2st:高校野球部
甲子園。名前だけなら知っていると言う人から出場したことがある人、出場を目指していた人、今丁度出場を目指して日々練習に励んでいる人……は今すぐランニングをしに行くことをお勧めする。
冗談はさておき、甲子園とは言わずもがな、阪神甲子園球場の事を指し、日本の兵庫県西宮市甲子園町にある、阪神電気鉄道が所有する野球場だ。通称「甲子園球場」または「甲子園」。多くの人は甲子園と呼んでいることだろう。
『この球場は元々全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的に建設された。日本で最初に誕生した大規模多目的野球場であり、収容人数は日本の野球場の中で最大。大学野球における明治神宮野球場と並び、しばしば「(高校野球ないし阪神タイガースの)聖地」と称される。プロ野球セ・リーグの阪神タイガースの専用球場(本拠地球場)として知られているほか、高校野球の2大全国大会が行われる。』
とまあ、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書いてあるが、この物語で語られる『甲子園』は全国高等学校野球選手権大会が行われる『甲子園』である。
さて、高校球児の憧れである甲子園だが、もちろん高校野球部員である誰もが地を踏むことのできる場所ではない。甲子園に出場する為には、県ごとに行われる予選を突破する必要がある。
どの県でも激戦が繰り広げられる予選大会だが、その中でも埼玉県や千葉県。愛知県等、出場校が多いのにも関わらず枠が一つしか無い県は、出場自体が難しく“狭き門”と言われている。
そしてその中でも神奈川県は参加枠一校に対し出場校は約190校。レベルが高く、日本一の激戦区として知られていた。
「新入部員集まれ!!!」
野球グラウンド全体に響き渡るとても大きな声で集合がかかる。グラウンドの外から先輩の練習風景を覗いていた新入生達は磁石を向けた砂鉄のように素早く集まった。
彼らを呼んだ野球部員は表情一つ変えずに新入生達を眺めた。
「お前らよく聞け!!!」
と思ったいたら彼がいきなり大声を出したので、新入生達はビクンッと驚いてしまった。
「いくら中学校で名を馳せていようがそんな物は屁のつっぱりだ!!! 高校では何の役にも立たん!!! それを肝に命じておけ!!!」
その迫力と威圧感に新入生達はたじろぐが、その男が睨みをきかせると新入生達は『ウス!』と、バラバラだったが自分達の出せる声の限界の大きさで返事をした。
「俺からは以上だ! 監督の指示があるまでそのまま待機してろ!!!」
もう一度大声で返事をすると、その野球部員は再び練習に戻っていった。
「うわ〜。凄い迫力〜」
「あれがキャプテンの中畑先輩だな。」
里見ナインの一員である三井はスポーツ推薦を受けて、野球の名門“東院学園”に進学した。そして彼の隣にいるのは、中学校時代互いに凌ぎを削った仲である柏木。里見中学のライバル結城中学校で、四番を任されていたスラッガーだ。
「しっかしこの時期から全力投球。春の選抜で優勝したばっかりなのに、よくやるよね〜」
「あぁ、夏に向けて一日も無駄にできないんだろうな」
「あのさ、柏木。前から思ってたんだけど、その知ったかぶったような口調どうにかならないの?」
柏木の眉間がピクピクと動く。
「……なら俺も言わせてもらうが、三井。お前のその馴れ馴れしい口調はどうにかなんないのか?」
三井の眉間がピクピクと動く。
「柏木、通算打率は?」
「七割」
三井はププッと笑った。
「三井、通算エラーは?」
「百から先は……」
柏木がブフッと笑った。
「じゃあ柏木、中学校時代、何回女の子に告白された?」
「なっ、そんなの野球に関係無いだろうが!」
三井がニヤ〜っと嫌らしい笑みを浮かべる。見れば見るほど腹の立つそれを、柏木はどうしても捨て置けなかった。
「じゅっ、十五回だ……。三井、そういうお前はどうなんだ?」
「…………そんなの野球と何の関係も無いよ」
「なっ、そっちから言い出した事だろうが! お前もさっさと言え!」
そして仕舞いには頬の抓り合いを始める柏木と三井。
ライバル校の四番同士として互いが互いにライバル心を持っていたのもあるが、そもそも二人は気が合わないようで、中学生時代も顔を合わせる度にこうやって小競り合いを続けてきたのだ。それでも二人連れだって行動している辺りは、喧嘩する程仲が良いと言った所か、もしくはただ単に連れ合う仲間が居なかっただけか。
「ほほぉ〜。今年の一年生は元気があってよいのぉ〜。善哉善哉」
笑いながら野球グラウンドに歩いて来たのは、白くて長い髭を生やしたお爺さんだった。
柏木を始め、そこにいた新入生達はその人物を見るなり、すぐに姿勢を正しきっちり正面を向く。がしかし、その新入生の中一人だけその状況が理解できていない人が居た。
「誰、このお爺さん」
三井のその一言は、周りの空気を一瞬で凍り付けた。『ん? 何みんな。どうしたの?』と問い掛けても誰も三井と視線を合わせようとしない。
「何みんな、どうしたのさそんな顔しちゃって。僕はこのお爺さんの得体が知れな−−」
「−−バッキャロー!!!」
柏木は凍り付いた空気を溶かすかのような叫び声を出しながら、右の拳を三井の頭に振り下ろした。
「お前、知らないのか!? お前が得体の知れないジジイとか言っているのは、この東院学園の監督なんだぞ!」
「かっ、監督!? この爺さんが!?」
三井は知らなかったが、この人物はその指導力と人柄を慕って全国から名のある選手が集まるという、高名な監督だ。先程新入生に喝を入れた中畑も、彼を慕って東院に来た人物の一人である。
三井は柏木からその説明を受け、納得した。そしてその非礼を詫びようと、監督の元へ歩いていく。
「監督、あいつ監督の事をジジイって言ってましたぜ。僕はちゃんと爺さん、って言ったのに」
「フォッフォッフォ。それはいかんのう」
「でしょでしょ。って事で柏木は退学に……」
「うぉい! 何言ってくれちゃってるんだよ!」
とその時、その様子見ていた新入生達がざわつき始める。柏木と三井、中学時代に神奈川で野球をやっていた人なら誰もが知っているその二人が、今目の前で、監督も交えた三人でコント紛いのやり取りを行っているのだ。
「おぉ〜。さすがは有名人じゃのう」
「有名人だなんてそんなぁ〜」
「名声など無意味。名声でヒットは打てません」
一つの返答に対してもやはり人間性が出る。
「挨拶が遅れてしまったが、ワシは一応このチームの監督を任されておる五十嵐達朗じゃ。よろしくのう」
と、五十嵐は右手で白い髭を触りながら自己紹介をした。
「野球がチームワークが大切じゃ。という事で諸君、早速じゃがまずはお互いの事を知る為に自己紹介から始めようかのぅ。皆、適当に並んでくれるか。桜木さん、メモをよろしく頼む」
新入生はピシッと一列に並び、監督の隣に居た桜木とそう呼ばれた体操着姿の女子生徒はメモとシャープペンシルを手に取った。
ずらりと横一列に並ぶ野球部入部志望の一年生。さすがは日本一の野球部、東院学園。初日の入部希望者だけでも裕に七、八十人以上は居るだろうか。
今はまだだが、将来はこのメンバーも学年が上がっていき、そしていずれはポジション争いをすることになる。この中から先発として試合に出れるのは僅か九人。確率としては二、三十人に一人。倍率として見ればおおよそ二十五倍にもなる。もちろん野球部は彼らだけではなく、学年が上がれば下級生が入部してくる。実際はもっと高い倍率になることだろう。
「神奈川県立結城中学校野球部出身! 柏木慶次! 身長は百七十二センチ、体重は六十五キロ! ポジションはファーストです! 嫌いな食べ物は人参です!」
「神奈川県立里見中学校野球部出身、三井翔太。ポジションはファーストです。身長は百七十センチで体重は六十キロ。嫌いな食べ物は人参で、嫌いな人は柏木です」
「うぉい! 今言う必要無いだろ!!!」
そのやり取りを見て五十嵐はフォッフォッフォ、と笑う。
「鹿児島県立〜」
「鹿児島から来てるんだ。遠いなぁ〜」
「あぁ。それだけあの監督が慕われているって事だ」
「準なんか、家から遠いってだけの理由で推薦を蹴ったのにね」
三井はクスクス笑いながら小声で話す。
「お前もだが、あいつの思考回路は特に分からんな。何故甲子園を目指すとか言っといて、あの高校を選んだのか」
「うん。一応僕たちもあの高校だけは、って止めたんだけどね」
「じゃあ何故あの高校を? あの事は言ったのか?」
「うん。だって準、人の話を全く聞かないから」
三井と柏木の二人は目を合わせてため息をつく。
ああ口惜しや。里見ナインの仲間、準が、もう少し人の話を聞く人間であったら。ああ口惜しや。
「あの学校って野球部が無いんだよね」
「あいつ、どうする気なんだろうな」
※
「うえぇぇぇー!!!」
一年二組の教室に準の声がこだました。
「野球部が無いってマジなのか!?」
「ああ、残念だが」
長かったホームルームが終った放課後。準は早速野球部に行こうと担任の五十嵐に部室の場所を尋ねたのだが、返ってきたのは“野球部は無い”の一言。これには香織も動揺を隠し切れなかった。
「先生、どうにかなんないのかよ! 俺、色んな知り合いに甲子園行くとか言っちゃったんだよ!」
「あっ、あの、五十嵐さん、どうにかならないんですか? あとサインくれますか?」
「稲瀬、その五十嵐さんってのは止めて普通に先生って呼んでくれ。サイン後はでな」
「あっ、ありがとうございます先生!!!」
「ありがとうございますじゃねーよ! 大事な話がうやむやになってるじゃねーか!」
憧れの五十嵐が担任になった現実をなかなか受け止められなく、夢心地だった香織だが、ホームルームが終わってようやく気持ちの整理がついたらしい。しかし次は“五十嵐さん”を“先生”と軽々しく呼んでいいのか。香織の悩みは尽きそうに無い。
「でな、一之瀬。どうにかなるもならないも野球部が無ければ作ればいい。だが--」
「そうか! 無ければ作ればいいのか! よし香織、行くぞ!」
「え、行くってどこ…キャー!」
香織は状況を把握する暇もないくらい準に唐突に引っ張られる。
『あ、後でサインお願いしますぅぅぅー』
香織は教室にその言葉だけを残し、二人は嵐のように教室を去っていった。
「だが…お前は…人の話を最後まで…」
行き場を失った『だが』。五十嵐はため息をついて名簿を手にする。
「まいったね。まぁいずれ分かる事か」
だいぶ放置していましたね。