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遠眼鏡

作者: ハシモト

 明るい茶色の巻き毛の女性が、部屋の出窓に置いた鉢植えに水をやっている。


 小さな白い壺に入れた水を一通り捲き終わると、そこに咲いている赤い天竺葵(ゼラニウム)の花に愛おし気に触れた。そして顔を寄せてその香りをかいでいる。


「ノア、今日はそれぐらいでいい。明日、フェルナー家のジョージさんがお見えになる。なんでも紛失物の調査とか言っていたから厄介事のようだ。予備の遠眼鏡を出すからその準備をしてくれないか?」


 もう50を優に超えた、中年と言うよりは初老に近い男性が、遠眼鏡を覗いていたノアに声を掛けた。


「はい、お師匠様」


 ノアは元気よく彼の師匠に向かって答えた。一見するととても気難しい感じがする人で、実際の年齢よりもはるかに老けて見える。おそらく彼の顔に刻まれた深い皺の数々が彼をそう見せているのだろう。


 だが弟子のノアは彼が見かけによらず、とても親切で優しい人であることを良く知っていた。何せ、赤子の時に捨て子としてこの家の前に捨てられていた自分を、この15になるまで大切に育ててくれたのだ。


 思い返すと彼に怒鳴られたような記憶はほとんどない。あっても触れてはいけないと言われていたものに触れて怪我をしそうになった時など、全部自分が怒られてしかるべき時だけだ。


 ノアはこの師匠の事を心から尊敬している。彼は天才的な魔道具製作者だった。それも他の誰もが作ったことがない独創的というより、想像もできないような魔道具を作り出した人だ。


 机の前に置かれた真鍮と金で出来た遠眼鏡。角灯(ランタン)の黄色い光を受けてまばゆいばかりに輝くそれは、彼がこれまでの一生を捧げて作った、そして彼しか作れない魔道具だ。


「遠眼鏡」


 師匠はこれを単にそう呼んでいる。だがこれは遠くの景色を見るためのものではない。


 実際のところ、ノアが覗いていた遠眼鏡の前には鉄の目隠しで閉じられた頑丈な窓があるだけだ。その先には外の景色なんてものはない。


 これが映し出しているのはある場所の過去の風景。この遠眼鏡の「遠く」は場所だけではない、時間についても「遠く」を見せてくれるのだ。


 師匠はこの遠眼鏡を使ってちょっとした商いをして生計を立てていた。死に目に会えなかった人の死に目に会いたい人。過去のある思い出をどうしてももう一度見たい人。そんな人が師匠のこの家の扉を叩く。


 彼らは遠眼鏡の中に映る風景に涙を流し続ける人も居れば、自分の記憶とのあまりの違いに怒り狂って師匠につかみかかる人も居た。だが、師匠はそんな人たちに対して決して怒って見せたりはしなかった。


「過去は誰にも変えられません。それは純然たる事実なのです」


 ただ淡々と説明をするだけだ。


 もちろん激高したのちに金を払わないという人も居る。だけど師匠は肩をすくめてみせるだけで、無理にその人達から金をとろうとはしなかった。


 数日後、あるいは数ヶ月後に金をもって師匠の元に謝りに来る人も居た。彼らは自分の過去の事実を受け入れられなかっただけで、別に師匠に恨みがある訳ではないのだ。


 まだもっと幼かった時、ノアは師匠が僅かばかりの金でこの魔道具を人々に貸し与えていることが信じられなかった。やりようによってはもっと金を儲ける事が出来そうな気がしたからだ。


 例えば宝物が埋められていると言われているところを見ていれば、宝物が見つけられるかもしれない。もう少し大きくなってからそれがとても無理な事がよく分かった。


 この遠眼鏡は調整するのにとても時間がかかる。そして一度過去を覗き始めると、そこでの時間の流れはこちらと同じ。過去の一日はこちらの一日だ。


 いつ隠されたか分からないようなものをずっと見ていたら、すぐに白髪のおじいさんになりかねない。


 ただ遠眼鏡には一つ便利な機能がある。遠眼鏡の中の時間の動きを止める事が出来た。続きはまた明日という事が出来るのだ。止めている間にこちらは寝たり、食事を取ったりすることができる。


 逆に言えば過去を覗くという事は、何人かで交代しながらずっと覗いたりしない限り、こちらと同じ時間で流すことは出来ない。つまり普通に覗けば、過去の時間以上にこちらの時間を取ってしまうのだ。


 見える範囲も限られている。地形や建物も変わるような遠い過去は見ることが出来ないし、見れる範囲も限られている。街を眺望するような遠くを見るようには作られていないらしく、ある距離より遠くにあるものはぼやけてはっきりしなくなる。


 つまり見るという点においても、普通の遠眼鏡を覗くのと同じ様に使える訳では無い。だから基本的には場所と時間がはっきり分かっているものを見るというのが普通の使い方だ。


 でもまれに場所ははっきりしているが、時間がはっきりしないものを見たいという依頼が来る。しまっておいた何かが無くなったとか、どこにおいたか分からなくなったとかという探し物の類だ。


 殺人の現場を調べたいという依頼もあったが、師匠はそう言う依頼は色々と理由をつけてやんわりと断っていた。


 この窓に鉄の目隠しがついているのは単なる遮光のためだけじゃない。これの存在で自分の犯罪が暴かれるかもしれないと思う奴らが襲ってくるのを避けるためでもあった。


 明日来るフェルナー家の件もどうやら探し物に関する件らしい。つまりは誰かが、ノアがずっと覗いていないといけないやつだ。


 それはさっきまでノアが覗いていた遠眼鏡もそうだった。だけどこれは客からの依頼ではない。この遠眼鏡の中にはノアがよく知った人も出てくる。若かりし日の師匠だ。この遠眼鏡は師匠の過去をずっと覗いている。


 特に何も依頼がないときには師匠の指示で、ノアはずっとこれを覗き続けていた。


* * *


 朝日が昇るとすぐに、ノアは水を汲んで朝食の準備を始めた。仕事部屋を覗くと、どうやら徹夜で作業をしていたらしい師匠が椅子を並べ、その上に外套を掛けたままで寝ている。


 何台かある遠眼鏡の内の一台が新しく作業台に置かれて、辺りには複雑な内部を構成するねじやら呪符やらも台の上に置かれていた。場所と時間を設定するための準備の途中で寝てしまったらしい。


 遠眼鏡はとても繊細な魔道具だった。一度使った遠眼鏡はしばらく休ませないと別の場所や時間を映し出すことは出来ない。それに調整に失敗すると、映す以前に休ませないとまた使えなくなってしまう。


 最近は珍しく立て込んでいて、すぐに使えるのはこの予備の一台だけだ。ノアは師匠の寝室から毛布を一枚持ってくると、音を立てないようにしながらそっと師匠の上に被せた。


「おや、もう朝かい?仮眠のつもりがそのまま寝てしまったようだな」


「すいません師匠。起こしてしまいましたか?」


「いや助かった。もう年だからな。このままここで寝ていたら風邪をひいてしまう。」


 そう言うと師匠は椅子から身を起こして凝り固まった肩をゆっくりと回し、大きく背伸びを一つした。そして机の上に置かれた遠眼鏡を一瞥するとノアを手招きする。


「何回か調整は教えてきたが、だいぶ上手にできるようになった。今回は最後の設定より前まではお前に頼もう。もうそこまでは出来てもいい頃だ」


 ノアは驚いた顔で師匠を見た。調整を任されるなんてのはまだまだ先のことだと思っていたからだ。


「ジョージさんが来るのは向うの仕事が終わってからという話だから、夕刻を回ってからだろう。一寝入りするぐらいの時間はあるな。出来るとこまでいいから調整をやって、終わったらいつもの仕事を頼む。」


 そう言うと痛みがあるのか、腰に手をやりながら寝室のドアを開けて中へと入って行った。やがてドアの向こうからは師匠のいびきが聞こえてくる。


 ノアは有頂天だった。師匠が自分の事をいっぱしの魔道具使いとして認めてくれたという事だ。朝食の準備を棚上げして、さっそく作業机の前へと向かう。


 そこには途中まで調整が終わった遠眼鏡が置いてある。頭の中で師匠から教わった段取りと注意すべき事柄を思い出しながら、早速ノアは遠眼鏡の調整に手を付けた。


* * *


 明るい茶色の髪の毛の女性が、深刻な顔で部屋の椅子に座っている。彼女は何やら落ち着かないらしく、さっきから立ったり座ったりを繰り返していた。そして時折大きなため息もついている。


 師匠から言われてた遠眼鏡の調整はあっという間に終わってしまった。後は客から場所と時間の指定を聞くだけだ。もしかしたら師匠が調整するよりもうまく準備が出来た様な気もする。


 師匠は天才的な魔道具設計師だが、手がとても器用と言う訳ではない。もしかしたら不器用な方かもしれない。よく歯車やねじを床に落としては、角灯を手に床をはいずって探している。


 ノアは設計師としては師匠の足元にも及ばないが、物心ついた時からずっとこの遠眼鏡を扱ってきた。それに手先も器用な部類に入るのかもしれない。師匠よりもはるかに短い時間で準備を終えてしまった。


 そのうち最後の設定もやらしてもらえるかもしれない。師匠から直接に教わったことはないが、ずっと側で見て来たのだ。その全てを頭の中で再現できる。


 そんな妄想に浸っている間に、遠眼鏡の中の女性がもう何度目か分からない溜息をついた。これを覗いているときにはこれに集中しないといけない。見逃したらそれでお終いだ。時間を巻き戻すことはできない。


 それにこの遠眼鏡は覗いた時間だけ休ませないといけなかった。それと同じ場所、時間を別の二つの遠眼鏡で覗くこともできない。


 ノアにはよく分からないが、師匠が言うには干渉という奴がおきてどちらも見えなくなってしまうらしい。だから長く覗いているこれをもう一度見ようとしたら、それは大変な時間と手間がかかってしまう。


 背の高い身なりのいい服を着た金髪の男性が、不意にノアの視界に飛び込んできた。片手には大きな鞄を下げている。男は女性の居る二階の下にある、この家の玄関の前に立つ。彼はしばし躊躇した後に、玄関の扉にある小さな真鍮のたたき金を叩いた。


 その音に二階の部屋にいた女性が、窓の出窓から身を乗り出して下にある玄関を覗き込んだ。下に男が居るのを見た女性は体を起こすと、驚きだろうか、恐怖だろうか、両手を口に当てながら緊張した表情をして見せた。


 そこにはいつもの朗らかな表情はどこにもない。この遠眼鏡をのぞきはじめてから何年か経つが、今まで一度も見たことがない表情だった。


『この男だ。』


 ノアは思った。師匠から言われた男だ。この男がこの家を訪ねてきたらすぐに私を呼べと言われていた男だ。


 ノアは背後の師匠の寝室をふり返った。そこからはまだ軽いいびきが聞こえてきている。ともかく一度時間を止めないといけない。


 慌てて時間を止めるためのノブを回す。だがいつの間にか手のひらにはべっとりと汗を掻いていて、もう少しで時間を止めるどころか、遮断してしまうところだった。


 椅子の背もたれに身を預けて、気を落ち着かせるために大きく深呼吸をする。師匠からこのことを伝えられてから一体何年が過ぎただろう。


 最初はこの家に来客があるたびに師匠を呼んでは、この男ではないと言われ続けていた。そのうちそれは師匠の妄想で、そんな男は実在しないのではないかと疑っていた時期もあった。そして今日、とうとうその男が現れたのだ。


 師匠を、師匠を今すぐ起こさないといけない。


* * *


 師匠は椅子に座ると遠眼鏡を覗き込んでノブを回した。次の瞬間、はじかれるように目を離すと、天井のどこでもない一点を見つめる。やがて意を決したように再び遠眼鏡を覗き込んだ。


「ああ…ああ……」


 師匠の口から悲しみとも驚きともいえない、言葉にならない何かが漏れてくる。


「ノア、悪いが外に買い物に行って来てくれないか?」


「はっ、はい。お師匠様、何を買いにいけばいいでしょうか?」


「何でもいい。何か必要なものがあるだろう。それを考えて買いに行け!」


 師匠の口からノアが聞いたことがないような怒声が響いた。ノアはびっくりしてしばし固まっていたが、棚から買い物用の小銭入れと、買い物袋を取ると逃げるように師匠の仕事場兼自宅から飛び出した。


 どこをどうさまよったのかは全く覚えていない。再び仕事場兼自宅に戻ってきたときにはもう夕刻近くになっていた。買い物袋にはいつの間にかニンジンが数本に、牛乳が入った小瓶、それに小麦の袋が入っている。


 ノアが戻ると、いつも雑然とはしている作業部屋だったが、そこはまるでつむじ風が吹いた後の様だった。椅子が床に倒れ、仕事机の上に積んであった本やメモ書きなども辺りに散らばっている。


 準備まで終わっていた遠眼鏡も、ノアがいつも見ていた遠眼鏡も、窓際の方に横倒しになっている。それに磨き粉の粉が作業台の上に飛び散って、台の上だけでなく床まで真っ白になっていた。


 寝室に居るのか師匠の姿もない。ノアは買い物袋を台所の調理台の上におくと、床に散らばっている本やメモ書きなどを拾って作業台の上へと置いていった。


 作業台から遠眼鏡を食卓の方へ置きなおし、台所から持ってきた雑巾で飛び散った磨き粉を拭いていく。


「ノアか?」


 寝室の向こうから師匠の声が不意に響いた。


「はい、お師匠様。先ほど戻りました」


「さっきは大声を上げてすまなかった」


「いえ…」


「もう遅い時間にすまないが、フェルナー家まで行って、今回は機械の問題からお断りさせていただきたいと伝えてきてくれないだろうか?」


「はい。伝えて参ります」


「頼んだよ。私は少し疲れてしまってね。ゆっくりと休ませてもらうことにする」


 ノアは衣服掛けから少しはましに見える外套を取り、うっすらと被っていた埃を叩いて身にまとった。


 ここからフェルナー家までは少し距離がある。急ぎ足でいかないと、こちらが着く前に執事のジョージさんが出てしまうかもしれない。


 師匠は今日は客に会いたくない気分だろうから、入れ違いになると面倒だ。辛いが少し駆け足で行こう。


* * *


「ただ今戻りました。」


 フェルナー家にはジョージさんが出る前にたどり着くことが出来た。


 ジョージさんは残念そうな顔をしたが、まあ今日すぐに必ずという訳ではないと言って、師匠によろしく伝えるように言ってくれた。お得意様なので機嫌を損ねずに済んだのは助かった。


 ノアが戻って来た頃にはもう真っ暗だった。ジョージさんから角灯を借りてきて本当に良かった。


 だが家の中は真っ暗で、灯の一つもついていない。師匠はだいぶお疲れの様だったからまだ寝ているのだろう。借りた角灯の光を頼りに、中に入って外套を衣裳掛けにかける。


 師匠を起こすと悪いので、音をたてないように作業部屋に入った。すると作業部屋の暗がりの中で大きな影がゆっくりと回転している。一体何だろう?


 角灯の覆いをあげて前に出すと、そこには天井の梁から力なくぶら下がった師匠の体が、ゆっくりと右へ左へとかすかに回転していた。


「ひーーーーー!」


 ノアは思わす悲鳴を上げてしまう。いや、そんな事をしている場合じゃない。師匠を助けないといけない。


 師匠の足元には椅子が一脚倒れているが、背が低い自分ではその椅子だけでは天井の梁までとても届かない。作業机に椅子を上げれば、もしかしたら自分の手でも届くかもしれない。


 借りてきた角灯を作業机の上に置く。そこにはひん曲がって、中の部品がまるで内臓のように飛び出した遠眼鏡が一つと、師匠が何かメッセージを書いたらしい一枚の紙が置いてあった。


「ノア、全てお前に譲る。今まで有難う」


 ノアは角灯を手に取ると、天井からぶら下がる師匠を見あげた。その目にはなんの光も宿してはいない。ノアは全てが手遅れだという事を悟った。


 師匠はこの壊れてしまった遠眼鏡の中で、一体何を見たのだろう。それは本当に自分の命を絶ちたくなるような何かだったのだろうか?


 その傍らに置かれた予備の遠眼鏡を見る。今日の仕事の為に用意しておいたものだ。これを使えば、師匠が最後に何を思って何をしたのか分かるかもしれない。だがそれを知ってどうするというのだろうか?


 そこに映るのは過去だ。誰にも変える事ができない過去だ。


 作業用の車輪が下についた椅子を引き寄せると、何気なく残った遠眼鏡の前に座った。頭の片隅では人を呼んで、師匠を上から降ろしてやらないといけないという事は分かっている。


 でもいつもやっていた日常が突然失われたことに耐えられなかった。いつものようにノブを回してみる。調整前だ。何も映る訳は……


 そこには泣いている女性と、彼女の肩に手をやる金髪の男性が映っていた。思わず目を離して横にある壊れた遠眼鏡を見る。


 間違えて置いたんだ。磨き粉を掃除するときに、いつもの遠眼鏡と準備中の遠眼鏡の位置を逆に置いてしまったんだ。それなら師匠は一体何を見たんだ?


「そうか……」


 師匠はきっと耐えられなかったんだ。遠眼鏡を見るお客でそう言う人は少なくない。過去を見てる途中でこれ以上は見たくない、あるいはもう見れないという人達だ。


 遠眼鏡の中では時間が過ぎて行き、女性が何か言う言葉に男性が頷いている。男性は持っていた大きな鞄から何やら革袋をいくつか取り出すと、女性の前へと置いた。


 男性は女性が必死にそれを押し返そうとしているのを止めると、さらに女性に向かって何かを話している。それを聞いた女性は今度は手で顔を覆って大泣きし始めた。


 それを見て何やらにっこりとほほ笑むと、男性は鞄を手に部屋の外へ、そして家の外へと去っていった。女性が窓から体を乗り出して、家から去っていく男性に向かって手を振っている。


 やがて女性は何やら決意した表情をすると、卓の上の革袋を持ってどこか見えない場所へと消えた。


 まだ大人とは言えない自分でも、師匠が何を恐れていたのかは分かった。師匠は奥さんがこの男性と浮気をしたと疑っていたのだ。そしてそれが事実かどうかをこの遠眼鏡でずっと確認しようとしていた。


 師匠は間違いなく天才的な魔道具製作者だ。だけど遠眼鏡で過去を直視できない人達とも同じだった。あともう少しでもそれを見る勇気さえあれば、それが誤解だと分かったはずだ。そして自分の命を絶つなんて事はしなかったはずだ。


 師匠はいつも過去に対して文句をいう人たちに言ってきた。


 「過去は誰にも変えられません。それは純然たる事実なのです」


 師匠はそれがよく分かっていたはずなのに……。


 ノアは背後の物言わぬ師匠を仰ぎ見た。そして立ち上がると丁寧にお辞儀をする。


「今までお世話になりました。本当に有難うございました」


 ノアの目から滝の様に涙が流れた。


* * *


「師匠、そんなにずっと覗いているとまた腰にきますよ」


「それより歯車の磨きと油さしは終わったのか?」


「はい、予備の奴も全部終わっています」


 弟子のセオがこちらに答えを返してきた。すこし口が達者すぎる所があるが、頭が良くて優しい子だ。


 しばらく一人でやっていたが、やはり年を取るとだんだん体が言う事を聞かなくなってくる。ノアはこの子を、セオを孤児院から引き取って本当に良かったと思った。


「師匠、夕飯は何がいいですか?」


「そうだな。だいぶ寒くなって来たから何か温かい煮物がいいな」


 遠眼鏡の中では今は亡き師匠と奥さんが何やら話をしている。奥さんのお腹はとても大きくなっていた。もうすぐ生み月だ。


 その奥さんに向かって、師匠が後の遠眼鏡よりは不格好な試作品らしい物を見せて、何やら色々と説明をしていた。奥さんはそれを嬉しそうに聞いている。


 そして遠眼鏡を卓の上に置くと、今度は何やら赤子用の手押し車やら、赤子用の防寒着を出して奥さんに見せた。それを見た奥さんが師匠に抱き着く。抱きつかれた師匠の口元が緩んでいる。こちらの口元も思わず緩む。


 師匠が亡くなってからノアはこの遠眼鏡はずっと封印していた。だがそれを調整して止めるつもりも無かった。自分にとってはこの遠眼鏡は師匠そのものに思えたからだ。


 最近それを出してきたのは、もしかしたら自分の親が見れるかもしれないと思ったからだった。師匠はノアについてはあまり語らなかった。師匠からはただ家の前に置いてあったとしか言われていない。


 師匠が生きていた時は、それについて何も思うところは無かった。日々の師匠との暮らしは十分に満ち足りていて何も不満も無かったし、それを知っても何も変わることはないとも思っていたからだ。


 だがだんだん自分が年をとり、師匠が亡くなった年に近づくにつれて、師匠の思い出や、自分と師匠との関わりがどうだったのかを知りたくなってきた。それこそが年を取ったというものなのかもしれない。


 遠眼鏡の中でまだ若い師匠が、奥さんと仲睦まじく暮らしている姿は本当に微笑ましい。そしてこの人の弟子になれた自分が誇らしく思えた。


「師匠、いつまで見ているんですか?鍋が煮えましたよ」


「セオ、すまないな。」


 セオの呼びかけに、ノアは遠眼鏡から顔を上げるとセオに答えた。いつまでも思い出ばかりに縋っている訳にもいかない。ノアはノブを閉じて時間を止めようとした。だがノアの目の前に見える風景は先ほどとは全く違っていた。


 奥さんが何やら苦しがっている。奥さんの周りには人が居て、その後ろで師匠がとても慌てた様子でそれを見ていた。


『何が、何が起こっているんだ!』


「師匠、冷えますよ!」


「すまないが後だ。いや、今晩の夕飯は無しでよい!」


『すまない』


 ノアは心の中でセオに謝った。だがいまここでこれを止めるわけにはいかない。


* * *


 窓の鉄の目隠しの隙間から僅かな光が差し込んでいる。その光の中で埃がまるで小さな生き物のように舞っていた。


 遠眼鏡の中では奥さんの体に師匠がすがりついて泣いている。それを何人かの男女が黙って見ていた。師匠がゆすっても奥さんの体は動かない。その目は閉じられたままだ。


 そこにはノアの知らない、感情の行き場を持て余した若かりし頃の師匠が居る。師匠の目には涙があふれ、ノアの目にも涙があふれている。


 ノアは遠眼鏡の中で、もの言わぬ人になってしまった彼女に会ったことはない。もちろん言葉など交わしたことも無い。だけどノアはこの人をよく知っていた。


 その朗らかな笑顔を、そしていつも優し気な光をたたえていた目を。だけどもう彼女の目は開かれることは無い。


 それが過去に起きた、もう終わってしまったことだと分かっていても、ノアの心は誰かの手で握りつぶされてしまったかのように痛んだ。


「師匠……」


 自分の寝室の扉の陰からセオが小さな声でノアを呼んだ。その目がとても心配そうにこちらを見ている。


「おいで。」


 セオはその小さな体を扉の隙間に通すと、ノアの体に飛びついてきた。


「怖がらせてしまってすまなかったね。私は大丈夫だよ。それよりお腹がすいた様だ。そうだな、昨日の残りで雑炊のようなものは作れるかな?」


「はい、師匠!」


 ノアの言葉にセオが顔を上げた。忘れてはいけない。自分は決して一人ではないのだ。


* * *


 日々同じような事をしていると季節の巡りが本当に早い。相変わらず遠眼鏡を調整し、客の要望を聞いてそれを見せてやることでノアの日々は成り立っていた。


 あっという間に春が来て、夏が来て、また秋が来て、冬が来る。それが一巡するたびにセオは大きくなり、そして賢くなっていく。そしてノアは一年、また一年と年を取っていった。


 最近は調整の大半はセオに任せられるようになっていた。それで空いた時間はというと、ノアは相変わらず師匠の遠眼鏡を見てしまっている。


 その中にいる師匠はずっと部屋に引きこもって、取りつかれたかのように一心不乱に何かの研究をしていた。奥さんが生きているときには色とりどりの花が咲き乱れていた出窓の鉢植えは、今では枯れた茶色い何かが乗っているだけだ。


 まれに雨戸があいた隙間からは、疲れ切って黒ずんだ顔をした師匠が、机の上に置いた試験管に向かって一心に何かの調合をしている姿が見える。まだノアの姿はどこにもない。


 やがて師匠は巨大な硝子の瓶のようなものを部屋の中へと設置し始める。雨戸が開いた時にはその巨大な瓶が一つ、一つと数を増やしていくのが見えた。


 そこには透明な水らしきものが張られ、上からは試験管が付いた、硝子の巨大な注射器まで設置されている。ほとんどの時間は閉じられた雨戸の向こうで見えないのに、ノアとしてはそれが何なのか気になってしょうがない。


 ノアはいつの間にか客の相手をするのさえもどかしく感じるようになり、セオはそんなノアに気を使ってか、客の相手まで上手にこなしていた。


 やがて容器の中では化学反応のようなものが起きて泡が発生する。その中に小さな茶色い物体があるのが見えた。


 師匠はたくさんの容器の中にあるその小さい茶色いつぶのようなものをうっとりとした目で眺めながら、その容器の一つ一つを愛おしそうに撫でている。ノアは師匠の姿に首を捻った。師匠は一体何を育てようとしているのだろう。


 また季節が変わり、夏がすぎて、短い秋が終わり、冬が来た。容器の中の茶色い粒みたいなものは、今や大人の拳を越える大きさまで成長していた。そしてそれは茶色ではなく、人の肌を思わせる色とその中に血の脈動を感じさせるものへと変わってもいる。


『これは……これは…間違いない。赤子だ』


 ノアは師匠の研究内容を理解した。師匠は何かの物質から人の赤子を作り出したらしい。彼は天才だ。この遠眼鏡を作れた人だ。彼ならそんなことだって出来てもおかしくはない。


 師匠の顔には暗い影の様なものが宿っている。そして日々、その容器の上の注射器のところから血の色をした薬剤を投与し続けていた。


 また季節が過ぎようとしている。冬の寒さは朝晩だけになり、日の光は春の陽気を思わせるものに変わっている。遠眼鏡の中では異変が起きていた。いくつかの瓶の中の赤子の成長が止まり、茶色く干からびたような姿へと変わっている。


 それを見た師匠が、ぶつぶつと言葉を吐いてはメモ書きをしている。それでもまだ大半の容器の赤子は健在だった。それは大人の二つの拳を合わせたよりも大きくなろうとしている。


 そこからさらに幾日かがすぎた。ノアはもう遠眼鏡から目を離すことが出来ないでいた。限界がくると遠眼鏡の前で意識を失いように寝て、目が覚めると遠眼鏡にかじりついている。


 ノアが目を覚ますと、いつのまにか肩には毛布が掛けられていて、横には朝食が、昼食が、夕食がそっと置いてあった。


 遠眼鏡の中の瓶の赤子はもう残りわずかになっている。だが人ならばいつ生まれてきてもおかしくはない大きさだ。遠眼鏡の中で師匠は狂気の表情を浮かべて机の上で実験を繰り返している。そこからは、あと少しだ、あと少しだと言っているのが如実に分かった。


 目が覚めた。もう今が朝なのか、昼なのかも分からない。


 体の節々が痛む。それに咳も止まらない。まるで瓶の中で干からびて行った赤子のように、ノアは自分の体も干からびて行っているような気がした。それでも遠眼鏡を覗き込んでノブを回す。


 遠眼鏡の中で雨戸の隙間からかすかに見える師匠が、悟ったような満足したような表情を浮かべていた。


 師匠の前に置かれた瓶の中には、もう完全な人の赤子としか見えないものが置いてある。その一つ以外の全ての瓶の中は茶色く干からびてしまっていた。師匠の執念は実ったのだ。


『おめでとうございます』


 ノアは心の中で師匠に告げた。そして自分が誰なのかも理解した。ノアが自分を生んだ父や母が誰かという事に興味を持たなかった理由も、師匠との日々が幸せだったからだけでは無い。そこには合理的な理由があったのだ。


 もしかしたら師匠が死ぬ前に遠眼鏡を壊そうとしたのは、単に続きをみる勇気が無かっただけでは無く、自分にこれを見せたくなかったのかもしれない。


 ノアは遠眼鏡から目を離して周りを見た。調理場の明かり窓からは赤い夕陽の光が差し込んでいる。そして背後の調理場ではセオが夕餉の支度をはじめていた。


「セオ、今日の夕飯は何かな?」


 ノアの声にセオが驚いたような顔をしてノアの方をを振り向いた。そう言えばずっとまともにセオと口すら利いていない。


「はい、師匠。魚のいいのが手に入ったので、塩を振って焼き魚にします」


「それは楽しみだ。だが私は少し疲れたのと、そうだな、着替えもだいぶおろそかにしてきたようだ。部屋で少し休むよ。」


「はい。魚が焼けたら起こします」


「それとその遠眼鏡はしまってくれないか。もうこれ以上は何も見る物はない」


「はい。でも師匠。本当にいいのですか?」


「ああ、もういいのだよ」


 そう言うとノアはセオに向かって微笑んだ。師匠が私にここを渡してくれたように、これからはお前の物になるのだ。


 ノアが久しぶりに寝室に入ると、そこはとてもきれいに片付いていた。セオが日々きれいに掃除をしてくれていたらしい。衣裳棚の中からあたらしいシャツを出す。最後はきれいに別れをつげないとセオが困るだろう。


 そうだ、私も彼に感謝の言葉を告げておかねばならない。ノアは羽根ペンと紙を一枚取り出すと、書き物机の椅子に座った。


* * *


「師匠、大変です!」


 セオの言葉にノアは目を覚ました。いつの間にか書き物机にうっぷして寝てしまっていたらしい。それに何が起きたのだろう?焦げ臭いにおいがする。もしかして火の始末を誤って火事でも起こしたのか?


 ノアは慌てて起き上がると、仕事部屋への扉を開けた。どうやら一刻は優に経ったらしく、外は真っ暗だ。


「赤ちゃんです。女性が赤ちゃんを玄関において行ってしまいました!」


 そこではセオが遠眼鏡を覗いていた。片付けろと言ったのに一体何をしているんだ。セオ、その赤ん坊は本物じゃない。偽物だ。私なんだよ。


 待て、セオはなんて言った。ノアはセオの言葉に混乱した。


「見てください。泣いています。このままだと死んでしまいます!」


 ノアはセオがどいた椅子に座った。玄関先では籠に入った赤子が泣いている。玄関が開いてとても疲れた顔をした師匠が顔を出した。そして泣いている赤子を見ると、とても驚いた顔をして辺りを見回している。


 やがて師匠は籠の赤子を取り上げると家の中に消えた。二階の雨戸の隙間から明かりが漏れる。師匠は奥さんとの子供が乗るはずだった手押し車の上に赤子を乗せて、その上に毛布をかけていた。


 さらに窓を大きく空けると、隣の誰かに向かって叫んでいる。その隙間から並んだ大きな瓶が見えた。


 最後の一つの瓶の中には干からびた茶色い何かがあるだけだった。隣近所の人らしき者が寝間着姿のまま瓶に入った牛乳のようなものを持って、玄関のたたき金を叩いている。


 玄関まで降りてきた師匠が、それをひったくるように受け取って二階へと駆け上がっていった。玄関に残された住人達が両手を上げて、しゃべりながら家へと戻って行くのが見える。


『私…私はこの子だったんですね。ありがとうございます。育ててくれて本当に有難うございました。』


 あの日と同じ様に、ノアの目から涙が滝のように流れた。


「すいません、片付けろといわれていたのに、どうしても気になって見てしまいました。それにこれを見ていて、台所を焦がしてしまいました」


 セオが本当にすまなさそうな顔をしてノアを見る。その目にノアは心の中で答えた。何をいっているんだセオ。お前は私の命、いや、命なんてもんじゃない。魂を救ってくれたのだよ。


「セオ、夕飯は外に何か食べに行こうか」


「はい、師匠!」


 そして今という奴を見に行くことにしよう。

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