海を走る瞳
鐘の響きが幾重にも崩れるような大波が砂浜を巻き込むように転ぶ。
私は奥に浮かぶ浮き輪に乗った少女とその親戚の姿をじっと見ていた。
波の高くなる時に、浮き輪がぐるりと逆さまになってしまいそうなあの危うい浮き方が私を緊張させる。
波のずっと奥、少女の笑い声が水平線の見えない彼方から聞こえている気がした。
おばさんの方はパーマのかかったブロンド髪でべっ甲色のサングラスをかけていた、きっとタバコを吸っているのだろう、喫煙者特有の痩せ方が遠くからでも顔に見えている。そのおばさんは幼子の胸に海水をぱらぱらと両手で掬って流し込んでいた。幼児は冷たさに悲鳴のような笑い声をあげた。
途端にウミネコの甲高い声が私の体を震わせた。
なんとも不気味な声で頭上を見上げると翼の影をこさえた海鳥が三匹ほど沖合に飛んでいくところだった。
青い、青い空に太陽がダイヤモンドのように輝いている。
「随分と怯えなさる」
私の後ろで声がした。ふりかえってみると赤ら顔の瞳の青白い老人がふくよかな腹を丸出しにして立っている。浅緑のハンチング帽をかぶっており、白鬚を蓄えていた。そして、左手には砂浜の方に出ている店で買ってきたらしいハイビスカスのリキュールが握られていた。南風が吹いて甘ったるいアルコールが漂うが、すぐに波風に運ばれた磯の匂いにかき消される。
「海では何が起こるか分かりませんから。ウミネコが飛び立ったのが地震の前触れでなければいいのですが」
私は少し冷静ぶってそういった。
それから老人から見えない右手で砂浜の砂を握りしめた。
「あそこにいるのは私の家内と姪なんです」
「おや、まぁ」
驚いたふりをしたが、実際に彼らはよく似た核を持っているように見えた。海月のように淡くも、しっかりと分かるようなものを。
海辺に出れば誰しもが身なりを忘れて水着一枚になる。特に男なんてのはもう身なりで格を表すことはできない。ただこの老人は何千万も生み出すような競争馬を平然とその後ろに控えさせられるような聡明で雄大な品格があった。あそこでその姪と戯れている叔母も年を重ねてますます磨かれた岩礁のような、人としての重みを宿しているように見えた。
水面の煌めきのように掴みえない品格があった。
「夏頃のこの辺りに毎年姪と来ているのです。そこの丘の上にあるホテルは私たちが毎年宿泊しているところ。毎年と言ってもこれで三回目なのですがね」
「あんなところに宿泊できるなんて羨ましい限りです。窓辺の眺望も良さそうで」
「あなたはどこから? 連れはいるのかな」
そう言って老人は瓶に口をつけた。ごくごくとだぶついた首周りの肉が大仰に動く。
「……連れは海に。私はもう苦手なもので。こうして砂浜にいて連れを遠くから見ているのが好きなのです」
一直線に高まった波が右端からドミノを崩すようにゆっくりと連鎖しながら巻き取られていく。無数の白い泡が生コンクリートのような色をした砂浜に投げ出され、そしてぷつぷつとほどなくして消える。その泡の消える音すらもよく聞こえる。ヤドカリの話声のように小さいが、風が運んでくる。
あの波の中に私を見つめる無数の目があるのを感じた。
「あなたは波に見られていると感じたことがありますか」
私はぼんやりとした言葉を口端から零すように唱えた。頭の中がどうしてだかふわふわして、真っ白な頭蓋骨の中に水色に透き通った海月がバウンスするような気持ち悪さがあった。でも、私は確かにこの海で崩れる波の中に無数の目が咲いては崩れる白波に散らされているのを知っている。
「私にはないですな。ただ、そういう方もいるかもしれません」
「私がそうなのです」
「ほう、あなたが」
「ついさっき、見えたのです。えぇ、一年前も見たかもしれません」
海の向こうではいまだに浮き輪がぷかぷかと浮かび、子供の柔らかな四肢が天真爛漫に太陽に向かって伸びている。
私は鼻頭を擦った。そこが一番太陽の光が突き刺さって痒かったから。
「一年前に恋人をここで失いました。ちょうど、あんな感じで浮き輪に乗った恋人を私が砂浜から見ていたのです。彼女は長い、長い四肢を持っていました。私はその足が好きでね。彼女はその足をクロスさせ、その両腕を私に振ってずっと波間を漂っていました」
どれだけ海に出ても色白のままで少し赤みを帯びている彼女の肌。海に使ってしまうほど長く、黒い髪。綺麗な半月を描くおでこ。柔らかな茶色の瞳。濡れた腕が私を手招くが、しかし振り返すたびに彼女はどんどんと遠くへ、水平線の向こう側へ引きずられていく。私は尻を上げて少し浜辺に出た。素足の下の柔らかな濡れた砂の感触が心地よかった。鏡面のような濡れた砂浜が心を癒した。
波が親指の先に当たり、その冷たさは照らされ続けた体を冷ますのに十分な涼を含んでいた。山の方から流れてきた小枝が私のくるぶしを突く。枝を踏み越えて、さざ波を踏みしだき、私が崩れる波に行く手を阻まれても彼女の方を追ったが、浮き輪に乗った彼女は釣り餌のように海に私を誘い出そうとどんどん遠ざかっていく。
やがて私の足が付かなくなったところで、私が腕を伸ばすと高波がすぐそこまで来ていた。
轟音とウミネコの声。
上がった波のその中に無数に光る海月のように半透明の柔らかな、瞳。
「彼女は海にいったっきり帰ってきませんでした。私がもし、もう少し海の向こう側へ行っていたら、彼女に届いたのでしょうか」
老人はずっと黙ったままだ。それもそのはずだろう。見知らぬ若者にそんな与太話を聞かされたところで酔っ払いのたわごとにしか思えないはずだろうから。
「きっとあなたの連れは戻ってきますよ。海は全ての生命の母だ。きっとです。どうか、気を落とさずに。海ですから。えぇ」
老人はそれを言った後、またリキュールを呷り、そして海の方へと歩いていった。
波間には姪、叔母、叔父がそろったことになる。照りつける日差しをもろともせず、ゆりかごから聞こえるような笑い声が崩れる波の響きを超えてやってくる。
すべては完全になりつつあった。