第1話 プロローグ
人は死ぬと天国か地獄に行くと誰かが言う。
けど、俺はそうは思わない。
今生きているこの世界こそが地獄で、そして死んだ後も別の地獄へと落ちるのだろう。
七難八苦を味わい、千辛万苦を乗り超え、艱難辛苦の果てに、次の地獄を巡る。
それが人間に与えられた定め。
苦痛の果てにもがき苦しむことを強制された運命。
理不尽で、不平等で、不条理で、思わず苦笑が漏れてしまうくらいには救いが無い。
天国という場所を考えた最初の人間は、きっとこの世界に絶望したのだろう。
どこかに理想郷があると思い込まなければ生きていけなかったのだ。
だから別の世界に救いを求めた。
そして俺もまた例外なく、地獄にいる——
——戦場に放り込まれて、約十分が経過。
俺は今、短剣で顎を貫かれて絶命した魔獣の下敷きになり、その魔獣に頭部を噛みちぎられて絶命した兵士の死体にサンドイッチされた状態で地面に這いつくばっている。
戦争が始まって直ぐの出来事。
薄暗い地下の戦場に大地を震わせる怒号が響き渡り、敵の進軍に合わせて土埃が舞い上がった。その後、土埃のカーテンを翻して一体の黒いシルエットが姿を現す。
ハア、ハアと荒い息を漏らすソレは、しなやかな体格と黒一色の体皮が特徴的で、巨体を支える四足、その太股部分はたくまし過ぎるくらいに筋肉が盛り上がっていた。口元に覗く鋭利な二本の牙が凶悪な顔つきによく似合っている。
四足歩行の肉食魔獣『黒魔豹』は、黒い巨躯を揺らして前線に突っ込み、そして、兵士の一人を殺した。
一瞬の出来事だった。
隣に立つ兵士の頭部が噛みちぎられ、鋭い歯で顔をすり潰され、咀嚼されるその瞬間を俺は間近で見ていた。首を失った胴体は糸が切れた人形のように膝をつき、地面にぐしゃりと倒れ込む。俺は膝を小刻みに震わせ、その場を一歩も動けなかった。
首一つ胃袋に収めた巨大な魔獣は次の獲物を俺に決めたらしい。真っ赤な両の眼を爛々と輝かせた魔獣は俺を睨み付け、腹の底から唸るような低い重低音の咆哮を一つ放ち、捕食しようと鋭利な二本の牙を突き立ててくる。
俺は恐怖のあまり、戦場で情けなくも尻餅をついた。
死にたくないと目を瞑り、顔を背け、腕で顔を覆い、暗闇に救済を求める。
訳も分からず、意味も無く死んでいく惨めな自分の人生に呪詛を吐くこと数秒。永遠のように感じる暗闇の中。
——しかし、何時まで経っても死神の鎌が俺の首を刎ねることは無かった。
恐る恐る目を開くと、魔獣は俺の目の前で口をあんぐりと開いたまま固まっている。今この瞬間だけ、まるで時が止まったかのように魔獣は微動だにしない。
「…………へ?」
状況が読み込めず、ただ茫然と魔獣を見つめる。
すると手に生暖かい液体の感触。瞬きするのも忘れて視線を下にずらすと、右手に持つ短剣が魔獣の顎下に刺さっており、赤い液体が短剣の柄を伝ってポタポタと垂れ落ち、俺のズボンに染みを作っていた。
どうやら、顔を覆おうと無意識に振り上げた手、その手に固く握り締められていた短剣が偶然魔獣の顎に突き刺さったらしい。
瞳の光を失った魔獣は体の支えをなくし、そのまま俺に体重を預けて覆い被さる。腰が抜けて動けない俺は、そのまま魔獣の巨躯に押しつぶされて仰向けに倒れ込んだ。
恐怖で口周りの筋肉がこわばり、叫んでも声にならない。ひゅー、ひゅーと荒い呼吸の音だけが口から漏れ出る。短剣を引き抜こうにも手がガタガタと震え、思うように力が入らなかった。
魔獣の生暖かい唾液と鉄臭い血液、先ほど捕食された兵士の血と細切れになった肉片、それらが混ざり合った赤黒い液体が魔獣の口からボトボトと垂れ落ち、俺の顔面へと降り注ぐ。
熱い、臭い、そして汚い。
——これが死だ。
俺は今、死を五感全てで感じている。
口は血の味を、耳は絶叫を、鼻は死体の腐臭を、肌はまだ生暖かい魔獣の血と唾液の温度を。
そして俺の目には、戦場に積み重なる死体の山が映し出されていた。
戦場は見渡す限り死で溢れている。
自分よりも一回り体格がデカい筋肉隆々の戦士が、質の良さそうな鉄製の防具を身に纏った兵士が、一人、また一人と異形のバケモノに食い殺され、戦場で命を散らしていく。
腹を切り裂かれて腸を体外にぶちまけた死体が、頭を斧で断ち割られ脳漿をまき散らした死骸が辺りに散乱している。そんな死体の山に魔獣が数体群がり、我先にと争うように口をつきつけ、肉を貪っている。
軽い、命が軽い。
命がゴミのように消し飛び、誰かの人生がそこで終わる。
長剣と戦斧がぶつかり合う甲高い金属音と、激痛にもだえ苦しむ兵士の断末魔と、遠距離魔法が着弾して地面を抉る轟音が、耳鳴りと共に恐怖を運んでくる。
兵士達の狂乱、混乱の坩堝。
狂ったように互いを殺し合う凄惨な光景を目の当たりにして、心の中で大事な何かが擦り減っていくのを感じた。この戦場に倫理や道徳といった概念は存在しない。ただ知能を獣にまで退化させた人ならざる者同士の生存競争だけがそこにある。
ここは本当に現実なのか?
新兵に自慢の長剣を見せびらかして威勢を張っていた先輩の『奴隷兵』が真っ先に死んだ。今や俺の背中に押し潰され、物言わぬ骸に成り果てている。
数分前まで先輩だった物。頭部が欠けた首なし死体は俺と魔獣の体重に押しつぶされ、首からぴゅ~ぴゅ~と鮮血をまき散らしている。
むせ返るような血と鉄と死の匂い。
灰色の地面が血を吸って赤一色に染まり、戦場に赤い花が咲き乱れている。
咲いている花はきっと彼岸花だろう。彼岸、この世ではない何処か。つまり、死んだ向こう側。あの世。——別の世界。
俺はこの戦場をどこか非現実的な場所のように感じていた。まるで夢の世界にいるような、自分がいるべきでない別の場所のような、そんな感覚。
《《日本人》》の俺にとって戦争などスクリーンの向こう側の出来事だった。
真面目な表情を取り繕ったテレビキャスターが、どことも知らない国で、誰々が死んだなどと熱の入った口調でニュースを読み上げ、評論家もどきと熱い議論を交わしている。そんなテレビの報道をどこか冷めた目で見ていたのを覚えている。
ただ漠然とした不安を抱え、意義を見出せないまま学校へ通う毎日。そんな冴えない学生だったはずだ、俺は。
しかし、テレビの中にしかないと思っていた光景が目の前に広がっている。
ただの一市民であるはずの俺が、鉄の鎧を身に纏った男達がひしめき、剣と盾でバケモノ達と殴り合う前時代的な戦場に立ち、そして死にかけているのだ。
(クソがッ‼ どうしてこうなった?)
湧き上がる幾つもの疑問。
しかし、どれだけ脳裏で答えを探し続けても何一つ結論は出ない。ただただ理不尽に俺は暴力に晒されている。
こんなクソったれな戦場で死にたくない。
死の恐怖に駆られ、俺の瞳に涙が溜まる。気が付けばパンツの中は糞尿でぐちゃぐちゃになっていた。いつの間にか漏らしていたらしい。
震える手を短剣から離し、血まみれになった顔をぬぐう。
戦争が始まってまだ数十分しか経っていない。
体の感覚はとうに麻痺しており、全身が小刻みに震えている。臭くて、暑くて、耳鳴りがして、とにかく最悪だ。もう何十日もぶっ続けで戦っているみたいな、そんな感覚すら覚え始める。
いつ終わる? いつ帰れる? 後どれだけ生き残ればいい?
上手く呼吸が出来ない。ショック症状に陥りかけていた自分の体を落ち着かせようと、大きく息を吸おうとしたが、失敗した。戦場の腐敗臭を思いっきり嗅いでしまい、思わずむせる。吐き気を催す異臭にやられて胃液をぶちまけた。だが、胃の中が空っぽになり吐き出す物が無くなった事で、少し冷静さを取り戻す。
(ここにいたら間違いなく死ぬ。どこか安全な場所へ……っ!)
そんな事を考え、魔獣の下から這い出ようとした時、後方の城壁から大量の矢が放たれるのを視界に捉えた。
地下の大空洞。
太陽の代わりに光を放つ天井の巨大な青色水晶を掠め、矢の雨が弧を描いて俺の頭上に降り注ぐ。
(味方ごと、お構いなしかよ!)
俺は慌てて魔獣の下に潜り込み、顔半分を血溜まりに浸しながら矢の雨をやり過ごす。
今だ嗅ぎなれない血の匂いを強制的に頭の外へと追い出し、できる限り体を縮こませて矢が当たらないよう必死に祈る。
前線で戦う奴隷兵を巻き込む形の弓射支援。
「支援」などと、おこがましい。やっていることはただの殺戮だ。
どうやら俺達『奴隷兵』は肉壁以上の役割を期待されていないらしい。
(クソ、クソ、クソ、クソ、クソっ!)
ヒュン、ヒュンという風切り音が続けざまに鳴り響き、大量の矢が飛んでくる。
魔獣の死体に何本もの矢が突き刺さり、そのうちの一本の矢が伏せている俺の鼻先を掠めた。死と隣り合わせの戦場を否応なしに自覚させられ、心臓がキュッと締まる。
近くで誰かの悲痛な断末魔が上がる。
敵が近くにいるのかっ? いや、そもそも敵ってなんだ? 俺は誰と戦ってんだ?
訳も分からずこの異世界にやって来て、奴隷に身を落とした時の記憶を思い出す。
『地上に上がってくる魔族のクソ野郎を殺せ‼ そうすれば俺達は自由の身だぁ‼』
そう言って新兵を鼓舞していた先輩奴隷兵はもうこの世にいない。
俺達の敵は『魔族』。
人間とは異なる容姿を持ち、他者と言語による意思疎通が可能で、理性的かつ社会的な行動が取れる知性があり、独自の文化を育む種族の呼称。
そして、人類に仇なす存在。
魔族を殺すこと、魔族から都市を守ること、それが俺達『奴隷兵』に与えられた使命だ。
ここは、地上の『人間界』と地下の『魔界』を繋ぐ地下迷宮内の大空洞。
地下迷宮二十五階層、砦城壁前の平野。
都市一つすっぽり入って余りある巨大な地下空間で、俺達は誰とも知らない『魔族』とかいう連中と仲良く殺し合っている。
(本当に、どうしてこうなった?)
俺はまだ死にたくない。《《また》》死にたくない。
辺りには、緑色の肌に人間の腰の位置ほどしかない身長の小鬼種や、頭部から猛々しい二本の牛角が突き出した上半身裸体の牛頭鬼種の死体が転がっている。
俺が先ほど偶然倒した四足歩行の「黒魔豹」は魔族ではなく『魔獣』だ。魔獣は魔族が飼いならしているペット。知能の低い獣。つまり、この戦場で一番弱い奴。
そんな魔獣一匹に奴隷兵が何人も殺されているのだ。
戦争など経験した事のない素人の俺が勝てるはずもない。
ここは逃げる一択。
しかし、敵前逃亡は極刑。奴隷兵に後退は許されていない。もし逃げる素振りを見せれば砦を守る帝国弓兵に矢で射ぬかれるだろう。
だが、どうにかして生き延びるしかない。
帝国兵の一人に半笑いでポイっと渡された、このしみったれた支給品ナイフ一本で。
俺は敵に見つからないよう匍匐前進で移動を開始。泥と血、汚物に塗れながら、少しでも安全な場所を求めて地べたを這いずり回る。
死体の影から死体の影へ。まるでネズミだ。
糞尿を垂れ流し、クソにまみれて戦場を彷徨う。
ここが地獄と言わずして、何と言う。
俺は確かにクソみたいな人生を歩んできたが、ここよりは大分マシなクソだった。
人生とは残酷で、どこまでも転がり落ちるものらしい。
地に伏せてやり過ごすことしばらく。
俺は死んだふりと匍匐前進を繰り返し、姑息にも前線から撤退しようとしていた。
戦闘が終わった後、何気ない様子で部隊に戻り、やり過ごす。
これが今の俺にできる最善手。
兵士の誇りなど欠片もない。そもそも俺は兵士ではない。死んで得られる誇りなど犬にでも食わせておけばいい。
そんな時、近くでより一層激しい戦闘音と誰かの悲鳴が聞こえてきた。
俺は死んだふりがバレないようにそーっと頭を持ち上げ、周囲の状況を確認する。
視界に《《ソレ》》を捉え、俺の表情は驚愕に変わった。
——俺はこの地獄の戦場で一人の少女と出会った。
天使と見紛う美しさ。
芸術作品のように整った顔立ち。美しい光沢を放つ艶やかな銀髪が肩口まで届くか届かないくらいの長さまで伸びている。
少女から大人へと成長する過程、その一瞬を切り取ったかのようだ。シルクのように透明感あふれる白い肌に、細身で華奢な体が、彼女の儚げな様子をよく表している。
着ている服は黒と白を基調とした戦闘服。
薄汚れた白灰色の奴隷服の上から最低限の武装を纏っている。鎧と武器で身を固めた屈曲な男達がひしめく戦場の中、有り得ないくらい軽装だ。
弓矢が剣山の如く地面に突き刺さるこの戦場のど真ん中、彼女はナイフ一本片手に自分よりも体格のでかい敵を次々と屠っていく。
牛頭鬼種が振りかざす無骨な戦斧を小さな短剣で軽々と受け流し、首をなぞるようにして急所を切り裂く。凄まじい速さで突っ込んでくる魔獣犬の牙をひらりと躱し、目玉にナイフを突き立てる。
背後から奇襲してきた小鬼種に振り返ることなく、逆手に持つナイフで頭部を刺し殺し、小鬼種の死体を持ち上げて飛来する弩の矢を防御。背を向けて逃げ出す猪人種に落ちている槍を拾って投げつけ、串刺しにする。
それは一方的な蹂躙だった。
彼女の白い服は返り血を浴びて真っ赤に染まっている。
命を刈り取る斬撃の嵐をひらりひらりと躱しては、銀の閃光が美しく煌き、また一つ彼女の周りに骸が積み重なる。
まるで踊るように、演奏を指揮するように、彼女は戦場を支配する。
彼女が振るう短剣の軌跡はいっそ優雅と表せるほどに迷いなく一直線に敵を貫く。地獄に舞い降りた天使が死体の上で優雅に円舞曲を披露していた。
俺はその時、目を奪われてしまった。
ここが戦場であることを忘れて、ただ屍の上に立つ彼女を見つめ続ける。
全てを見透かす黄金玉の瞳が蒼いクリスタルの月光に照らされて、より一層神秘さを帯びる。彼女の瞳は神々しさを覚えるほどに綺麗で美しく、その瞳に地べたを這う自分の姿が映ることが酷く情けない事に感じた。
——俺は地獄で殺戮の天使と出会った。
異世界に転生して七日目、その日は俺『橘琉斗』の十八回目の誕生日だった。
最後まで読んで戴き、本当にありがとうございます。
どん底から這い上がる系主人公が好きだ!
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鈴夕のやる気とモチベーションが爆上がりします。