変わり者の伯爵令嬢
「お嬢さまのお姿が……お嬢さまがまたいらっしゃいません!」
若い侍女の声があわただしく廊下を駆け、ローゼンハイネ伯爵邸はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。しかしまたという言葉の通り、これはさして珍しくもない光景である。もはや誰も数えようともしない日常の一幕であり、驚くというよりも、覚悟を決めたような溜息が屋敷のあちこちで交わされた。
「また木に登っているんじゃないかしら」
「今朝も馬小屋に忍び込んで叱られたばかりですよ」
「でしたら、噴水のそばかもしれません。また落ちたら大変です」
使用人たちは顔を見合わせ、半ばあきれ、それでも本気で走り出す。慣れきった足取りで庭へ散り、植え込みや裏手の小道、倉庫の影、馬小屋の梁の上まで探しに向かう。
「お嬢さま、どこにいらっしゃるんですか!」
「どうかお返事を……お願いですから今日は無事でいてください!」
声が次々と飛び交い、そのたびにどこかから小鳥たちがびくりと飛び立つ。いっせいに散っていく足音を、屋敷の裏庭のさらに奥、古いバラの垣根の向こうで息をひそめて聞いている者がいた。
植栽の手が入らないままの野草に紛れ、エリザベートは膝を抱えてじっと息を殺す。木の葉の隙間から差し込む午後の光は、彼女の栗色の髪を淡く照らし跳ねるような輝きをつくっていた。
——今日こそは見つからないわ。
胸の奥で密やかに高鳴る期待は、悪戯の延長というほど軽いものではなかった。
代々ノルトハルデン王国の陸軍を支え、歴史書に名の残る将校を幾人も送り出してきた名門の家。その名にふさわしい秩序と厳格な規律がこの家の礎であったが、ただひとり当代の令嬢だけは、生まれつきその色に馴染めずにいる。
このまま森まで走ってしまえば、誰にも捕まらずに済むのに。
視線の先には、屋敷裏の林の濃い緑が揺れている。あの影の中へ飛び込めたら、きっと息がしやすくなるだろう。土の匂いも、湿った風も、心の奥のひずみをそっと撫でてくれるはずだ。
「お嬢さま……?」
そんな甘い想像を膨らませかけたとき、静寂のなか小さな気配が忍び寄り、遠慮がちな呼び声が風に混じって聞こえた。やがて衣擦れの音と共にバラの垣根をかきわけて現れたのは、若いメイドのひとりであるエミリーだった。
「やっぱりここにいらしたのですね。皆さま心配していらっしゃいますよ」
エリザベートは座り込んだ姿勢のまま、分かりやすいほど肩を落とした。この裏庭のさらに奥の、小さな木陰を知る者は屋敷でもごくわずかだ。けれど一度だけ、ここで摘んだ白い花をエミリーに見せてしまった。そのとき、嬉しさに任せて「ここが好きなの」と漏らした言葉が、今になってこうして自分を追いつめていた。
「もうすぐお出かけの時間です。奥様がお待ちですわ」
エミリーは責めるよりも困っているような優しい面持ちで手を差し出し、少女は何も言わずゆっくりとその手に応じた。逃げ出す気配はもうない。
立ち上がったドレスの裾には草の葉がいくつも絡み、湿った土が染みをつくっている。エミリーはそれを見るなり一瞬だけぎょっとして、「今日の洗濯係は誰だったかしら」とひそやかに思う。まったく、おてんばな令嬢に屋敷中が手を焼くなど、奉公に上がる前には考えもしなかった話である。
小さな嘆息を胸にしまい込み、エミリーは草と泥をおみやげにした令嬢の小さな手を握ったままそっと表へと戻った。しかし木に登ってあたりを見張っていた使用人の一人が「お嬢さまがいらっしゃったぞ!」と声を張り上げたので、玄関に入るころには、すでに何人もの侍女たちが待ち構えていた。
「まあ、お召物が!」
「泥まみれですわ!」
「すぐにお着替えを!」
「髪も整えないと!」
行儀見習いとして奉公にきた良家の子女である侍女たちは、エリザベートの野良猫のような様相にたちまちめまいを起こして倒れてしまいそうだった。
エリザベートは瞬きのまもなく確保され、あれよあれよという間に泥を払われ埃を落とされ椅子に座らされる。幼い令嬢は下唇を突き出し不満げにきょろきょろとあたりを伺っていたが、すでに包囲網は完成している。逃げ出す余地などどこにもないことは、当の本人を含め誰の目にも明らかだった。
「まずはお召し替えね。ルイーゼ、今日のドレスを持ってきて」
「ええ、“春の調べ16番”ね」
侍女たちは一斉に視線を交わし、次の瞬間には屋敷中へ散っていった。階段を軽やかに駆け上がる者、衣装部屋へ飛び込む者、靴の在りかを思い出して隣室に消える者。それぞれが役目を帯びて戻ってくるさまは、まるで火事場か戦場のような慌ただしさだった。
ひとりが汚れたドレスを脱がせ、ひとりが洗面器の水を替え、ひとりが新しいドレスを広げる。さらにもうひとりが「髪のリボンは今朝ほどの水色でよろしいですか?」と誰にともなく尋ねれば、次の瞬間には別の誰かが「今日のご予定はオペラ観劇ですもの。もっと落ち着いた色で」と断言していた。
「今夜は新作のオペラの初日ですって」
「お嬢さまはお歌がお好きでいらっしゃるから、きっとお楽しみいただけるでしょうね」
「あのね、わたしは……」
エリザベートが小さく抗議の声を上げかけたそのとき、手に先日仕立て上がったばかりのリボンを持った侍女が勢いよく部屋に飛び込んできた。
「見てください、このフリルの仕上がり!」
「まあ、刺繍が春のお花の形ですわ」
「でも、このリボンだとちょっと子どもっぽいかしら?」
「お嬢さまは子どもですのよ!」
あちらで色の議論が巻き起こり、こちらでは身長の伸び具合を巡る真剣な審議が始まる。ひとりが髪飾りを誇らしげに掲げ、別のひとりは靴を手に取り絶対これが相応しいと主張する。
「お靴はあれでよろしいですか?」
「でもあれは少々お堅すぎません?」
「いいえ、むしろお行儀よく見えてちょうどよろしいんですの」
そんな議論を背後で聞きながらエリザベートは靴下を履かされ、ひざ丈のドレスをかぶせられた。パールのボタンが手早く留められ、首元のリボンがしなやかに結ばれていく。
「次はお髪ですわ!」
「今日は巻きましょう、ふわっと、春風のように」
「巻きます!」「結びます!」「飾ります!」
豊かな巻き毛に躍るようにリボンと飾りがほどこされる。やがて「できあがりましたわ!」と朗らかな声が響き、鏡のなかに現れたのは、ふさわしく完璧に仕上げられた伯爵令嬢の姿だった。
「まあ、お似合いですわお嬢さま!」
「すてきですわ!」
「まるで春の妖精!」
惚れぼれとした表情を浮かべる侍女たちをよそに、着替えの様子を部屋のすみで伺っていたエミリーは、いつまでたっても不満げなエリザベートに気がついていた。そっと歩み寄り、こっそりと耳打ちをして尋ねる。
「お嬢さま、どうして今日はそんなにご機嫌ななめなんですか?」
エリザベートはちょいちょいと小さく手でエミリーをまねくと、同じように耳に顔を寄せ、秘密を分け合うようにこっそりささやいて言った。
「エミリー、わたしオペラは好きじゃないの」




