瞬だけ離れて、そしてまたすぐに引き寄せられた。腰に回った腕の力が少しだけ強くなる。そこに込められた思いが、言葉よりずっとまっすぐに伝わった。
「……外でこんなことする人じゃないのに」
「誰もいないって君が言ったから」
波の音がゆるやかに寄せては返すのを聞きながら、二人で腰を下ろした砂浜はまだ陽のぬくもりを残していた。潮の匂いと風の音が混ざり合うこの場所は、街とは別の時間が流れているようで、まるで宝物みたいに思えてしまう。
雑貨屋で見つけたポストカードを膝に置き、私はそっとペン先を紙に触れさせる。帆に風を受けて今にも進んでいきそうな船の絵が描かれたもので、見つけた途端に一目で気に入ったものだった。
——トルテを預かってくれてありがとう。
その一行を書いたとたん、隣で影が動いた。覗きこんできたアルフレートが、声を上げるほどではないけれど苦笑に近い笑みを洩らす。
「……それで、君のご両親は本当に“快諾”してくれたの?」
「ええ、もちろんよ」
そう答えながらも、内心では少しだけ言葉に詰まる。あのときの母の表情を思い出すと、どうしても快諾というよりは覚悟という言葉の方が近かった気がする。けれど二人で旅行に行くのだと話せば、わずかにため息をついてから承諾してくれたのだ。
——アルフレートは相変わらず優しくて、頼りになる夫です。
文字を書いた瞬間、頬が少し熱くなる。けれど嘘ではないから訂正する気にはなれなかった。
「ほんとなんだから」
そうつぶやくと、隣で砂に手を埋めていたアルフレートが肩を小さく揺らして笑った。風に髪を揺らされながら、彼はしばらく紙面をのぞき込み、それから何気ない調子で言った。
「僕も君への手紙を書こうかな」
「えっ?」
思いがけない言葉に手が止まり、ペン先がカードに小さな点をつけてしまった。彼は砂を軽く払った手つきのまま、特別なことでも言ったわけではないというように平然としている。
「同じ旅の途中で書くほうが、あとで読み返したらきっと楽しいよ」
そんな調子で言われたら、もう何も言えなくなる。陽が落ちかける境目の時間は、人の心までゆっくりと緩めてしまうらしく、私は胸の内に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまった。
「……大人になるって、素敵なことね」
「どうして?」
「どこへでも行けるからよ。自分で自由に決めて、好きなところへ行けるの。好きな人と一緒に」
言いながら、今日一日の景色が胸に広がる。店先の甘い匂いも、港に響く船の汽笛も、遊覧船の揺れに少し怯えた自分も、全部まるごと、私が選んだ場所で、私が選んだ人と過ごした時間だった。
「新しい線路ができるのが楽しみなの。次はどこへ行こうかしら……もっと北でも、山でも、外国でも。どこでもいいわ。きっと、どこへ行っても楽しいもの」




