夏風とピクニック
中庭の藤が見頃を終え、日差しがだんだんと勢いを増すころ、学院の裏手に広がる丘は一面に咲きほこった野の花で覆われる。
薄紫のラベンダー、背の低いタイム、陽を反射して光る小さな白詰草。色とりどりの花が斜面に散りばめられ、遠くから見ればまるで誰かがこぼした絵具のようだった。
この日は珍しく講義が早く終わり、時計の針がまだ昼下がりを指しているにもかかわらず手元の予定は空白だった。私は自室の窓を少し開けて風を通しながら、机に向かって静かに読書をしていた。
小鳥のさえずりが遠くの林の方角から聞こえる穏やかな午後に、静かな部屋で本を読むのはそれだけで贅沢なことのようにも思えた。
そんな折、勢いよく部屋の扉が開いた。クララだった。
扉を開け放ったクララは、言葉よりも先に行動で示す人だった。私の手をためらいもなく掴みとり、そのまま半ば引きずられるように私は廊下へと連れ出された。
手を引かれるままに廊下を歩き、正門の階段を下り、敷石の道を抜けて、私はようやく裏手に広がる丘へと向かっていることに気がつく。クララの横顔はまるで戦地へ赴く兵士のように真剣だった。しかし彼女が手にしていたのは戦いの道具ではなく、淡いミモザ色の可愛らしいバスケット。背中に結んだリボンが風にはためき、スカートの裾が膨らんで揺れる。
風向きなど一切気に留める様子もなく、クララは勢いよく草の斜面を上っていった。彼女の靴は今日に限って芝の湿り気を完全に無視する白いレースのパンプスだったが、当の本人は気にも留めていないらしい。
途中、石につまづきそうになりながらも、クララは一切の動揺を見せずに歩き続けた。優雅さとは滑らかに歩くことではなく、つまずいても表情ひとつ変えずに進み続ける力であるらしい。本にはそうは書かれていなかったけれど、彼女を見ていると妙に納得してしまう。
ようやく丘の中腹に辿り着いたころ、私は日差しに照らされもうすっかり汗ばんでいたのに、クララときたら帽子ひとつ傾けず、涼しい顔で景色を見渡していた。
「まあ、なんて見事な見晴らしでしょう。やはりわたくしの判断は正しかったようですわね」
クララはニコニコと笑って、持っていた籠からレースの敷物を取り出した。敷物は風にあおられてふわりと翻り、私の顔に直撃した。
「失礼。少々風が……お行儀がよろしくなくてよ」
そっと布を引き戻す仕草まで、なぜか一切の動揺がない。敷物に腰を下ろすと、クララは「お茶の時間ですわ」と静かに宣言してから、まるでサロンの応接間にいるかのような手つきで次々と品を取り出して並べはじめた。瓶に詰められた紅茶、みずみずしいフルーツのタルト、チーズを挟んだ小ぶりなサンドイッチ。
すべてが見事に詰められ、潰れも崩れもしていなかったのはある意味で驚異的だった。バスケットは丘を上るあいだ、ずいぶん傾いていたように思うのだけれど。
私は一息つき、サンドイッチをひとつ手に取りながらようやく尋ねる。
「それで、どうして急にこんなところへ?」
クララはぱっとこちらを振り向き、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの満面の笑みで答えた。
「わたくし、ピクニックに憧れていたんですの!」
レモンタルトを一切れケーキサーバーで持ち上げ、白い小皿に丁寧に乗せて、クララは夢見るように空を仰ぐ。
「お日様の下で詩を読み、野の花と語らいながら、お茶をいただくのです」
「野の花と語らう……」
思わず口をついて出た言葉に、クララは「ええ」と微笑みながら、銀のフォークでタルトの端を小さく切り取った。
「詩人たちは、皆そう申しておりますでしょう? 自然の声に耳を澄ませ、季節と心を通わせるなんて夢のようですわ」
「自然の声に……」
私はほんの少し前の彼女の行動を思い出していた。クララが足元の地面を這う蟻に目を細めて「まあ……働き者ですことね」と言ったあと、さりげなく敷物の縁を一ミリほど引き寄せたのを私は見逃していない。
自然の声を聞くのに、蟻は嫌なのだろうか。詩人たちが語る自然の中に、六本脚の黒い虫は含まれていないらしい。
心を通わせるべき相手としてラベンダーや陽の光はふさわしくとも、せっせと働く蟻たちはどうやら歓迎されていないようだった。
私は一人で考えを巡らせながら、手にしていたサンドイッチをようやくひと口かじった。パンの柔らかさが唇に触れ、歯を入れると中からひんやりとしたきゅうりの食感が顔をのぞかせる。そのあとに薄切りのハムの塩気と、マスタードのわずかな刺激が舌に届いた。
「ねえクララ、このサンドイッチ、あなたが作ったの?」
クララは紅茶をひと口含んだところでその動きをぴたりと止め、まるで思いがけないことを聞かれたように目を瞬かせた。
「わたくしが料理を? ああいけません、また使用人たちが慌てて駆け寄ってきてしまいますわ」
「また?」と聞き返す前に、クララはさらりと続ける。
「使用人たちは、わたくしが厨房に近づくだけで火の気を心配しますの」
ごく当然のことのように言うクララに、私は何とも言えない笑いを飲み込む。彼女はあくまで気品を崩さず、まるで花を活けるような手つきで紅茶のカップを口元に運んだ。
「ですから、サンドイッチはおとなしく料理番にお任せしましたの。安心して召し上がってくださいませ」
それはありがたいことね、と言いながら、私はサンドイッチをそっとひとかじりした。
風に吹かれてまたしてもレースの敷物がふわりとめくれ上がり、クララの帽子のリボンが舞い上がる。私は笑いながら、今度はその布が私の顔に直撃する前にそっと手で押さえた。
クララはレモンタルトを食べ終えると、敷物の脇にそっと置かれた籐のバスケットから一冊の詩集を取り出した。紺の布張りに金の箔押しがされた、手のひらにちょうどおさまるほどの小さな本。彼女はそれを胸のあたりで両手に掲げ、少し背筋を伸ばしてからゆっくりと朗読を始めた。
「——ひとひらの花に、陽は降りそそぎ……小鳥は緑の天蓋を渡ってゆく……」
丘を渡る風がページの端をふわりとめくる。クララはそれを押さえるでもなく、風に任せたまま閉じた睫毛の奥に言葉を染み込ませるようにして、うっとりと詩の続きを口にした。
と、そのとき。
ブウゥン、という低く唸るような羽音が、彼女の肩口のあたりで震えた。見ると、丸々としたミツバチが一匹、クララの花模様のブラウスにふらふらと引き寄せられている。
「……あら」
クララは目を伏せたまま、まるで風にでも気づいたかのような口調で言った。私は咄嗟に立ち上がりかけたが、クララはまったく動じず首をかしげて微笑んだ。
「……なんて詩的なんでしょう。小さな蜜蜂が、わたくしの袖に恋をしてしまったみたいですわ」
「クララ、刺されるわよ」
「蜂だって、用もなく刺すことはなくてよ。それに詩人たちは皆、こういう出会いに胸をときめかせて詩を書いたのでしょう?」
彼女はそう言って本の余白にそっと筆をのばし、さらさらと何かを書き留め始める。
「“薄羽の訪いは 恋の迷い道のごとく”……あら、案外よろしい句が浮かびましたわ」
私はハチを刺激しないよう縮こまりながらその様子を見ていた。ミツバチははしばらく花模様の袖にとまっていたが、やがて何かを思い出したようにふいと空へ舞い上がって去っていった。クララはそれを見送って、ひとしきり朗読を楽しんだのち、詩集を胸に抱えてほうっと空を見上げた。
「なんて、なんて素敵な午後ですの……」
そう呟いて、クララは胸に抱えていた詩集をそっと横に置くと、晴れやかな顔で仰向けに寝転がった。金の髪が陽を受けてきらきらと光り、まるで花の上に羽を休めた蝶のようだった。
「わたくし、このまま草と土に包まれてしまいたいくらいですわ。小鳥たちのさえずりをまくらにして、夢の中でも詩が書けそう……」
私はそばで紅茶を一口啜りながら、ゆるやかな丘を見ていた。冷たい風がひと吹き通り過ぎ、陽光に揺れる花々の向こうで、鳥の影がひとつ空を横切った。突拍子もなくピクニックへ連れ出されたことはさておき、確かにこの午後の日は美しかった。
やがて彼女はむくりと身を起こし、思いついたようにバスケットから小さなスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「詩だけでは足りませんわね。わたくし、風景画にも挑戦してみたくなりましたの。言葉にできない美しさを、かたちにして残しておきたいのです」
宣言する声は、やけに自信に満ちていた。クララは膝の上にスケッチブックを広げると、丘と空の境目あたりをじっと見つめ、なにやら真剣に鉛筆を走らせはじめた。
「……完成ですわ!」
ページをこちらに差し出された瞬間、私は少し言葉を失った。そこに描かれていたのは、どう見ても……丸と線の集合体。おそらく上のぐるぐるしたものが太陽で、左下の波線がラベンダーのつもりなのだろうが、間に挟まったものは、なんとも説明しがたい形をしている。
「……これは、丘……なの?」
「もちろんですわ! 自然の本質を抽象的にとらえてみましたの。見えない風の流れや、花の香りまでも描き込んだつもりですのよ」
「……なるほど」
私は頷いてみせたが、正直なところ“なるほど”とはあまり思えなかった。けれど彼女の満足げな顔を見ると、それを訂正する気も起きなかった。
「まあ、世界の見え方は人それぞれでしょうね」
「次は風をテーマに描いてみようかしら。うふふ、わたくし、今日はいろいろと芸術家ですの」
クララはまた新しいページを開きながら、楽しそうに空を見上げていた。
彼女がまた鉛筆を走らせるあいだ、私は手元の紅茶をそっと口に運んだ。薄く抽出された花の香りが身体をやわらげていく。
見上げれば、空は澄みきって青く、雲の影さえ見当たらない。けれどその無垢な青にはなぜか言い知れぬ懐かしさのようなものが差していて、遠い昔に夢で見た景色のようにも思えた。ふたりのあいだにしばし風が抜けた。
白詰草がさらさらと揺れて、どこか遠くで鳥が鳴いている。詩人が言うように自然が語りかけているとするなら、それはきっと、こんなふうにささやくような声なのだろうか、と私は思った。




