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変わり者の伯爵令嬢

 王国の首都エデルブルク、その東に広がる豊かな森林の高台に、ローゼンハイネ伯爵家の屋敷はあった。

 王宮からわずかに馬を走らせ、木々が天蓋のように連なる古い並木道を超えれば、長い時を越えて守られてきた貴族の旧里が姿を現す。

 正面には堅牢な鉄門がそびえたち、石畳の道が穏やかな弧を描いて、古めかしくも壮麗な造りの屋敷へと続いている。

 あたりには手入れの行き届いた植栽や、色とりどりの花たちがみずみずしく咲き誇り、裏手の丘から流れる小川は美しく澄んでいた。

 小川のほとりには、植えられたものとも野に咲いたものともつかぬ草花が揺れ、時おり蝶たちが飛び立って青空を舞うのだ。

 この庭園と水辺は、数百年の昔にこの地に屋敷が築かれてから、ローゼンハイネ家の象徴として、変わることなくそこにあった。

 季節は春。陽の光はやわらかく、風はどこか微睡むようで、まるで神がこの日を祝福しているかのような穏やかさに包まれていた。

 けれどもその日、この陽がもっとも柔らかくなる美しい午後の中にあるにもかかわらず、伯爵家の屋敷の中は慌ただしい気配に満ちていた。


「お嬢さまのお姿が……お嬢さまが()()いらっしゃいません!」

 

 若い侍女の声が、あわただしく廊下を駆けていく。

 奥方の命を受けて、すぐさま使用人たちが庭に散った。人々は汗をかき声を張り上げ草の根までもを分けて探したが、しかし()()という言葉の通り、このローゼンハイネ伯爵家ではさして珍しくもない光景である。


「正装の支度がまだなのに……」「きっとあのあたりよ。裏手の方」


 囁き交わされる声と、そっと草を分ける足音に、騒ぎの中心人物はひっそり耳を傾けていた。

 屋敷の裏庭のさらに奥、古いバラの垣根の向こうに、小さな木陰がある。伯爵家でも限られた者しか知らないその場所は、陽の光も声も届きにくく、植栽の手が入らぬままに野の花が咲き、草の香りが満ちている。

 エリザベートはそこでひとり、質の良いドレスの裾が汚れるのも厭わず、地面に座り込み身をひそめていた。

 

「お嬢さま……?」

 

 静寂のなか、小さな気配が忍び寄り、遠慮がちな呼び声が風に混じって聞こえた。やがて、衣擦れの音と共に、バラの垣根をかきわけて現れたのは、若いメイドのひとり、エミリーだった。


「まあ、やっぱりここにいらしたのですね。探しましたよ」


 エリザベートは顔を上げたが、何も言わなかった。ただ、見つかってしまったことに少しだけ肩を落とし、フイと視線をそらした。

 

「もうすぐお出かけの時間です。奥様がお待ちですわ」


 エミリーはやさしく微笑みながら手を差し出し、少女は何も言わずゆっくりとその手に応じた。立ち上がったエリザベートのドレスには草の葉がいくつもついていた。裾には湿った土がにじんでいるのを見て、エミリーは「今日の洗濯係は誰だったかしら」とひそやかに思った。まったく、おてんばな令嬢に屋敷中が手を焼くなど、奉公に上がる前には考えもしなかった話である。

 エミリーは草と泥をおみやげにした令嬢の小さな手を握ったまま、静かに表へと戻った。しかし木に登りあたりを見張っていた使用人の一人が「お嬢さまがいらっしゃったぞ!」と声を張り上げたので、玄関に入るころには、すでに何人もの侍女たちが待ち構えていた。

 

「まあ、お召物が!」

「泥まみれですわ!」

「すぐにお着替えを!」

「髪も整えないと!」

 

 家格は低くとも良家の子女である侍女たちは、エリザベートの野良猫のような様相に、たちまちめまいを起こして倒れてしまいそうだった。

 エリザベートは瞬きのまもなく「確保」され、あれよあれよという間に、数人の侍女に囲まれ、泥を払われ、埃を落とされ、椅子に座らされていた。幼い令嬢は下唇を突き出し、不満げにきょろきょろとあたりを伺っていたが、逃げ出す余地などどこにもないことは、誰の目にも明らかだった。

「まずはお召し替えね。ルイーゼ、今日のドレスを持ってきて!」

「ええ、“春の調べ16番”ね!」

 侍女たちは一斉に視線を交わし――次の瞬間には、誰かが階段を駆け上がり、誰かが衣装室へ突進し、誰かが靴を取りに別の部屋へ。現場はさながら、火事場か戦場のような慌ただしさだった。

 ひとりが汚れたドレスを脱がせ、ひとりが洗面器を持ち、ひとりが新しいドレスを広げ、さらにもうひとりが「髪のリボンは今朝ほどの青でよろしいですか?」と誰にともなく尋ねる。次の瞬間には別の誰かが「今日のご予定はオペラ観劇ですもの。もっと落ち着いた色で」と断言していた。

 

「今夜は新作のオペラの初日ですって」

「お嬢さまはお歌がお好きでいらっしゃるから、きっとお楽しみいただけるでしょうね」

「あのね、わたしは……」

 

 エリザベートが口を開きかけたそのとき、手に先日仕立て上がったばかりのリボンを持った侍女が、勢いよく部屋に飛び込んできた。

 

「見てください、このフリルの仕上がり!」

「まあ! 刺繍が春のお花モチーフですわ!」

「でも、このリボンだとちょっと子どもっぽいかしら?」

「お嬢さまは子どもですのよ!」

 

「お靴はあれでよろしいですか?」

「でもあれは少しお堅すぎません?」

「いいえ、お行儀よく見えてちょうどいいんですの」


 そんな議論を背後で聞きながら、エリザベートは靴下を履かされ、ひざ丈のドレスをふわりとかぶせられた。パールのボタンが手早く留められ、首元のリボンがしなやかに結ばれていく。

 

「次はお(ぐし)ですわ!」

 

「髪?」とエリザベートが反応するより早く、すでに誰かが櫛を手に取っていた。その速度とは裏腹に、まるで生け花でもするかのような優しい手つきで柔らかくもつれを梳かれていく。

 

「今日は巻きましょう! ふわっと、春風のように!」

「巻きます!」「結びます!」「飾ります!」

 

 豊かな巻き毛に躍るようにリボンと飾りがほどこされる。「さあ、完成です!」との声と共に用意された鏡のなかに現れたのは、()()()()()完璧にドレスアップされた伯爵令嬢の姿だった。

 

「まあ! お似合いですわお嬢さま!」

「すてきですわ!」

「まるで春の妖精!」

 

 惚れぼれとした表情を浮かべる侍女たちをよそに、着替えの様子を部屋のすみで伺っていたエミリーは、いつまでたっても不満げなエリザベートに歩み寄り、こっそりと耳打ちをして聞いた。

 

「お嬢さま、どうして今日はそんなにご機嫌ななめなんですか?」

 

 エリザベートはちょいちょいと小さく手でエミリーをまねくと、同じように耳に顔を寄せ、こっそりささやいて言った。

 

「エミリー、わたし、オペラは好きじゃないの」

 

 

 

 

 軍事と貿易に力を入れ、大陸随一の富国として発展した国・ノルトハルデン。

 豊かな港をいくつも抱え、大陸の東西を結ぶ要衝として他国に先んじて繁栄を築いてきたこの国で重視されるのは———強さと実利。

 芸術は“嗜み”にはなっても、“柱”にはなりえなかった。

 オペラは、そんな中で生き残ってきた数少ない芸術のひとつである。

 けれどそれも、真に人々の心を潤すものとしてではなく、有り体にいえば、貴族たちの社交の場として、形式と体裁のなかで生きているにすぎない。

 上演される演目の多くは、悲劇的で抽象的で重々しい。それが「高尚である」という印なのだと、貴族たちは尊んでいる。

 平民には理解できないものを目指すことが貴族の品位を証明する手段であるかのように。

 彼らにとって劇場は競い合いの場でもあった。誰がもっとも高価な桟敷を押さえたか、誰が最も洗練された衣装で現れたか、誰がいち早く「難解な演出の意味を理解した」と称してみせたか。それが時に舞台の内容以上に重要だった。

 幕間のホワイエはさながら外交の場であった。

 ワイングラスを手に、ひそやかな声で情報が交わされ、視線の一つひとつに駆け引きが潜む。

 オペラの内容が話題になることはあっても、それは感動の共有ではなく、教養のひけらかしとしての発言に過ぎない。

 観客席に響く拍手さえ、時に政治的な意味を持つ。ある有力な貴族が支援している劇団であれば、大した出来でなくとも賞賛を送り、そうでなければ見向きもしない。そんなあからさまな風潮すら、誰も咎めない。

 それがこの国でのオペラ、歌劇の立ち位置であった。

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