屠殺人
人と動物の違いとは、何だろうか。
種としての違い?
確かに人類たるホモ・サピエンスは他の生命とは違う進化を遂げ、ある種この地球上を支配するに至った。これは確かに他の生物との明確な違いだろう。
知能の違いか?
我々人類はこの発達した知能により、集団を築き、文明を築き、それを効率よく機能させる規範と集団思想を作り出した。
他の生物において、特定のコロニーやハーレムといった集団の形成はあれど、人類ほどの共通認識を構築した生物も存在しないだろう。それは確かに他の生物とは比べるべきもない特徴であろう。
私が思うに、人と動物の違いとはもっと簡易であり、万人が共通して認識している事柄がある。
それは言葉である。
人はその言語により他者との意識を、認識を、疎通してきた。
確かに動物にも独自のコミュニケーション方法により意思の疎通を図るものがいる。
しかしその中においても、人間という種族ほどコミュニケーション方法を独自に発展させてきた存在はいない。
故に古来より人間は他の生物よりも優れていると、人間こそがこの星を支配するに足るのだと。
そうして星の開拓を進めてきた。
しかしその前提が崩れたとしたら。
人間以外の生物たちが、人間と同等の知能を手に入れ、その口と思考を以てして我々人間と同じ言葉を以てコミュニケーションを取ったとしたら。
そこに、我々人間と動物との間に、何の差があるのだろうか。
これはそのIFの話。
それはいつもと変わらない、何気ない朝だった。
世界中の動物たちが人間の言葉を、同等の知性を以てして会話しだした。
ペットであった犬猫に限った話ではない。
ゴミ捨て場の生ゴミを漁っていたカラスも、排水溝を泳ぐ雑魚も、蔓延る虫たちも、そして精肉にされるために生まれた家畜たちも。
皆が一様に言葉を、その意思を語りだした。
当初は、世界は混乱した。
当たり前のことだろう。それまで意思の疎通ができなかった存在たちが話し出したのだから、それはそれは様々な意見が飛び交った。
やれ、彼らにも人権を与えろだとか。
やれ、選挙権は彼らにもあるだとか。
人間と同等の知性を持った彼らを食料にするというのは人道に反していないかだとか。
本当に様々な意見が飛び交い、一時はどの国も大混乱に陥った。それまで紛争や戦争が起きていた国々がその手を止め、互いに手を取り合って混乱を収めようとしたのだから、当時の混乱は語るべくもないだろう。
中には動物たちの反乱が起きた国もあったが、それもすぐに軍事力によって鎮圧され、有事の際は国際的に協力する国際条約が結ばれた。
それは私が生まれ育ったこのアルテカリ共和国ですら例外ではなかった。
当時の国政は荒れに荒れ、あわや国が分断の危機に瀕した。
しかし今となってはそれも落ち着いたものだ。
朝、いつもと同じコーヒーを口にしながら、新聞に目を通す。
当時は動物が話し出したいう事柄が一面を飾っていたが、いまは他国との政やら、どこぞの国の政治家の不祥事だとかが並び連ねている。
まったく、人間の順応力とは凄まじいものである。
そうしてコーヒーを飲み干してから、仕事着に着替える。
黒一色の作業着、それが私の仕事着だ。
しかし綺麗に洗濯したはずであっても、どこか嗅ぎなれた鉄臭い香りが鼻を衝く。
こうした香りが落ちないのは、何故だろうか。
いつも考える思考を振り切り、愛車に乗り込む。
そうしていつも通りの道を走り、職場についた。
『国立中央屠殺場』
それが私の職場。そして私の職業は、精肉を作るために命を奪う、現代の処刑人、屠殺作業者だ。
当時、屠殺作業者の扱いは注目された。
それもそうだろう。
それまでは国民や国の主な輸出品である精肉を作る仕事は日陰者であったが、確かに必要な職業として認められていた。しかしあの日からは一転して無慈悲に命を奪うならず者と罵られることになった。
国は当時困惑した。
屠殺は国の重要な輸出品を生み出す仕事であり、国政を支えるとともに国民の食生活を支える重要な仕事であったから、当然国としては擁護に走った。
しかし国民の総意とは恐ろしいものであり、当時数十人いた私の同僚たちも皆辞めていき、今やこの施設に勤める屠殺人は私だけとなった。
しかし辞めていった彼らに対しても世間の目というのは冷たく、今や国が斡旋した新しい職に就いたり、精神を病んでしまった者たちは国からの助成金で生活している。
私も彼らのように狂えたとしたら、楽だったのだろうか。
嫌な方向に傾いた思考を振り切り、施設内を歩き出す。
リノリウム塗装された廊下は、蛍光灯の明かりを照り返して無機質な明るさを放っていた。
そうして分厚い鉄扉を開けば、そこには今日屠殺される生物たちが並んでいた。
皆、知性を持ったその眼で、私を見据える。
敵意を隠さない鶏、自らの死を悟り、虚ろな目をした豚、意思の読めない瞳をした牛、それらすべてがこちらを見ていた。
すっ、とわずかに血の気が引く。
この感覚は、彼らが知性と言葉を持つ前にはなかった感覚だった。
この感覚にはまだ慣れない。それでも、仕事だ。やらないという選択肢はない。
「では屠殺番号1番。前に」
そうして今日も仕事が始まった。
断末魔には、もう慣れた。
分厚いガラスの向こうからはいつもくぐもった声が聞こえる。
数万ボルトの電圧を放つ電極棒に挟まれた彼らは痛みを受ける前に死に至る。
彼らの断末魔は、人のそれと変わりないのだろう。
どこか粘着質なその声は、脳裏にへばりつく。この不快感は嫌いだ。
何も考えずに仕事ができなくなる。
辞めていった彼らも、この声が苦痛だったのだろうか。
そんなことを考えながら、ただただ機械のように電極のスイッチを入れ、倒れた家畜たちの死骸を引きずり、昇降機に乗せて首元の動脈をナイフで切り裂く。
溢れ出た血はまだ暖かくて、つんとした鉄と脂の香りが鼻を衝いた。
初めてこの仕事をしたときは、命を奪う不快感と恐怖に吐き気が止まらなかったが、今や慣れてしまった。血を流しながら吊るされた死骸がコンベアによって運ばれていく。
運ばれていった死骸は、血が抜け次第、熟練の職人たちによって解体され、衛生検査が済み次第加工され、出荷されていく。早ければ今日の夜には店先に並ぶだろう。
一息つくために分厚い手袋を外し、ペットボトルからコーヒーを一口飲む。
手元の書類に目を通し、数を確認する。
今日だけで2000頭の屠殺をしなければならない。
現在は396頭。まだ10時を過ぎていないことを考えると、よいペースだろう。
そうして考えていた時、後ろから甲高い金属音が鳴り響いた。
とっさに振り替えれば、列に並んでいた一頭の豚が暴れ出していた。
彼は鳴き声と人の言葉が混ざった声で叫んだ。
「いやだ! 死にたくない! なんで俺たちが人間なんかのために死ななくちゃいけないんだ!」
そうして一頭の豚はその体を縛る鎖が肉を傷つけることにも躊躇わず、ガシャンと音を立てて暴れている。
私はとっさに壁に掛けられた猟銃を手に取り、構えた。
かつて軍で使われていたこの銃は、今やその一線からは退いたが、それでも整備されたその銃身は冷たい輝きと確かな重みがある。
私がそれを構えると、ほかの家畜たちはすっと身を引いた。
皆、これが何であるか、そして暴れ出した彼がどうなるのか。理解しているのだろう。
利口なことだ。
そう呟きながら、薬室に一発の弾丸があることを確認して、標準を合わせ、引き金を引いた。
爆裂した空気が鼓膜を揺らす。
銃口から飛び出した弾丸は、暴れる豚の心臓を確かに貫き、殺した。
低い断末魔をあげながら、その体が倒れる。
弾丸によって空いた穴からあふれ出した血が、コンクリートの床を汚した。
列に並んだ家畜たちが悲鳴を上げる。
目の前で命を奪われる光景を見たのだから、無理はないだろう。
汚れた床を掃除するのは、私の仕事だ。
仕事が増えてしまったことは憂鬱だが、これによって作業が止まってしまっては話にならない。
私は吐き出された薬莢を壁際に蹴り飛ばしながら、壁掛けの受話器を手に取った。
数コールの後、事務所に連絡が繋がった。
豚が一頭暴れ出したため射殺したこと、その死骸の撤去を要請する旨を伝えた。
電話の先では少し息を飲んだ後、了承の返答が返ってきた。
そうして数分もすると、私とは違う色の作業着を着た人間が数人、物々しい台車を転がして入ってきた。
彼らはこの屠殺場に雇われた清掃員である。
この国では銃殺された家畜の食肉加工は法律で禁じられているため、彼らの手によって回収され、別棟にて肉食生物用の餌として加工される。
命を無駄にしないために国の人間によって考えられた、有効的な処分方法だ。
彼らの中で色の違う帽子を被った男、私の同期であるリッケンという男が話し出した。
「お疲れ様です。屠殺人さん」
「ああ、呼び出してしまって悪いね。早速だが、頼めるかい」
私が社交辞令を口にすると、男は人当たりの良い笑みを浮かべてお任せくださいと言い、部下たちに指示を出した。
彼らも慣れた職人だ。一切の迷いもなく撤去作業に入る。
いつ見ても的確な作業だと感心していると、リッケンは深いため息を吐きながら語りだした。
「最近、暴れ出す奴らが増えましたな」
「仕方ないだろう。彼らも同族や同じ境遇の奴らで会話している。そうしていれば、ここがどんな場所で、自分がどうなるのか理解するさ」
そして、その扱いに反発するやつも出てくるのも当たり前だ。
そう返すと、リッケンは力なく笑みを浮かべた。
「やはりあなたは、優秀な屠殺人だ。
命を奪うことに躊躇いなく、愉悦も見出さない。
あなたほど優れた屠殺人は、この先生まれないでしょうな」
「ほう。なら私が引退した時が、この国の畜産業の終わりか?」
「そうかもしれませんな」
「冗談じゃない。私一人で国が回っているわけでもあるまいに。
そのうち、私の跡を継ぐ人間が出てくるさ」
私が冗談めかして言うと、リッケンは顔に影を落としながら呟いた。
「...聞きましたか。今やこの国のみならず、どの国でも屠殺人は就職したくない職業一位だそうです」
「らしいな」
「ええ、元より人気がある職業ではありませんでしたが、それでも屠殺人の方々には確かな矜持があり、多くの人が陰ながらに尊敬の念を抱いていた」
それが今やどうですか。リッケンは少し濁ってしまった瞳で私を見つめた。
「今やあなた方に向けられるのは侮蔑と忌避の視線だけ。
その食卓に並んでいる命を代わりに奪ってもらっているにも関わらず、その大切な行為を代理してもらっているにも関わらず、奴らの口からは感謝の言葉なんざ出やしない。
酷い話ですよ、本当に...」
彼はそう語りながら、目尻に涙を浮かべた。
そうだ、そういえばこの男は、人一倍情に厚い男だった。
良い男であり、よい父親だと思う。しかし先日第二子が生まれて喜びに満ちていた彼の顔には、その名残は見えなかった。
「何かあったのか」
「...ええ、実は妻と少し喧嘩してしまいまして」
曰はく、彼の妻は屠殺に関わる今の職を辞めてほしいらしい。
子どもの将来を考えると、今の職では偏見の目が強いし、それに寄っていじめられてしまうかもしれないという話をされ、しかしこの仕事に誇りを持っている彼は辞める気はなく、それによって大喧嘩をしてしまったらしい。
無理もない話だろう。
私は愛飲している煙草に火をつけながら、目の前の男を哀れんだ。
今やこの仕事はひどい偏見に晒されている。
子どもの将来を思う母の心に間違いはないのだろうし、この男の心にも間違いはないのだろう。なんと度し難い板挟みであろうか。救いがない。
私は心に沸いたやるせない気持ちを吐き出そうと、煙を吸いこみ、吐き出した。
肺から取り込まれたニコチンとタールが脳に回る。
僅かな眩暈とともに吐き出した煙は、何も連れて行ってはくれなかった。
リッケンは目尻の涙を拭いながら、申し訳なさそうな情けない顔をした。
「申し訳ない。
部下たちの手前、あまり情けない顔はできないのですが...」
「なに、かまわないさ。私は別に君の部下じゃない。吐き出したいことがあればいくらでも聞くさ」
何なら、今日は飲みに行くか? と誘ってみたが、彼には苦笑いとともに断られてしまった。
なんでも妻の禁酒に付き合っている内に、全く飲めなくなってしまったらしい。
それは残念だ、そう呟くと、彼はありがとうございますと優しく呟き、作業をしている部下たちに合流していった。
深く煙を吸い込み、吐き出す。
いつもの煙草のはずだったが、なぜだかいつもより少し不味い気がした。