愛されない貴妃の、想定外の後宮譚
「陛下は、曹貴妃にはお会いになりたくない……とのことです」
その宦官は険しい表情のまま、声を震わせました。
遠雷轟く荒天の中をわざわざ足を運んで差し上げたというのに、皇帝陛下は私と会うつもりはないそうです。
無理はないですね。
だって私たちはお世辞にも、仲の良い夫婦とは言えませんもの。
私とは幼馴染である劉嘉逸が、故あって皇帝に即位してからおよそ三年。官僚たちは新皇帝に取り入ろうと、こぞって後宮に妃として娘を送り込みました。かく言う私も、その中の一人です。
貴妃というやけに高い位を頂戴してはおりますが、この三年一度だって陛下の寝所に召されたこともなければ、優しい言葉一つ頂いたこともございません。
いまだに皇后の座は空席。
つまり、貴妃である私が後宮内で最も高い位でございますのに。
陛下は私のことなど、もうお忘れなのでしょう。
幼少の時分、共に学び、共に無邪気に遊んだ記憶など、陛下の心の片隅に追いやられてしまったのでしょう。
しかし、それも重々理解できるほど、陛下が置かれた状況は過酷なものでございました。
「陛下が私にお会いになりたくなければ、それはそれで結構です。ですが、きちんと太医には診て頂いているのですか? 薬湯は準備しているのですか?」
「ええ、それが……」
「陛下が臥せっておられると言うのに、その態度は何事ですか! 陛下のお命以上に大切なものは、この世にはありませんよ!」
奥歯にものが挟まったような口調の宦官に、ついぞ経験したこともない苛立ちを感じてしまい、私らしくもなく声を荒げてしまったのでございます。
笑いたくば笑いなさい。
一度も寵愛を受けたことのない、ただの幼馴染にすぎぬ私の言うことです。
陛下から愛されてもいないのに、幼き頃の初恋にいつまでもしがみつく、醜い女の戯言です。
「……」
「何故黙り込むのですか」
「…………」
「そなたは、陛下に忠誠を誓った臣下ではないのですか」
回廊に膝を付いて絶望したように頭を垂れる宦官に、私は厳しい言葉を浴びせかけました。
「……曹貴妃にお願いでございます。陛下は貴妃様を房に通さぬように、と仰っております。しかし私が考えますに、陛下をお救い頂けるのは貴妃様以外にはおられないと思います」
宦官は頭を下げたまま、今にも消え入りそうなか細い声で言いました。先ほどまで陛下は私には会わぬと言っていたにも関わらず、手のひらを返したように逆のことを言う宦官に、私の怒りは更に増幅してしまったのでございます。
「私以外には陛下を救えぬと……? 何を言うのですか! 太医はなんと言っているのですか」
私の鬼のような形相に恐れをなしたのか、その宦官は怯えながら、しかしはっきりとした口調で言いました。
「呪い! 呪いなのでございます! 陛下には、何者かの呪いがかけられているのです……!」
◇
「呪いですと……? 陛下が、何者かに呪われているということですか?」
「そうでございます。太医にも薬師にも勿論診て頂きました。が、陛下のご様子を診るに、これは何者かが陛下にかけた呪いに間違いないとのことでございます……!」
何ということでしょうか。
陛下がここ数日臥せって房から外に出られなくなった原因が、何者かの呪いだと言うのですか。
陛下が帝位に就くまでの間、確かにこの国は荒れました。
前の皇帝の崩御の後、皇太子とその兄弟たちの後継争いは、血で血を洗う激しいものでございました。
相討ちとなってしまった兄弟たちをすり抜けて、私の幼馴染である劉嘉逸に、突然のように皇帝の座が舞い込んできたのが三年前。
それをいまだに何者かが恨み、呪っているというのでしょうか。
後宮に数多いるの妃の中の一人に過ぎない私が陛下のお役に立てるとは、勿論思っておりません。しかし、幼少の頃より多くの時間を共に過ごした皇帝陛下が呪われているとあっては、知らぬふりはできないのでございます。
「陛下の元に参ります。他の者は、私が呼ぶまで誰も房に入って来ぬように」
「はい、承知いたしました!」
◇
陛下の休んでいるであろう房の戸を静かに開き、私はそうっと中に入りました。
陛下のために国内外から美姫ばかりが集められた後宮。一体何人の妃がこの敷居を跨いだのだろうかと思うと、私の胸は締め付けられ、頭の先まで悲しみが巡ります。
幼き頃の初恋の君。
まさか貴方が帝位に就くなど、想像だにしなかったあの懐かしき日々。
突然手の届かないところに行ってしまった幼馴染の寝顔を、私は静かに、息を殺して眺めます。
(嘉逸……。こんなにやつれて……)
眉間に深い皺を寄せた幼馴染の顔は青白く、頬はこけ、即位したあの日の凛々しい姿の面影は消え去っていました。
誰が陛下に呪いをかけたのか、恨めしい気持ちと腹立たしい気持ちとで私の心は張り裂けんばかり。震える手で、陛下の顔にかかった髪をそっと耳にかけます。
「陛下。貴方は一体、どのような呪いをかけられたのでしょうか」
「…………そなた、春麗か」
目を閉じたまま、額に汗を浮かべた陛下が、私の名を呼びます。春麗とは、また懐かしい呼び名で読んで下さったものです。後宮に入った三年前より、誰しもが私のことを曹貴妃と呼ぶにも関わらず。
「陛下、お目覚めでしょうか。春麗にございます。陛下が私と顔を合わせたくなかったことは存じ上げておりますが、陛下のお体を心配するがあまり、無理を言ってここまで入らせて頂きました。他にも寵姫は数多おられましょうに、申し訳ございません」
「寵姫など、おらぬ。何を言っているのか」
顔の側に置いた私の手を取り、陛下は上半身をもたげます。苦しそうな表情に胸が痛み、私も体を起こすのを手伝いました。
「陛下が何者かに呪いをかけられていると聞きました」
「……そうだ。だからそなたに会いたくなかったのだ」
「私に会いたくないという気持ちは分かります。ですが、陛下はこの国を統べる御方。後宮に住まう妃の一人として、この状況を看過することはできません。私で何かお役に立てることがあれば、お申し付け下さいませ」
寝台の上に体を起こした陛下は私の手を放そうとはなさらず、じっとこちらを見つめています。こんな近くで嘉逸のお顔を見たのは、いつぶりでしょうか。
「私にかけられた呪いは……」
「呪いは?」
「……頭で考えていることが、全て言葉に出てしまうという呪いなのだ」
◇
「考えていることが、全て言葉に……出てしまう?」
私が想像していた呪いとは、一味違うようです。
正直に申しますと、もう少し深刻な、命に係わるような呪いなのではと思っておりました。
例えば、
『眠るたびに物の怪に襲われる夢を見る呪い』とか、『口にする言葉が全て現実のものとなってしまう呪い』とか。
もしくは、誰とも会いたくないという今の状況から察するに、『会って話した者を必ず殺してしまう呪い』とか。
それなのに実際は、『考えていることが、全て言葉に出てしまう呪い』ですと。
……何だか少々滑稽なもののように思うのですが。
「陛下。思ったことを全て口に出してしまうと、何か問題でもあるのでしょうか」
「春麗! 何を言うのだ! 皇帝という立場で、自身の思うがままに言葉を発してしまうなど、大事にもほどがある。ちなみにそんなことは置いといて、なぜ春麗は今日もそんなに愛らしいのだ」
(…………?)
「陛下……今、なんと仰いましたか?」
「春麗はなぜ今日もそんなに愛らしいのか、と言ったのだ。透き通るような色白でほっそりとした手、良く手入れされた艶のある豊かな黒髪、まるで私を誘っているような色を宿した瞳。とんでもなく可愛いのを自分で全く自覚していないところがまた最高である」
「…………」
「もうそなたが可愛すぎて、近くにいたら仕事にならんからなるべく顔を合わせるのを避けていたと言うのに。うわっ、やめてくれ。そんなに至近距離から見つめられると、幸せのあまり失神してしまいそうだ」
あの……どなたか。
陛下がおかしなことを口走り始めたのですが、これが陛下にかけられた呪いでしょうか?
この三年、後宮に侍る妃として過ごしてまいりましたが、一度だってこのようなお誉めの言葉を頂いたことはございません。陛下の口から可愛いなどという単語が出て来ることすら、驚きでございます。
そもそも、私一度たりとも陛下の閨に呼ばれたこともございませんし。てっきり陛下に嫌われているものとばかり思っておりましたが……。
「陛下。私とどなたかをお間違えではないでしょうか。私は曹春麗でございます。貴妃として陛下の後宮にはおりますが、何もお役に立てていない、妃嬪の一人に過ぎません」
「春麗こそ、何を馬鹿なことを言っているのだ。私が幼馴染である春麗を他の者と間違うわけがないではないか。本当は春麗を毎晩のように閨に呼びたいのだが、子供の頃から私が春麗一筋であることを皆に知れてしまったら、それって一体皇帝の威厳としてどうなんだろ? と思ったり、春麗に嫌われたらどうしようかと怖くなって、声をかけられないだけだ」
「……でっ、ですが、陛下。陛下が即位されて、既に三年。いくらなんでもその間に私以外の妃を閨に呼んでいらっしゃるのでは……」
「春麗のことが好きすぎて、他の妃など目に入らぬ! 無理!」
想像だにせぬ陛下のお言葉に、ただただ目を丸くして見つめるしかない私。
そして、呪いのせいなのか、ご自身でペラペラとお話なさったあとに「しまった!」という顔をして敷布に顔を埋め、顔を真っ赤にして恥ずかしがる陛下。
私はこの後、どのようにすればよろしいでしょうか?
「春麗」
「……はい、陛下」
「皇帝として、頭で考えたことを全て口に出してしまうという呪いは致命的……いや、恥命的なのだ。恥ずかしい、誰にも言えないような心の声まで、全て他人に聞かれてしまうということなのだ」
確かに、人は誰しも心に秘めておきたい想いがあるものでございますよね。かくいう私も、幼い頃より陛下のことだけを一途に想い続けて来たこの恋心は、できれば隠しておきたい秘密でございました。
でも……
今は、陛下にだけ恥をかかせるわけには参りません。
陛下にお仕えする後宮の妃として、まずは私が率先して辱めを受けなければならないのでございます。
「陛下!」
「……! なんだ、突然大声を出して。驚くではないか」
青白い顔をしている陛下の両頬に、そっと手を当てて。
私はじっと陛下を見つめます。
「私は、幼い頃よりずっと陛下のことをお慕いしておりました。私のことを可愛いと言って頂けて、春麗は幸せ者でございます。私は決して陛下のことを嫌ったり致しませんし、この呪いがご政務に障るようでしたら、私の全てをかけて陛下をお支え致します」
「春麗……」
「これからは心の中に留めず、私への気持ちを今のように言葉にして伝えて頂けますか? 私実は、この三年とても寂しい思いを致しました。陛下が私のことなどすっかりお忘れになってしまったのではないかと……」
「何を言うのだ! 私が春麗のことを忘れるわけがないではないか! 」
縋るような瞳で私を見つめる陛下は、あの幼い頃の劉嘉逸のお顔そのものでございました。
陛下は、あの頃から変わっていらっしゃらない。私のことも忘れていらっしゃらない。
突然思わぬ形で皇帝という位についてしまった陛下も、きっと私と同じように色々と思い悩み、一人で苦難を乗り越えようとなさっていたのですね。
「陛下はお一人ではございません。私も陛下のことを命をかけてお支え致しますし、この後宮には同じような妃嬪がたくさんおります。どうか、お一人で全てを背負われませぬよう……」
「何度言わせるのだ! 私は、春麗以外の妃など、どうでもよい。幼い頃より春麗だけを見てきた。皇帝にならなければ、春麗だけを娶って二人で暮らしたものを……」
ご自分で色々とお話なさりながら、恥ずかしそうに頬を染める陛下は、それはそれは可愛らしいのでございます。
「春麗。今まで本当に済まなかった。そなたに冷たく接したのも、一度も私の元に呼ばなかったのも、全て……」
「陛下、分かっております。もうそれ以上は」
「いや、言わせてくれ。今までの仕打ちは全て、私が……どうこうというより、どちらかというと春麗が可愛すぎるのがいけないのだぞ! 幼い頃とは違い、化粧をしているだろう。その襦裙もけしからん。そなたの美しさを引き立ててしまうではないか。私以外の男が春麗を見初めたらどうする気なのだ! そもそも、春麗は自分の美しさに気付いていないところがまず駄目なのだ。それに、そんな状態でそなたを私の閨に呼んだらどうなる。想像するだに恐ろしい。だからそなたは……」
陛下が私をお叱りになる言葉はとどまることを知らず。
そのまま明け方まで、『陛下の本心を語る会』が続いたのでございます。
この呪いをかけたのが一体何者なのか、いまだに分かっておりません。
ですがこの日以降、私、曹春麗は皇帝陛下の寵を一身に受けることとなり、私たちは仲睦まじい夫婦として、後世の史書にも記されることとなったのでございました。
今思えば……ですけれど、皇帝陛下にかけられた呪いは、陛下の本心を知りたくてたまらなかったどこぞの女が、無意識のうちに陛下にかけてしまった呪いかもしれませんね。
そう、例えば、私のような女が。
最後までお読み頂きありがとうございました(^^)/
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