第155話 初恋
俺はアゾート・メルクリウス。
大丈夫だ、俺の記憶はちゃんと残っている。
確かさっきまでは、アウレウス伯爵の執務室にいたはずだが、俺はどこかに寝かされている?
そうかネオンが客間にでも運んでくれたのかもしれないな。
だが身体が全く動かない。まるで金縛りにあっているみたいだ。
仕方がない、また少し眠ろうか・・・。
だが俺の頭に流れ込んできた記憶は誰のものだ。
これも俺の記憶・・・
・・・あ、なんだそうだったのか。
俺はこうやって死んで、そしてこの世界へ転生することになったんだ。
今ようやくはっきりと思い出すことができた。
全ては彼女との出会いから始まっていたんだ。
俺は安里悠斗。
東京にある大学の大学院で量子コンピューターの研究室に属するM2だ。
今日は学内で学会が開催されるため、その手伝いに駆り出されていた。
今日から3日間、俺は受付を担当する。学会参加者の名簿をチェックして資料を渡す簡単な仕事だ。
「おい安里、お前受付だろ。受付を手伝ってくれるバイト子を見たか?」
「いや、今来たばかりだからまだ見てない。その子がどうしたんだ?」
「めちゃくちゃ可愛い」
「え?」
「朝から学部生のやつらも大騒ぎしてるぞ。くっそ! なんで今回に限ってお前が受付なんだよ。うらやましすぎる。なあ、俺と仕事を交換してくれよ」
「・・・そんなに可愛いのか」
「かなり可愛い部類だと思う」
「ふーん・・・まあ、理系の大学にはそもそも女子が少ないから、俺達には大半の女子は可愛く見えるはずだ。期待せずに会ってくるよ」
「おはよう。今日から三日間、一緒に受付をすることになる安里です。よろしく」
先に受付に座って準備を始めていた例のバイトの子に、俺はなるべく爽やかな印象を心がけて挨拶した。
俺もご多分にもれず、私立の進学校から理系の大学に進学したため、小学校時代を除き女子と接する機会がほとんどなかった。
だからバイトの女の子とも、油断するとつい事務的な会話になってしまう。今日も、素っ気ない挨拶をしてしまったかな・・・。
そんなことを気にしていたら、そのバイトの子がこちらを振り向いて、俺に挨拶をしてくれた。
「おはようございます。私は聖カトレア女子大2年の観月せりなです。よろしくお願いします」
そう言って立ち上がった彼女を見て、俺は思わず息をのんだ。
きれいな長い黒髪がさらりと流れ、パッチリと大きな茶色の瞳がとても愛らしく、整った顔の造形が少し大人っぽい印象を与えていた。
服装は上品で育ちの良さを感じさせ、それでもちょっとした彼女の仕草が、まだ大人になりきれていない少女のような雰囲気を出している。
そんな彼女が、自分の髪に指を軽く触れながら、俺ににっこりと微笑んでくれた。
その瞬間、俺の中にこれまでの人生で感じたことのない、特別な感情がわいてきた。
これが恋・・・。
そのことを自覚した途端、俺は彼女にどう接したらいいのか全くわからなくなってしまった。
と、とにかく、変な奴だと思われないように、最善の注意を払いながら会話をするしかない。
初日の朝は受付も忙しいため、作業に追われて彼女のことを一旦忘れることができた。しかし受付が落ち着くとそうもいかなくなる。
何も会話をしないのも気まずいし、少しでも彼女の気を引きたかった俺は、思いきって雑談をしてみることにした。
「あのっ、観月さんの学校はどの辺にあるの?」
ちょっと緊張したせいか、無駄に声が大きくなってしまった。そして急に話しかけられて少しビクッとした彼女だったが、それでもニッコリと微笑みながら、
「私の学校はここから少し遠くて、中央線の○○駅が最寄り駅なんですよ」
あ、ちゃんと答えてくれた。
「へえ、じゃあここに来るのに、結構時間がかかったんじゃ?」
「実は別の大学に通っている後輩がいて、昨日はそこに泊めてもらったんです。この大学の近くだから、今日は少し早くついたぐらいなんですよ」
「そうなんだ」
後輩の家に泊めてもらったのか。
年下の彼氏・・・なのかな・・・。
「安里さんはこの大学の近くに住んでるんですか」
「いや俺は自宅から通ってるんだ」
「あ、東京の方なんですね」
「そうだけど、観月さんは違うの?」
「私は京都なんです。少し訛りが残ってるでしょ」
「そう言われてみれば、少し関西弁が混じってるような・・・」
「でも言わないと気づかれないレベルにまで標準語に近づけたのか。よしよし」
観月さんが嬉しそうに笑っている姿に、少しドキッとしてしまう。
彼女を見ていると、胸が痛い。
昼休みになり、俺と観月さんは交代で食事に行く。
先に彼女が食事をすることになったのだが、学部生のやつらが受付に押しかけて来て、彼女を学食に連れていってしまった。何だよあいつら、馴れ馴れし過ぎだよ。
観月さんは今頃あいつらと、楽しく食事をしているのだろうか。
彼女と入れ替わりに、俺はいつものメンバーと学食に昼飯を食いに行った。
「おい、どうだった彼女。お前どんな話をした?」
「少しだけだけど、どこに住んでるのとか、趣味は何かとか」
「おおっ、安里のクセにやるじゃないか」
「だが、それだけだ」
「それだけって、お前にしては十分じゃないか」
「どうやったら、もっと彼女と会話ができるんだ。俺にはさっぱりわからん」
「おい安里・・・お前、本気で彼女のことが」
「えっ? そ、そ、そ、そんなことないぞ。俺は女子とあまり会話をしたことがないので、彼女を退屈させていないかとか、変なやつだと思われていないかとか、嫌われるようなことをしていないかとか、そういうことを気にしているだけだ。別に彼女を好きになったわけではない」
「好きなんだな・・・」
「ご、誤解だ!」
「はあ・・・それからこれは、合コンじゃなくて学会の受付。彼女もバイトをしてるだけなんだし、ちょっと意識しすぎじゃないのかお前」
「そんなことはない! 俺が嫌われて彼女がバイトをやめてしまったら、この学会が大変なことになってしまう。彼女が楽しく働けるように、俺が気をつけるに越したことはない。さあ、午後も気を引き締めて行くぞ」
「お前なあ・・・」
午後の部が始まり、また断続的に学会の参加者が訪れる。目当てのセッションだけ参加する人がいるためだ。
午後しばらくバタバタしたあと、やがて受付の列もなくなり、また暇になる。
「安里さんって、この大学の学生さんなんですよね。学部はどちらですか?」
観月さんの方から、俺に話しかけてくれた。
・・・メチャクチャ嬉しい。
ここは粗相がないように、完璧に答えなくては。
「俺は大学院生なので学部ではなく、研究科というところに所属しているんだ。具体的には工学研究科なんだけど、そこでは量子コンピューターの研究をしていて、まさに今日開かれている学会の分野が俺の専門だ。そもそも、この量子コンピューターというのは、従来のコンピューターと違って・・・」
彼女に対しては決して間違いがあってはならないので、できる限る丁寧な説明を行った。そのため気がつくと、答弁に15分以上もかかってしまった。
だが完璧だ。
観月さん、理解してくれたかな。
「くすっ」
観月さんが笑ってくれた。 よし!
「つまり、工学部ってことですね」
「まあ・・・簡単に言えばそうなるかな・・・」
「でもそっか。安里さんって大学院の2年生なんだ。私よりもずっと年上で、大人なんですね」
「え? 俺っていくつに見えてたの」
「同じ年か、少し上かなって思ってました・・・でもそれじゃあ、安里先輩って呼んだ方がいいですか?」
「・・・安里、せんぱい」
女の子から先輩呼び・・・
突然、俺の心臓が仕事を始めた。胸がしめつけられて、ドキドキが止まらない。
普段おとなしい分、コイツは仕事を始めると歯止めが効かないようだ。
静まれ俺の心臓! そんなに頑張っても残業手当は出さねえぞ。俺はブラック企業なんだからな!
「あの・・・安里先輩? やっぱり大学が違うから、先輩呼びは失礼でしたか?」
観月さんが不安そうな目で俺を見つめる。
なんてことだ。
彼女にそんな不安そうな目をさせるなんて、あってはならないことだ。
「もちろん、安里先輩と呼んでくれて構わないよ」
少しホッとした表情をみせた彼女は、ニッコリと微笑んで俺の名前を呼んでくれた。
「はい、安里先輩」
その後のことはよく覚えていない。
多分仕事が終わるまで、ずっと彼女のことを考えていたんだろう。
学会の1日目が終わり、受付の後片付けをして、現場を解散して、自宅のリビングで夕食を食っている時にようやく我に帰った。
「どうしたの悠斗、さっきからぼーっとして」
「何でもないよ母さん。あそうだ、明日も学会の手伝いがあるから、朝早めに起こして」
「はいはい」
よし、明日は早く学校に行って、観月さんともっとたくさん話をしてみよう。
2日目の朝、俺は誰よりも早く受付に到着し、観月さんが来るのを待っていた。
だが、いくら待っても彼女は現れず、しばらくすると別の女の子が受付にやってきた。
「今日の受付のアルバイトに来ました、西城大学3年の間宮です。よろしくお願いします」
「・・・あれ? 観月さんじゃないの?」
「はい。昨日誰が来たのか知らないですが、私も今日だけで、明日はまた別の人が来ると思いますよ」
彼女の言う通り、3日目の受付も別の女の子がバイトに現れた。
もしかしたらまた観月さんが来てくれるんじゃないかと少し期待したが、結局彼女は現れなかった。
3日間の学会もあっという間に終了し、またいつもの研究生活が始まる。
あの日世界が輝いて見えた観月さんとの学会受付。それがウソのように過去のものとして消え去った。
「おい安里、何ぼーっとしてるんだ」
「いや、別に何も・・・」
「お前、学会が終わってからずっとそんな感じだよな。真面目に研究しないと、またちっちにどやされるぞ」
「すまない・・・それと先生には黙っていてくれ」
「お前、あの1日目の女の子の事を引きずりすぎだ」
「別にそんなんじゃ」
「名前なんて言ったっけ・・・」
「観月さん」
「そうそう、彼女。お前連絡先とか聞かなかったのか」
「初対面でいきなりそんなの聞けるわけないだろ」
「・・・学部生のやつらの中には、彼女の連絡先が聞けたって自慢してたやつもいたぞ」
「え・・・学部生は観月さんの連絡先を聞いたのか」
「らしいぞ。ほらあのチャラそうなやつだよ」
「まさか、あんなやつが・・・」
「受付の帰りに観月さんを送って行ってたし、今付き合っている女は捨てて、観月さんに乗り換えるって言ってるぞ」
「そんな・・・」
「お前、観月さんのことが好きなんだったら、連絡先ぐらい聞いておけよ。そんなだから、チャラ男に先を越されるんだよ」
後悔先に立たずとはよく言ったもので、俺はあれから観月さんに会うことはなかった。
ひょっとして、うちの大学にフラッと遊びに来るんじゃないかと、辺りを確認するようにはしていたが、彼女を目にすることはなかった。
あのチャラい学部生のことも気にはしていた。
あいつが学内で観月さんを連れて歩いている姿は、絶対に見たくなかった。想像しただけで胸がいたくなる。
幸運なことに、彼女と付き合い始めたという話は聞かなかった。でも陰でこそこそ付き合っているのかも知れないし、安心はできないが。
しかし何もないままやがて1月以上が過ぎ、梅雨も明けて季節は夏になった。
再び彼女に出会うこともなく、俺はまた研究に没頭するようになっていた。
俺の研究室の主なテーマの一つに、量子コンピューターの医療分野への応用がある。俺はその中でも、人工知能を使った人間の脳の探索を行う研究をしており、先生からはドクターコースへの進学も勧められている。
そんな俺は秋の学会発表に向けて、脳探索用の人工知能群とそのインターフェース「bot」の改良に取り組んでいた。
ただ研究の傍らで、彼女の姿を求めて街を見渡すクセだけは残った。
帰宅途中にわざわざ東京駅を経由して、中央線のホームをチラッと見ては素通りして帰宅するという謎のルーチンがいつしか加わっていたのだ。
そして「中央線」という言葉を聞いただけで胸がドキッとして、ときめいてしまうようになっていた。
重症だった。
我ながら気持ち悪い奴だとの自覚もあった。
だから俺は彼女のことを早く忘れるために、さらに研究に打ち込んでいった。
ところがある日、たまたま東京駅周辺に用事があって、帰り際に駅構内を歩いていると、中央線出口付近に観月さんらしき人影を発見した。
俺は慌てて人混みに飛び込んで彼女を追いかけた。ここで彼女を見失うと、もう二度と会えないような気がしたから。
俺は人混みをかき分けて必死に彼女を探したが、結局彼女は人混みの中に消えていった。
「安里先輩?」
後ろを振り返ると、そこに観月さんの姿があった。
「観月さん・・・久しぶり。元気にしてた?」
彼女に会えた!
「やっぱり安里先輩だ! お久しぶりです。こんなところで会えるなんてすごい偶然ですね」
「そ、そうだね。観月さんもわざわざ東京駅まで来て、今からどこかに行くの?」
「私ですか? 今からアルバイトなんです」
「アルバイトか、忙しそうだね」
「忙しくはないんですけど、今日はたまたまこっち方面でバイトがあって。でも残念。時間があればどこかでお茶でもできたんですけど」
観月さんとお茶か・・・それなら、
「・・・あの、も、も、もし良ければ、この前のバイトのお礼がしたいので・・・本当に時間がある時にほんの少しの時間を割いてもらえれば、その、あの」
俺が持てる勇気を総動員して、彼女をお茶に誘おうとすると、彼女が少し微笑んで、
「・・・わたしの連絡先です」
「連絡先・・・俺に教えてくれるの?」
「この前のバイトのお疲れ様会をしませんか?」
「バイトの打ち上げか!」
「ふふっ。やりましょう、打ち上げ」
「じゃ、じゃあ、後で連絡するから・・・」
「はい、待ってます」
そこで観月さんと別れた俺は、嬉しさのあまり駅構内を全力で走ってしまっていた。
俺の人生で最高の1日の到来に、自宅で風呂に入るまで、俺が我に帰ることはなかった。
ここから、アゾートが取り戻した記憶を少し追いかけて行きますので、気楽にお付き合いいただければ幸いです
次回もご期待ください