休日はあなたのために
冬には毛玉のように小さくて、掌に収まるほど頼りなかった子猫は、春の光の下ではもうすっかり形の整った小さな猫になっていた。
ふわふわした産毛は艶のある柔らかな毛並みに変わり、瞳の輝きも以前よりずっと強く、活発さが全身からあふれ出ている。
私は部屋の床に膝をつき、揺れる毛糸玉を転がしながらその俊敏な動きを目で追っていた。小さな前足で軽やかに毛糸玉を捕まえ、背を弓なりにして跳ねる様子が愛らしくて、笑い声がこぼれてしまう。
トルテ・フォン・アプフェルクーヘンは、結局のところ長すぎて「トルテ」と呼ぶのが習慣になっていた。
呼び名を縮めてしまうのなら、やっぱり私の考えた「マクシミリアン」にしておけばよかったんじゃないかしら、とある日こぼしたら、アルフレートはあきれた顔で「どうせ君はマクシミリアンでもすぐにマックスって呼ぶんだろう」と返してきた。私は思わず笑って、確かにその通りだと頷いた。
この数週間、私はオペレッタにかかりきりで、ほとんど家にいられなかった。帰っても舞台のことばかり頭にあって、気がつけばトルテと遊ぶ時間さえろくにとれずに過ぎてしまった。
だから今、こうして心ゆくまでじゃれ合えることが、ひどく嬉しくて仕方ない。毛糸玉に飛びかかる小さな身体を抱き上げ、胸にぎゅっと押し寄せてみると、トルテは嫌がりもせずゴロゴロと喉を鳴らした。その温もりが胸の奥に沁みて、ようやく私は日常を取り戻せたような気がした。
アルフレートとも今度の休日には出かける約束をしている。それが心の中にあるだけで、日々の慌ただしささえ軽やかに過ぎてしまって、気づけば自然に頬が緩んでしまうのだった。彼と連れ立って街を歩くことは、私にとってかけがえのない楽しみになっていた。
街にはこれまで知らなかったものが本当にたくさんあって、歩を進めるたびに私の好奇心は新しく芽吹いていった。
石畳を歩けば、道端に咲く花の名を知りたくなる。広場で人々の声を聞けば、その暮らしぶりをもっと覗いてみたくなる。
視界に映るすべてが新鮮で、驚きと憧れが絶え間なく胸に湧き上がり、私はつい夢中になってしまう。
——けれど。ふと思い返せば、これまで一緒に外へ出るたび、必ずといっていいほど彼は私に尋ねてくれる。どこへ行きたいか、何を見たいか、どんなことをしたいか——だから私は、ついあれもこれもと望みを口にしてしまうのだ。
……彼は決して不満をもらすことはないけれど、本当にそれでいいのだろうか。アルフレートが行きたい場所は? 彼が本当に見たいものは?
私がせがんだからではなく、彼自身の心が動いた先にあるものを、私はきちんと知ったことがあっただろうか。
窓辺で戯れるトルテの姿を眺めながら、そんなことを思った。猫は気ままに駆けまわり、ときにこちらへすり寄ってきて、ただ無邪気に愛情を示す。その姿は可笑しいほど素直で、見ているだけで心が和らぐ。
けれど私がアルフレートにしているのは、まるでこの猫のように、自分本位な甘えと欲望ばかりではないのかしら。
◆
「次の休日は、あなたの好きなことをしましょう」
その日の夕食の席で、そう口にしたときのアルフレートの表情を、私は今もはっきりと思い出す。驚いたように目を瞬かせ、それから少し困ったように黙り込んでしまったのだ。
「なんでもいいのよ、あなたのしたいことなら」
私は微笑んで続けたけれど、それでもすぐには答えが返ってこなかった。普段は私の気まぐれに即座に応じてくれる人だからなんだか新鮮で、私はそのまま真面目に考え込むアルフレートをしばらく見つめていた。
——そして迎えた休日。私たちは王都の郊外、エーレ学院の麓に広がる小さな街を歩いていた。
石畳の路地は、私にとっても懐かしい場所だった。坂道の両脇には小さな菓子屋や雑貨屋が肩を寄せ合うように軒を連ねていて、つい足を止めてしまいそうになる。けれど今日は寄り道せずに、きちんとアルフレートの歩調に合わせて歩いていた。
やがて彼が立ち止まったのは、街角に構えた本屋だった。軒先には布のひさしがかかり、木の看板には古びた文字で店の名が刻まれている。窓越しに覗くと本の背表紙が整然と並んでいて、思わず胸が弾んだ。
扉を開けると、乾いた真鍮の鈴が澄んだ音を響かせる。アルフレートが中へ入り、私もそのあとに続いた。
「おや、アルフレート」
奥から姿を現した店主が、気さくな声で彼の名を呼んだ。年配の優しげな男性は笑みを浮かべ、旧友にでも会ったかのような声色をしている。アルフレートも自然に笑みを返し、手を差し出した。
「久しぶりじゃないか、相変わらず本ばかり抱えてるのか?」
「ええ、昔と変わらずです」
「君が学生のころは、毎週のように来てたな。新作を置けば、真っ先に顔を出したのは君だった」
……なるほど、ここは学生時代からの行きつけのお店なのね。彼の学院時代の息遣いがまだこの街に残っているのだと気づいて、胸が少し熱くなる。
「ところで……」
店主の視線がふと私に移った。少し意外そうに目を細めてから、軽く首を傾けて問う。
「隣の別嬪さんとは、どういう関係なんだ?」
アルフレートはほんの少し口元を緩めて、ためらいなく言った。
「妻です。昨年結婚しました」
その言葉に店主の顔がぱっと明るくなる。驚いたように私とアルフレートを交互に見やって、にやりと笑うとアルフレートの肩を小突いた。
「アルフレート、勿体無いくらいの人を射止めたな」
「僕が射止められたんですよ」
間を置かずに返された涼やかな言葉に、私は思わず目を瞬いた。私が射止めた、だなんて。けれどそう思うとなんだか気分が良くて、一人でこっそりと笑った。
やりとりのあと、アルフレートは店内を迷うことなく奥へ進んでいった。どうやら棚の並びを知り尽くしているらしい。私は普段なら目移りしてあちこちにふらふらしてしまうけれど、今日ばかりは彼の隣から離れなかった。
法学や政治学の棚に辿り着いたときには、目に飛び込んでくる難解な題名に思わずくらくらしてしまって、理解することは早々に諦めた。
その代わり、私は棚を見やるアルフレートの横顔を眺めることにした。静かな眼差しと背表紙をなぞる指先に、昔から賢い人だったと、ふと学生時代のことを思い出す。
やがて小説の棚に移ったときには、私はつい夢中になってしまった。色鮮やかな装丁や心を惹かれる題名が並び、指先が物語の断片を追いかけてしまう。
けれどふと視線を感じて顔を上げると、いつの間にか棚を見終えたアルフレートが、黙ってこちらを見ていた。今日は彼の好きなことをする日だというのに、これではいつもと同じになってしまう。慌てて手にしていた本を棚に戻し、彼のあとを追った。
アルフレートはいくつか気に入った本を見つけたようで、手に取って腕に抱えていた。私は迷った末に一冊の小説を大切に選び取り、二人で並んでお会計をすませた。店主は笑顔で送り出してくれて、私たちは扉を押し、春の光の下へ出た。
本屋を出たあと、アルフレートは「川辺で本を読むのが好きなんだ」と言った。王都を大きく横切る川の、きらきらと光をはね返す水面を思い浮かべて、私も自然に頷く。
春の風は心地よく、川面を渡るたびに涼やかな香りを含んで頬に触れた。アルフレートと並んで歩く道は、どこへ続いていても構わないように感じられる。そんな気分のまま、私たちは並んで木のベンチに腰を下ろした。
アルフレートはすぐに本を取り出し、ページを繰り始める。指先に紙を挟む仕草は昔からの癖なのだろう、迷いもなく自然で、呼吸するように読み耽っていた。
私はといえば、膝の上に置いた本にほとんど目を落とさず、ただ彼の横顔を盗み見るばかりだった。少し伏せた睫毛が風に震える様子や、時折わずかに動く唇、その集中した面差しに見惚れてしまって、気づけばページを開いたまま動けなくなっていた。
夕暮れが近づいた頃、私たちは少し歩いて、煮込み料理が絶品だと評判のお店へ足を運んだ。
家で食卓を囲むとき、アルフレートはいつも私の好みに合わせて、濃厚なクリーム煮を作ってくれる。けれど、彼自身は実は透き通るようなコンソメ仕立てを好むことを私は知っている。
お店で煮込み料理を味わうときにはいつも、彼はそちらを選ぶ。今日も変わらず、迷わずにそのさっぱりとした煮込みを頼んでいた。やっぱり、そうなのだ。
私のために合わせてくれるのも嬉しいけれど、こうして自分の好きなものを食べてくれる彼を見るのは、もっと嬉しい。
街の灯がひとつ、またひとつとともりはじめる頃、私たちは並んで石畳を歩いていた。足取りは自然とゆるやかになり、夜気の冷たさに肩を寄せ合いながら、ゆっくりと帰路につく。
「今日は楽しんでくれた?」
私がそっと問いかけると、アルフレートは穏やかに笑う声で答えた。
「君が隣にいてくれるなら、何をしても楽しいよ」
その返事は、いつも彼が言ってくれる言葉だった。嘘ではないのだろうと分かってはいるけれど、それでも私は胸の奥でふと立ち止まってしまう。
本当はしたいことがあるのではないかしら。私に気を遣って言葉を選んでいるのではないかしら。そう思うと、ほんの少しだけ切なくなる。もっと甘えてくれればいいのに、もっとわがままを言ってくれればいいのに。私は彼にそうしてほしいのに。
やがて夜も更けて、居間でくつろぐころには心地よい疲れがあった。灯りの下で湯気の立つ紅茶を分け合い、足元では一匹の小さな命が丸まって眠っている。トルテは時折手足をぴくりと動かして、夢の中で何かを追いかけているらしかった。
私とアルフレートはソファに並んで腰かけ、それぞれ手にした本をめくっていた。紙を繰る音だけが静けさを破り、まるで小さな調べのように耳に届く。
私は今日、本屋で選んだ小説に夢中になっていた。舞台は海辺の小さな町で、好奇心旺盛で勝ち気な主人公と、幼馴染の控えめで誠実な青年が少しずつ心を通わせていく物語。
ちょうど差し掛かった場面では、主人公の心情が綴られていた。彼は弱音を吐かない。もっと私に寄りかかってほしいのに——切ない思いの詰まった文章に、思わず小さく頷く。そうそう、わかるわかる、と心の中で呟きながら。
「エリザベート」
穏やかな声に、そっと名を呼ばれて顔を上げる。気づけば、彼はいつの間にか手にしていた本を閉じていて、瞳をまっすぐ私に向けていた。紙を捲る音も途切れ、部屋には静かな気配だけが満ちている。
「……今日は僕の好きなことを何でもって約束、まだ有効かな」
ほんの少しためらうように低く響いたその声に、胸の奥がぱっと明るくなる。待ち望んでいた言葉をもらったようで、思わず栞を挟むことも忘れて咄嗟に本を閉じ、そのままそばの机に置いた。
「もちろんよ、他にも何かしたいことがある?」
彼は普段、私と違っておねだりをしない。わがままも言わない。だからこそ、アルフレートの望みなら私は何だって叶えてあげたい。どんなに小さなことでも、たとえ私にとって少し意外なことでも。
するとアルフレートはゆるやかに身を傾けてきて、ソファの座面に片手をつき、私の方へとそっと押しかかる。距離が一気に縮まり、互いの吐息が触れ合うほど近くなった。
「……僕のしたいこと、まだ一つだけ残ってる」
低く囁かれた言葉に、答えを探すまでもなかった。わざわざ「好きなことを何でも」の枠に入れなくてもいいのに、そんなふうに言ってしまうところが可愛らしいと思う。
けれど肩に添えられた手はあまりに穏やかで、もし私が嫌なら拒めるような余地を残している。その優しさに気づいたとたん、言葉よりも深く彼の心に触れた気がして、私は堪えきれずに笑みを零す。
「アルフレート、あなた優しいわね」
くすくすと笑いながら囁いて、私は両腕を彼の背に回してぎゅっと抱きしめた。触れた場所から伝わる確かな体温に、世界のすべてがその瞬間だけで満ち足りてしまう。
「あのね、私は今日、気づいたことがあるの」
囁くように言葉を紡ぎ、彼の耳元で続けた。
「あなたの好きなことをしている時のあなたが、私はいちばん好きなの。だからね、思うままにいて。あなたがしたいことは、私も同じくらいしたいわ」
だからもう遠慮などいらないのだと、その言葉に込めた想いを伝えたくて、私は自分から彼の唇に触れた。そっと重ね、ためらいを溶かすように。
どうか、もっと素直になってほしい。甘えたくなれば甘えてほしい。私の前では、もう隠さなくていいのに。
ゆっくりと吐息が離れると、アルフレートは手を伸ばし、私をもう一度抱き寄せた。そして今度は、彼の方から唇を重ねてくる。その口づけにはもう迷いはなくて、それは私が待ち望んでいたものに他ならなかった。




