四、糸村ルート(後)
四、糸村ルート(後)
糸村が、まだ一人でトイレにも行けないくらい、幼かった頃のこと。
ある夜、なかなか眠れなかった糸村少年は、居間で起きているはずの父のもとへと向かっていた。
襖を開けると、ソファーには、寝落ちしてしまった糸村の父の姿があった。が、ホッとするのも束の間、同時に少年は、つけっぱなしになっていたテレビを見てしまった。
それは深夜帯に放送されているビー級映画で、ちょうど、放射能汚染によって巨大化したアゲハ蝶が、逃げ惑う人間の肩にとまっては、首筋に口吻を突き刺して体液を啜るという場面だった。
*
「エネミーは、あと一体か」
虫取り網を構えた堂島は、緑に輝く羽根を持ったアゲハ蝶を、憎々しげに見据えていた。
少し離れたところには、スクールバッグとともに、二羽の蝶が閉じ込められている虫かごが置いてある。
『あと一分』
「チッ! 何としてでも、俺は元の世界に帰ってやるからな!」
糸村は、ホバリングした瞬間を狙って網を振り下ろした。が、アゲハ蝶は、それを予測していたかのようにヒラリと躱し、糸村の腕に近付く。
「あっ、コラ! お前から俺に近付くのは、反則だぞ!」
とっさに後ろに下がり、腕にとまろうとしたアゲハ蝶から距離を置くと、再び網を振りかぶる。しかし、やはり空を切るばかりで、網の中に入る気配が無い。
『あと三十秒』
「クソッ! 大人しく捕まりやがれ、この野郎!」
焦りから来る判断力の低下で、糸村は、やぶれかぶれに網を振り回す。もちろん、そんなことをしてもアゲハ蝶が捕まるはずはなく、アゲハ蝶は、網を持っている手にとまり、羽根を畳む。
『あと十秒。九、八、七、六……』
「イッ! ……いや、待てよ。そういうことか!」
糸村は、震える手でアゲハ蝶の羽根を挟むと、急いで虫かごに向かい、捕まえた蝶をカゴに入れた。
『三秒前か。まぁ、時間いっぱいまで楽しめたかな』
「ふざけやがって。全部捕まえたんだから、約束を守ってもらうぞ!」
『よかろう』
「姿を見せないくせに、最後まで偉そうな奴だ。――オッと!」
鼻先をかすめるように、地面から金属製のドアが出現したので、糸村は、慌てて一歩下がる。
ドアの上部には、馬のレリーフがあしらわれている。
「早いところ、こんなヘンテコな世界からオサラバしよう」
スクールバッグをひったくるように掴むと、反対の手でドアを開けた。ドアの向こうは、先程の路地に繋がっている。
そして、糸村が路地へ戻ってドアを閉めると、ドアはボンッと黒い煙に包まれ、そのまま消え去ってしまった。