憧れの波が呼ぶ
ある朝、いつものようにミルクを飲みながら新聞をめくっていたとき、ふと目に留まる記事があった。
王都と北の港町を結ぶ新しい鉄道が開通したと大きく見出しが踊っている。地図が添えられ、青い海に向かって延びる線が印刷されていた。
港町といえば潮風の香り、光にきらめく波、白い帆を張った船……想像するだけで心が浮き足立つ。
海はずっと昔に一度だけ眺めたことがある。父が軍の式典で海沿いの街を訪れることになり、私は兄と共に母に手を引かれて同行した。港には大きな軍艦がずらりと並び、遠くには帆船が白い帆を風に膨らませていた。
私はあのとき波打ち際に行ってみたかった。砂の上に足跡をつけて、波の音を間近に聞いてみたかった。けれど母は私が駆け出さないようにしっかりと手を握っていて、自由にはさせてもらえなかった。
でも、今なら行けるかもしれない。だって、私はもう小さな子どもじゃない。自由に風に身を任せて、どこへでも好きなところへ歩いていける。
「アルフレート、見て」
新聞をひっくり返して向かいへ差し出すと、アルフレートは書き物をしていた手を止めて私を見た。紙面の文字と地図を指先でなぞりながら言葉を弾ませる。
「新しい鉄道が開通したんですって。王都から北の港町まで。私、海の見えるところに行ってみたいの」
「海?」
「ええ。ほら、ここに書いてあるわ。グラウハーフェン——港町の景色がすばらしいって」
言葉にするたびに頭の中では景色がどんどん広がっていく。青く澄んだ空、輝く波、潮風の吹く波打ち際。船の汽笛さえも聞こえてきそうな気がして、心の中ではすでに旅の支度を始めていた。
「ねえ、行ってみましょう? せっかくだし、新しい鉄道に乗って」
アルフレートは少し笑って新聞を受け取ってくれる。記事を覗き込んで目を細めると、程なくして視線を上げた。
「そうだね、行ってみようか」
その一言に思わず椅子をきしませて立ち上がる。嬉しくて、つい体が先に動いてしまった。
「ほんとう?」
「本当に。休暇を取るよ、数日くらいならなんとかなる」
彼の声はいつもより楽しそうで、私の胸の中は言葉にできないくらいの喜びで満たされる。後ろに回り、椅子に腰掛けているアルフレートの背に腕を回して抱きついた。
「嬉しい!」
声を弾ませて抱きしめる腕に力を込めると、彼は軽く笑いながら私の腕を宥めるように手のひらで優しく叩く。
「たまには君とゆっくり過ごしたい」
笑いながら囁かれたその言葉に頬がほころぶ。アルフレートの肩越しに、もう一度新聞の記事を見つめてみた。青い海に向かって延びる鉄道の線に、汽車に揺られながら港町へ向かう日のことを、もう想像の中で描き始めている。
たった今決まったことなのに、どうしてだろう——まるで、ずっと夢に見ていた出来事のような気がした。
◆
「グラウハーフェンまで半日で行けるなんて、便利になったものだな」
「便利なんて言葉じゃ足りないわ。まるで魔法みたいよ」
王都の中央駅の石畳の上には人が絶え間なく行き交い、汽車の到着を告げる声やけたたましく響く汽笛の音が入り混じっていた。
線路の向こうでは黒い車体が白い蒸気を勢いよく吐き出している。ごうごうと音を立てるその迫力に身を縮ませながらも目が離せず、私は知らず知らずアルフレートの腕にしがみついていた。
だって馬車なら数日かかる道のりを、たった数時間で行けるのだという。人の手で造られた鉄の機械がそれを叶えてしまうなんて。
足元には旅支度を詰め込んだトランクと、リボンの手提げ。向こうの気候に合わせて選んだドレス、羽根飾りの帽子、それから靴。それと道中に食べるお菓子。
「……ずいぶん大荷物だね」
「ええ、ぜんぶ必要なものだもの」
「その手提げの半分、お菓子で埋まってるように見えるけど」
「汽車の中で食べるのよ。味もいろいろなの」
「半日の道中に五袋も?」
「だって選べなかったの」
見慣れない風景、知らない人の流れ、どこか遠くへ向かう汽車の音。その全部が気持ちを弾ませてくれる。アルフレートが隣にいることも、その楽しさをいっそう鮮やかにしていた。
やがて、遠くから長い汽笛が鳴り、汽車がゆっくりとホームに滑り込んでくる。重い車輪が音を響かせ、巨大な車体が間近で震えると、私は一歩引いて見上げた。
「まあ……なんて大きいの」
「感心しているところ悪いけど、乗らないと置いていかれるよ」
軽く笑いながら私の手を取ってくれた。車内に足を踏み入れると、柔らかなスエード張りの座席と、磨かれた真鍮の手すりが目に入る。もっと堅苦しいものを想像していたけれど、思った以上に優雅で広い。
「ねえ、窓側に座ってもいい?」
「もちろん」
アルフレートは当然のように譲ってくれる。私は喜んで座席に腰を下ろし、トランクを膝にのせた。大きな窓から外の風景が煤けたガラス越しに滲んで見える。駅員の笛が鳴り、汽車がぐんと揺れたかと思うと、次第に動き始めた。
私は窓に顔を寄せて、変わっていく景色を夢中で眺める。駅舎の屋根があっという間に遠ざかっていき、王都の建物の列が次第に小さくなる。畑や林が流れるように通り過ぎ、風に舞う麦畑が金色に光りながら広がっていく。
「見て、あの塔。あんなに高かったのね」
「ほんとだね」
「それにほら、向こうの通りの馬車も砂粒みたいよ」
私が次々に指をさしては声を弾ませるたび、アルフレートは本を開こうとして閉じ、また開いては閉じる。時おり「ちょっと待って、いま良いところなんだ」と言いながらも、結局こちらを向いてくれる。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
「いや、楽しそうな君を見てる方が面白いよ」
そう言われるとなんだかくすぐったくて、私は話題を変えることにした。リボンの手提げの中からお気に入りのお店で朝に焼き立てを詰めてもらったお菓子を取り出す。袋を開けると、チョコの入ったクッキーの甘い香りが広がった。
一口食べると、ほんのり溶けたチョコとバターたっぷりの生地が舌の上でほどける。いつも食べているものなのに、味が旅の空気に溶けて特別に感じられる。アルフレートにもひとつ摘んで差し出すと、何も言わずにそのまま口を開いて食べてくれた。
「どう?」
「うん、美味しい」
汽車の中で食べると、同じお菓子でも特別な味がするのよ、と言うと、彼は軽く笑って「確かに」と答えた。その調子が嬉しくて、もう一つクッキーを取り出してしまう。
お菓子も食べ終えて、小さな紙包みを膝の上でたたむ。今度は何をしようかと考えて、駅の本屋で買った小説を思い出した。手のひらに収まるほどの厚さで、うすいピンクの紙に花模様の装丁。
なんとなく可愛らしいから選んだだけだったのに、ページをめくっていくうちに、どうやら想像よりずっと“大人の恋”だったらしいことに気づく。
章が進むごとに登場人物の距離が急に近づきはじめて、あ、これは……と気づいたときにはもう遅かった。挿絵の一枚を目にした瞬間、息を止めてページを閉じる。どうしよう、見られていないかしらとそっと視線を上げると、案の定アルフレートが隣で不思議そうにこちらを見ていた。
「どんな話?」
「……秘密」
「秘密?」
彼はわずかに首を傾げて、それ以上追及するでもなく「そう」と一言だけ返して視線を戻す。そのあっさりとした態度に私はようやく息をついた。
だけど、閉じた小説をどうしていいか分からない。ぱらぱらとページの端を指で弾いてみたり、栞紐をいじってみたり。なんだか、手元にあるだけで落ち着かないものを抱えている。
そのとき、横から不意に何かが動く気配がよぎった。はっとして顔を向けた瞬間、視界の端でアルフレートの手がすっと伸びてくる。
「だ、駄目!」
とっさに腕を伸ばして押さえ、身をひねって本を背中側へ回す。だけど隣り合わせの座席では逃げ場は限られていて、ほとんど背もたれに押しつけられながら必死で本を守った。
「見せてよ」
「ほんとうにダメ!」
最後の手段とばかりに小説をトランクへ押し込み、ぱちん、と金具を閉める。小気味よい音が合図になったかのように、アルフレートはようやく手を引っ込めた。
「ますます気になるな」
笑いながらまだじっとこちらを見ている。油断できない。少し息が上がってしまって、私は髪を整えながらむっとしたふりをして視線をそらした。
そのあとはしばらく車輪の音と窓ガラスをかすめる風の音だけが続いた。朝が早かったせいもあってまぶたがだんだん重くなってくる。
窓の向こうには午後の光を受けて金色にきらめく草原が広がっている。そんな風景を眺めながら、私はゆっくりと身体を傾けてアルフレートの肩に頭を預けた。外の風は少しひんやりしていたから、その体温がいっそう心地よく感じられる。汽車の揺れに合わせて彼の呼吸がかすかに伝わってきて、身をまかせているうちにふっと意識が遠のいた。
……それから、気づいたときには陽の角度が変わっていて、窓から差し込む光が赤みを帯びていた。
私のすぐそばでアルフレートもいつの間にか眠っていて、俯いたまま頭がゆらゆらと揺れていた。器用だけど、どう見ても寝にくそうだ。
「……もう」
そっと腕を引くと、すとん、と彼の頭が私の肩に落ちた。髪が頬に触れてすこしくすぐったい。起こさないように姿勢を整えて、これでよし、と心の中でつぶやいた。
汽車は変わらず穏やかな速度で走っている。うっすらとした丘の稜線が遠くに見え、陽は傾き空は茜に染まりつつある。きっと、目的地はもうすぐだ。
汽車の窓から最初に海が見えたとき、どんなふうに光るだろう。潮風の音はどんなだろう。そう思い描くだけで胸がどきどきして、期待が夕日の色と一緒にゆっくりと胸に満ちた。
◆
グラウハーフェンの駅へついたのは、陽が落ちる少し前だった。潮の香りを含んだ湿った風が線路の間を抜けていき、帽子は押さえないと飛んでいってしまいそうなくらい強い。
駅から歩いてほど近い場所にあるホテルは、白い外壁にたくさんの窓が並んだ姿が印象的で、まるで貝殻のようだとすこし思った。
ロビーに入ると大理石の床が夕暮れの光を細かく跳ね返し、その上に敷かれた深い赤の絨毯が足音を吸い込んでいく。天井には大きなシャンデリアが吊り下がっていて、透き通ったガラスの粒がきらきらと揺れていた。
「なんだか生家を思い出すわ」
大した意味もなくぽつりと口にした言葉に、隣でアルフレートが小さく笑う。
「それ、あんまり外じゃ言わないほうがいいよ。びっくりされるから」
慌てて弁解しようとしたところで、コンシェルジュがにこやかににこやかに近づいてきて案内の手を差し伸べたので、言い訳の言葉は宙に浮いてしまった。
通された一室の扉を開けた瞬間、視界の奥がぱっと明るくなった。大きな窓いっぱいに海が広がり、濃い青と金が溶け合うように揺れている。荷物を置くより早く、足が勝手にそちらへ向かっていた。
「きれい……!」
思わず駆け寄り、窓枠に手をかけて身を乗り出す。風が頬を巡り、袖をふくらませ、髪をさらさらと撫で上げていく。海の匂いが胸いっぱいに広がる。長い旅の疲れだってその一瞬でぜんぶ解けてしまう。
けれどその瞬間、肩をがし、と掴まれた。引き戻される勢いで背中が何かにぶつかり、驚いて振り返るより先に影が落ちてくる。上から覗き込むアルフレートの顔が近くて、息が小さく跳ねる。
「危ないよ、エリザベート」
「ごめんなさい。あまりに綺麗で……つい」
肩に添えた手はまだ離れない。窓の外から差す夕陽よりも彼の手のほうがあたたかくて、なんだか余計にばつが悪い。
「……気をつけるわ」
「そうしてくれ」
そう言ってようやく手を離してくれたけど、視線だけはしばらく海と私のあいだを行き来していた。
少し休んだあと、フロントで教えてもらった海沿いのレストランへ向かった。通りに灯りがともりはじめ、潮風に揺れるランタンが夜のはじまりを告げている。案内された席は窓際で、波の音が微かに聞こえるほど近い。
運ばれてきたのは、この町で朝に揚がったばかりの魚の香草焼き。皿に乗った瞬間から湯気に混じって海の匂いが立ちのぼり、フォークを入れれば身がほろりと崩れた。
ひと口運んだ瞬間、潮の香りと溶け合うような旨みが広がり、香草の香りがあとから静かに追いかけてくる。
「……すごく幸せ。こんなに新鮮なの、贅沢だわ」
「王都じゃこういうのは滅多に味わえないだろうね」
輪切りのレモンが浮かぶドリンクを口に含むと、酸味と爽やかさが小さな泡と共に弾けた。心地よいひとときに思わず目を細める。
けれど、不意に心がそぞろになる。ここにはいないあの子のことがふと頭をよぎったのだ。小さな体で、今頃どうしているのだろう。
「……トルテ、大丈夫かしら」
ぽつりと呟くと、アルフレートが小さく微笑む。
「きっと元気だよ。君の家なら王宮みたいな暮らしができるだろうし」
「……否定できないわ。メイドたちが張り切っていていたものね」
「おやつをたくさんもらって太って帰ってくるよ」
「それは困るわ」
そう答えながら、心の中でこっそり決めた。明日は市場に行って、あの子にお土産を買おう——きっと喜んでくれる。
海に反射する月の光が窓越しに差し込み、波のきらめきが器の縁に映る。小さな笑い声と波の音の調べのなかで、私は少し先の明日を思い浮かべて心を躍らせた。
本編を改稿したのでその内容についての詳細を活動報告に載せました。ついでに番外編のSSを3本掲載しています。もしよろしければそちらもぜひ覗いてみてください!




